たいと何万遍つぶやいても何の意味もない。ナンセンスとはそのことである。人生で大事な ことはその状況をどう受けとるか、その受けとり方 ( ビリーフ ) である。頭を使うことであ もし、いろいろ考えているうちにどうも自分に非があったと気づいたとしよう。そのとき はくよくよしないことである。ああすればよかった、こうすればよかったと後悔したところ で覆水が盆にかえるわけではない。そういう後悔はナンセンスである。過去を悔やむのでは なく、将来同じあやまちを犯さないためには、今後どうすればよいかを考えることである。 失敗は成功の母というではないか。いやな思いをするがゆえに私たちは少しずつ利口になる のである。試行錯誤 ( 苦杯をなめる ) によって行動は変容するのである。 いか 四面楚歌になったからといって、別に死刑を宣告されたわけではない。もとでを如何にし てとるかを考えればよいのである。これを考えないと仮に他に転職してもまた同じあやまち を繰り返す可能性が高い。 要するに頭を使うことである。心のなかの文章記述 ( ビリーフ ) を積極的なもの、建設的 なものに修正することである。
おくびよう 責任を押しつける臆病な上司・同僚・部下・身内が少なくない。また計算高い人間が少な くない。『走れメロス』のように、信義に富む人間ばかりではない。 それゆえ、はしごをはずされたこちらには何の責任もないことがある。したがって、自分 を非難する前に、果たして私は悪いことをしたのだろうかと自問自答することである。 どう考えても悪いことをした覚えがなければ、自分はだめ人間だ、至らない人間だと決め つける必要は毛頭ない。むしろ、この苦境をどう受けとめると得になるかを考えることであ あいさっ かって私はすべての部下にそっぽを向かれたことがある。私に挨拶してくれるのは初老の る用務員だけであった。私についていくと損をすると部下の人たちは思ったらしかった。私が 変そこのトップと対立関係にあったからである。私はこれを「組織とは何か、を考える絶好の ス チャンスである」と受けとめ、組織心理学やリーダーシップの勉強をした。それを後ほど本 をにしたのが『〈リーダーシップ〉の心理学』 ( 講談社現代新書 ) である。 ス レ また、この窓際族にも似た境遇は、私に時間の余裕も与えてくれたので ( 会議にも宴会に スも声がかからないので ) 、そのチャンスに学位論文も仕上げることができた。 Ⅲ そこで思うことは、人間は苦境に陥ったときに、その苦境は自分にとってどういう意味が あるかを考えたほうがいいということである。困った困った、いやだいやだ、辞めたい辞め
156 日本にマンセルの色彩学、チゼックの美術教育論、ニイルの自由主義教育論を紹介した精 神分析家に霜田静志という多摩美術大学の教授がおられた。 私はたまたまこの先生に教わる機会があった。教わったことのひとつに「岩に会えば、岩 をめぐりて流れゆく、行き先遠き海をめざして」という歌がある。 世の中で思う通りにならないときには、「世も末である」と断定しないで、柔軟思考で対 処せよというのである。 柔軟思考とは何か。その後の私の経験では自分のおかれている状況は自分にとってどんな 意味があるかを考えることである。 たとえば職場でひぼしにあった人が、ひぼしでないとできないことをこの際にしておこ う、人生でこんなに暇なことは滅多にないのだから、と考える。あるいは心ならずも営業に 配属された青年が「自己主張訓練の場を与えられた。将来必ず役に立っ経験である」と受け フラストレーションを突破する方法
ではどうすれば「ねばならぬ」に固執しなくなるか。方法がふたつある。 ひとつは「考えること」である。何を考えるのか。ねばならないと言い切れる根拠はある のか。その考えに忠実になるとまちがいなく幸福になれる保証はあるのか。その考えのとお りにできるのか。世の中にそうしている人はいるのか。そうしようと努力している人はいる だろうが、達成している人はどのくらいいるのか。この考えはいつでもどこでも誰にでもあ てはまるのか。この考えのとおりにすべきだという法律でもあるのか。この考えを教えてく れた人にまちがいはないといえるのか。要するに「ねばならない」というよりも「そうでき ればそれにこしたことはない」というていどのことではないのか。こんなことを自問自答す るのが「ねばならないからの脱却法」のひとつである。 え もうひとつは、「とにかく先ず行動をおこすこと」である。たとえば、これでいいのかな をあと思案しながらも、とにかく親と別居して、週一回夫婦で老父母のところへ一泊しに行 性 く、という行動をおこしてみるのである。すると意外に楽しく時が過ごせるということがわ の 自かってくれば、「長男は親と同居すべきである、とは言い切れない」と思考が変わってくる。 Ⅱ「同居してト一フプルをおこすより、別居して楽しく交流する方が人生は幸福である」と思う ようになる。 〈「ねばならない」からの脱却〉
127 Ⅱ自分の性格を変える 損することが多い。上司や先輩も人間であるか ら、公平に遇し得ないことがある。自分のうぬ ぼれやプライドに快適な刺激を与えてくれる部 下や後輩を特にかわいがる傾向がある。誰にで もナーシシズムがあるので、部下や後輩の戦略 にひっかかるのである。 ところが世の中には、人に不快感を与えずに 目立つ人がいる。それには四つの方法がある。 ひとつは人の気持ちを考えてサービスするこ とである。受験期の子どもをかかえている同僚 に、自分の子どもが使った定評のある参考書を 贈呈したり、病妻をかかえている後輩に病院を 紹介したりという具合に、親心を示す人であ る。情けは人のためならずである。但し条件が ある。自分自身の私的問題は、絶えず始末して おくことである。自分個人の間題も始末できな
