3 ・ー・連続の思考・ウチからソトへ ニ項対立と相反する思考 第一、第二、第三カテゴリーという日本人の社会学的認識は、自己、そして自己の属する集 団をセンターとして、その周辺に広がる「ウチからソトへ」という構成をもち、これは、自己 ( 集団 ) 中心的、主観的な認識方法といえよう。 この認識方法によると、他の集団というものは、たとえ客観的にみて、その質、機能におい て自己所属集団と同じ ( あるいは相補うもの ) であっても、自己所属集団は全体世界の中で、い くつかの同類集団の一つではなく、比類のない重要性をもっ集団として傑出して位置づけられ ている。 このことは、さまざまな慣習的表現にみられる日本人の世界像によくあらわれている。たと えば、周知のように、日本語というかわりに「国語」という用語が使われ、それは英語、フラ ンス語、中国語などと異なるレベルの意味をもっている。これは本来世界にあるさまざまな言 123 日本の国際化をはばむもの
の集団成員にとっては、ある意味で共有財産をさくということになり、好まれない。あまりに も集団内の福祉が徹底しているために、集団外への福祉ということには無関心となっている。 さらに、集団内において、与えるということは、そのリターンの可能性が高いため、与える ときには、何らかのリターンを期待するということが習性となっている。リターンの期待なし に与えるということに相当な抵抗を生む。そして、相手が第三カテゴリーの者である場合は、 リターンを期待することはむずかしい。実は、社会福祉の充実とか、低開発国援助というの は、このカテゴリーに属するために、なかなか日本人には抵抗のある問題となるのである。社 会的慣習の欠如によるものである。この慣習的な社会学的認識の枠をふみ出さない限り、問題 は真に理解されないし、解決に向かうことができないのである。
っていても、それから脱落する人々が相当多くなってくる。ここに深刻な問題が起きてくるの である。有史以来、ほとんどはじめて、こうしたアウトサイダーとしての弱者の層が社会に形 成されるようになったといえよう。多少のアウトサイダーはもちろんいつの時代にもあったわ けであるが、それが層をなすほどの注目される量となってきたのは、工業化の進展の結果であ る。 いつの世にも弱者、貧困者はあったわけであるが、それが第一カテゴリーのような集団への 所属をもっている限り、充分保護されたのである。こうした集団内では徹底した社会福祉的な 思想がみられる。能力や貢献において大きな差があるにもかかわらず、同じ給料であったり、 の より収入の多い者がつねに少ない者をおごるとか、たまたま特別の臨時収入があったりする む と、みんなが当然という顔でそのごちそうにあずかったり、一人が不幸に見舞われれば、みん なのカンパがたちどころに集まるとか、つねに「もてる者」と「もたざる者」のパランスアッ を プがはかられている。そして、その集団成員共有の福祉施設の例は、枚挙にいとまがないほど語 国 の である。 本 こうした社会では「もてる者」か「もたざる者」かということよりも、どの集団に属してい るかが重要な問題となっている。ある個人が自己の集団以外の者を援助するということは、そ
ウチーーー第一カテゴリー 日本の場合には、次のような顕著な特色がみられる。まず、社会生活において最も重要な意 味をもつ人々は、個人を中心としたネットワーグとしてよりも、一定の場を共有する顕著な集 団としての形をとりやすい。すなわち、にとって、・ O ・・・が重要なメン・ハーで あるとすると、同様に、 O にとっては、・・・・がそれである、というように。し たがって、その集団はきわめて機能が高く、ソトに向かって排他性をもち、ちょうど前節で考 察した″ウチ〃の集団的特色をよく備えている。事実、人々は、この自己にとって第一義的な 所属集団を〃ウチ〃とよんでいる。 の この集団は、日本人の社会学的認識において、社会の核を形成するものとなっている。そこ む で、本論では、これを第一カテゴリーとよぶ。 この第一カテゴリーの集団を構成する人々は、自己にとって最も重要な意味をもっ仕事をと を おして形成される仲間である。この人々はほとんど毎日のように顔を合わせるのがつねであ躑 る。たとえ、顔を見ない日々があろうとも、つねにお互いにアップトウデイトの的確な情報をの もっている人々で、特別の理由がない限り、長い間顔を見ないなどということは不自然であ日 る。この第一カテゴリーに入る人々というのは、たとえば、農村の場合であれば、昔からまと
厚い〃ウチ〃の壁 日本人は集団主義である、とか、自主性がない、などとよくいわれる。また、外国人から は、日本人はわれわれを決して仲間に入れようとしない、非常に排他性の強い国民だ、などと いう攻撃の声は今日ではつねにきかれるところである。私自身も「タテ社会」の理論の中で、 日本人にみられる集団の凝集性、孤立性、そしてその中にみられる個々人の集団への高い順応 性といったものに注目し、それが家族構造ーーー制度化された家族 ( 家成員 ) の人間関係を規制の む するものーーと関係していることを指摘したが、本論で問題としたいと思うのは、家族生活に おける人間関係、すなわち、ウチ ( 住居 ) のなかでの家族成員の動き方と、それに密接に関係 を している部屋の配置ならびにソトとの関係である。私はこれが、「ウチとソト」という日本人 際 プロトタイプ 国 の社会学的性向の原型を示すものと考えている。 の 本
