え、使わなくてもよいからもたねばならぬ。そしてここぞと思う瞬間を逃さずにいつでも抜 ける気力だけはふだんから養っておくことである。 ところで伝家の宝刀とは何か。それは人によりけりである。自分で考えておくとよい。 人とのつきあいが上手であるにこしたことはないといったが、それはゴルフや酒が好きで あるにこしたことはないのと同じことである。ゴルフや酒が好きではないからといって世は 末ではない。それと同じで人づきあいが下手だからといって世も末ではない。 しかし、ゴルフや酒の楽しさと同じで、人づきあいも上手な方がそれだけ人生も楽しくな るから、やはり人づきあいが嫌いでないにこしたことはない。しかし、もし嫌いな人は無理 に好きになることはない、酒が嫌いでも宴席で適当に振舞う人がいるように、つきあい嫌い でも適当に人と共存しよう、と決めるとよい。 人づきあいの嫌いな自分を嫌悪することはない。ゴルフが嫌いな自分を嫌悪する必要がな いように、人づきあいの嫌いな自分に劣等感をもっ必要はない。世の中のすべてのことに興 味をもたねばならないと思い込む必要はない。嫌いだけれどもせねばならないからすると居 直ればよいのである。無理に人好きの格好をしようと思うから疲れるのである。 たとえば四十歳を過ぎてから小学生の子どもと一緒にプールにつかるのは肉体的にきっ い。それでも親として一緒につきあってやらねばならぬから、「好きではないがせねばなら
外に対人関係で気の利く人がいる。 これをどう説明するか。薄情な人とは自己中心的な人である。自分本位にしか考えない人 である。たとえばむつかしい文章を書く人がいる。これは読者の身になって書かないからで ある。自分が満足できる文章であればよしとするのは自己中心的である。 ではどうすれば自己中心性から脱却できるか。それは世の中は自分のためにできたもので ざせつ はないということを体験することである。つまりフラストレーション ( 挫折 ) をいくつも通 過することである。たとえば返信用の切手・封筒も同封せずに身の上相談の返事を要求する あてな 人がいる。私は八〇円を惜しむわけではないが、「八〇円の切手を買いに行き、封筒に宛名 を書き、ポストに立ち寄る手間」を私にかけさせまいとする思いやりがほしいと文句をいっ て返すことにしている。父性的思いやりの発揮である。当人はいやな気分になると思うが、 えこのフラストレーション体験が次回にはもう少し思いやりのある行動をとるきっかけになる をのである。 性 思いやりの乏しい第二の理由は自己嫌悪がつよいことである。自分はだめ人間だと思って の 自いる人は人生に対して好意的にはなれない。他者嫌悪になりがちである。ではどうすれば自 己嫌悪から脱却できるか。それは開き直ることによってである。口下手で何が悪いか、三浪 して何が悪いか、離婚して何が悪いか、そういうこととは無関係に自分はひとりの人間であ
182 世の中を生きていくのに、とんとん拍子というのは非常に稀である。行きたい学校に行け なかった、結婚したい人と結婚できなかった、会いたくもない人と会わねばならぬ、別れた くない人と別れねばならぬといった出来事をたいていの人は経験している。このように意の ざせつ ままにならない状況をフラストレーションという。俗にこれを挫折という。 けんどちょうらい さてこういう挫折が続くと自信を失って世の中がいやになる人と、挫折のたびに捲土重来 を期して成長する人とがいる。その相異はどこから来るか。これが本稿の主題である。 挫折によわい人ーー例、ノイローゼ気味、自信喪失、自己嫌悪、他者憎悪、ニヒリズム はひとことでいうと、この人生に挫折体験があってはならぬ、人は私に好意的であるべ きである、挫折する人間はダメ人間である、といった人生哲学を心のどこかに秘していると いいたいのである。 挫折につよい人ーー例、忍耐する人、他の方法を考える人、気分転換をはかる人、観点を 挫折を乗り越える三つの方法 まれ
