これもまだ、あまり h レガントとは思えない。相手のまちがいを。ヒシャリとやつつけているので、 かえってわかりにくく、押し問答にもどってしまう危険がある。そこで、相手の考えにあわせて 説明する仕方を工夫してみよう。 「奥様、でも私どもは、昨日奥様に一万ドルの指輪をさしあげております。今日また二万ドルの 指輪をさしあげますと、あわせて三万ドルになってしまいます」 「あら、昨日の指輪は、さっき返したじゃないの」 「ええ、でもその指輪のことは帳消しといたしますと、私どもはまだ一万ドルしかいただいてお りませんー これでわかってもらえなければ、「小学校ーをもちだして追っぱらうか、こちらもネ・ハって押 し問答に入る覚悟を固めなければならない。もちろん「あそび」の場合にそういう心配はないか ら、「オマワリサ 1 ン」とか「ご主人様にお電話させていただきますーなど、おもしろ半分のセ リフもいろいろ考えてみればよい 相 種次に、ルイス・キャロルの。 ( ズルをひとつ紹介しよう。西洋人の中にはこういう本格的な。 ( ズ の ム間 ルのマニアが多いらしく、 ートランド・ラッセルなども、このパズルについての見解を発表し 議 ているという。 三人の理髪師、、 O が働いている床屋がある。 < は体が弱いので、が外出するときには、
ー強弁術 に欺瞞的で、ルターも知らなかったある秘密協定によれば、ドイツでの売り上げの半分はマイン ツの大僧正の借金返済にあてられることになっていた ) 。ところが彼の抗議が印刷されて全ドイ ツに広まってしまい、たいそう話題となったので、ロ 1 マではこれを不遜な挑戦と受けとり、彼 の意見を押えにかかった。そのひとつはドイツでの法皇全権使節カイ = タンとルターとの会談で あるカノ ・、、レターが自分の説を述べはじめるとカイエタンは腹を立てて、「無条件に取り消すか、 さもなければ人前に出るな」とルタ 1 を追い出してしまった。 これではまとまる話もまとまらなくなるはずであるが、その後ライプチヒで、ルターと神学者 ヨハン・エックとの公開討論が開かれた。ェックは当時の名だたる論客であったといわれるが、 ルターの考えがローマ教会の立場とはっきり矛盾していること、したがって全面的に取り消すべ きであることを明らかにしようとした。ェックはじっさい巧みにルターを誘導して、ローマ教会 それと同時に、ギリギリまで迷っていたルターの決意 との矛盾を認めさせるのに成功した。 も固まり、彼は自説を「全面的に取り消す」かわりに、ロ 1 マ教会のほうを蹴とばしたのであっ ェックの誤りは、「ローマ教会に従うか、悪魔に従うか」という二分法が、まだ通用すると思 っていたことである。ロ 1 マ教会のやり方にもまずい点があったのだから、ここは日本式に、議 論をウャムヤにして、「そなややこしいこといわんといて、どや、一杯」といくべきところであ 4
えば、先輩だって何もワカッチャイナカッタと思うのだが、先輩も、そのまた先輩に煙に巻かれ た後遺症が残っていたのであろうか ? 若者たちを悩ませる煙の代表は、「ほんとうの」「絶対的ー「本質的」などという、深遠でしか もどこにでも使える言葉であろう。これらがいかに詭弁的であるかは、言葉の意味が・ほかされて、 結局は「いいように」あしらわれてしまうことからわかる。たとえば「愛ーという言葉について 考えてみよう。相手の考えに反対したければ、 「ほんとうの愛っていうのは、そんなものではない」 といえばよい。自分の考えを押しつけたければ、たとえば「憎しみーと結びつけようと思えば、 「ほんとうの愛は、愛とか憎しみとかいう対立を超越しているんだ。つまり、愛は憎しみをも含 もんだ」 などといえばよい。奇をてらうなら、もっとズバリと「愛とは憎しみのことなんだなあ」という のも手である。それじゃあほんとうの愛って何なんだ、もっと具体的に説明してくれとつめよら れても、少しも困らない。 とっておきの逃げ道がある。 「ほんとうの愛は、もはや言葉ではとらえられない。何ていうかなあ、そう、実感するしかない ものなんだー これは一面の真理ではあるが、ここに逃げこなくらいなら、最初から「言葉による議論」など
