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検索対象: 生きにくい… : 私は哲学病。
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1. 生きにくい… : 私は哲学病。

安易に相対的な視点が導入されることである。曰く、個人によって「音」の感じ方はさまざまであ る。日く、たしかにヨ 1 ロッパには「音」はほとんどないが、だからヨーロッパを規準にせよとは 言えない等々。 こうして、個人の感受性の相対性と文化相対性とがまことしやかに登場してきて、「音」に苦痛 ( 激痛 ? ) を覚える人々の前に立ちはだかる。そして、同じく安易に科学的な視点が導入される。 アンケート調査によればほとんどの人は「音」に苦痛を感じていない。医学的見地からは「音」に よって難聴にもならなければ、生命の心配もない等々。そして、行き着く先は ( 一部のサウンドス ケープ論者が実行しているように ) 「絶対的多数にとって心地よい音」の研究となる。こうしたす いんべい や、むしろそれを隠蔽してしまうのである。る べての営みは「文化騒音」の問題に迫ることはない。い め とはいえ、これまでこうした「音」の問題の一部は、例えば電車内の案内放送などをめぐってよみ く議論されてきたとも言える。しかし、その場合、「音」の削減を訴える側の論理は往々にしてを 「静寂」を無条件に前提しており、さらにヨーロッパ社会を正常とみなして、そこから異常なわがに 国の現状を断罪するものが多かった。日本人の幼児性、他律性、耳の悪さ、鈍感さ : : : という指摘 は、しかし現状を変えてゆく説得力をもたない。むしろ、こうした高飛車な「ヨーロッパでは的 論法は最近では聞き飽きたという印象とともに人々の顔を背かせるようである。 わな そこで、快・不快論の罠に落ち込まず、また理屈抜きのヨーロッパ正常論にも陥らずに、はたし 1 ろろ

2. 生きにくい… : 私は哲学病。

そのほか、わが国の津々浦々に流れる同種の「音」である。 問題の第一の難しさは、こうした「音」に苦痛を覚えている人が絶対的少数派だということ、そ してこれに関して、こうした「音」の問題が往々にして快・不快の問題として片付けられ、そこに 「文化騒音」とは何か 本論のテーマは、航空機騒音・新幹線騒音・暴走族騒音などわれわれの生活を脅かす暴力的騒音 ではない。わが国をすつばりと覆っておりほとんどの人が気にもとめていない、それゆえ解決はき わめて難しいもう一つの騒音 ( 私はそれを「文化騒音」と呼ぶ ) であり、具体的には、 はんさ ( 一 ) 駅構内・エスカレーター・ バス・銀行・海水浴場・プールなどの煩瑣な注意放送 (ll) ショップ・カメラ屋・電気屋・靴屋などの店外に向けての宣伝放送 ( 三 ) 住宅地に侵入してくる竿竹屋・網戸屋・焼き芋屋などの拡声器音 ( 四 ) 防災無線 騒音倫理学の可能性 さおだけ 1 ろ 2

3. 生きにくい… : 私は哲学病。

値でなければならない。その結果すべての人が不幸になろうとも。真実を目指すことは、それほど 危険なことなのだ。だから、価値あることなのだ。 哲学に目覚めるとは、真実が幸福よりも絶対的に優先することを学ぶことである。人を傷つけて も身の危険があっても。なぜなら、それが真実だから。 こうした無謀なほどの馬鹿正直さを、利ロすぎる現代日本人はもっと学んでよいように思う。 稔りある議論とは 一国の運命、いや人類の運命や地球の運命などどうでもよいのだ 政治にはまったく関心がない から。なぜ、政治家はあんなに「国のため。を思っているのか、不思議でたまらない。だから、と きどきテレビで見る政治家の「生態」は、自分とはまるで異なった生物の生態のようだ。あまりに 違うので、まったく怒りを感じない。イクラやセイウチに怒りを感じないように。 とりわけ、最近の政治家の動きは興味深かった。与党は審議を打ち切って強行採決を断行する。 野党は審議拒否してその「横暴」を責める。いつもいつもこうした図式が繰り返される。どうして こうなるのか。あたりまえである。どんなに審議しても、結果が決まっており、お互い変わるわけ はないと思い込んでいる場合、議論は単なるセレモニーに化す。そして、結果が欲しい段になると、 話してもしかたないというホンネが剥き出しになるのだ。 184

