胎蔵界曼荼羅図より 一四一八年 ( 応永一一十五年 ) 九月五重塔の修理事始め。心柱を引く 一四三〇年 ( 永享二年 ) 七月五大虚空蔵菩薩像修理 一四三六年 ( 永享八年 ) 六月五重塔、落雷により損傷。十月修理事始め。十二月修理完了 一四四一年 ( 嘉吉元年 ) 九月土一揆、東寺にこもる 一四四四年 ( 文安元年 ) 五月東寺修理の官符を下す 一四五四年 ( 享徳三年 ) 十二月土一揆、東寺を破る 町一四六一年 ( 寛正二年 ) 六月法眼康永、東寺大仏師職に補せられる 室一四六二年 ( 寛正三年 ) 六月幕府、東寺を修造す 山一四六五年 ( 寛正六年 ) 十一月土一揆、御影堂に乱入する 一四六七年 ( 応仁元年 ) 九月戦乱によりて東寺相伝の道具類を醍醐寺に疎開 一四八一年 ( 文明十三年 ) 八月弘法大師絵詞三帖買入れ 一四八四年 ( 文明十六年 ) 九月土一揆のため、金堂・講堂・鐘楼・経蔵・八幡宮・中門・南大門焼亡。 十二月講堂の仏像十六尊を食堂に安置す 一四八七年 ( 文明十九年 ) 一一月八幡宮造営事始め 一四八九年 ( 長享三年 ) 五月官符を下し、講堂以下諸堂宇を再建せしむ 一五六三年 ( 永禄六年 ) 四月五重塔、雷火により焼亡す おおまんどころ だんしゅ おうご 一五九三年 ( 文禄二年 ) 五重塔、大政所 ( 秀吉の母 ) を檀主として、応其これを造り終わる 一六〇三年 ( 慶長八年 ) 五月金堂竣工 一六三五年 ( 寛永十二年 ) 十二月五重塔焼失 一六四四年 ( 寛永二十一年 ) 七月五重塔竣工 江一八九七年 ( 明治三十年 ) 古社寺保存法により、金堂、五重塔、真言七祖像、風信帖、弘法大師請来目 録等、国宝に指定。翌年、西院大師堂 ( 御影堂 ) 国宝に指定 一八九九年 ( 明治三十二年 ) 兜跋毘沙門天立像、弘法大師行状絵詞、国宝に指定 一九〇一年 ( 明治三十四年 ) 五大明王像 ( 講堂安置 ) 、五大虚空蔵像、国宝に指定 一九四〇年 ( 昭和十五年 ) 金堂、解体修理 一九五三年 ( 昭和一一十八年 ) 講堂、南大門、解体修理 ほ、つげ・んこうえい ( 岩橋政寬 )
伽藍眺望 一〇五五年 ( 天喜三年 ) 八月五重塔、雷火により焼亡。仏像及び八幡三所御体を金堂の西庇に安置 一〇八〇年 ( 承暦四年 ) 五重塔その他の造営に着手 らつけいくよう 一〇八六年 ( 応徳三年 ) 八月五重塔竣工。十月落慶供養 しやりえ 一一〇三年 ( 康和五年 ) 舎利会が始まる。仏舎利安置の五輪塔を造る ぎしかくにん 平一一二七年 ( 大治二年 ) 三月宝蔵炎上し、宝物多数焼く。五大尊、十二天等。皹儀師覚任、五大尊、 十二天を制作 もんがく 一一八九年 ( 文治五年 ) 文覚、東寺の修造を始める 一一九七年 ( 建久八年 ) 文覚、五重塔・金堂・講堂・八幡宮・南大門を修造。運慶一門、講堂諸尊像・ 南大門仁王像・中門持国天・増長天像を修理 こうしよう 一二三三年 ( 天福元年 ) 十月仏師康勝、新作の弘法大師像を西院に安置する ぎようへん 一二三九年 ( 暦仁二年 ) 一月宣陽門院、大和国平野殿庄を行遍を通して東寺に寄進 いよのくにゆげのしましよう 一二三九年 ( 延応元年 ) 十二月宣陽門院、伊予国弓削嶋庄を東寺に寄進する ぐそう 一二四〇年 ( 延応二年 ) 弘法大師像を西院北西に移し、御影供を勤む。このため五ロの供僧をおく 一二四二年 ( 仁治三年 ) 行遍、唐本大般若経六百巻を西院に納む。このころ宣陽門院所持の宋版一切 経七千余巻 ( 車六輛 ) 寄進 倉一二七〇年 ( 文永七年 ) 四月五重塔炎上 一二七八年 ( 弘安元年 ) 八月塔の再建を始める 一二八五年 ( 弘安八年 ) 二月塔上棟 かんてんおう 一二九三年 ( 永仁元年 ) 塔竣工。新塔の塔内に両界諸尊・八天・八龍・八祖を描く。筆者感典主 一二九六年 ( 永仁四年 ) 両界曼荼羅図 ( 永仁本 ) を描く。