寅さんには「もし、かりに」という仮定の話は通用しない。「好きな人の兄さんーというのが 暗に自分のことをさしていることなど、考えもしない。彼が首ったけである冬子という女性は一 人娘なので、「 ( カヤロー ( 兄さんなんか ) いるわけねえ」となる。そのあとの議論も、相手のい したいことなどそっちのけで、言葉じりをとらえて頭に浮かんだことをいいちらす。これは子供 どうしのロげんかにもよくある型である。 久「二階だての自動車なんて、乗ってみたいな」 正「そんなの、あるわけないじゃん」 久「あ 1 るもんー 正「な ] いもん」 久「あーるもん」 正「なーいもん」 これでは勝負がっかないな、と思っていると、 久「作ればあるもん」 正「え = 、作るだって、お前んちにそんなお金あんのかー 久「お前んちだって、あんのか」 正「ありますよーだ」
巫詭弁術 B ( = 人問 ) A(= 女 ) は正しい推論であるが、 ( 第一段 ) すべてのは O でない。 ( 第二段 ) あるはでない。 のと ( 第三段 ) ゆえに、ある < は O である。 、刀し などは、誤った推論である。これらは のな < Ⅱ女 重 Ⅱ人間 の囲 も範 ) たの 0 Ⅱ犬 解がをあてはめてみれば理解しやすいであろう ( 図参照 ) 。 図囲 を範 次に、どんな推論が誤りであるかを調べてゆこう。 囲の イ オ 前提がふたっとも否定文であるときは、結論 の 否定ニ前提の虚偽 例と を は正しいかもしれないし、誤りかもしれない。 実こ のる 、なたとえば「すべての犬は猫でない」、「すべての人間は大でない」、 れよしたがって「すべての人間は猫でないーという場合には、 ( 考え 含に方としてはおかしいが ) 結論は正しいわけである。しかし「すべ ての犬は猫でない」、「すべての仔猫は犬でない」、ゆえに「すべ
これで、ケネディの考えにわずかなスキがある ( らしい ) ことはわかったが、そのスキをつい て、うまい質問を組み立てることはできるのだろうか ? それともやつばり、不可能なのだろう 、刀 第二の質問は、残った二人 ( 最初の相手を除く ) がどちらもスターリンでなければ、簡単であ る。前の問題と同じになるので、質問が役に立つ。しかし、残った二人のどちらかがスターリ ンである場合は問題である。必要な情報を得るために、二回めの質問は、残り二人のうちスター リンでないほうにきかなければならない。 この要求をみたすには、最初の質問で「誰がスタ 1 リンであるか」をきくとよいであろう ( と いうよりは、この質問しかない ) 。詳しくいえば、最初の質問の相手を < 、残りを、 O とする とき、から はスタ】リンであるか。 ということをききだすのである。がスターリンであれば、 O はスターリンでないから、二回め の質問の「きくべき相手」がわかったことになる ( がスタ ] リンでなければ、にきけばよ 【第一の質問】ーー天使 < ( 誰でもよい ) をつかまえて、次のようにきく。 「あなたは、『この方 ( と天使を指さしながら ) がスターリンですか』ときかれたら、『は
「ひとつのリンゴと、ふたつのリンゴではどうでしよう ? 」 「やつばり、三つのリンゴになります」 「そうです。ロオズ・プノア、どんなものでも、答は同じ数になります。だから私たちは、一た す二は、三というのです。もしわかりにくかったら、いつでもリンゴでかぞえることにしなさ こういうつまずき方は決して珍しいことではなく、数学がきらいになる人の多くは、何かの 「石ーにつまずいたものと想像される。実際、数学の参考書や試験問題集には、つまずきのもと になるような不用意な問題も多いのである。たとえば 「三つのリンゴと二つのミカンをあわせるといくつになりますか」 これなど意地悪な問題の代表なので、「リンゴとミカンをあわせるって、どんなことだろう」 「どっちをかそえるんだろう」などと小さな頭を痛めさせないためにも、せめて 「 : : : をあわせると、クダモノは全部でいくつになりますかー ときくべきところであった。 つまずきの石を見つけるためには、ともかく相手にしゃべらせるのが一番で 相手に話させる ある。たくさん話をしているうちに、相手がどこでつまずいているか、その 「石」が見えてくるからである。相手に自分の考えをうまく表現させることこそ、教育者の腕の 136