4. 生きにくい… : 私は哲学病。

であり、太陽が東から昇り次に東から昇る間が一日というわけである。 そのとき、なぜこうした周期的運動自身が時間ではないのか、とアリストテレスは問い、なぜな らたとえ物質が静止している間も時間は経過するからであると答えている。このことは重要である。 いかなる具体的な周期運動がなくとも、時間は経過するとわれわれは考えている。時間自身の運動 をいかなる物質の運動からも独立のものとして考えているのである。その運動とはいかなるものか。 それは、物質の運動とはたいそう異なったものであり、ただある今 ( 2 ) が次の今 (2) に続くと いう運動であり、が占めているところに新たにがどこからともなく「来る」と、 2 はどこへと もなく「行く」という運動である。ここで使用されている「来る」とか「行く。もまた物質の運動 とは異なり、「不変なもの。も速度もなく、そもそも「どこからーも「どこへ」も定かではない。 つまり、「時が流れる」とはただ、そこにさまざまな現象が位置する時間は次々に継起するとい うことを言い換えたにすぎないのだ。特定の現象が完全に静止していたとしても、静止したまま では時間上の位置を変える。だから、はその意味で物質の運動とはまったく別の運動をしてい るのである。 ここに問題なのは、われわれはこうした「運動」や「来る」や「行く」を物質的運動のイメ 1 ジ を通してよりほかには把握しえないことである。あくまでも物質の運動とは異なった意味で、これ らの言葉を使用していることを自覚しているうちはよい。だが、そうしながらも同じ言葉を使って

5. 生きにくい… : 私は哲学病。

よく発揮しないことである。横浜のランドマークタワーでは、呼び出しごとに「本日もランドマ 1 クタワーをご利用いただきましてありがとうございます」という放送が、新幹線のあらゆる放送の 前には「今日も新幹線をご利用くださいましてありがとうございます」という放送が入るが、ある 日苦情を言ったところ、こうした挨拶をカットするとたちまち「挨拶くらいできないのか ! 」とい う抗議が入るそうである。 みんな街を歩きながら電車に乗りながら、いやいたるところで懇切丁寧に連絡されたい・注意さ れたい・挨拶されたい・管理されたいのであり、そうされないことが苦痛つまり迷惑なのだ。 << は、 こうしてーに代表される絶対的多数派に「迷惑をかける」フトドキな輩とみなされる。 自己決定権の反転構造 パターナリズムは本来「自己決定権、と対立する概念であるが、この国では生活の相当部分にお いて自己決定を望まない人が多数派であることから、この概念もまた奇妙な反転を示す。が自己 決定をしない人々の群れの中で、聞きたくない煩瑣な注意をたえず聞かねばならない不利益を訴え ても、それはぐるっと転じて < のこの主張自体が、かえってーに代表される多数派の自己決定 権を侵害している構造となる。なぜなら、には、ひっきりなしに注意放送が流れ、機械によって であれいつも挨拶されるこうした社会がたいへん快適であり、やはり紛れもなくこの社会をみずか 144

6. 生きにくい… : 私は哲学病。

しんだ。二度とふたたび生きるチャンスを得ることはできずに、私はずっとずっと無であり続けて しゅうえん 何十億年後に世界は終焉してしまう ! こうしたイメージが次第に私の中で鮮明になり、それが一 つの疑いえない直観となって私の頭を荒し回り、私は「なんって残酷なんだ ! なんって残酷なん と心のうちで絶叫している。その後しばらくは、放心したようになって、何をする気も起こ らない。 こんなことが、数日に一回くらいの割合で襲ってきた。 街を歩きながら「もう駄目だ ! と私は観念し、涙さえ出てくることもあった。当時、日記に書 いたものから。 ひじり・ 3 なし 聖橋を渡りながら考えた。やつばり駄目だ ! みんな死んでしまう。善い人も悪い人も、美し い人も醜い人も、大天才も鈍才も、大金持ちも乞食も。そして、全部なくなってしまう。この聖 論 橋も、御茶ノ水の駅も、曇った空も、東大構内行きのバスも、地球も、太陽も、色も、臭いも、 けいべっ 音も、肌触りも、感動したことも、軽蔑したことも、後毎したことも、わずかに幸せだと思った的 ことさえも。 しかし、こうした残酷なイメージは時間を空間化する誤りから生ずるというべルクソンの考えを 知って、私は少々ラクになった。たしかに思考に伴う空間と運動の表象が、いつもわれわれを混乱

7. 生きにくい… : 私は哲学病。

われわれは「実力」という雑駁なものを信じる振りをする。それは、勝っ方向に導く潜在的な力で そな こと ある。しかし、いかにこの力が具わっていようと最終的には「やってみなければわからない も肚の底から知っている。こうして、われわれは巨大な理不尽を前に身をすくませ、だからこそそ の残酷さの中で結果のみを受け入れることを心に誓って戦う選手たちの潔さに感動するのだ。 なぜか。なぜなら、人生とはまさにこのような理不尽な戦いだからだ。能力にははなはだしい個 人差がある。生まれたそのときから、各人の境遇は残酷なほど不平等である。そのうえ、それぞれ ほんろう の人生はたえまなく偶然に翻弄されつづける。生きるとはこうした理不尽をグイと呑み込むことで ある。すべての選手は輝いて見える。理不尽を熟知しながらも、そのただ中で必死に戦うという姿 勢が、人生と重ね合わされてわれわれの感動を呼び起こすからではなかろうか。 未来は決定されているか オリンピックの録画は「安心してー見ていられる。すでに結果を知っているからだ。悲壮なほど 緊張した表情の田村 ( 亮子 ) は、一分後には金メダルを取る。どこまでも平静な面持ちの中田 ( 英 寿 ) は、あと数秒でゴールが決まらず頭をかかえる。こうした過去における未来は、だがナマの未 来ではない。前者と後者の違いは誰でも知っている。だが、ついナマの未来を過去における未来の ようなものだと錯覚してしまうのである。 はら ざっぱく 178

