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検索対象: 森田療法
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1. 森田療法

定義づけ、自己の存在を自覚しながら生きる人間を、「世界ー内ー存在」者と規定している。こ の場合の「ある」は、あくまても人間中心的な「ある」てあって、自己の内に内在するものと、 自己を包含している世界を自覚しつつ自己認識のてきた存在なのてあって、そうした意味て、 現象と対峙しつつ自我を確立し得た自己としての「在る」なのてある。 人間確立の道程 以上のように、同じ「ある」という言葉ても、東洋における現象受容的な「ある」と、西欧 における現象対峙的な「ある」とては、その内容がかなり異なる。しかし、東洋文化の伝統を 担ってきた日本人には、現象受容的な「あるがまま」という理念が、比較的抵抗なく受け入れ られるはずてある。今や地球は非常に狭くなり、ましてや日本の文化には西欧的な思想や学門 の影響が非常に大きく入っている。しかし、それてもなおかつ日本人のメンタリティの中には、 現象受容的な心性が伝統を通して息づいているのてある。また、そのような東西の文化的な差 異を排したとしても、我々人間が直面する現象には、人間の手によって変えられないものがた くさんあり、「あるがまま」にそれを認めざるを得ず、さらに、その認めることが普遍的な合理 性なのてある。

2. 森田療法

においては、現象を「あるがまま」に認めるというよりも、それを分析し、整理し、論理づけ ることをモットーとしてきた。それは西欧の伝統てあり、自然と私、神と私、他者と私、とい うように、あらゆる現象が対峙する形て受けとられてきたからてある。 エジプトやイスラエルやギリシアのように比較的砂漠に近い過酷な自然環境の中て育まれた 人間にとっては、常に自然を人間と対峙する現象として克服しなければならない運命に迫られ ていた。そうした自然現象を根底において発展してきた西欧文明は、常に現象分析的てあり、 現象解明的てあり、現象闘争的てあった。 これに対して、東洋の文化、特に日本のようなモンスーン的自然を背景とした文化ては、自 ほうじよう 然が比較的豊饒て、その自然現象の中に包まれながら、農耕を営みつつ、人間は生きてきた。 したがって、そのような自然を背景に形成されてきた諸現象は、人間と敵対関係にあるのては なく、人々は自然の恩恵を受け、現象をそのままの形て受けとめるならわしを身につけてきた。 だから、現象と対峙し現象分析的な態度をとるのてはなく、現象受容的な心理状態におかれる ようになったのてある。 仏教が中国、朝鮮を経て日本に入ってきたときに、さほど抵抗なく日本人の心性に根づい のは、それ以前の神道が自然信仰に近いものて、現象受容的てあり、現象受容的な仏教と根本 186

3. 森田療法

筆者は、現在ある人が保有している性格を「現性格」と呼んている。そして現性格は「一次 的性格」と「二次的性格」から成ると考えられる。一次的性格 というのは、その人がもって生 まれた遺伝形質や体質からなる先天的なものを指す。これは、という人とという人の顔が 異なるように、各々に異なったものを継承した性格てある。ところが、一次的性格よりもその 後に形成される二次的性格の方が、より大きく「現性格」形成にあずかっているのてあって、 その形成過程については第一章において論じたとおりてある。したがって、神経症が治癒する ということは、性格形成の特定の時期の葛藤も変化するのてあり、それにともなって、「現性格」 も変わると考えられるのてある。 以上のように、 神経質性格は、先天的なものに加えて後天的な要因が非常に大きいのてあるム が、このことは、先に紹介した一卵性双生児の君と O 君の場合を見てもおわかりいたた。 カ てあろう。 メ また『アヴェロンの野生児』という、フランス人の書いた野生児に関する記録があるが、人 間は生後何カ月間か親からの影響を受けずに過ごし、特に「家族期」における親との人間的な質 かかわりが欠けると、後年になってもその時期のことが学習てきておらず、一般の人間に通ず神 る感情、動作、態度を持ち得ないのてある。そのことを考えても、後天的な要因がいかに人間 6

