自由 - みる会図書館


検索対象: 森田療法
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1. 森田療法

この時期には学童たちはそれまてに振る舞ってきた自由て勝手な行動は許さ 以上のように、 れなくなり、競争と、束縛と、自力弓し ・、虫、られるのてある。つまりこれは、学童たちが将来成 人したときに、人間・社会環境の中てもたなければならない重要な心理的要因てあり、同時に 自我形成の中核をつくり出す心理的要因てもあるのてある。 小学校から中学校にかけて、学童・生徒は、この重要な時期を通過しなければならないが、 特に「社会化準備期」において重要なのは、「自制」ということてある。 これまて述べたように、 「生の欲望」の質が、この時期にはかなり変化する。その最も大き な特徴は、欲望が社会化されていくことてある。たとえば、他者てある学友との間に学業を介 在する競争に勝と フ欲望が生まれる。また、体操その他て他の学生より恰好のよいとこ ろを見せ、自分の存在を、よりよく示したいという欲望をもつ。さらには、自分の容姿を相手論 に素敵だなと思わせたい欲望をもち、当然のことながら、異性にも自己顕示をしたいという欲礎 の 望をもつ。 法 これらは個人の自我が、他者あるいは社会を意識して当然に内発してくる「生の欲望」なの療 てある。 それらの欲望を実現てきるときには、快適な学校生活を営むことがてきる。しかし、現在の

2. 森田療法

てくれる食事を食べ、誰かが運転してくれる電車に乗り、誰かが話してくれる語り言葉に耳を 傾ける、すなわち、こうした関連と連帯の中て自分自身が生かされていることに気がつくのて ある。 そのようにして、症状の「とらわれ」から自由になった彼は、自らを家族や、社会や、さま ざまな人間関係の中て生かし、人間としての意味を求めることに努力をするようになるてあろ う。これは、人間としての自由を獲得し、広げていったことになる。 なぜなら、彼の前には、不安てあるから症状を楯にして神経質 ( 症 ) の世界に埋没していたい 欲望と、一一 とう欲望と、不安があってもより人間的な意味を求めて自己実現をしたいという、 つの欲望の方向が存在する。つまりそのどちらかを選ぶのは彼自身てあり、彼は選ぶ自由を所 有しているといえるのてある。ここては彼は、神経質 ( 症 ) 者としての選択を行なっているのて はなく、一個の自己確立のてきた日常人として選択の自由を行使しようとしているのてある。 以上のようなことを考え合わせると、神経症的体験は、必ずしも人間にとってマイナスとな るものてはない。苦髑・葛藤を通してその人間を深め、視野を広げ、より豊かな自由を目指す 人間形成に役立っともいえるのてある。すなわち、神経質 ( 症 ) の治療は、とらわれからの解放 から出発して、人間としての自由へと向かう一連の過程てあると考えてもよいのてある。 たて

3. 森田療法

「とらわれ」の症状 「とらわれ」という言葉は、非常に日本的な言葉てある。たとえば恋にとらわれるということ した は、女性を恋慕うという感情にとらえられて、その他の日常的なことを考える自由を失ってし まうことてある。人間はある時期においては情熱のおもむくままに、恋にとらわれてみる必要 もあるのかもしれない。 しかし、長い間そのように一方的な感情にとらわれ、支配されてしま っていたのては困る。 神経質 ( 症 ) 者の「とらわれ」は、そのようなロマンティックなものてはなく、深刻なものて ある。それは、自分が不安・葛藤を感じ、そこから逃れ たいと願望するところにかえって惹き つけられてしまい、離れられなくなり、振り回されて、自由を奪われてしまうのてある。この ことは、単なる症状の問題てはない。 人間が日常生活において生き生きと思考し、感情を表出 っちか し、創造性を培っていく自由を自ら放棄しているのてある。ここては、被治療者の内界は症状 3 「とらわれ」と「はからい」からの脱却 138

