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検索対象: 魅惑の仏像 11 五大明王
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1. 魅惑の仏像 11 五大明王

えなんじ が久しくたって、そこに火が生じ、その火気の精が太陽である」 ( 淮南子・天文訓 ) として いますから、ここにも同じ思想が見られます。ところがこの火炎の明王は、本場のインド や中国では余り崇拝されず、日本で盛んに信仰されるようになりました。 ひえいざんせんにちかいほう 日本の不動信仰は、山岳仏教と深いかかわりを持っています。例えば比叡山の千日回峰 ぎよう ぎようじゃ 「笠」も不動尊だとされていますが、 行では、行者は不動明王の出現を願い、頭にいただく じゅはう しゅげんしゃ 不動崇拝を普及したのは、古来の山岳信仰に、密教的呪法をとり入れた修験者たちでした。 しゅう ところで笠といえば、松上げに火を付ける榾も笠と呼びますが、中国最古の天文数学書『周 かたち ひさんけい 髀算経』には、「円形の笠によって天の形を象どることが出来る」とあります。日本では笠 みかさ のような形をした山は神聖な神山で、大和の三輪山や御蓋山、京都の比叡山などが日の出 の山として著名ですが、こうした山々が崇拝されるのは、太陽霊をいただく天の形の山と 考えられたからでしよう。そしてこうした山の信仰からは、笠↓天↓太陽↓不動尊、とい った連想が生まれます。不動信仰が、こうした山岳信仰と関係があると考えると、これが 日本で普及した理由がうなずけるのではないでしようか。 たた 日本古来の神々は、恵みをもたらすという優しさの反面に、祟るという荒々しい性格を かんばっ 持っています。だが祟りと恵みは表裏一体で、例えば日照りが続けば旱魃に、降雨が過ぎ 笠れば水害が起こります。ところが、これが上手にコントロール出来れば恵みがもたらされ るわけですから、荒ぶる神々に祈願をして来たのです。そうした人々にとって、火炎を背 よ、つぼうかしし に、剣を手にした容貌魁偉な不動尊は荒ぶる神の姿でしたが、これを崇敬し、礼拝する信 者にとってこの御姿は、たのもしい守護神と見えたに違いありません。不動尊は、一般に のはこうした荒ぶる火神の姿ですが、東寺講堂の不動明王からは、不思議とこうした荒々し さは感じません。むしろ、何か大らかな、包み込まれるようなあたたかさをさえ感じます。 そういえば、不動尊を取り巻く他の四体の明王像も、その恐ろしいお顔とは裏腹に、身体 はふくよかで、まるで慈母のような優しさに満ちています。日本の不動信仰は、この五大 明王から始まったとされていますが、これらの御像を拝しておりますと、神々に恵みを祈 願した、遠い祖先の想いがよみがえって来るように思えるのです。

