きあいにはこれで充分であろうが、本来ふれあう方が自然な間柄 ( 例親子、師弟、夫婦、 親友 ) のときには、無精せず自分の心情を伝える工夫をせねばならない。 つまり、ふれあいには「手ねりようかん」の要素がある。したがって、誠実な人柄でない とふれあいはもてないという理屈になる。 ではゴルフづきあい、マージャンづきあいの仲間は談論風発することがあるが、あれはふ れあいか。ふれあいに近いものがあるが、ふれあいとは言い切れないと思う。ふれあいに近 いとは、あそびの世界には責任も権限もないので、ひとりの人間としての交流がもちやすい ( 地位や役割にとらわれず本心が出しやすい ) という意味である。しかし、ふれあいとは言い ーソナリティ ( 人柄 ) そのものをわかちあうのが主軸 て切れないのは、行動を共にはするが。ハ かになっているわけではないという理由からである。仲よしとか親和的というだけではふれあ いとは言い切れない。各自がそれぞれの人生で重要性の高い感情・価値観・事実をわかちあ あうほどに心を許しあっているかどうかがふれあいの大事な条件である。 今の時代はふつうの人々も心ひそかにふれあい体験を求めている時代である。なぜそうい い あう時代になったのか。 ふ ひとつには人口移動が激しくなったからである。都市化するにつれ、自分の周りは知らな い人ばかりとなる。どこの誰ともわからない人と適当につきあう社交性をもたないと生きら
想する人が多いが、耳学問も有効な学習法である。私たちは父母から耳学問したおかげでど まれ うやら一人前のおとなになっているのである。父母の教えをいちいちノートに取った人は稀 である。 それゆえっきあいの狭い人は人間学や人生学が貧困になる。また、つきあいはあっても人 に教えを乞う気持ちの乏しい人 ( 例人が右といえば左という人。なぜ、右がよいのか、左に したらどういう結果になったかなどの質問をしない人 ) は世間知らずになる。 この間もこんなことがあった。私の先輩にあたる教授が熟年者の成人学級で「老人同士の いさかいはどうしたら防げるか」と質問されたという。「ほほう。むつかしい問いですねえ。 だれ どう答えられたのですか」と私。「いや、私もそんなこと知らないのです。そこで『誰か答 えてください』と受講生同士の対話にきり替えたんです。すると老人クラブの会長さんがい え いことを言ってくれましたよ。それは現役時代の自分を語らないことだそうですよ。俺はむ 変 格かし社長だった、教授だったとむかしのことを言う老人が仲間に嫌われるらしいです」と。 性 の これはやがて熟年期を迎えるであろう私には大変有益な話であった。 自折角人とっきあっても何も学ばない人がいる。問いに切り込みがないのでせいぜい「私は 何とかいう社長と、俺、お前の間柄だ」「誰それはむかし俺の隣に住んでいた人だ」という ていどのことしかきき出せない人がいる。 おれ
になれない人物と共存せざるを得ないのがふつうである。 なぜならば人生は私のために出来たものではないからである。ということは人さまは私の 欲求充足のために生きているのではない。 したがって私としては私の好みのとおりに動かない人間がいると、どうしても不快にな る。これは止むを得ない。私が人の欲求をすべて満たし得ないのと同じように、人も私の欲 求を充分に満たし得ないのは止むを得ない。 その結果、お互いに何となくおもしろくない。これも止むを得ない。 それゆえ無理してにこにこすることもあるまい。紋切り型のつきあいですましておけばよ つきあいのレベルを一定にしておけば、衝突もおこらないし、世間的には「友好的仲間」 と映ずるのがふつうである。 すべての人と家族なみの親交をもたねばならない理由はない。あるていどの心理的距離を 保つことにためらいをもっことはない。 いやな人間と共存しているうちに、自分が悪いからこうなったのではないかと思うことが ある。相手からなじられたり、陰口が耳に人ってくるとますます自己嫌悪、自信喪失にな