4. 森田療法

これまてに述べてきたように、森田正馬は、人間の精神的な発達を「生の欲望」という独特 な観点からとらえている。しかも森田は、生物的て方向性をもたない欲望が、次第に人間的な 欲望に発展していって、人間としての方向性をもつようになり、さらにその個人的欲望が社会 化された欲望へと変化してゆくものとしてとらえている。これは、基本的に、筆者の意見とも 一致するものてある。 人間の精神的発達に関する理論としては、ウイニコットの「対象関係論」や、エリクソンの 「人生八段階説」などがあり、人間が生後に出会う母、父、仲間、師などの対象をどのように して自分の内にとらえ、自分の精神内容として内在化させていくかによって、人間の精神発達 力いかに行なわれるかが論じられている。 筆者は基本的にはこのような学説を肯定している力、ただ異なるのは、生物としての個がい かに社会化されていくかというところに人間発達をとらえる主眼を置いているのてある ( この点 ーという著書において既に論じた ) 。 に関する詳細は、『現代臨床社会病理学』ー岩崎学術出版社刊 と、う、根本的てしかもユニークな断面から、人間の 森田は、人間が生きるための「欲望」し と、 , フ題を、さらにこまかく解部し、田 5 精神発達を論じている。そこて、この「生の欲望」し 索を深めてみることにしよう。

5. 森田療法

これに対し、筆者は独自の発達理論を考えており、生誕直後の人間のありかたを「生物期」 と呼んている。この時期は、知・情・意の分化が行なわれていないて、受動的にオッパイやミ ルクを与えられて生命を保持しようとする時期てある。しかし、その受動性の中ても、自ら乳 首を求め、それを吸おうとする本能的な「生への欲望」は確実に存在する。しかし、その欲望 は、もつばら本能的な生命維持に向けられているのてあって、分化した心理的な欲求てはない。 しつかん したがって、この時期の疾患はもつばら遺伝的疾患、体質の変化による疾患、細菌の感染に しんしゅう よる疾患、あるいは外からの侵襲による外傷に限られていて、生物的な存在を脅かす病てある。 筆者は、さらに次の発達段階を「家族期」と呼んて区別している。これは家族のなかての父、 母、兄弟を認知し、自分の中に同一化していく時期てある。母との出会いの時期は、受容を体 験し同一化する時期てあり、父との出会いては自律の基礎を獲得する。しかし、自律とはいっ てもきわめてプリミティヴなものて、排便・食事を規則正しく行なうという程度のことてしか おうと したがって、この時期における神経症は、もつばら不眠・嘔吐など、あるいはチック ( まばた ばつもう き、顔しかめ、頭振り、首まげなど ) や抜毛 ( 自分て自分の毛を抜いてしまう ) など、さまざまな心 理的・身体的反応による症状てある。

6. 森田療法

「あるがまま」という理念を中心とした心理的、あるいは精神療法的アプローチとその理解に 重点が置かれる。むしろその限りては、人間学的なアプローチに包含された行動てあるといっ てもよし 、。ただしこの場合の人間学とは、ビンスワンガーやメダルト・ポスやフランクルのよ うに、西欧の哲学に根拠を置く〃現象対決的な人間学みてはなく、現象をそのまま受け入れよ うとする〃現象受容的な人間学みてある。 前述の子さんの場合を見てもわかるように、あるがままて目的本位の行動を通じて、観劇 することによって自分の人間欲求が満たされたということに意味があるのてあり、その意味が 次第に生活全般へと広がっていくところに、真の治癒への展開がある。 とうや 方 5 ・ーー自己実現と自己陶冶 治 の 症 質 人間としての原点 経 これまてに述べてきたことは、「とらわれ」から脱し、神経質 ( 症 ) を治すための方法的な問神 題が主てあった。その真髄は、人間としての自己の欲望をいかに生かしていくかにある。つま

