要するに何を言いたいのか、何をしたいのか、それがはっきりしない人がいる。それゆえ 時間と労力を無駄に費やしている。そして巻きぞえを喰った方は「それならそうと最初から : 」と文句のひとつも言いたくなる。 私は人生で大事なことは、何のために何をしているのか、をきちんと意識することだと思 え 変っている。 ス 要するに君は何をどうしたいの ? ときくと「要するにですか ? : うむ、要するにですね すき を ・ : 」と出たとこ勝負で答える。それは剣道で言えば隙だらけである。これが散歩ならい ス レい。要するに何のために散歩しているのか答えられなくてもさほど問題にはならない。 ス ところが子育て、人づきあい、仕事など、人の人生や集団の命運にかかわることを「要す るにですか : : : うむ : : : 参ったなあ : : : あのですね、要するにですね : ・・ : 」としどろもどろ に答えるようでは、人生を生きているとは言えない。 生き方をクリアにする方法
けいもうか そこで再び自問自答する。「要するにぼくは啓蒙家に徹した方がよい。たしかにぼくの著作 はアカデミックというよりは、圧倒的に啓蒙的である」と気づく 思うに意識性というのは、外界からきつい刺激をうけた方が育ちやすい。 私はフラストレーション歓迎論者である。ノイローゼにならないていどのフ一フストレーシ ョンを体験するには、折りあるごとにちがう性格の人、ちがう職業の人、ちがう世代の人、 ちがう立場の人と接することである。 ところが「要するに」がはっきりしない、煮え切らない人のなかには、わざとそれをぼや けさせている人がいる。これが「要するに」がすぐ答えられない第二の理由である。つま るり、人の批判や反発をおそれて、防衛しているのである。 変 たとえば前おきで、反対論者への敬意を過剰に強調し、わざと本論の影を薄くしたり、事 に ス 実だけの記述にとどめ「我思う」を排除するなど。こういう人は人生で波風を立てないか をら、当人は平和でよい。しかしつきあう私は疲れる。相手のホンネを推論する手間がかかる レからである。「要するに」はクリアであるにこしたことはない。 ス
154 生きるとは意識して一挙手一投足をえらぶことである。私の好きな言いまわしでは Being is choosing ( 意識的選択の連続が生きている、存在しているということであるとの意 ) である。 「要するに」がすぐ答えられない人の特徴がいくつかある。 前おきが長すぎる、抽象語が多すぎる、「上司がこういった」「フロイドがこういった」と いう具合に人の言説の引用ばかりで「ぼくはこうだ / 」が一向に出てこない、話が詳しすぎ るので一本一本の木は見えるが森が見えない、などである。 「要するに」がすぐ答えられない原因はふたつある。 ひとつは「要するに」を一言語化できるほどに意識レベルにまで高めていない場合である。 これは人生が平穏すぎて、いちいち行動の目的や意味を考える必要がないままに過ごしてき たからである。その逆に、人から攻撃されたり人生が思うようにならなかったりということ があると、一体私は何をしたいのかがはっきりせずにはおれなくなる。 たとえば私に「君のカウンセリング論は技術志向だから浅い。哲学・理念がないじゃない か」という人がいる。私は瞬間いやな気がする。そこで自問自答する。「要するにぼくはプ ラクティカルなことが好きなのだ。評論家はきらいなのだ」と気づく。 あるいは理工系大学に勤めていた頃「先生は一般教養の教授なんですね」と心理学科の教 授の方がえらいのではないかとひびく言い方をする人がいた。やはり瞬間いやな気がする。
129 Ⅱ自分の性格を変える 何もせずにいて、ただひたすら人に認められたい、目立ちたいと思い続けている無精者より は、ずっと高級人間だと思えばよい。要するに、凡人の自分を許容し、凡人に徹することで ある。
5 まえがき こういうわけで本書は、思考・感情・行動の三位一体論の立場から、自分をどう変えてい くか、どう成長させていくかが主題になっている。その内容はかって月刊誌『』に連 載されたものが主であるが、その素材は私個人の人生体験と身の上相談担当の経験が核にな っている。 要するに人生は楽しいにこしたことはない。そのための指針らしきことをカウンセリング 心理学から提唱してみようというのが本書執筆の動機である。 平成三年二月 國分康孝