2. 魅惑の仏像 11 五大明王

ンズー教のシバ神など、異教の神がみだったのですが、釈迦の教えに従い、仏教の護り神 唐となったものなのです。だから、インド風の、なにかアクの強い、おそろしい姿に造られ ているのです。 まっ 中央の坐像が不動明王です。全国の真一一一一口宗や天台宗のお寺に祀られ、「お不動さま」とし 館て親しまれているのがこの姿の像なのです。岩をかたどったという、四角い箱をたがい違 しっしつざ こ、つはい ) こつみ重ねたような瑟瑟座という台座にどっかりと坐り、火焔がうずまく意匠の光背を 立し。 良背にしています。その名の通りどっしりと、なにがあっても動かないような安定した姿で 奈 たば べんばっ す。髪の毛は右から左へなでつけ、左耳の前で束ねて弁髪とし、両眼をいからせ、上の歯 つるぎ と牙で下唇を噛みしめたおそろしい顔で、右手には両刃の剣を持ち、左手には悪をからめ けんさく 取る羂索を下げています。この姿は、お経で決められた形を忠実にあらわしたものです。 どん しん ごうさんぜ 不動の向かって右隣りにあるのが降三世明王像です。貪 ( 慾望 ) ・瞋 ( 怒り ) ・癡 ( おろ かさ ) という三つの悪をこらしめる明王です。顔が四つ、腕が八本ある異様な姿で、よく だいじぎい みると、四面とも額にもう一つの眼が刻まれています。そして岩座の上に横たわる大自在 きさき 天 ( ヒンズー教のシバ神のこと ) とその后である烏摩の体を踏みつけて立っています。 ぐんだり 不動の左隣りのは軍荼利明王像です。三つの眼をいからせ、牙をむき、腕は八本ありま れんげ す。そして岩の上の二つの蓮華を踏む両足にも、また八本の腕にも小蛇を巻きつけていま しよう力い す。人が出会うすべての障碍を除いてくれる明王とされています。不動明王の左後ろは大 すいぎゅう 威徳明王像です。なんと六面をつけ、腕は六本、そして足も六本あり、うずくまる水牛の 背にまたがっています。この像も六面とも眼は三つずつあります。そして右後ろに立つの こんごうやしゃ が金剛夜叉明王像です。三面で腕が六本あります。三面のうち正面だけ、両眼が上下二重 に刻まれ、額の一つと合わせて合計五つの眼を持つ、こわい姿です。 ぐんじよう 五大明王像は五体とも体の色は青 ( 群青 ) ですが、一つとして同じ姿はありません。彫 刻作品としてみると、体も手足も太くひきしまり、不動像は怒りを内に秘めたようなおだ やかさがありますが、ほかの四体は、怒りを表にはっきりとあらわし、動きも豊かで、両 足のふんばりも力強く、実に安定もよく、また腰に巻く裳は、太いひだを刻んでおもおも てん いきよう

3. 魅惑の仏像 11 五大明王

京都・教王護国寺講堂 鑑賞のガイド 一切の魔障を砕く五大尊・ 密教彫像の精華、五大明王 火祭りと不動信仰・ 教王護国寺 ( 東寺 ) の沿革史・ 教王護国寺 ( 東寺 ) の年表・ 「五大明王像」一覧・ ヘム 孑市 教王護国寺 ( 東寺 ) 伽藍復原図 ワ〕 . っ 0 LO 0 講堂内陣 8 , 、 . 1 LO Q.C 教王護国寺 ( 東寺 ) 史 五大明王目次や 4 4 : 西村公朝 : ・西川杏太郎 : ・ ・ : 岩橋政寬・

4. 魅惑の仏像 11 五大明王

和歌山 県 大 丘 六 豊後高田市不動明王 金剛三昧院不動明王 名 阪 庫 良 所蔵者 醍醐寺 同聚院 般舟院 峰定寺 放生院 遍照寺 観心寺 金剛寺 金剛寺 滝谷不動 明王寺 神咒寺 金心寺 光久寺 無動寺 玄賓庵 西福寺 十輪院 新薬師寺 草谷寺 千万院 唐招提寺 唐招提寺 東大寺 長谷寺 不退寺 普門院 宝山寺 法隆寺 吉祥寺 金剛峯寺 金剛峯寺 金剛峯寺 名称 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 四驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 降三世明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 二驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 大威徳明王 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 五大明王 不動明王 五大明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 品質 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 形状 坐像 坐像 坐像 立像 立像 坐像 坐像 坐像 坐像 立像 坐像 立像 立像 坐像 坐像 立像 立像 立像 坐像 立像 木造騎牛像 坐像 木造半伽倚像南北朝 坐像 坐像 立像 立像 立像 坐像 坐像 立像 時代 鎌倉 平安 平安 平安 平安 平安 南北朝 鎌倉 南北朝 平安 平安 南北朝 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 江戸 平安 平安 平安 江戸 平安 平安 平安 鎌倉 鎌倉 鎌倉 備考 1203 1154 二童子・ 毘状 1094 二童子 毘沙状 二童子 二童子 1373 二童子立像 1701 厨子入 護摩堂 二童子 南北朝 二童子 不動堂 県 鳥 岡 山 香 高 福 佐 大 資料 名 取 山 ロ 川 知 岡 賀 分 所蔵者 釈迦文院 正智院 親王院 南院 蓮上院 長楽寺 勇山寺 高山寺 日応寺 国分寺 弘憲寺 金林寺 宗安寺 竹林寺 円清寺 鎮国寺 永寿寺 臼杵市 真木区 真木区 竜岩寺 名称 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 二驅のうち ) 不動明王 大威徳明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 大威徳明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 形状 立像 坐像 坐像 立像 立像 立像 坐像 坐像 立像 立像 立像 立像 坐像 木造騎牛像 坐像 立像 坐像 石造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 品質 ( 古園石仏 ) 木造 木造 石造 坐像 立像 木造騎牛像 時代 平安 平安 平安 平安 鎌倉 平安 平安 鎌倉 鎌倉 平安 平安 鎌倉 鎌倉 平安 平安 平安 鎌倉 平安 ~ 鎌倉 平安 ~ 鎌倉 平安 鎌倉 平安 備 考 文化庁編『国宝・重要文化財総合目録』 波明働 帆不動 二童子立像 毘状 毘状 二童子立像 二童子立像 臼杵 磨崖仏 熊野 磨崖仏 二童子 二童子 62

