うことになり、これで現地の人々と接していくことになる。その結果は、現地の人々にうとん ぜられ、現地の人々を仲間に入れることもできず、現地社会から浮き上がった島のような日本 人コミュニティが形成される。そこでは現地の人々の悪口をいい合って気晴しをするとか、日 本人だけに通用する情報が交換される。現地の人々の接触 ( 必要不可欠の部分においてのみされる ) においては、日本のシステムがそのまま適用され、それが善意であろうと、悪意であろうと、 往々にして相手のシステムにさからうことになり、こちら側もまた相手側もたいへん苦しむこ とになる。 19 カルチュア・ショック
まりをもっていた部落の成員に相当する ( 部落が大きい場合には、その中にあるサプ・グループが中 心となり、部落全体に拡大して認識される ) 。都会であったら、同じ職場で働く人々である ( 大きな 会社などであったら一つの課を構成する人々であり、商店であれば、同業の仲間、または同じ町内の人々 である ) 。 この関係は、単に近くにいるということだけでなく、それ以上に重要なのは、仕事を媒介と した仲間、あるいは自分の仕事をしていくうえで、長期にわたって重要なかかわりをもってい る人々である。したがって、この人々は相当恒久的な人間関係をもち、たいせつな友人という のはこの人々の中に見出されることが多い。同時に、必ずしも自分にとって好ましくない人で も、接触を維持していく努力が払われ、お互いに一種の順応性が養われる。しかし、お互いの 譲歩も忍耐も限界をこえた場合には、いわゆる仲間割れ ( 内ゲパ、党中党をつくる ) の状態が生 まれる。したがって、最も嫌いな、憎しみの強い敵というのも第一カテゴリーの中に形成され る。こうなった場合は、本当の仲間はさらに小さな集団となる。いうまでもなく、集団の規制 が強ければ強いほど、本当の仲間は少数になりやすい。 このように、第一カテゴリーは、敵対の、あるいはそれほどまでいかなくとも、小集団を内 包しているとはいえ、そのソトの人々に対して、相当明確に区別されるほど密度の高い人間関 112
4 ー・特定ケースと一般化の問題 低いイメージ 外国人というものは、どうしてもきわめて限定された数、種類の現地の人々としかっき合え ないものである。内向的な日本人の場合、その範囲はいっそうせまくなっている。よほど恵ま れた交友関係をその土地の人々の中にもって、その友人を通じて広範な人々を結ぶネットワー クの世界に誘導されない限り、その土地はとざされた社会である。どの国でも積極的に外国人 に近づいてくる人々というのがある。それは周知のように、あまり歓迎す・ヘき種類の人々でな いことが多い。その土地の本格派というかよい人々と接するためには、こちらがある程度積極 的に出て、相手を魅きつけるだけの力がなくてはならないのである。どの国でも日本社会ほど 肩書は意味をもたないし、人物そのものの魅力、実力が高く買われる。相当な肩書をもち、日 本でつねにチャホャされるのに馴れている人が、外国でさびしそうにしているのを見ることが ある。タテ社会でない外国では、おもしろく働きかけない限り人は近づかないからである ( も 25 カルチュア・ショック
係を形成している。 第ニカテゴリーの人々 リーと この第一カテゴリーをとりまいて、第二カテゴリーが設定されている。第二カテゴ は、前にあげた例に対応していえば、農村の場合ならば、自分の第一カテゴリーである部落と 関係の深い隣接地域の村々を包む範囲である。たとえば、母や妻の里の人々、姉妹や娘たちの 嫁ぎ先、それから同じ小学校、中学校に行った仲間の散在している範囲、その他、仕事やムラ の行事をとおして密接な関係をもつ人々 ( これらの中には農村とつねに往来のはげしい地方都市の人 人もふくまれうる ) などである。大企業の場合ならば、その会社の全員といったような範囲と、 同窓の関係、親類などがふくまれる。さらに、さまざまな「知り合い」とよばれる人々をふく む。 この第二カテゴリーは直接知らない人々をもふくんでいるが、なんらかの既存のネットワー クに支えられているために、たとえ顔見知りでなくとも紹介状なしに近づくことができる。ま た紹介をたのめる人々がたくさん存在する範囲である。この関係は、個人が仕事をすすめてい くうえでいろいろに使うことができる。活動のスケールが大きい人ほど、第二カテゴリーの機 113 日本の国際化をはばむもの