るのを待っていて話しかけてくるのも当惑する。「これからどちら ( 」と行く先をきかれて 困ることもある。 精神衛生を保っために、人は自分だけの世界を必要とする。いわばかくれ家のようなもの を心の世界に持ちたいものである。自分自身が孤独の世界を持ち、これを楽しんでいない人 ほど、人のプライバシー〈の配慮が足りないのではないか。好奇心を抑制できないのではな いか 見て見ぬふりをするために心がけた方がよいもうひとつのことは、自分はどういうときに 何を見られるのが嫌かを自覚しておくことである。そっとしておいてほしいことは何である かを知っていると、人も多分そうだろうくらいの気は利く。 要するに人をよく見る能力と見て見ぬふりをする能力の両方が、人間関係の維持には必要 えである。 を 動 行 の 分 ・目
とである。 あるスピーチで「このたび縁がありましてみなさまの仲間に加えて頂き : : : 」と私が述べ たところ、「俺が引っ張ってやったんじゃないか。それを『縁』だなんて言いおって : : : 」 とあとで上司に毒づかれたことがある。三十前の話である。 ところが私の後輩や教え子のなかにはスピーチや授業のときに私を引用する人がいるらし だれ い。「誰それさんが先生との出会いを語っていましたよ . と告げる人がいる。あるいは私の いるところで私や妻のことを聴衆に語る人もいる。 なるほどこれはうれしいものである。「このたび縁がありまして : : : 」と言われるよりず っとうれしいものである。 むかし、師霜田静志のことを本に書いたことがあるが、そのとき霜田先生は「國分君、ぼ くのことをあんなに思っていてくださってありがとう」と改まった顔で挨拶されたことがあ る。やはり霜田先生もうれしかったのだ。 要するに感謝しているなら感謝しているということを当人に伝えることである。心で思っ ているだけというのは不精者である。 あいさっ
194 あるいは人が借金を申し込みに来た。自分はあまり貧相に見えないらしい。それゆえもっ おうよう と鷹揚にかまえても大丈夫らしいとわかる。 さらに、人が原稿を依頼してきた。私の文章は上手らしい。あまり遠慮することもない。 ニューズレターなどに、書きたければどんどん寄稿してもひんしゆくは買わないだろうとい う見当はつく。 同表情。ーー人が笑顔を示してくれたということは少なくとも敵意はないらしいことはわか る。それゆえ自己卑下、自己非難をする必要はない。自由に振舞えばよい。 ⑥冗談ーー人が冗談をいってくれるときは身内扱いにしてくれている。安心して自由に振 舞えばよい。もし人に拒否されているのなら、冗談ではなく皮肉やいや味をいわれる筈であ 要するに、相手がこちらに対して抱いているイメージを考慮して自分の行為を選ぶことで ある。したがって人の見る目で自分が見えるようになったら一人前のおとなといえる。 はず
私は「まえがき」で、要するに人生は楽しいにこしたことはないと述べた。そしてそのた めの思考のツポを本書で説明した。 さていよいよ最後に、人生が楽しくなるのに一番有効なことは何か、ひとことで言えと問 われたら「人とのふれあいである」と答えたい。しかし、ふれあいのない人生はだめだと か、ふれあいを持つべきであると断定はしない。世の中にはふれあいがなくても意義ある人 生を送っている人がいるであろうから。そこで厳格に表現すれば、人生を楽しく生きようと 思ったらふれあいがあるにこしたことはない、となる。 そこで私のふれあい論を語って本書を閉じようと思う。 ふれあいとは二人以上の人間がひとつの内的世界をわかちあっている瞬間のことである。 「おう、久しぶりだな」「お前、むかしのままだなあ」となっかしさの感情をわかちあってい る瞬間がふれあいである。あるいは「親と同居するだけが孝行じゃない」「俺もそう思う。 网不快な顔をして毎回食事するより、明るい顔で週に一回泊まりに行ったり泊まりに来てもら ふれあいー・ーあとがきにかえて
たいと何万遍つぶやいても何の意味もない。ナンセンスとはそのことである。人生で大事な ことはその状況をどう受けとるか、その受けとり方 ( ビリーフ ) である。頭を使うことであ もし、いろいろ考えているうちにどうも自分に非があったと気づいたとしよう。そのとき はくよくよしないことである。ああすればよかった、こうすればよかったと後悔したところ で覆水が盆にかえるわけではない。そういう後悔はナンセンスである。過去を悔やむのでは なく、将来同じあやまちを犯さないためには、今後どうすればよいかを考えることである。 失敗は成功の母というではないか。いやな思いをするがゆえに私たちは少しずつ利口になる のである。試行錯誤 ( 苦杯をなめる ) によって行動は変容するのである。 いか 四面楚歌になったからといって、別に死刑を宣告されたわけではない。もとでを如何にし てとるかを考えればよいのである。これを考えないと仮に他に転職してもまた同じあやまち を繰り返す可能性が高い。 要するに頭を使うことである。心のなかの文章記述 ( ビリーフ ) を積極的なもの、建設的 なものに修正することである。