う肩すかしをくったいやな感じがする。 しかし、これをいとってはならない。そういうリスクをおかす勇気をもたないと、いつま でもおざなりのつきあいしかできないし、迫力や覇気のある人生は展開しない。 魅力ある人物とか実り多い人生というのは、自己開示の勇気、あるがままの自分を打ち出 す思いきりのよさが源泉だと思う。 〈自己開示の条件〉 ではどういう人が自己開示のできる人か。どういう人が自己開示をためらう人か。それは 自己受容のていど如何である。 たとえば八年かかって大学を卒業した自分を受け人れている人 ( 自己受容の人 ) は「ぼく は四回留年してやっと卒業したのです」と平気で人に語る。ところが「四回も留年すべきで はない。四回も留年した自分を私は許すことができない」と思っている人 ( 自己嫌悪の人 ) はなかなか正直になれない。あのとき自分なりにベストをつくしたのだから、あれはあれで やむを得なかった、とあるがままの自分を許容している人が自己開示のできる人である。 平たくいうと開きなおり ( 私をさげすむ人はどうぞご自由に。私にはこれしかありようがな かったのです ) の精神があれば自己開示しやすくなる。自分が自分の弁護士の心境になれば よいのである。
さば 永い人生である。人から疑惑の目で見られたり裁きの目で見られたりする期間が続くこと がある。転居・転勤・転職のあと、対人関係のトラブルにまき込まれたとき、不義理をした とき、人脈が変化したときなどがそうである。その結果、消え人りそうな気分におそわれた いしゆくかん り、前科者のような萎縮感にとりつかれる。 ここが大事なところである。浮かぬ気分を無理に朗らかにすることはない。ゅううつな気 持ちのままでよいから、「果たして自分がわるいのか。私を冷眼視する側に問題があるので はないか」と考えることである。何もかも自分に責任があると自己反省するのは、あとでゆ つくりとすることである。自己非難、自己嫌悪、自己卑下は不幸の始まりである。 じやけんな態度を示す人、文句ばかり言う人、おどすような言い方をする人と人生のある 時期を過ごさざるを得なくなったときは、次のような仮説を検証するつもりで、冷静に観察 するとよい。 いやな相手に打って出る方法 ほが
になれない人物と共存せざるを得ないのがふつうである。 なぜならば人生は私のために出来たものではないからである。ということは人さまは私の 欲求充足のために生きているのではない。 したがって私としては私の好みのとおりに動かない人間がいると、どうしても不快にな る。これは止むを得ない。私が人の欲求をすべて満たし得ないのと同じように、人も私の欲 求を充分に満たし得ないのは止むを得ない。 その結果、お互いに何となくおもしろくない。これも止むを得ない。 それゆえ無理してにこにこすることもあるまい。紋切り型のつきあいですましておけばよ つきあいのレベルを一定にしておけば、衝突もおこらないし、世間的には「友好的仲間」 と映ずるのがふつうである。 すべての人と家族なみの親交をもたねばならない理由はない。あるていどの心理的距離を 保つことにためらいをもっことはない。 いやな人間と共存しているうちに、自分が悪いからこうなったのではないかと思うことが ある。相手からなじられたり、陰口が耳に人ってくるとますます自己嫌悪、自信喪失にな
110 この人の背景は私のそれと似ているとか、この人ならこのていどのつきあいまではできるだ ろうとアプローチの度合いを定めやすくなる。ただにこにこ笑ってものを言わない女性は男 性にとって、フラストレーションのたねである。はっきりさせてくれ / と言いたくなる。 もてる女性の第二の特徴は自己嫌悪が少ないことである。カウンセリング用語でいえば 「自己受容」が高いことである。私は器量がよくないもので : : : 、私は頭がわるいもので : くちべた 私は口下手で : : : と人が言うであろうことを先取りして、自分で自分をけなす女性がいる。 これは男性にすれば面倒くさいのである。「そんなことないよ、君は美人だよ」「そんなこと ないよ、俺だって頭はよくないよ」「そんなことないよ、ロよりハ ートだよ」とその都度、 心にもない慰めのことばを吐くのが面倒になる。もういい加減にしてくれと言いたくなる。 やはり男性にすれば、つきあって心地よい女性とは、自己受容の高い女性である。不完全 な自分を認め、しかもそれを許容している女性である。つつばっていない女性である。ある がままの自分を肯定している女性である。そういう女性はあまり人の悪口を言わないし、こ ちらが善意で言ったことばをひねくって受けとることもあまりない。 おれ