5. 魅惑の仏像 11 五大明王

した。つまり、天津神↓神籬↓十一面観音、国津神↓磐座↓地蔵という図式が出来るわけ ですが、日本の庶民信仰を代表する観音と地蔵の信仰の彼方には、日本古来の神々が存在 していたのです。しかし庶民信仰といえば、もう一つ忘れてならないものが「お不動さま」 - はで、地方によ「ては、観音や地蔵よりも盛んな信仰が見られます。このように不動信仰が 庶民化した原因については諸説がありますが、火炎のほとけとして、古くからの火祭りと 物も深いかかわりがあると思えます。 まつあ 松上げ しゅうざん おばま 日本海に面した若狭の小浜から、京都へと南下する周山街道や、古い時代の街道であっ はなせご た花背越えの山間部では、「松上げ」という火祭りがあります。松上げは松明けとも書きま たいまっ すから、つまりは松明のことですが、昔は小浜と京都の間の一帯で行っていた行事であっ たようで、今でも十数個所で八月下旬の地蔵盆の夜に行われています。この松明は、処に よって大きさや手順などに変化がありますが、写真の洛北広河原のものなどは、古い形を 守っているので、次に紹介します。 とろぎ ここでは、まず、明るい間に燈籠木という柱を立てます。これは二〇メートル余りもあ ほだ る長い丸太の上に、枯木や茅草をつめ込んだ直径二メートルばかりの榾を付けたもので、 あまっ 燈籠木場という広場に固定しておきます。やがて夜中になると、「上げ松」とか「上げ松明」 にと称する小さな縄付きの松明に火を点け、次々に「笠」と呼ぶ榾を目がけて投げ上げます をと、やがて笠に命中した上げ松の火で笠は炎々と燃え上がり、しばらくすると、あたりは 炎 昼間のように明るくなります。 みわやま これもこのシリーズ第 7 巻に書いたことですが、大和の神山として知られる三輪山の山 こうしよう 頂に巨大な神杉があって、社伝によると「孝昭天皇の御宇、夜半にこの峯の古大杉の上に にちりん 日輪の如き火気が有り、光を放ち山を照らす」とあり、これが三輪山の神の降臨であったと ひもろぎ 記しています。この巨杉は自然木の神籬ですが、燈籠木は人工的に立てた神籬で、その上 に炎々と日輪のように燃えさかる火は、三輪山の伝承にあるように、神の降臨を象徴して