るプロセスにおいて、人に好かれたらそれにこしたことはない、と考えるのがよい。 極端ないい方をすれば、少しくらい人に好かれなくても、いい仕事さえしていれば必ず人 が寄ってくるものである。いくら人当たりがよくても、仕事ができないと雑談の相手にしか してくれない。人のたしになる仕事をしないでいて、ひたすら人に好かれることばかり願 い、人づきあいのハウッーばかり考えているのは本末転倒である。 たしかに気づかいとか心づかいは大事である。しかしそれにも限度がある。虫をふみ殺さ ないように注意して歩いても、知らぬまに小虫をふみつぶしている。それと同じで私たちは 知らぬまに人の心を傷つけたり、人にフラストレーションを与えたりしている。これが人の 世の事実である。これは止むを得ない。人が私を傷つけることがあると同じように、私も人 を傷つけることがあり得る、これはお互いさまである、しかたがないと居直ることである。 いくら神経をすりへらして気づかいしても完全ということはありえない。ならば初めから完 全をあきらめることである。仮に人にへんな奴だと思われても、別に死刑を宣告されたわけ ではない、大丈夫だ、と自分にいいきかせることである。 このように、ものの考え方 ( ビリーフ ) を修正することによって、人づきあいにまつわる 悩みはかなり解消する筈である。このことを特に強調するのが論理療法である ( 『神経症者 とっきあうには』川島書店、『〈つきあい〉の心理学』講談社現代新書第五章 ) 。
144 人目につくにはまず人に何かを与えることである。こちらから先に挨拶するもよし、受付 業務を買って出るもよし。自分の能力の範囲内で人にサービスすることである。 私の師、霜田静志は老齢のため人院を考えられた時期があった。 そのとき「ぼくは人院したら、若い人をベッドのそばに呼んで、ぼくの今までの人生を語 ろうと思う。ぼくの話が若い人のこれからの人生の参考になるかもしれないから」と語っ た。実際には人院前に亡くなられたが、人間は生きている限り、人に働きかけていくのがよ いと私は教わった。 めい 人目につかないときは気が滅人るのがふつうであるが、これから脱するためには将来志向 的になることである。鳴かず飛ばずの今のうちにコンピュータを学んでおこう、著作の資料 を集めておこう、家でも建てることを考えようという具合に、自分のプロジェクト ( 計画 ) をつくることである。 自分がコミットできる対象 ( 心を注ぎ込むもの ) をもっているときは、困難に耐えやすい さび ものである。たとえば夏休みには一人娘が戻ってくると思うから、老父母は淋しさに耐えら れるのである。 ささやかながらプロジェクトをもって生きている人はうらぶれた感じがしない。それゆえ 人目にもとまりやすい。そればかりかプロジェクトが実現したのが機縁で人生が急展開する
ある」という人がそうだ。こういう場ムロは、「それゆえに」のかわりに「だからといって」を おきかえて文章を考えるとよい。たとえば「私は幼少期にきびしい躾をうけた。だからとい って今も幼少期の続きというわけではない。今は二十八歳のおとなである。それゆえに、両 親の言いなりにならなくても生きられる」。これは文章あそびのすすめではない。因果論切 断のすすめである。人間が生きるとは自分で行為を選ぶプロセスである。 Being is choosing である。「それゆえに」と因果を説明すれば世間が許してくれるものではない。自分が何か をなすことが大切である。 「私は忙しい。それゆえに勉強の時間がない」と弁解する人がいる。これも因果論で自他を 納得させようとしている。そこで私はこう言いなおしたいのである。「私は忙しい。だから といって睡眠時間を少しけずれないわけではない」あるいは「だからといって会議の合間に え報告書に目を通す時間がないわけではない」といった具合に。 を要するに考えるくせをつけること。これが無駄に悩みをもたない方法である。考えるとノ のイローゼになるという人がいるが、あれは考えているのではなくとらわれているといった方 自がよい。とらわれから解放されるためにはおかしな金科玉条を考えなおすことである。
誤解したりされたりというのはきわめてうっとうしい体験である。これは人間が神でない 限りやむを得ない誤診ごっこである。私は次のように考えて、うっとうしさから自分を解放 している。 私が人を誤解することがあるように、人も私を誤解するのは当然である。 誤解すべきでない / と考えるよりは誤解がないにこしたことはない、と考えた方がよ おればか 誤解される言動をとった俺も馬鹿だったが、しかし誤解した側も軽率である。ゆえに 自分ばかりをせめる必要はない。 ではなぜ誤解したりされたりするのか。それはお互いに心が貧しいからである。こころ貧 しきものは幸いなるかな、という考えもあるが、私はなるべくなら心は貧しくないにこした ことはないと思っている。 誤解されないための二つの方法
り、どういう条件のときに、どのような人にどのように対処するのが有効かを考えよという のである。これが本当のまじめ人間である。 ではどうすれば本当の意味でのまじめ人間になれるのか。 あて ひとつには「ねばならない」から自分を解放することである。たとえばある社員が上司宛 に届いた速達を病欠中の上司宛に速達で転送した。速達ゆえ至急に転送せねばならないと思 ったのである。しかしその手紙の差し出し人は女性であった。その社員に常識があれば「は て、待てよ」と考えそうなものである。ねばならないにとらわれるのは考え方がふだんから 足りないからである。 多くの「ねばならない」はよくよく考えてみれば「 : : : であるにこしたことはない」とい うていどのことである。 る 本当のまじめ人間になる第二の手だてはふだんから見聞を広めておくことである。ある目 格的を達成するのに複数の方法があることを知っておくことである。いわゆる alternatives の ( オールタナテイプス ) というあれである。方法は自分の知っているひとつだけではないこと 自を知っておくことである。そのためにはっきあいを広くして耳学問を豊かにすることであ Ⅱ