4. 森田療法

て、ばくの自由な考えを奪ってしまうんてす。そして、そういう自分が非常に醜く、人に注視 されていると考え、人の顔を見ることがてきなくなりました。その上、真剣になって、母に負 担をかけているから学校をやめようと思ったんてす。ても今考えてみると、それは自分の苦痛 に対する言い訳てあり、とらわれている症状に対する『はからい』だったのてすね。こうして 神経質 ( 症 ) から解放されて自由にものが見えるようになると、そのときの不自由な自分の考え や姿がはっきりと見えてきます」 彼は強迫観念に悩まされ、それに苦しめられながら、勉強するという目的を必死になって果 たしたのてあり、また大学に入ってからは、罪悪感に彩られた強迫観念が浮かんても、そのま まにして友人たちと交わり、勉強するという努力を続けた。彼は常に人から侮蔑されていると いう観念が拭えなかったという。しかし、自分の目的を一生懸命に果たしていくうちに、 の間にか強迫観念がうすらぎ、人間関係が正常に保てるようになり、積極的に社会参加もてき るよ , フになった。 以上のように、とらわれた観念を去り、「はからいの行動」をやめることは、神経質 ( 症 ) 者 にとってはたいへん苦しいことなのだが、神経質 ( 症 ) から解放されるのには、ぜひともこの苦 難の峠を越えていかなければならない。 ぶべっ 144

5. 森田療法

えた。また、自分の意識が清明てある間は、人間としての自由をてきる限り遂行しようと考え かなた た。それてこそ、筆者が考えている死の彼方の世界 ( 筆者はそれを「空無の世界」と呼んており、 いずれ出版される予定てある ) 現在、『遊』の編集長・松岡正剛氏が、筆者の思想を逐一記録しており、 において、さらに完全な自由が得られるものと信じているのてある。 人間としての自由ーーーそれはたいへんに厳しく苦しいものてある。しかし、それを遂行しょ うとするところに人間の尊厳があると筆者は信じている。たとえば、自分の死を意識した瞬間 に、患者への配慮を投げやることを許してもらい、若い医師たちにもこれほど重大な極限状態 に立たされたのてあるから何とかかんべんしてくれと言い訳をいい、筆者の講演を聞きにくる 聴衆にも緊急の状態を理解してもらって、講演をやめることを許してもらうこともてきる。 しかし、その一方て、自分が置かれた事実を認め、どうしようもない不安と、将来に対する 危惧を「あるがまま」にし、その上て、筆者の人間としての責任を果たす行為を選択すること も、てき」る 前者を選ぶのか、後者を選ぶのか。筆者はそこて選択の自由の前に立たされているのてある。 ことえよ - フもなく大切 これは筆者にとってたとえようもなく厳しく、そして苦痛だが、また、ナ な自由てある。死まてどのくらいの時間があるかわからないが、この人間としての自由をどこ

6. 森田療法

かに、自由に行動することが許されているはずてある。人生はたかだか七十年か八十年てあり、 そのなかて窒息するような生き方をするよりも、自由に空気を吸うことが許され、自由に行動 することが許されると考えた方が、人間の本質にそっているはずてある。 わずか数千年の歴史の間に、人間は自分たちを縛る法律や規則にがんじがらめにされ、さら 現代ては新しいテクノロジーに束縛され、大きく自由を失いつつある。それぞれの人間が 互いに支障なく生きるために、さまざまな制約が必要になるとしても、心の自由はもっと豊か に広げてよいはずてある。そのためには自分に対する「ゆるし」が必要てあって、さまざまな 物事に行動を通して賭けてみたり、いろいろなアバンチュールに身を挺してみたらよい。また、 自分に対する「ゆるし」が拡大されればされるほど、他者に対する「ゆるし」も拡大されるの てあり、つまらないことにいちいちめくじらを立てたり、やたらに人の行動に気をつかったり このよ - フな することなく、おおらかな目て人を見やり、人の行動をより豊かに許したらよい 「ゆるし」の人間関係においては、両者の思考範囲や活動範囲は、より豊かに広がるのてあっ て、そこに暖かい人間としての連帯関係が生まれてくる。 このような「ゆるし」の思想は、「あるがまま」と一脈通ずるものがある。人間の醜さ、人間 の弱点、人間の弱さを「あるがまま」に認めればこそ、もう一方の人間の美しさ、人間の行動 198

