ーチのなかでとりあげた。教え子たちは反応した。「ぼくだけ挨拶に行くと仲間に点かせぎ と思われそうだから : : : 」とか「先生はいつのまにか近寄りがたいほどに知名人になったん ですよ」とか「先生、おやじが会場にいたからといってわざわざ挨拶に行かないのが子ども の心理ですよ。てれくさいじゃないですか」などであった。 ペちゃくちや会話しないと愛が確認できないというのはなさけないことである。会話など だれ しなくても、ざっと顔を見渡して、誰それが来ているな、あいつもいるな、彼女む来たかと 心のなかで愛を確認できるほどに自信がないことにはいかんじゃないか、というのが私の結 論であった。私は教え子たちの心情をよく理解していなかったのである。私の方に信頼感が 欠如していたのである。 連中は俺に見向きもしなくなったのかという一瞬の不安が私の失愛恐怖であった。 変その点、世の父親母親はえらいと思う。子どもから音信不通でも子どもに見捨てられたと 格思う父母は少ないように思う。子育てに夢中なんだろう、仕事が忙しいのだろう、部活に蠍 の中しているんだろうとは思うが、ここが子どもたちの帰ってくるところだという自信は揺る 自がないと思う。少なくとも私の父母はそうであった。そして多くの父母もそうだと思う。そ れだけの自信があるから子どもも父母を慕うのである。何年も実家に帰らなくても、この人 生でいつも自分のことを思ってくれる人がいる、自分の帰りを待っている人がいる、自分の
202 れない時代である。それゆえお互いに愛想はよいのだが ( 例団地のエレベーターで見知らぬ 人と一緒になったとき ) 、心を開いているわけではない。ありきたり ( ステレオタイプ ) の会 話である。 こういう生活が続くと、本当の自分を語りそれを聴いてほしいという願いが出てくる。外 界とつながっているという安定感が得られないからである。アメリカ人がちょっと知りあっ ただけの人間に、自分の家族のこと仕事のことをオープンに語る心理である。人恋しくなる のである。そして私の見るところ、人生でふれあいのもてる人を数人もっている人は、完全 に孤軍奮闘している自主独立の人よりも精神の健康度は高いように思われる。大家族主義の 中国系アメリカ人には精神疾患や非行率が少ないのはそれを示唆している。 ふれあいを求める時代になった第二の理由は世の中がテクノロジーの時代になったからで ある。直接会話しなくてもファクスがコミュニケーションを助けてくれる時代である。機械 を扱う人は一日中人と会話しないでも生きられる時代である。その結果、本当の自分を表現 し受けとめてもらうという体験がしにくくなった。 なぜ自分を表現し受けとめてほしくなるのか。前述した精神衛生の保持、促進のほかに、 自分のアイデンティティを定めたいからである。自分は何者であるかという意識、人生にお つまりアイデンティティーーーは本当の自分をつかまないこ ける自分の存在感 ( 居場所 )
130 けんそん いしゆく みかけは謙遜のようであるが、本当は萎縮している人が少なくない。何につけても今ひと つ自信がないのである。客観的には人並か人並以上の能力がある筈なのに、細々と人生の裏 もったい 街道を歩む人がいる。勿体ない。多分この人たちにすれば、自信ありげにみえる人間の心の メカニズムはどうなっているのか興味があろうかと思う。 私が思うに自信ありげに見える人は、何らかの体験に基づいて行動している人である。体 験もないのに、物知り顔に語る人もいるが、これをはったりという。このことを私は新聞記 者から取材されたとき知った。「私のほかにもっと著名な学識経験者がおられるのに、なぜ わざわざ私から : : : 」と私はきいてみた。 それはあなたがこのテーマについては実際体験をもっておられるからです。自分が実際に 何かしている学識経験者というのは意外に少ないものです。ただ本を読んで知識があるとい うだけではねえ : : との答えがかえってきた。 自信を身につける簡単な方法 はず