8. 生きにくい… : 私は哲学病。

タバコは吸わないでください。ベルトから顔や手を出さないでください」と言おうものなら、 私はまともな精神をもった人間とはみなされないであろう。だが、まったく同じ内容をテ 1 プを通 してあるいは駅員からたえまなく言われることには全然抵抗ないのだ。 また、パターナリズムは次のかたちもとる。千葉のそごうデパ 1 トとの交渉ではっきりしたこと であるが「エスカレーターのたえまない注意放送の代わりに、視覚的な表示をしつかりしていれば、 たとえお客がエスカレーターで負傷しても裁判で負けることはないでしよう」と言ったところ、た とえ勝訴してもマスコミは「放送を流していなかった」ことを非難する記事を書くであろうし、そ の後客は激減するだろう。つまり「客商売ですから、裁判で勝ってもお客が来なければ駄目なので る すよ」というわけであった。 め ーに代表される絶対的多数派が、こうしたかたちでパターナリズムを要求し、いったん事故み を が起こるや「怠慢な」管理者側を告発しようと身構えている社会において、電鉄会社やデパートが さ うなず 過敏になるのも頷ける。ここに浮かびあがってくるのは、エスカレータ 1 の放送は効果がないとい くら主張しても、断じてそれを受け入れないという構造である。しかも「やめてどのくらい事故が生 増えるか」という実験は許されないのだから、 いかなる実証的裏づけもなされないまま、こうした 注意放送はいつまでも存続するのだ。 こうして、日本人の多数派にとって「迷惑」であること、それは管理責任者がパタ 1 ナリズムを 14 ろ

9. 生きにくい… : 私は哲学病。

溶解してゆくこの数十億光年の広大な宇宙のただ中で死ぬという恐ろしさであった。いわば宇宙論 的恐怖だったのである。 その恐怖があまりに強くなると、ほとんど離人症のような体験を繰り返した。「ばくは死ぬ、そ して二度と生き返らない」と唱えつづけると、身体中から気力が抜けてゆき、突如世界は屈折し、 私の身体はこころもち浮きあがって、いっしか私はべッタリした異様な世界を泳いでおり、やがて その中で記憶を失うのだった。自分が誰であり、今何をしようとしているのか、まったくわからな くなる。自分の隣に「ほんとうの自分」がいて、ギクシャク身体を動かしている少年をジッと眺め ている。私はいわば別世界に漂うのであった。 こうした非現実体験を繰り返す私にとって、学校とは拷問場であった。私は休み時間に遊ぶこと ができない子供であり、ありとあらゆるスポーツができない子供であり、給食を食べることができ ない子供であり、トイレで小便することができない子供であった。しかも、そんな私は医学的には 心身ともに「正常」だったのである。こうした「正常値のうちにある軽い異常、は、軽いがゆえに 他人にはわかってもらえない。私はひどく苦しかったが、自分の独特の痛みを誰にも伝えられない。 つまり、毎日が苦しく、私はすさまじく孤独だったのである。 その後の人生においても、周りの者がスッと通過するところを一人だけ転倒してしまう。留年を 繰り返し、大学院を退学し、学士入学し、大学院に再入学し、さらにたった一人でウィ 1 ンにまで 206

10. 生きにくい… : 私は哲学病。

三分の二 ) はキリスト教的色彩が濃厚なので場合によってカットしても、はじめのほうの「神なき 人間の惨めさ」を中心とした部分だけでも、お薦めします。それは、じつはどんな人でもホンの少 しは考えたことがある永遠のテーマです。 誰でも生まれたいという意志をもってではなく勝手に生まれさせられてしまった。そして、あっ という間に死んでゆくという理不尽な構図の中に投げ込まれてしまった。何百億年の時間の中で、 カゲロウのように生きてたちまち無になる。しかも、何百億光年という広大な宇宙の中に漂う砂粒 のような地球のそのまたわずかな一部を占めて終わるだけ。 こうした気の遠くなりそうな残酷無比な世界なのに、みんなニコニコ顔で生活しています。それ はなぜなのか。考えないようにしているからです。真剣に考えると、頭がオカシクなってくること をうすうす感じているからです。パスカルは、自分が投げ込まれている理不尽きわまりない状況に内 しんし 案 書 真摯に向かい合わず、こうして「気晴らし」に明け暮れ自分を騙しつづけて死んでゆく態度こそ、 むな 的 もっとも虚しいことだと一言うのです。 病 では、どうすべきか。ここから、神を求めることのみが導かれることではないでしようが、まず哲 ここを直視することが大切なのです。今生きており、たちまち死んでしまうこと、こうした理不尽 な構図を直視すること、これこそ、二一世紀の環境問題とか、老人問題とか、人口問題とかのいか なる「大問題」よりはるかに大問題のはずです。各人はまず、ここを見なければならない。そして、 20 ろ