6. 魅惑の仏像 11 五大明王

広河原の松上げ ( ①—③ ) 天の神・地の神 日本の各地で行われている伝統行事のなかで、特に人々の心を惹くものに火の祭りがあ なち ります。鞍馬や那智の火祭り、東大寺のお水取り、それに若草山の山焼きといった著名な ものはいうに及ばず、余り知られていない辺地の火祭りでもなかなか盛んで、大勢の人達 がつめかけます。その人気の秘密は、勢い良く燃える炎に、心の躍動と、恐ろしさを秘め た不思議な美を感じるからでしよう。だがもう一つ、昔から祭りの火は御神火で、燃える 炎を神の出現される姿と考えられて来ましたから、こうした古い信仰の心も現代に投影し ているように思えます。 一般に、日本古来の神祭りでは、主役であるべき神の姿はありません。神は人の目にふ い・こ れる存在ではなく、また視てはならない神聖なものでありました。だがそれでは神が何処 におられるのか見当がっきません。そこで、神霊が依りつく場所として「依り代」が用意 孀されました。依り代には玉や鏡といった人工のものから、樹や岩、山や滝といった自然そ ひもろぎ いわさか いわくら のものまで各種なものがありますが、代表的なものに神籬と磐境 ( 磐座 ) があります。 神籬は、自然の樹木や人工的に立てた木や柱で、磐境も自然や人工で配した岩石です。 いまあまっかみ くにつかみ このシリーズ第 7 巻『十一面観音』には、天上に座す天津神の依り代が神籬で、国津神の こうりん れいぼく 依り代が磐境であったこと、また神籬は神の降臨する霊木ですが、十一面観音には霊木信 ほうじよ、つ じぞう イと、いかかわりを持つものが多く、一方、地蔵は大地豊穣の神ですが、これは日本式に いうと国津神で、その依り代である磐座に地蔵を刻んだことが石の地蔵の起源だと書きま 火祭りと不動信仰 くらま しろ 川光三

7. 魅惑の仏像 11 五大明王

悪人が善人を苦しめるとき、その善人を救うのが優先です。だから五智如来は、私たちを ふんぬぎようそう 守るために、悪魔に立ち向かうとき、それこそ恐ろしい忿怒の形相となるのです。つまり 五如来は、それぞれに明王の姿へと変身するのです。 あしゆく ほうしよう ぐんだり あみだ ごうさんぜ 大日如来は不動明王に、阿闔如来は降三世明王、宝生如来は軍荼利明王、阿弥陀如来は ふくうじようじゅ こんごうやしゃ 大威徳明王、不空成就如来は金剛夜叉明王にと変身するのです。その彼らを五大尊、また しいます。 は五大明王とゝ ほつりき つまり五大明王とは、五智如来がもっそれぞれの法力を、強力な形で、私たちに働きか けて下さるときの姿です。その五如来の法力と、明王の働きをつぎに簡単に説明しておき ましょ一つ。 剣は魔を断ち切る 大日如来は、仏界全体の姿ですから、私たちにとっては、ありがたい極楽国のようなも のです。これが不動明王に変身しますと、その働きは積極的です。 ぼだい 彼は経典の中で「わが身を見るものは菩提心 ( 仏道に入る心 ) を起こし、わが名を聞く 松ものは、悪を断ち善を修し、わが説を聞くものは大智恵を得、わが心を知るものは即身に 成仏 ( 悟りを開く ) する」といっています。 また彼は、いつも右手に魔を断ち切る剣をもち、左手には、悪魔を逮捕、また水火の中 さく で苦しむ私たちに投げかける、救いの投げ縄のような索をもっています。 阿閃如来は、この美しい仏界が、いついつまでも不動であり不変であることを守る法カ をもっています。これが降三世明王に変身しますと、いろいろの武器 ( 仏器 ) をもって悪 ましよ、つぼんのう 魔に向かい、あらゆる魔障煩悩を打ちこわし、すべての汚れを取り去って、美しい菩提心 を起こさせるように働きかけるのです。 この明王が像として造られるときには、男女を両足で踏みつけている表現にします。こ れには、おもしろい話がありますので後述します。 なわ