虫のよい人間がいるからである。 好人物ほど自責の念にかられ、落ち込んでしまう。自殺・家出・退職しないとも限らない。 自分のことは棚にあげて人のせいにするため、人の精神衛生を甚だしく損なっていること はず に気づかない人間は、大体において無能である。有能なら自力で問題が解ける筈だ。解けな いからこそ人に依存する。そして依存心が満たされないと文句をいうのである。 私のみるところ、人のせいにする無能な人間の特徴が四つある。 ひとつは動作がおそい。頼まれたことをさっさとしない。そして弁解を言う。その弁解も 自分が如何に忙しいかということが多い。 第二は評論家的である。ロ達者である。中二くらいの常識を大学生のポキャプ一フリイで語 る。ゆえに一見頭がよさそうに見えるが、よくよく聞いていると空虚である。 第三は時間を厳守しない。待つ人の身になれないほどわがまま者ということになる。 格第四は人を利用する。自分がしたくてもできないことを、人にさせ、そこに自分が上手に の割り込んでくる。 自上司にも同僚にも部下にもこういう人物がよくいる。よほど注意しないと気分が滅人って しまう。それゆえ精神衛生を保っためには心のなかで「このバッカヤロー」とどなるくらい の頭の冴えが必要である。
れにつれて気持ちも変わる。 かっこう 貧乏なときでも富者の恰好をすると、世人が富者として遇してくれるので、自ら富者のよ うに振舞わざるを得ない。そういう行為をとっているうちに気持ちも豊かになる。 そういうわけで容姿は大切である。服装にこだわるのはよくない、という考えは検討を要 すると思う。人柄さえよければ恰好などどうでもよいという考えに私はあまり賛成しない。 服装が大事な第二の理由は、服装がコミュニケーションの手段になるからである。葬儀の 折りにジ ー。ハンやシャツで列席すれば弔意が伝わらない。いくら心のなかでお悔やみの気 持ちがあっても、人にはその気持ちが伝わらない。仲間が軽装でハイキングに出かけるの に、自分だけ背広にネクタイでは、「ぼくも仲間のひとりだ」という気持ちは伝わらない。 あの人だけお客さまだという印象を与える。 服装というのは自分の心が表現されるように配慮すべきものである。私たち夫婦は来日し た外国人学者のお世話をすることがよくあるが、ホテルのロビーに迎えに行くと「今日の会 合はネクタイを着用した方がよいか」「この服装ではカジュアルすぎるか」ときく教授が少 なくない。社を失しないようにという気配りからである。 むとんじゃく したがって服装に無頓着な人は、人の反応に無頓着な人ということになる。つまり自分 本位の人ということである。
120 戻る場所が人生にある、こういう思いが生きる力の源泉になるのである。 それゆえ私たちは父母のこの自信を見習うとよい。私は仲間にとって必要な存在である、 部下や生徒は心のなかで私をなっかしんでくれている、会社は私を必要としているという気 持ちになることである。自分はのけ者である、お荷物であると思い込むから、そういう雰囲 気の人間になるのである。そういう雰囲気の人間になるから人がのけ者にし、お荷物扱いす るのである。 ではその自信はどこからくるのか。誠心誠意人につくすことからくると思う。私の父の退 職後、私たち兄弟は父に送金を続けた。あるとき私は父にきいた。子どもたちにお金をもら うことによって劣等感に似た気持ちをもっか、と。父は答えた。感謝はしているが気がねな ど全くない、なんといってもお前たちは俺の息子だからね、と。父のこの自信は俺は子ども のために精一杯生きてきたという感慨に由来していると思った。何といっても君たちは俺の 教え子だからな、何といっても君たちは俺の友人だものなあ。こういった心境になれば失愛 恐怖にふりまわされないのである。 ではどうすればそのような心境になれるのか。方法は一二つある。そしてその三つ全部を身 につけるのである。ひとつだけでは不充分である。 ひとつは、相手の心的世界を一緒に味わうことである。淋しいだろうなあ、口惜しいだろ
「ファッションに関心がないわけではないのですが、一人でデ。 ( ートなどに出かけて服を選 ぶのが苦手です。高校まで、身につけるものは一切、母親が見立てて備えてくれました。着 てみたい服がないわけではないのですが、勇気がなく、結局いつも無難な ( 地味な ) ものを 選んで、個性がないことを悔やんでおります。服装などで自信がつくことってあるのでしょ うか : : : 」という質問を東京在住の二十八歳の会社員から受けた。 変お「しやるとおりである。身につけるものによ「て自信がつく。私はむかし軍人の卵であ 格ったが、たしかに私服から軍服に着替えるだけで気持ちがしゃんとしたものである。ナース のでも駅員でも、所定の服装をすることによって職業人としての自覚が定まる。 自なぜか ? ある服装をすることによって世人の見る眼がちがってくるからである。すなわ ち人が「あの人はナースだ」「あの人は駅員だ」とある種の期待を寄せるからである。人が ある種の期待を寄せてくれると、その期待にそおうとして立ち居振舞いを意識するので、そ 服装で自分を変える方法