る。事実、日本人がインドに長期間滞在し、インド人を使って仕事をした場合には、しばしば この日本の「義理人情」が通じず、日本人をして怒らせ、また絶望させるのである ( 三九ページ 参照 ) 。なぜインド人に「義理人情」が通じないのだろうか。なぜイタリア人は日本人のように 義理にしばりつけられることがないのだろうか。 義理が形成される条件 いかなる社会においても、一定のものが個人 ( あるいは集団 ) から他の個人 ( あるいは集団 ) に与えられるということが、社会学的な意味をもつものであることは、モースやレヴィ日ストロ の ースをあげるまでもなく、多くの社会人類学者の研究によって論証されているところである。 む それなのに、なぜそのような行為が必ずしも義理という概念を伴わないのであろうか。 筆者の考察からすると、この種の行為の前提条件、ならびにその行為の結果するところが異 を なっていることが、義理関係設定の有無に大きく作用していると思われるのである。すなわち 国 の 義理という概念が形成される諸条件を考察してみると次のごとくになる。 本 たとえば、とという任意の個人なり集団があるとしよう。あるときよりにが与え られたとする。そしてはをから受けとることによって、の借りができたことになり、
ない慣習になる。イギリスやインド・イタリア式では、容易に家族の共通の場 ( 居間 ) に通さ れ、家族の食卓に迎えられるわけである。したがって、家族成員とソトの人たちの間の交流は たいへんよくできる。 外国人がよく、日本人のなかに入ることはとてもむずかしいとこばすが、日本人でさえ、他 の集団にはなかなか入れない。そういう集団の性質というものは、この住居、家に象徴的にあ らわれていると思われる。 18 日本の国際化をはばむもの
まりをもっていた部落の成員に相当する ( 部落が大きい場合には、その中にあるサプ・グループが中 心となり、部落全体に拡大して認識される ) 。都会であったら、同じ職場で働く人々である ( 大きな 会社などであったら一つの課を構成する人々であり、商店であれば、同業の仲間、または同じ町内の人々 である ) 。 この関係は、単に近くにいるということだけでなく、それ以上に重要なのは、仕事を媒介と した仲間、あるいは自分の仕事をしていくうえで、長期にわたって重要なかかわりをもってい る人々である。したがって、この人々は相当恒久的な人間関係をもち、たいせつな友人という のはこの人々の中に見出されることが多い。同時に、必ずしも自分にとって好ましくない人で も、接触を維持していく努力が払われ、お互いに一種の順応性が養われる。しかし、お互いの 譲歩も忍耐も限界をこえた場合には、いわゆる仲間割れ ( 内ゲパ、党中党をつくる ) の状態が生 まれる。したがって、最も嫌いな、憎しみの強い敵というのも第一カテゴリーの中に形成され る。こうなった場合は、本当の仲間はさらに小さな集団となる。いうまでもなく、集団の規制 が強ければ強いほど、本当の仲間は少数になりやすい。 このように、第一カテゴリーは、敵対の、あるいはそれほどまでいかなくとも、小集団を内 包しているとはいえ、そのソトの人々に対して、相当明確に区別されるほど密度の高い人間関 112
るから ( タテ社会というものは、そもそも人口流動を定着させる作用をもっている ) 、かたくるしい契約 などをしなくてもすんでいくのである。 西欧では、契約が非常にものをいっているのは、古くから人口の流動性にとんでいるためで はないかと考えられる。さらに、身分や職業による集団が明確にある ( ョコの機能の高い社会 ) と、異なる集団成員の個々人を結ぶ関係はどうしても弱くなるから、そうした場合には、何ら かの方法で、関係をもっ特定の二者の間に目的を明確にし、期限をつけた約東が必要となって くる。これがすなわち、契約の機能であると考えられる。たとえば、編集者 ( 出版社 ) と著者は 異なる集団成員と考えられ、両者の関係は、契約となる。これに対して、日本では、編集者と 著者の関係は癒着しやすい。特定作家と特定出版社の関係などそれが顕著に出ているが、著書 を書いているうちに、編集者とひどく親しくなってしまうケースは非常に多い。その親しさは まるで同じ職場の人間に匹敵するほどだし、極端になると、家族成員間にみられるほどのエモ ーショナルな結びつきもみられる。まる抱え式単一の帰属の形をとりやすいのである。これで はビジネス・ライグの契約などできないし、またその必要もない。欧米ではなかなか魅力的な 実力のある編集者が多く、著者と親交をもったりするが、日本の場合にみられるような、エモ ーショナルな単一帰属はみられず、その交際のあり方も少し違う。どちらがよいなどとは簡単
日本人の社会学的認識 いずこの社会においても、個人は、その家族を別として、社会生活をするうえで重要な機能 をもつ一定の人々をもっているのがつねである。この中には、さまざまな種類の人々ーーーたと えば、親類、隣人、友人、仕事のうえでの仲間ーーがあり、その関係は、一生つづくものもあ れば、途中で疎遠になったり、反対に新しくできたりするものである。また、つねに相手が近 くにいて毎日顔を合わすことができたり、遠くにいて頻繁に会わない場合もある。さらに、お 互いに親密な人々がはっきりした彼らだけの集団を構成している場合もあるし、個人によって その範囲がずれて、お互いに範囲が一致していない場合もある。 個人の社会生活にとって重要な役割をもっ親密な関係設定には、このようなさまざまな要素 があるが、社会によって一定の傾向がみられる。すなわち、それらのうち、どのような要素が 優先され、それらがどのように組み合わされているかによって、その社会における人間関係な らびに集団の特色をうかがうことができるのである。 110