ての上下・左右がどうなっているのか、何ともいえなくなるだろう。これこそ、上 下・左右の定義に、頭やおへソが関係している証拠である ! でも、まだ何だかわかったような気がしません。結局、人間が左右対称であるこ とが本質的じゃないんですか ? O ええ。リクッぬきで、鏡を見る誰もが「左右が逆になっている」と思うために は、人間は左右対称でないといけないでしよう。またガモフの説明も、「自然にそ う見える」ことの説明にはなっているかもしれません。しかし、定義をきちんとす ということ ると、その定義から上下や左右が「逆になる」とか「逆にならない が、きちんと論証されるんです。人間が左右対称でなくても、上下対称であって も、論理的にはちっとも困りません。 < 何だか、数学者にやりこめられてしまいましたね。先生、何とか巻き返してくだ さいよ。 これは仕方ないんだ。なにしろ、筆者が数学者だ。数学屋が勝つように、最初か ら仕組んであったんだ。われわれは、山内恭彦先生かロゲルギストのどなたかに、 仇をとってくださるようにお願いにあがろう。 ( 「数理科学」一九七一年六月号掲載の拙稿を修正のうえ転載 ) 204
でもあることと思うが、ここでは一点コダワリ型と呼んでおこう。コダワリ氏の疑問に対して、早 トチリ氏が早速口をはさむ。 「そんなことはないさ。一日が経過した、という知識がふえたのさ」 「え ? それで何がわかるんだい ? 」 「まさに、一日がすぎた、ということがわかったのさ コダワリ氏がこだわっているのは、「一日が過ぎたーということの意 これでは話にならない。 味ーー何の知識もふえないのではないか、ということなのだから、その考えのどこが誤っている かを指摘できなければ、この議論は結論を繰り返しあうだけの水掛け論になる。ここで新しい人 物に登場していただこう。 「こういう場合はね、数学的帰納法できちんと証明すればいいんですよ」 「でも、『わかったような気がしない』という人がいるんだけどなあ」 び「いや、帰納法で証明すればいいんですよ , そ コダワリ氏がこんなふうにいっていたが、と取り次いでみても、 あ 理「しかし、帰納法で証明すれば、それでいいんですよー 論 これは馬耳東風型、強弁術の原則第一を心得ているツワモノであるから、やはり議論にならな 。根負けした頃、助けにきたのが、また難物であった。
ある。おもしろい例が落語の「粗忽長屋」にあるので、参考までに少し引用してみよう。話は、 そそっかしい「兄貴」が、町役人に身元のわからない行き倒れを見せられて「これア熊の野郎 だ」と叫んだところから始まる。 ( 町役人 ) 「この方 ( 行き倒れ ) は、身寄たよりのない独身者だろ ? 」 ( 兄貴 ) 「そうなんです。可哀そうな野郎なんですよ、ええ。今朝もちょいと寄ってやったら、 ばんやりしてましてね。『どうだい。お詣りに行かねえか』ッたら、気分が悪いからよそうな んていってましたけどもね」 「今朝ア ? 会ってんのかい ? じゃあ違う : : この方はねえ、昨夜からここへ倒れてんだか ら」 てめえ 「そうでしよう ? だから当人が来なきやわからねえってんですよ。手前で手前のことがはっ きりしねえ野郎ですからねえ。もウ : : ここでこうなっちゃったの、きっと今朝まで気がっか ねえんですよ」 「しようがねえなあ : いえあなたねえ、よく気を静めてねえ、そいで話をしなさい」 「いえ、あのねえ、すぐ連れてきますから、こいで並べてみれば、あ、これなら間違えがねえ なと思えば、そっちだって、これ、安心して渡せるでしよう ? 「困ンねえ、あなた : : : ねえ気が動転してるようですけどもね、よく落着きなさいよー