「人に好かれねばならない」と思うから人に声をかけてもらえないといやな気がするわけ で、「私も人生で好きになれない人が幾人かいる。同じように人のなかには私を好きになれ ない人もいるのは当然である。多くの人に好かれたらそれにこしたことはない」と考えを修 正するとよい。ぐっと気が楽になる。 おれ 「長男は親と同居すべきであるーと思い込むから、俺は親不孝であると自己嫌悪になった り、うちの長男はたい人間であるとうらんだりする。「長男と同居できればそれにこした ことはない。しかし同居できないからといって世も末というわけではない」と考えようと思 えば考えられる。 「お世辞を言うべきではない」と自縛するから息のつまる感じの人間になるのである。「お 世辞を言った方が相手もハッピーで、こちらも得するならお世辞を自制することもないだろ う」と自己説得すれば世の中も少しは生きやすくなる。 よくよく考えてみれば人生で「どうしてもこうでなければならぬ。ということは非常に少 ないものである。たいていは「 : : : であるにこしたことはない」「 : : : した方が得である」 「 : : : したいと願っているだけです」といったていどのことが多いのである。 したがって Noth 一 ng is serious となる。それほど「ねばならぬ」に固執しなくてもよいで はないか。それが本稿の提唱である。
仮説の第一は、自分の責任を認めたくないので、人に責任をおしつけているのではない か、である。 たとえば急に会議を招集したので、欠席者が多い場合に「君たちはどこで何をしていた しか と部下を叱る上司がいるとする。この上司は自分の無計画さ ( 出たとこ勝負の生き方 ) を認 めたくないので、部下が無断で外出したことに文句をいっている。こういう心理を投影とい う。自分の不勉強を棚にあげて、教師の教え方が下手だから自分は学業成績があがらないの だとぼやく中高生の心理である。要するに自己弁護の策なのである。 ねんしゆっ 第二の仮説は、自分の非を認めたくないので無理にこじつけの理屈を捻出して、自分の言 動を正当化しているのではないか、である。 しゅうとめ たとえば、嫁に文句ばかりいう姑が、自分の心の貧しさをカムフラージュするために、 え「あなたのことを思って、言いたくもないことを言ってるのだ」というのがその例である。 を 言いたくもないことを言う場合もたしかにある。それは老婆心に由来する場合である。老 動 行 婆心にはやさしさがこめられている。人間憎悪がない。それゆえ文句を言われたとは受けと の 自られない。一方、カムフラージュのためのこじつけの理屈には、憎悪の怒りがこめられてい る。それゆえ、素直に耳を傾ける気がしないのである。老婆心からか憎しみからかの識別 は、相手の表情と声の調子をよく見ていれば大体の見当はつく。
うことである。曰く「 To be personal is ( 0 be universal. 」。 〈心がまえ〉 自分になりきることによって人間の普遍性・共通性にふれるにはどうしたらよいのか。ど ういう心がまえが必要か。それはアーティスト ( 芸術家 ) の心意気を真似ることである。多 くのアーティストは世間の慣習や常識に縛られず、自己探究に徹している。自分の本当の気 持ちに忠実に生きようとする。実はこれは一部の心理療法家やカウンセラーが求めている人 間像である。 そのためには善悪の物指しを捨て、自分の内的世界に去来するものをすべて見つめようと の姿勢を定めることである。カウンセリング用語ではこれを recep →一 v 一 2 ( あるがままを満遍 なく、取捨選択せず認識するの意 ) という。つつばり、ぶりつ子、若年寄、物わかりのよす ぎる人、八方美人、ひねくれ者、円満主義者などは自分を直視し、自分に正直になることを 避けていることが多い。 いわ