生き方 - みる会図書館


検索対象: 森田療法
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1. 森田療法

暗に「死に直面してまて死後の名誉を考えなくてもよいてはないか」などとほのめかす人たち もいた。どの言葉も、筆者の心をとらえてはいなかった。筆者は、誰かのために本を書いてい るのてはない。 また、自分の死後、おれはこんな仕事をしたという確証を残したいから本を書 いているのてもない。 ましてや、死に接してもこんな生き方がてきたという称讃の言葉を得た いがために本を書いているのてもない。 てはなぜ、これほど辛い思いをしても本を書くのか、と問われれば、それは〃最後まて人間 として意味を求めながら生きたい〃からてある。何もしないて、ただ苦しさと闘いながら生き ていることもてきる。一方、痛みや苦しさと闘いながらロ述筆記をすることもてきる。つまり、 その両者のどちらかを選ぶことがてきるのは筆者自身なのてあり、それを決定するのも筆者な のてある。 しかし、 ? て . れめ 前者の生き方を選んだならば、それは筆者にとって楽てあるのかもしれない っ ては筆者のク人間としての尊厳みを守りたいという「心」は満足させられないてあろう。後者見 しかし、そこには筆者の〃人間としての尊厳〃を死 の生き方を選んだ場合には、確かに苦しい 守った選択の自由が行使されているのてある。つまり、耳が聞こえなくなり、目が見えなくな生 身体が動かなくなっても、なおかっ筆者は「自由」なのてある。つまり、筆者は最後まて

2. 森田療法

すべての生命体がもっ欲望 そもそも、あらゆる生命体は、「生きる」方向性と力をもっている。動物は本能的に生命を 維持する可能性をもっ環境に住む能力をもち、食と住を確保し、生殖を行ない、他の種族から 自分たちの種族のテリトリーを守る。ここには、自然発生的に「生きよう」とする力と方向性 が付与されている。この現象は動物に限られるものてはなく、植物がそうてあり、細菌もそう てあり、ありとあらゆる生命体がそうてある。 人間はそうした生命体のなかても、言語を獲得し、特殊な脳「前頭葉」の発達が与えられて きたために、他の生物とは異なった生き方をするようになった。その特殊性のなかて最も人間 に与えられた大きな特徴の一つは、自らの生き方を省みながら生きるということてあろう ( 筆者論 は、この現象を人間の「存在性」という言葉て呼んている ) 。しかし、そのような特殊な一面をもっ礎 人間も、根本的には他の生物と共通の面をもつのてあって、そのような生命エネルギーの保有の 療 に関しては、前述の指摘のとおりてある。 田 森 人間の欲望の諸相

3. 森田療法

いかに生 ような活動を行なうようになったが、さらに加えて、精神活動を与えられた人間は、「 きるか」という、自らが生きるための方向性と目的性をもつようになった。つまり、動物は無 意識的に自己の個性と種族の保存に向かって、生きるための強い欲望をもつようになったが、 人間はその上に いかにという、己れの生き方に対する、反省的てあると同時に生産的な欲望 をもつようになったのてある。 生きるための欲望 生物は果たして進化の方向に向かって生きているのか、あるいは、人間は生まれながらに向 上欲をもっているのか、そ - フしたことは、これまてにしばし義ム間、 1 ー = 一ⅱ = 一ⅱカくり返されてきた。また、 欲望の存在が肯定されたにせよ、性善説も性悪説もある。ショウペンハウエルは、「盲導性の意論 士」し J いい 必ずしも善に向かっててはなくとも人間は生得的に生きようとする意志をもって礎 いることを認め、ベルグソンは、「エラン・ビタール」 ( 生命の躍進 ) という仮説的言葉を用いて、の 療 人間がよりよき方向に向かって生きることを論理づけている。 田 このように、生きるための人間の欲望はいろいろな形て論じられているが、前述のように、森 あらゆる存在は変化のさなかにあるのてあり、人間はプラトンのいう「知・情・意」の精神機