8. 魅惑の仏像 11 五大明王

「五大明王像」一覧 ◎は国宝、他は重要文化財 制作年の判るものは備考に記載した。 佐伯清之助不動明王 教王護国寺五大明王 教王護国寺不動明王 県 茨 群 埼 千 東 名 城 馬 玉 葉 示 所蔵者 不動院 不動寺 常楽院 飯尾寺 結縁寺 新勝寺 東京国立 博物館 世田谷山 観音寺 横山静子 極楽寺 浄楽寺 大山寺 八劔神社 日石寺 法華寺 円照寺 大谷寺 常禅寺 明通寺 明通寺 大聖寺 放光寺 牛伏寺 円鏡寺 願成就院 摩訶耶寺 常福寺 大聖院 無動寺 石馬寺 石山寺 延暦寺 延暦寺 名称 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 軍荼利明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 ( 九驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 ( 二驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 ( 五驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 降三世明王 不動明王 不動明王 大威徳明王 不動明王 不動明王 ( 四驅のうち ) 不動明王 五大明王 不動明王 不動明王 大威徳明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 形状 立像 立像 立像 坐像 立像 坐像 立像 立像 立像 坐像 立像 立像 坐像 立像 坐像 坐像 立像 立像 坐像 立像 立像 坐像 立像 木造騎牛像 立像 立像 立像 立像 立像 木造騎牛像 坐像 立像 坐像 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 石造 木造 鉄造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 銅造 木造 木造 石造 木造 品質 時代 平安 鎌倉 平安 鎌倉 鎌倉 鎌倉 平安 鎌倉 平安 平安 平安 鎌倉 鎌倉 平安 平安 ~ 鎌倉 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 鎌倉 平安 平安 平安 平安 平安 平安 鎌倉 鎌倉 備考 二童子 1251 1303 二童子立像 ノ ' 0 子 願文 1272 1064 1189 毘沙状 二童子 大岩日石 寺磨崖仏 1186 二童子・ 毘状 二童子 県 示 名 都 所蔵者 延暦寺 延暦寺 延暦寺 延暦寺 園城寺 園城寺 玉蓮院 金剛定寺 金勝寺 金剛輪寺 西明寺 正法寺 常照庵 善水寺 宗泉寺 大林院 東門院 苗村神社 円隆寺 京都市 広隆寺 三千院 積善院 聖護院 聖護院 正寿院 地蔵院 浄瑠璃寺 神童寺 大覚寺 大覚寺 醍醐寺 名称 降三世明王 軍荼利明王 大威徳明王 金剛夜叉明王木造 不動明王 黄不動尊 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 軍荼利明王 不動明王 ( 二驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 二驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 大威徳明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 五大明王 軍荼利明王 大威徳明王 五大明王 形状 立像 立像 木造騎牛像 立像 坐像 立像 立像 立像 立像 立像 坐像 立像 立像 坐像 立像 坐像 坐像 立像 立像 坐像 立像 坐像 立像 立像 立像 立像 坐像 銅造騎牛像 立像 立像 立像 騎牛像 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 銅造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 品質 時代 鎌倉 鎌倉 鎌倉 鎌倉 平安 鎌倉 鎌倉 平安 平安 鎌倉 平安 鎌倉 鎌倉 平安 鎌倉 平安 平安 鎌倉 平安 平安 平安 鎌倉 平安 鎌倉 平安 平安 平安 鎌倉 平安 鎌倉 平安 平安 平安 平安 備 考 二童子 二童子 神奈川 富 石 福 山 長 岐 静 滋 6 ろ 山 川 井 梨 野 阜 岡 重 賀 1211 毘沙状 二童子立像 二童子 二童子 両童子 護摩堂 毘状 鎌倉 ◎講堂 ◎御影堂 1276 二童子 1176

