あり、その方向を「目的本位」という。つまり、それまてに、感じ、悩み、葛藤としてきた不 安、苦痛、症状を「あるがまま」にしながら、自分自身の人間としての目標に向かって「ある 、、、目的本 がまま」を実現していかなければならないのてあり、その方向を「目的本位」としし 立はまた、′ 行動として実現されなければならないのてある。 すなわち、前記の高校生の場合なら、人中に入ってスポーツをやったり、作業をしたりする ことへの不安や苦痛を「あるがまま」にしながら、現実においては卓球をすることて人と交わ 寸話をしながら雑草を抜く作業をし、それまてに拒否していた場面から逃げることなく、 そこて自己実現をしていくために、「目的本位」の行動をとっていかなければならないのてある。 たて 以上のように、「あるがまま」という概念と、「目的本位」という概念は、楯の表裏てあって、 その中心は人間としての自己実現をしたいという欲望、つまり「生の欲望」を全うするための 行動にある。その意味ては森田療法は、非常に行動を重視する療法てあり、過去において行動 療法と同じ治療法てはないかという指摘がたびたびなされた。 しかし、行動療法の場合には、条件づけられた不安を、大きい不安から小さい不安へのヒ工 ラルキーをつくり、 い不安から強い不安へと行動を通して直面していき、「脱感作」 (desensitization) していこ , フと意図して いく。それに対して、森田療法ては、行動それ以前に 162
声が震えたり、 赤くなったりすることが苦しくて、中学の初めからそのことについて悩 んてきたと話していた。 君はそういう自分が嫌て、よりよく人と接したい、 より豊かに自分を オしよりよく人を愛し愛されたい、 表現し ' : 、 ということを望んて悩んていた。つまり、後者の 状態を実現したいと望みながら、それがてきないところに君の苦しみがあり、葛藤があったの だとすれば、緊張するから人を避けて部屋 ( しナし こ、こ、とい , フ欲望をあるカままにしたのては、 入院する前とまったく同じ行動をとっているにすぎないてはないか。人間の欲望には二面性が あって、ただ 単に苦痛から逃避したいという欲望と、人間目的をよりよく実現したいという欲 望の両面があるはずてある。もし君が入院して本当に神経質 ( 症 ) を治したいのなら、後者の欲 望を大事にしていかなければならない。 そのためには、あるがままは人間目的に沿ったあるが方 治 ままてあり、目的本位のあるがままてなければならない」 の 症 質 「目的本位」の「あるがまま」へ 経 このように、「あるがまま」を勝手に逃避的な欲望の実現に結びつけてしまう人もいる。しか神 し、森田療法ての「あるがまま」は、人間性に向かっての方向をもった「あるがまま」なのて
精神療法の治療者というものは、非常に恵まれており、被治療者にこうこうだと指摘すると ころは、全部自分を納得させるための言葉として戻ってくる。したがって、常に、自己治療、 自己治癒が行なわれているのてある。苦しいことがあって逃避をしたいと考えるときに、もう 一歩引き下がって自分の本心を考え、現実が苦しいから逃げ出すのと、苦しいけれども目的を 果たそうとするのと、どちらが本当の考えかと自分に問いかけてみる。そのときに、やはり苦 しくても目的を果たした方が自分の人間的な欲望が満足てきると考えたときに、前者を「ある がまま」にして、「目的本位」の行動をとるのてある。そうした行動をしてきた結果、筆者は自 分なりに自分の生き方を実現することがてきたように思う。 「今」「ここ」に生きる 人間は、〃苦髑存在みといわれるように、生きている以上、何らかの苦悩を引き受けながら生 きなければならないのてある。また、病むことなく生きるということもあり得ず、刻一刻と老 いていく道を歩んているのてあり、そして死に至る存在てある。 このような事実、あるいは現象から、人間が逃れ得ないとすれば、それをも「あるがまま」 そうしたことを受け入れればこそ、「今」「ここ」に生きている現実が に受け入れるしかない。