4. 森田療法

精神療法の治療者というものは、非常に恵まれており、被治療者にこうこうだと指摘すると ころは、全部自分を納得させるための言葉として戻ってくる。したがって、常に、自己治療、 自己治癒が行なわれているのてある。苦しいことがあって逃避をしたいと考えるときに、もう 一歩引き下がって自分の本心を考え、現実が苦しいから逃げ出すのと、苦しいけれども目的を 果たそうとするのと、どちらが本当の考えかと自分に問いかけてみる。そのときに、やはり苦 しくても目的を果たした方が自分の人間的な欲望が満足てきると考えたときに、前者を「ある がまま」にして、「目的本位」の行動をとるのてある。そうした行動をしてきた結果、筆者は自 分なりに自分の生き方を実現することがてきたように思う。 「今」「ここ」に生きる 人間は、〃苦髑存在みといわれるように、生きている以上、何らかの苦悩を引き受けながら生 きなければならないのてある。また、病むことなく生きるということもあり得ず、刻一刻と老 いていく道を歩んているのてあり、そして死に至る存在てある。 このような事実、あるいは現象から、人間が逃れ得ないとすれば、それをも「あるがまま」 そうしたことを受け入れればこそ、「今」「ここ」に生きている現実が に受け入れるしかない。

5. 森田療法

能を発動させながら、己れの生きかたを自ら自己確認しつつ生きる存在なのてある。つまり、 万物は常に変化のただなかにあり、生物も例外てはないが、生物は他の物質とは異なって、種 族保存の方向性をもち、さらに動物は自己の意志によって自己防衛、あるいは種族防衛の機能 を果たし、そのうえに人間は、自らを省みつつ、よりよい生き方を模索し、それを実現してい こうとする欲望をもつのてある。つまり、生物は、それぞれの発達、 生命維持、種族維持を基本的な命題としつつ、個人的な欲望、全体的な欲望をもつのてある。 いずれにせよ、人間の生命維持には、さまざまな考え方があるが、少なくとも、今日まて人 間が己れの種族を維持し、よりよく生きられるように環境条件を変えてきたことは事実てある。 そこには何らかの個人的な意志が働き、方向性をもっと同時に、個人を超えた、国家や人類と いうレベルての意志が働き、生存維持のための方向性が求められてきたのてある。 「生の欲望」のニ面性 森田正馬は後に述べるように、非常に東洋的な自然観、人間観をもっているが、彼の精神医 学的素養がそうてあるように、その思想の背景には東洋と西洋の思索の融合が察知てきる。 人間が生きるための欲望、それを森田は「生の欲望」と呼んだ。その当時は、東北大学教授・ に脳の発達に応じて、

6. 森田療法

方を貫き、その生き方がまた、何らかの形て社会の利益と結びつくとき、本当に一個の人間と % して理想に向かって生きているとか、純粋な生き方をしている、といえるのてはないだろうか」 、筆者の意見を述べるのてある。 以上のように、乳幼児期の「生の欲望」は、生物学的欲望、あるいは未分化な精神活動の上 に表現される欲望てあって、人間の意志や人生目標を充分にふまえての系統的な欲望てはない。 森田はこの時期の特徴を「幼児はまだ生の欲望が現われて来ないと目すべきてある」と述べる が、この点に関しても筆者は異論をもっている。というのは、「生の欲望」が現われてこないの てはなく、未分化な形て「生の欲望」が表現されているのてある。つまり知・情・意の統合、 あるいは自我の形成が行なわれる以前てあって、欲望を人生目標に向けて系統的に現わすこと がてきていない段階なのだと考えた方がよいように思う。 「児童期」Ⅱ「前社会化期」 《児童期》ーー・「児童期になれば、其生の衝動は益々盛んになって来て、之を成人に比べれば、 あたか 恰も躁症状態に於けるが如く、絶ゆるひまなく活動し、又ヒステリーに於けるが如く、気分が たちま 変り易く、忽ちにして笑ひ又怒るといふ風てある。其生の欲望は強いけれども、単純てあり、 これ