9. 魅惑の仏像 11 五大明王

③① . ( 三 成不 就空 大威徳 叉剛 薩金 唾剛 蜜剛 大日 不動 降三世 無量寿 五大菩薩 五大明王 空海と教王護国寺 東海道新幹線で京都駅に近づくと、南の方 ( 東京に向かって右側 ) に大きな五重塔がみ えます。これが教王護国寺で、もと平安京の正門である羅城門の東隣りに建てられた東寺 がそれに当たります。つまり平安京が日本の首都になって最初に建てられたお寺の一つな のです。いまは羅城門もなく、その西側の西寺もなくなっていますが、東寺だけは教王護 国寺の名で、もとの場所にそのまま残されているのです。 ヤ」、つにん 八二三年 ( 弘仁十四年 ) 、空海は密教の修行の場である高野山と別に、都における真一言密 こんぽん こんどう 教の根本の道場として嵯峨天皇から東寺を賜りました。そのころの東寺には、金堂のほか、 そ、つぼう 図坊さんたちが修行し生活するための僧房だけが建てられていたようです。空海はつぎの年 こうど、つ ぞうとうじべっとう ( 八二四年 ) に東寺を整備する責任者である「造東寺別当」に任命され、まず講堂を建ては じようわ 来州じめ、八三五年 ( 承和二年 ) には完成したようです。ここに安置する仏像二十一体は、八 如堂 てんちょう 智講 五芋三三年 ( 天長十年 ) に造りはじめられ、八三九年 ( 承和六年 ) に完成しています。日本古 りつこくし 護代の重要な歴史書である『日本書紀』をはじめとする『六国史』の四番目にあたる『続日 かいげんくよう 教ほんこうき 本後紀』の承和六年六月十五日の所に、公卿がみな、諸仏の開眼供養 ( 仏像完成の儀式 ) のため東寺に参集したと記していますが、この時、講堂の仏像が完成し、盛大な式典の行 われたことがわかります。しかし残念なことに、その計画者であった空海は、これら仏像 じっえ の完成をみることなく、八三五年に世を去り、弟子の実慧によって供養が行われたのです。 このころから、東寺は、真一言密教の根本道場であるだけでなく、国を守護する寺として、 きようおう′」こくじ 「教王護国寺」とも呼ばれるようになったのです。 、つんけい その後、講堂とその仏像は何回か修理されました。とくに鎌倉彫刻の名匠仏師運慶らに けんきゅう よって一一九七年 ( 建久八年 ) 講堂の諸像が修理されたことは有名です。また講堂の建物 ぶんめい は、一四八六年 ( 文明十八年 ) 他の主なお堂と共に戦火にあって失われ、その時、六体の 像が焼失し、またほかの像も損傷していますが、講堂は創建された時の規模の通り再建さ けん れ、いまも間口が九間 ( 柱の間の数が九つあること ) 、奥行が四間の大きな堂の中に再興さ さカ しよくに

10. 魅惑の仏像 11 五大明王

いたのです。 さて燈籠木の火は、やがて火勢が盛りを過ぎるかと思われる頃、突然柱が倒されて、火 かたまり の塊となった笠は地上に落下します。すると長い棒を持った人達が現れて、一斉に棒の 先で火を広げ、地上を火の海にします。現在では危険防止のため、燈籠木はあらかじめ設 定された方角に倒れるようにしてありますが、昔はどの方向に倒れるかわからず、倒れた 方角に当たる田畑が、その年豊作になるとされていました。その理由は、柱の倒れた方向 に御神火が落下するわけですから、その神の霊力の、より強い場所が豊作になると信じら れたのです。そして落下した火を地上に広げるのは、地上に迎えた神霊を、より広い土地 に行きわたらせようとする行為であったのです。 古代信仰と不動尊 このように松上げは、神籬に迎えた神霊を大地に導き、豊穣を願う行事であったのです が、それを地蔵盆に行うのは、地蔵が「大地に諸宝を蔵す」という大地豊穣の神であるか らでした。しかし少々奇妙に思われることは、ここでは天津神から国津神へという神霊の 転換が見られることです。だがこれに似たものに、春に山から神を田に招き、秋に再び山 いわくら へ帰す「山の神信仰」があります。また第 7 巻には、神籬と磐座を一体化し、十一面観音 と地蔵を合体した長谷寺観音のことを書きましたが、昔の人達は、天の神と地の神が一体 となって、幸せをもたらして下さると信じていたのです。そして、天からこの神籬に降臨 ひ する神霊を、光り輝く火炎で象徴したのが松上げですが、その火は陽で、太陽霊だと考え られていました。つまり神籬の上に輝く火炎は、天にいます天津神の主神である太陽神の 分身や使者と思われていたのですが、これに似た思想のほとけに不動明王があります。 この明王は、本来ヒンズー教の神でありましたが、仏教にとり人れられ、密教では大日 如来の使者とされています。つまり、太陽のほとけさまの使いが、火炎の神の不動明王、 というわけですから、松上げの火と同様な意味を持った明王です。このように、火炎を太 陽の分身や使者とする思想は、インドも日本も共通ですが、古代の中国では、「積陽の熱気 みつきよう