ウチーーー第一カテゴリー 日本の場合には、次のような顕著な特色がみられる。まず、社会生活において最も重要な意 味をもつ人々は、個人を中心としたネットワーグとしてよりも、一定の場を共有する顕著な集 団としての形をとりやすい。すなわち、にとって、・ O ・・・が重要なメン・ハーで あるとすると、同様に、 O にとっては、・・・・がそれである、というように。し たがって、その集団はきわめて機能が高く、ソトに向かって排他性をもち、ちょうど前節で考 察した″ウチ〃の集団的特色をよく備えている。事実、人々は、この自己にとって第一義的な 所属集団を〃ウチ〃とよんでいる。 の この集団は、日本人の社会学的認識において、社会の核を形成するものとなっている。そこ む で、本論では、これを第一カテゴリーとよぶ。 この第一カテゴリーの集団を構成する人々は、自己にとって最も重要な意味をもっ仕事をと を おして形成される仲間である。この人々はほとんど毎日のように顔を合わせるのがつねであ躑 る。たとえ、顔を見ない日々があろうとも、つねにお互いにアップトウデイトの的確な情報をの もっている人々で、特別の理由がない限り、長い間顔を見ないなどということは不自然であ日 る。この第一カテゴリーに入る人々というのは、たとえば、農村の場合であれば、昔からまと
「アチラにイカレル」条件 いわゆる「アチラにイカレタ」というタイプはこの種に属する。本国に帰ると、おろかしく ひんしゆく も、アチラのやり方をオーパ ーこひけらかして人々の顰蹙を買うのである。おもしろいことに は、この種の人々は実際に、現地の人々から高く評価されていなかったり、現地生活を本当に エンジョイしていなかったりする。もし、現地で満足な精神生活ならびに社会生活をしていた ら、現地経験を共有しない故国の人々に対して、それをことさら誇示するなどという趣味はも たないはずである。そうした日本人にたまたま出会うと、不快感もさることながら、私は「こ の人はあちらでずいぶん苦労したんだろうな」とつい思ってしまう。そしてそれはほとんどあ たっている。 これは、さきに述べた現地への逃避よりももっと複雑な心理である。現地逃避の場合は、あ る種のあきらめがあるが、この場合は、日本社会に対して、ひどく現実的な未練があり、本国 の人々に対して、何とかして自分をよくみせよう、相手に対して優越感をもちたい、というあ せりと色気が見えるのである。それがアチラ式のマナーを故意に示そうとするところにあらわ れるのである。それは久しぶりに会う友人、知人に対する応対、電話のかけ方、手紙の書き方 にもあらわれる。
ま , えがき どこの国の人の場合でも、自分の生まれ育った文化と異なる文化の人々と接するということ は、決して容易なことではない。言語が異なるばかりか、風俗、習慣の違いは生活全般にわた ってさまざまな面に顔を出し、この違いを乗りこえて、ともに仕事をしたり、友情をもっとい うことは、なみたいていのことではない。 特に、日本人の場合、日本にいる限り、特殊な立場にある人々を除いて、異なる文化をも つ人々に接する機会が皆無に等しい。異国のことを知識としてはもちえても、肌で知るという か、直接の経験がないために、異なる文化というものがいかなるものであるかを、本当に理解 することはむずかしい したがって、異なる文化をもつ人々といざ接触した場合には、いわゆ るカルチュア・ショッグがことのほか大きいものといえよ、つ。 今日、日本の経済の発展、世界的な国際化の進展により、各分野における国際交流がとみに 活発となり、外国人との接触は急激に増加してきている。同時に、日本および日本人に対するえ 外国の人々の関心も急速に高まり、両者の接近は、好むと好まざるとにかかわらず、さけられ