7. 森田療法

丸井清泰がフロイトの精神分析学を日本に紹介した時代てある。フロイトが人間のエネルギー の根源と不安の源泉を「性」に求めていたのに対して、森田は自然との調和をめざす人間の「生 命欲」そのものに求めていた。つまり、人間は生まれながらにして「生の欲望」を備えている というのが彼の仮説 ( ヒポテーゼ ) てあり、森田学説の根底てある。 そこて、ある学者は森田理論ては人間を楽観的 ( オプテイミスティック ) に観すぎていると批 判する。しかし、人間が自ら法律をつくり、芸術を創り、さまざまな抗争をくり返しながらも 今日の人間社会を築いてきたのは、善悪両面を内包しながらも、人間が自己保存、民族保存、 人類保存の方向性をもって生きてきたからてあり、したがってそのエネルギーを否定すること はてきない。 以上のように、森田が唱える「生の欲望」は、生得的、内発的に人間に存在するものてあっ論 て、人間は生まれながらに生存欲と人間として生きる方向性をもっていると森田は考えるのて礎 ある。しかし、同時に森田は、「生の欲望」を、人間を規定するための〃決定論〃にしてしまつの ているわけてはない。彼は、人間のそれぞれの生き方によって、本来存在する「生の欲望」の療 森 ありかたが固有の形をとると考えるのてある。 つまり、「生の欲望」の一面は、人間がよりよく生きようとする向上発展の欲望を代表するも幻

8. 森田療法

東洋の論理・西欧の論理 これまて、森田療法を通じて、神経質 ( 症 ) をいかに治すか、また、それを日常生活にいか一 生かすか、について論じてきた。そこて次に、「あるがまま」という理念について、森田療法か ら離れて、もっと普遍的な立場から考えてみることにしよう。 そもそも「あるがまま」というのは、東洋における仏教的理念を包含した言葉てある。西欧 より大切な時間・空間として我々の前に現前してくるのてある。そのときに、我々は何らかの 生きている意味を見つけ、人間として有意義な生き方をしようという「目的本位」の行動の重 要さを自覚させられる。 筆者は、過去における自分自身の「とらわれ」から脱しようと努めた体験と、「あるがまま」 の認識を通して、自己の欲望を真に生かし、目的本位の行動をまがりなりにもとれるようにな ったことを、自己の人生の経験の中て非常に重要なことてあったと信じている。 「あるがまま」の本質 3 185 日常に生かす森田療法

9. 森田療法

かに、自由に行動することが許されているはずてある。人生はたかだか七十年か八十年てあり、 そのなかて窒息するような生き方をするよりも、自由に空気を吸うことが許され、自由に行動 することが許されると考えた方が、人間の本質にそっているはずてある。 わずか数千年の歴史の間に、人間は自分たちを縛る法律や規則にがんじがらめにされ、さら 現代ては新しいテクノロジーに束縛され、大きく自由を失いつつある。それぞれの人間が 互いに支障なく生きるために、さまざまな制約が必要になるとしても、心の自由はもっと豊か に広げてよいはずてある。そのためには自分に対する「ゆるし」が必要てあって、さまざまな 物事に行動を通して賭けてみたり、いろいろなアバンチュールに身を挺してみたらよい。また、 自分に対する「ゆるし」が拡大されればされるほど、他者に対する「ゆるし」も拡大されるの てあり、つまらないことにいちいちめくじらを立てたり、やたらに人の行動に気をつかったり このよ - フな することなく、おおらかな目て人を見やり、人の行動をより豊かに許したらよい 「ゆるし」の人間関係においては、両者の思考範囲や活動範囲は、より豊かに広がるのてあっ て、そこに暖かい人間としての連帯関係が生まれてくる。 このような「ゆるし」の思想は、「あるがまま」と一脈通ずるものがある。人間の醜さ、人間 の弱点、人間の弱さを「あるがまま」に認めればこそ、もう一方の人間の美しさ、人間の行動 198

10. 森田療法

4 、自分の真の欲望が何なのかということをじっくりと考えてみる。 5 、自己の人間としての欲望、つまり「生の欲望」を実現するために、目的本位の行動をと 6 、以上のような思考・行動を通じて、自己陶冶、自己確立をはかる。 7 、人間としての自由を求め、それなりの個性を生かし、創造的な生き方を試みる。 これは、病める者にとっても、日常人にとっても、共通した人間確立の道程てあるのてある。 とうや 190