ところが、筆者が精神医学を学び、森田療法を知ってからというもの、そのような逃避的な 欲望は「あるがまま」にして、大事な会議に出席し、相手の意見を聞き、自分の意見を表現す るという「目的本位」の行動がとれるようになった。 今、筆者がかっては対人恐怖的だったとか、非社交的だったとか、緊張するのがいやて大勢 の人と話したり、会議に出席するのを避けたりしてきたなどといっても、本気にしてくれる人 また、筆者はもともと小心て、いろいろなことに気を細かく使う性質てあり、〃石橋を叩いて 渡らないみ傾向にあった。しかし、石橋を叩いてその道が確かてあることを確かめたなら、不 安があっても「あるがまま」てその橋を渡り、目的を果たすことを実践してきた。今はそれが 田 森 〃習い性みとなって積極的な人間だと人に見られることが多くなった。 す う」、らに、 くつかの選択肢があるとき、どの道を選んてよい 小心な筆者は、行動をするのにい 生 のかわからない優柔不断さがあったが、人間は常に不条理な世界を生きているのだから、どの 常 道を選んだら最善てあるのか考えていただけては永久にわかるものてはないのて、良いと思っ日 ということも理解てきた。したがって、結果とし川 た目的に自分を投げ出してみる以外にない、 たち
4 森田療法の基本理念 ここて問題にする「あるがまま」と「目的本位」は、神経質 ( 症 ) 治療の中核的概念てあると 同時に、森田療法の基本理念てある。 まず「あるがまま」について述べると、文字どおり〃物事をそのままにしておくみというこ とてある。しかも常にそのままにしておくのてはなく、「ある」ままにしておくことてある。「あ 方 る」は「在る」てあって、もともと存在する姿をいう。 たとえば、夜道を一人て歩くときに、恐いなと思う。それは、見通しのきかない暗闇て何が治 の 起こり、自分がどう傷つけられるかわからないから恐いのてある。つまりここては、恐いとい 症 う気持は、人間にとって根本的な感情として、「在る」のてあって、その感情をなきものにしょ質 神 うと思うのは、むしろ不自然てあり、「はからい」てある。 機体が壊れ また同じように、初めて飛行機に乗ろうとするときに、エンジンが止まったり、 「あ - るがまま」と「目的本位」
東洋の論理・西欧の論理 これまて、森田療法を通じて、神経質 ( 症 ) をいかに治すか、また、それを日常生活にいか一 生かすか、について論じてきた。そこて次に、「あるがまま」という理念について、森田療法か ら離れて、もっと普遍的な立場から考えてみることにしよう。 そもそも「あるがまま」というのは、東洋における仏教的理念を包含した言葉てある。西欧 より大切な時間・空間として我々の前に現前してくるのてある。そのときに、我々は何らかの 生きている意味を見つけ、人間として有意義な生き方をしようという「目的本位」の行動の重 要さを自覚させられる。 筆者は、過去における自分自身の「とらわれ」から脱しようと努めた体験と、「あるがまま」 の認識を通して、自己の欲望を真に生かし、目的本位の行動をまがりなりにもとれるようにな ったことを、自己の人生の経験の中て非常に重要なことてあったと信じている。 「あるがまま」の本質 3 185 日常に生かす森田療法
て、ばくの自由な考えを奪ってしまうんてす。そして、そういう自分が非常に醜く、人に注視 されていると考え、人の顔を見ることがてきなくなりました。その上、真剣になって、母に負 担をかけているから学校をやめようと思ったんてす。ても今考えてみると、それは自分の苦痛 に対する言い訳てあり、とらわれている症状に対する『はからい』だったのてすね。こうして 神経質 ( 症 ) から解放されて自由にものが見えるようになると、そのときの不自由な自分の考え や姿がはっきりと見えてきます」 彼は強迫観念に悩まされ、それに苦しめられながら、勉強するという目的を必死になって果 たしたのてあり、また大学に入ってからは、罪悪感に彩られた強迫観念が浮かんても、そのま まにして友人たちと交わり、勉強するという努力を続けた。彼は常に人から侮蔑されていると いう観念が拭えなかったという。しかし、自分の目的を一生懸命に果たしていくうちに、 の間にか強迫観念がうすらぎ、人間関係が正常に保てるようになり、積極的に社会参加もてき るよ , フになった。 以上のように、とらわれた観念を去り、「はからいの行動」をやめることは、神経質 ( 症 ) 者 にとってはたいへん苦しいことなのだが、神経質 ( 症 ) から解放されるのには、ぜひともこの苦 難の峠を越えていかなければならない。 ぶべっ 144