生意気というのは結局、自分の考えや知識の限度がどのていどかに気づいていない状態の ことである。勉強不足、世間知らずの自分に気づいていないのである。これは青年だけのこ とではない。おとなにもけっこうこういう人がいる。生意気な父母、生意気な教師、生意気 な社長など。 たまたまある思想なり宗教なりで自分が救われたからといって、人生のすべての問題は私 の言うとおりにすれば解けるのだと断定的に言う。たまたまカウンセリングを勉強したから ごと といって、すべての教育問題はカウンセリングで解決するかの如く豪語する。 こういううぬぼれのつよいまま世の中を生きてこられたのはどういうわけか。周りの人間 がほどほどにつきあっているからである。配偶者も子どもも部下も生徒も、さわらぬ神に : : 式につきあってくれていることに気づかないからである。 だれ 人間は誰にでも失愛恐怖がある。それゆえ、こちらの生意気さ加減を指摘してくれない。 たとえば上司でも部下に嫌われたくないから「ほほう、なかなか学者だな」とおだてつつ、 内心は「この生意気野郎が / 」と思っている人が意外にいる。 自分が生意気かどうかはよほど自戒しないとわかりにくいものである。そこで手がかりを ふたっ提供しておきたい。 おおかみ まず第一は自分は一匹狼かどうかを自問することである。生意気だと人が敬遠するから
こんきょ したときにだけ妥協すればよい。こういう考えを支持する根拠として、人はみなお互いにつ ながっているという観点をあげたい。人はみなつながっていると思うから、自分が個性的な あり方をしたからといって、仲間はずれになるわけではないという安心感があるのである。 人間はお互いにつながりあっているという感じはどこからくるか。自分以外の人たちの内 面世界を知ることによってである。人は見かけによらない、という見聞を重ねるうちに、人 間というものは職業、地位、年齢、学歴、性別を問わず、基本的には似たようなものだとい うことがわかってくる。 こんな苦労をしているのは私だけです、と訴える学生に私はグループエンカウンター ( 同 かま るじ釜の飯を食べて、昼夜兼行で語り合う会 ) をすすめることが多い。ねらいは、人も自分と似 変ていることを体験学習させることにある。 ス その結果こうなる。「ぼくは風変わりかもしれないが、実は山田や田中も心のなかではぼ をくと同じなんだ。ぼくだけ浮きあがっているわけではない」と。 ス レ ここでいう風変わりとは、軽薄な自己顕示的な言動ではなく、自分をよく吟味した上での スやむにやまれぬ自己表現のことである。こういう場合の言動は多分、ほかの人々の気持ちに も通ずるものがある。それゆえ浮きあがったピエロのむなしさがない。カウンセリングのロ ジャーズの言い方を拝借すれば、自分になりきることは人間の普遍性・共通性にふれるとい
130 けんそん いしゆく みかけは謙遜のようであるが、本当は萎縮している人が少なくない。何につけても今ひと つ自信がないのである。客観的には人並か人並以上の能力がある筈なのに、細々と人生の裏 もったい 街道を歩む人がいる。勿体ない。多分この人たちにすれば、自信ありげにみえる人間の心の メカニズムはどうなっているのか興味があろうかと思う。 私が思うに自信ありげに見える人は、何らかの体験に基づいて行動している人である。体 験もないのに、物知り顔に語る人もいるが、これをはったりという。このことを私は新聞記 者から取材されたとき知った。「私のほかにもっと著名な学識経験者がおられるのに、なぜ わざわざ私から : : : 」と私はきいてみた。 それはあなたがこのテーマについては実際体験をもっておられるからです。自分が実際に 何かしている学識経験者というのは意外に少ないものです。ただ本を読んで知識があるとい うだけではねえ : : との答えがかえってきた。 自信を身につける簡単な方法 はず