ある」という人がそうだ。こういう場ムロは、「それゆえに」のかわりに「だからといって」を おきかえて文章を考えるとよい。たとえば「私は幼少期にきびしい躾をうけた。だからとい って今も幼少期の続きというわけではない。今は二十八歳のおとなである。それゆえに、両 親の言いなりにならなくても生きられる」。これは文章あそびのすすめではない。因果論切 断のすすめである。人間が生きるとは自分で行為を選ぶプロセスである。 Being is choosing である。「それゆえに」と因果を説明すれば世間が許してくれるものではない。自分が何か をなすことが大切である。 「私は忙しい。それゆえに勉強の時間がない」と弁解する人がいる。これも因果論で自他を 納得させようとしている。そこで私はこう言いなおしたいのである。「私は忙しい。だから といって睡眠時間を少しけずれないわけではない」あるいは「だからといって会議の合間に え報告書に目を通す時間がないわけではない」といった具合に。 を要するに考えるくせをつけること。これが無駄に悩みをもたない方法である。考えるとノ のイローゼになるという人がいるが、あれは考えているのではなくとらわれているといった方 自がよい。とらわれから解放されるためにはおかしな金科玉条を考えなおすことである。
132 すねえ : : : 」といった具合に人が教えてくれたときに耳を傾ける態度さえあれば、自分の体 験を語ることをためらってはならぬ。 そのためにはふだんから「私の経験では : : : 」という言い方をするのである。科学者が 「私の得たサンプルでは : : : 」と限定して結論づけるのと同じ発想である。断定的にものを 言うくせをつけてしまうと権威主義に堕してしまう。 ところが世の中にはこちらの発言を高圧的に粉砕する御仁がいる。むっとすることがあ る。私の推論では、こういう高圧的な生意気な人間は体験が足りないのである。親に向かっ て「産んでくれと頼んだおぼえもないのに、なぜ産んだ / 」となじる人間は、大体において 子どもを産んだ経験がない。それと似ている。こういう人の反論・批判は軽くきき流すに限 る。まともに受けて立っと理屈で負けることがある。これは自信喪失のもとである。もし軽 しやく くきき流すのが癪なら「君の所論の根拠は何か」「君の論理の妥当性を実証するデータを示 してくれ」と迫ってみるとよい。 ちえ 要するに自信の根源は体験から得た智慧である。
方がずっと人生を豊かにしてくれる。「忘れても忘れても、なお心に残るもの、それが本当 の教育だ」とアインシュタインは言ったそうであるが、行きずりのふれあいについてもそれ がいえると田 5 う。たかが行きずり、されど行きずりというところか。 ところが世の中には当たらずさわらずの人生を過ごしている人がいる。思うにこれは、つ おくびよう いうつかり自分を開いたら、人からどう評価されるかわからないという臆病に起因してい 人に笑われてもかまわないという心境になるにはどうしたらよいか。 わざと人に笑われるようなことをすることである。忘年会のとき自らマイクを奪って下手 な声で「雨雨降れ降れもっと降れ : : : 」と歌ってみたり、歩きながらとうもろこしをかじっ てみる。年齢・職業にふさわしくないハデなネクタイやシャツを着てみる。小学生がしそ えうな単純な質問をして人を爆笑させてみるなど。 けいべっ を こういう実験をしてみると、思ったほど人から軽蔑されないことがよくわかる。すなわち 格 まれ 性 お前とっきあうのはいやだという人は稀である。したがって、瞬間瞬間のあるがままの自分 の ート・エリス ( アメリカの心理 自を出すことがさほど苦でなくなる。これは論理療法のアル。ハ 療法家 ) が提唱する方法でもあり、私が実験したことでもある。