7. 森田療法

ひた に浸っているうちは、患者はそれなりに楽てあり安心感をもっていられるが、一方、現実から の遊離はひどくなるばかりぞ、その点て神経症はいよいよ悪化していくのてある。 神経症を生むメカニズム 以上、神経症をつくりだす要因について、主なものを述べてきた。まず第一に考えられるの は、森田のいうヒボコンドリー 性基調を内包した素質てあり、その上に、第一章て述べたよう な人格発達の過程が重ねられ、神経症発症の素地がてきあがる。そこへ誰にてもある精神交互 作用のメカニズムが、神経症者には特に強く働き、〃かくあるべしみという理想状態を設定して 無理が生じ、気にすまいと田 5 えば田 5 うム 現実にそのような状態をつくり出そうと田 5 えば田 5 - フほど ほどその点に注意が集中し、ますます苦痛が増強されて、そこに神経質症状が固着するというニ カ メ のが、一般的な神経症の成立様式てある。 の また「とらわれ」がひどくなるにつれて、それと反比例して現実て生き生きと生きるという 症 自由を失いがちになる。その上、自分にとって都合のよい理由をつくって合理化し、その裏て質 逃避をするという「はからいの行動」をとるようになる。そして結果としては、現実に背を向神 け、自分の心身のマイナスな点のみを気づかい、自分を劣等視し、孤立化し、ときによっては

8. 森田療法

〃人間としての自由みを自分のものにしておきたいがために、このような行為を行なっている のかもしれない。 現在の筆者はといえば、昨年九月に手術をし、年が明けて二月に、二週間ばかり退院をした のも束の間のこと、化学療法のために再び入院することになった。そして、腫瘍が身体中に転 移して神経を圧迫し、下半身がまったく動かない状態ている。つまり、知覚の他に行動の自由 もぎと さえ抗取られてしまったといってもよ、 したが、筆者はこのような状態にあってもなお、ロ述 とうつう 筆記を行なっている。まだ筆者の人間としての知性は覚醒の状態にある。疼痛がいっ筆者の言 葉を奪ってしまうか、癌細胞の転移がいっ筆者の脳細胞をめちゃくちゃに破壊してしまうか、 それはわからない。 しかし筆者は、自分が可能な限り、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、身体が動かな くても、〃人間としての自由〃を守り通してゆきたいのてある。 ( 一九八六年四月 )

9. 森田療法

てある。 このように「とらわれ」ということは、ある歪んだ観念に凝り固まって、人間としての自由 な考えを失ってしまうことてある。その観念と人間行動の間には正比例の関係があり、観念が 歪めば歪むほど行動が拘束され、人間の自由は失われてしまう。つまり、歪んだ観念によって 人間が逆に自由にされてしまうのてあり、自由を放棄せざるを得なくさせられてしまうのてあ る 神経質 ( 症 ) 者の場合、他の神経症のなかても特にこの歪んだ観念にとらわれている場合が多 い。たとえば、自分の身体がどこも悪くないのに心臓が肥大して死が迫っていると考えるのは、 やはり歪んだ観念に自由にされているのてあって、一種の「とらわれ」てある。このように考ム えてくると、「とらわれ」は、神経質 ( 症 ) の中核てあるといえる。そして、その歪んだ観念をニ カ もち続ける状態を「強迫観念」にとらわれているという。 の 症 質 観念と現実の葛藤 経 「強迫観念」というのは、文字どおり強く迫ってくる観念をいうのてあって、先にあげた例て神 いうなら、手が汚染されてしまったという誤った観念、眉毛の形がおかしいという誤った観念、

10. 森田療法

て現実を無視したものてある。そこて、死んだはずてありフランスにいるはずのないルイ十四 世が、今なお生きていて自分の父親てあるという確信になってしまうのてある。つまり継時的 な時間の流れが否定されて、現在ルイ十四世が生きているという同時的な時間に置き換えられ はたん てしまい、共に生活しているという同時的な空間が破綻してしまうのてある。このように分裂 病者の時間・空間は、非現実的な観念の上に構築され、妄想を形成する。 このように比較してみると、神経症者の存在様式と、分裂病者の存在様式は、根本的に異な るものてあり、それと同時に、強迫観念と妄想の間には、明確な線が引かれるということも理 解されるてあろう。 神経症者は強迫観念に「とらわれ」てしまうのてあり、したがって自分てもそれが歪んてい と思いつつ、現に自分のなかに浮かんている強迫観念に振り回さ る、誤っている、おかしい れ、自由にされ、それのみならず、行動まて歪めてしまうのてある。〃わかっちゃいるがやめら れない という俗語があるが、まさに自分てわかっていながら去ることがてきずに、その観念 に自由にされ、心の内に葛藤をつくりながら、自分の真の主体性を失ってしまうのが、「とらわ れ」なのてある。