い切ってその不安に突入して直面し、予期不安が仮想の不安てあったということを自ら確かめ ることが大切てある。何回か「恐怖突入」を行なっているうちに、三回はうまく目的を果たせ たカ、二回は逃避してしまった、というように、うまくいったりいかなかったりの行為をくり 返す。しかしそのなかて次第に いくら予期不安をもっていても思い切って「恐怖突入」をし ていけば、自分が考えているような重大な事柄は起こらないのだということが心身を通じて納 得されていくのてある。 しつべい 不安神経症の場合、治療過程において重要なのは、疾病の背景となるストレスを充分にわき まえ、それを整理することてある。たとえば男性の場合ならば、職場における環境を充分に調 整し、自分が納得てきるようなものにしていく努力をしなければならない。 さもなければ、こ の状況から逃避したいという意識下の願望をもとにして不安症状を形成しているのてあるから、状 いくら不安症状を取り去ろうと試みてもそれはむだてある。何らかの形て、さまざまな不安症諸 の 状をつくり出し、現実から逃避をしようと試みることになってしまう。 症 したがって、まず現実の状況を自分にとって快いものにし、その現実のなかて自分が生きる質 意味を見つけながら生きていけるような「場」をつくることを考えなければならない。 その上神 て、自分が不安・恐怖とする症状を「あるがまま」にし、「恐怖突入」によって目的を果たして
印」があり、人間が一方に注意を向けるならば、必ず一方の注意は不鮮明になってくる。心臓 に注意が向いているようなときには、精神交互作用に振り回されて、注意が症状の方向に偏っ てしまっている。その逆に、精神交互作用のメカニズムが打破されると、本来の欲望を生かす 方向へと注意が向くのてある。 また縁起恐怖、雑念恐怖などの一般強迫観念症の場合には、気になることから注意をそらそ うと思えば思うほど、反比例して、症状に注意が向かっていってしまうのが常てある。それは また精神交互作用の悪循環の結果てあり、もしそこから脱しようとするならば、その観念を取 り去ろうと努力したり、気になる物事をくり返して確かめようとせず、〃もう少し確かめたいみ という不安・葛藤を残したまま、現実における日常目的に行為を移していくべきてある。ここ ても「注意の法則」が働き、自分の真の欲望が生かせるような現実目的を果たしていけるなら方 ば、そちらにいつのまにか注意が移って、日常生活の流れが強迫観念に中断されることなくス治 ムーズになっていくのてある。 症 以上のように、 神経質 ( 症 ) 者は、治癒を志したならば、まず自分が精神交互作用の悪循環に質 振り回されていることを自覚し、この状態を現実行動を通じて打破していくように努めるべき神 てある。 かたよ
り、〃自己実現をするみということてある。また、そのことは、人間の生涯を通じて自らの人間崩 とうや 森田は、前述したよ 性をより広く拡大し、より深く深めていく自己陶冶につながってい うに、神経質の症状を、人間誰にも存在する普遍的な苦髑として認めているのてあるが、日常 者と神経質 ( 症 ) 者は、苦悩という点て連続性をもっていて、神経質 ( 症 ) からの治癒過程と、日常 者の自己実現あるいは自己陶冶は、密接なかかわりをもっているのてある。 神経質 ( 症 ) 者は、「とらわれ」から脱し、苦悩から解放されるために、あるがままて目的本位 の行動を起こすが、それは単に神経質 ( 症 ) を治すための方法なのてはない。 前述のように、神経質 ( 症 ) の症状そのものがいわば人間の弱さから発しているのてあり、不 安を持ちこたえられない自我の脆弱さに起因しているのてあり、何かにとらわれていなければ ハランスを崩してしまう精神的な要因をもっているのてあるから、そうした人間のあり方を充 分に考えてみる必要がある。つまり、神経質 ( 症 ) の症状は、そのような人間を語る代弁者てあ ると考えてもよい したがって、症状をあるがままに、目的本位の行動をとることは、それまての自己存在とは 異なった存在の仕方をすることになる。そこて、そうした行動が一つ一つ積み重なっていくと、 性格の二次的要因が変化し、不安を持ちこたえ、症状に振り回されず、苦悩にとらわれない自 ぜいじゃく