7. 森田療法

かってフロイトは、神経症者は倫理感をもち得ぬ偏向した人間てあると決めつけた , ー 。彼よ、 ドストイエフスキーを例にあげ、クドストイエフスキーは、人間の苦悩と葛藤を描き出して真実 に迫るすばらしい小説を書いたが、彼がもし神経症者あるいはてんかん者てなければ、倫理的 な思考の上に立ち、聖人になっていたてあろうみという意味のことを語った。フロイトは、十 九世紀末の退廃的なヨーロツ。ハを生き、彼自身が神経症的な要素を自覚しており、さらに科学 的生理主義と倫理的個人主義の時代的洗礼を受けていた。したがって、彼の言葉には、自分の 弱さに対する弁解が含まれていたのかもしれない。 しかし、筆者はこのフロイトの考えに反対てある。もし筆者が、ドストイエフスキーのよう な小説家の立場と、崇高なる宗教を奉ずる聖者の、どちらかを選べといわれたならば、躊躇な くドストイエフスキーのような小説家の立場を選んだてあろう。人生のあらゆる機微に潜む不 安や、葛藤や、苦悩を通してこそ、赤裸々な真実が見えてくるからてある。 筆者がドストイエフスキーに畏敬を抱くのは、彼が神経症的な不安・葛藤や、てんかん者と してのアウラ ( 発作の前兆 ) や発作を引き受けながら、なおかっ厖大な作品を創ったことてある。 つまりこれこそ、「目的本位」に小説を書き上げたといってよい。人間にはこのような汚ない側 みだ 面がある、このような苦しい側面がある、このような淫らな側面がある、このように残酷な側 ちゅうちょ

8. 森田療法

な人間なんだ」という具合に、自己否定的になり、前述のような「合理化の機制」をもってき て、現実から逃避をしようとするのてある。ここに成人期の神経症が生まれる。 森田は、さらに五十歳、六十歳以降から死まての「生の欲望」にも言及しているが、非常に 生物学的な「生の欲望」論に偏り過ぎ すぐれた見解だとはいえ、筆者の印象ては、あまりにも ているよ - フにも田 5 , フ。そこてこのことに関しては後の亠早て新たに論ずることにしょ - フ。 以上、振り返ってみると、人間の「生の欲望」と心理的発達、それに付随する神経症の成り 立ちが、いかに密接不可分なものてあるかがわかっていただけるてあろう。人間はだれしもこ はざま の「生の欲望」と、自己表現の間の葛藤に苦しみつつ、一方ては、創造的に生きることもてき るのてある。そこて次に、「生の欲望」の本質について、もう少し深く掘り下げて考えてみる 、」し J にしょ , フ 「生の欲望」の二面性 生物的欲望の社会化 3 かたよ 37 森田療法の基礎理論

9. 森田療法

きひ のてあり、もう一つの側面は、生を求めるがゆえに死を忌避しようとするがためにおこる「む 気的」側面てある。森田は、神経質者は「生の欲望」が強いと考えるが、これは森田のいう完 全欲へのとらわれと通ずるものてあり、神経質者はより理想主義的に自己目的を求めようとす る。その反面、神経質者は生への執着がつよくて、病気や死に対する強迫的恐れをもち、ヒポ コンドリー状態 ( 自分の身体に必要以上に気を遣う状態 ) になる可能性もある。森田は「生の欲望」 に関するこの二面性を、神経質理論のなかて構造化しているのてある。 2 ーー人間心理の発達過程 「幼児期」の特徴 さて、人間が生きるための欲望、つまり「生の欲望」は、どのような人間にも常在している というのが森田学説の中心てあるが、森田はそれを必ずしも生得的なものとばかりみなすわけ てはなく、後天的に「生の欲望」が、人間の発達に伴って変わってくるととらえている。 今日まて、森田理論の「発達論」に関してはあまりふれられていないが、フロイトの「性」

10. 森田療法

以上のように普通神経質の種類は多種多彩てあるが、その多くは自律神経と関係があり、ふ とした生理学的な変化を異常として悩む者が多い。なかには常在する頭痛に悩み、レントゲン 検査の結果などて、遺伝的に側頭部の脳血管が人より多少細いことが発見されたりする場合も あるが、医学的な治療によって治る範囲のものてはなく、もって生まれた症状として納得をし なければならないものもある。 しかし、頭重感や頭内もうろう感は、何かがかぶさった感じとか、テープて縛られる感じな どと訴える者が多く、何らかの仕事や勉強に打ち込んているときには症状を忘れていることが 多いのてある。逆にいえば、頭が重かったりもうろうとしているということを理由にし、症状 に打ち込むために、それを利用していることも多い 嘔吐感や身体動揺感についても同じことがいえるのてあって、内科的な臨床検査や神経学的状 検査てはまったく異常がててこないのてある。それにもかかわらず、吐き気がしたり、 身体が諸 の 動揺して倒れるのてはないかという 予期不安のために、遠出をしなかったりする。これも身体 質 の調子の悪さを口実にした一種の逃避的な心理てある。 経 神 不眠神経症の場合