まじめ人間でも人に一目おかれる人間と、うだつのあがらない人間とがいる。その相違は どこにあるか。 うだつのあがらないまじめ人間は小心者なのである。自分の役割に付随するシナリオのと おりに動いていれば問題はおこらないと思い、自分の好みを抑えて、ひたすら決められたと おりに反応する。永年こういう生き方をしていると自分のホンネは何であるかがわからなく 変なる。 を 言うことすることが規格化してくるから機械人間になる。たとえば死にたいといっている 格 の人間に「今日は面接の時間が終わりましたので来週いらっしゃい」というような紋切り型の 自応答しかしなくなる。かわいそうだなあ、何とかしてやりたいなあという心の動きが乏しい 人間になる。余計なことをする勇気がないのである。 ところが同じまじめでも、人に一目おかれるまじめ人間は自分のシナリオを自分で作って まじめにかしこく生きる方法
賀状を書きながらいつも思うことがある。 この人とのつきあいは、今の共同プロジクトが終わるまでのことだ。これから幾十年も つきあうわけではない。ならばいっそ賀状を出さない方がよいか、と。 私の結論はこうだ。 いちど親密になったからといって、今後永遠につきあわねばならないということはない。 えしかし、永いっきあいが誠実で、短いっきあいは表層的・社交辞令的であるとはいえない。 を特に今の時代はそうだ。これほど人口移動が激しい時代だから、むかしは十年かかってつく 「た深い人間関係を今は数週間で、いや数日でつくるのでなければ、共同作業はできないの 自である。 しばしのつきあいのあと別れのときがくることは目に見えていても、その期間は心をこめ 思いをつくしてつきあうのでなければ、いつまで経っても、かりそめの一時しのぎの人生し 本当の自分を表現する方法
ないからする」と事務的に割り切って水につかる、あの要領でつきあうとよい。 なぜ、あまり好きでもない人づきあいをした方がよいのか。ひとことでいえば自分の存在 感が確認できるからである。自分はやはり自分だ、これが自分だ、という意識は人との関係 においてのみはっきりするものである。完全に自分の世界にだけとどまっていては自分は何 者であるのかその正体がわからなくなる。 特に今日のように世の中がテクノロジーに満ちている時代では、知らぬまに人づきあいを しないですむから、その結果、自分で自分の正体がわからなくなる。虚無感、無感動などが その表れである。たとえば、最近よくいわれるオフィス・オートメーションに由来する心理 的障害がそれである。一日中人と口をきかない状況が来る日も来る日も続くのが心の健康の ためにはよくないのである。それゆえ、人づきあいの嫌いな人でも、人づきあいをした方が え得なのである。 を現代人から人づきあいを奪っているものがテクノロジーのほかにもうひとつある。それは 人口移動の激しさである。たとえば転居したのをきっかけに子どもが登校拒否をおこす例が の 自よくある。これは短期間のうちに新しい人間関係をつくる能力が乏しいときにおこりがちで ある。つまり今のように人口移動がはげしい時代には、人づきあいが嫌いでもそれをあるて いどできる能力がないと、生きにくいのである。
い。毒にも薬にもならないことばかり言っているから自分は何者かがわからなくなるのであ 本当の自分に気づく第一二の方法は価値観のちがう人間や文化にふれることである。たとえ おれ ば「俺は円満な人物とは、主義主張をもたない人間だと思う」とある人に毒づかれて初めて 「俺はどうやら無思想な人間らしい」と自分の実態に気づくことがある。身内 ( 同じ文化の 人間 ) とだけつきあうと、ぬるま湯につかっているようなもので、自分にはどういうくせが あるか、なかなか気づきにくい。 さまざまの人とっきあっているうちには、ほめられたりけなされたりするが、これは何れ も複数の価値観にふれるという意味がある。自分はどんな人間であるかというイメージが定 めやすくなる。ひとつの価値観にしかなじめない人間を「ワン。ハターン」というのである。 いず