ネスのスタイルか ( 相手が日本文化を共有していないのでいっそう味も素気もないエコノミッグ・アニ マル式になる ) 、あるいは相手に第一カテゴリーの人間関係のパターンをおしつけようとするこ とである ( 日本人が一生懸命になったり、真剣になると、第一カテゴリーにおける人間関係の・ハターンを 使いがちである ) 。もちろん、相手は育った土壌も違ううえに、第一カテゴリーの人間関係に支 えられていないので、それは機能しないのが普通である。相手からみれば、まったく勝手なア プローチであり、日本人にとってみれば、予期したように相手が反応しないから、いらだたし くなり裏切られたような感じがするのである。 この種のアプローチは外国人を相手にした時ばかりでなく、日本人の間でもよくなされるこ とである。たいして親しくもない人に対して、自分のスタンダードで自分の考えをよいと信じ こんで強制する人々が、特に都会生活をしている人々には実に多い。自分では親切なつもりで いっているが、それが相手にとってはたいへん迷惑であることに気がっかないのである。これ が第一カテゴリーの人々で、相手に関して充分知っており、また、主観的な意見が通ずる仲で あるからよいのであるが、これを第一カテゴリーでない人々 ( ちょっと知っているといったよう な ) にも適用するため、その人自身では気がっかずにたいへんな非礼をしてしまうのである。 日本人は礼儀正しいとか、丁寧だといわれるが、この意味で礼を失する人々はまことに多い 118
9 ・ーーー国内用の異国 異国愛好者のセンチメンタリズム 前節で考察したように、二者択一の立場に立たされ、日本人への訣別の方向をとった人々と も異なった、屈折した現地社会 ( 文化 ) への逃避というか一辺倒になりやすい人々がある。そ れは本国の人々に対して、自分の滞在している ( あるいは滞在した ) 国の文化を、あたかも自分 自身の価値であるかのごとくふるまう人々である。 私は昔、ウィーンを訪れたとき、初対面のある日本の駐在員の奥さんから、いかにオースト るる リアがすばらしい国であるか、それにくらべて日本は何とはえない国であるかを縷々きかされ たことがある。住めば都で、住んでいる所を好むのは結構なことであるが、国籍が疑われるよ ア うな言動はちょっとおかしいと思ったことである。 チ ル フランスに留学して、世界でフランスほどすばらしい国はないといいふらしている日本人は カ 昔から少なくない。ちょっとフランスの弱点になるようなことをいおうものなら、フランス人
から、実行がともなわないのは当然である。これが、社会福祉の必要がさかんに叫ばれるにも かかわらず依然として貧しい理由である。この同じ考え方が低開発国援助における日本のにえ きらなさのネッグとなっているのである。 こうしてみると、日本人の弱者 ( 自分と関係のない ) に対する態度はきわめて冷酷なものとな る。実際、社会生活における行動にもそれがよくあらわれているのである。しかし、これはす ・ヘての日本人が冷酷であるということでは必ずしもない。個人によっては、心から善意の同情 を寄せる人々も少なくない。何か悲劇的な事件が報道されたりすると、たちまちにしてその本 人のところに同情の手紙ばかりでなく、多くの未知の人々から寄付金が寄せられたりする。ま た、まったくの善意から巨額の財産を特定の施設や目的のために寄付をする人々もある。しか し、これらはいずれも特殊ケースであり、社会的慣習では決してない。日本には、たとえ善意 の寄付、援助をしたい人々がいても、慣習的にそれを容易に実行に移すシステムが社会の中に できていない。「もてる者」に「もたざる者」への援助を義務づける思想もないのである。 ガロ族の勲章 いずこの社会においても、「もてる者」は「もたざる者」に対して何らかの方法によって、 炻 2