筆者感典主、永仁七年宝蔵に納む ぜんじよ 一三〇八年 ( 徳治三年 ) 一月後宇多上皇、禅助僧正より灌頂を受け、東寺興隆條々事書一巻を賜う でんぼうえしゅう 一三一二年 ( 応長二年 ) はじめて七ロの伝法会衆を置く。これにより教学興隆す かみかつらのしようはりまのくにやのしよう はいしのしよう 一三一三年 ( 正和二年 ) 十二月後宇多上皇、山城国拝師庄・同上桂庄・播磨国矢野庄・八条院町 たっちゅうこん 十三カ所を東寺に寄進される。これにより十五あるいは二十一の塔頭が建 りゅう 一三一五年 ( 正和四年 ) 二季伝法会始まる 一三二六年 ( 正中三年 ) 三月後醍醐天皇、最勝光院、宝荘厳院の寺院とその荘園を寄進される
教王護国寺 ( 東寺 ) の歴史 西暦 ( 和暦 ) 七九四年 ( 延暦十三年 ) 都を平安京に遷す ふじわらのいせびとぞうとうじちょうかん 七九六年 ( 延暦十五年 ) 大納言藤原伊勢人、造東寺長官となる ( 異論もある ) く、つ力し 八〇四年 ( 延暦二十三年 ) 五月空海人唐 八〇六年 ( 大同元年 ) 十月空海帰朝 ごんぞう 八一二年 ( 弘仁三年 ) 勤操少僧都、造東寺別当となる。嵯峨天皇より伊勢国大国荘ほか四荘園寄附 八二三年 ( 弘仁十四年 ) 一月東寺を空海に賜う。勅使藤原良房 八二四年 ( 天長元年 ) 六月空海、造東寺別当に補される 」、つレ」、つ 八二五年 ( 天長二年 ) 四月空海、講堂の造営を始む かんじよう 八二六年 ( 天長三年 ) 十一月空海、五重塔の造営を勧請する しゅげいしゅちいん 八二八年 ( 天長五年 ) 十二月空海、綜芸種智院を建てる ごしちにちみすほう 八三五年 ( 承和二年 ) 一月空海、宮中にて後七日御修法を始行す。三月二十一日高野山にて人 かんぢよういん 平八四三年 ( 承和十年 ) 十一月灌頂院において、伝法灌頂始行、この時までに灌頂院新造 ふんぬ 八四四年 ( 承和十一年 ) 六月講堂の五仏、五菩薩、五忿怒の諸尊を供養する 八四五年 ( 承和十二年 ) 丹波国大山庄、東寺領として伝法会料に宛てられる しゅうえい そしっちぎきけいいんずしようらい 八六六年 ( 貞観八年 ) 宗叡帰朝。「蘇悉地儀軌契印図」請来 八七七—八八五年五重塔竣工 ( 元慶年中 ) じきどう しよらノぼうちょうじゃ 八九五年 ( 寛平七年 ) 聖宝長者の時、食堂千手観音、四天王像造立 やくしん 九〇一年 ( 延喜元年 ) 十二月宇多法皇、東寺灌頂院で益信より伝法灌頂を受ける みえいく かんけん 九一〇年 ( 延喜十年 ) 三月観賢、東寺灌頂院にて御影供を始修 金堂風景 教王護国寺 ( 東寺 ) の年表 うつ
じようがくそう 癒、皇子の安産祈願が時に応じて行われます。このために政府は東寺に五十人の定額僧を しんごんそう すほ、フ おいて修法にあたらせます。この僧は真言僧に限ることにし、他宗の僧の雑住を禁じまし きようおう′」こく た。これは真一一一一口宗の中心寺院としての位置を確立したことになりました。東寺が教王護国 寺と呼ばれることもこの時からと思われます。 てんちょう 東寺が真一一一一口道場となって最初に建てられたのは講堂です。八二五年 ( 天長二年 ) に着手、 じようわ ます。講堂の特色は密教 中の仏像等を含めて完成したのは八三九年 ( 承和六年 ) 頃といい まんだら 的な様式がよく表わされ、曼荼羅を実感できるようになっております。食堂で奈良様式、 つまり伝統を重んじつつ講堂で見事に場面をかえてしまう発想は、さすが大師ならではと いう感を、深くいだきます。 一第 港講堂につづいて灌頂院・食堂・五重塔などがつぎつぎと建てられ伽藍が整っていきまし く / ー平安末期から鎌倉時代初期にかけて、律令政府の衰退から中央や地方で争乱が起こり、 もんがくしようにん ( 寺秩序が乱れるため建物施設も荒れ果てますが、これを建て直したのが文覚上人です。この あっ ~ 一宮人は源頼朝の信頼が篤か「たので、東寺をはじめ多くの真一一一一〕宗の寺院の復興に力を尽く はちまんぐう しました。東寺では塔・金堂・講堂・八幡宮・南大門等の修造に十年ほどかけております。 鎌倉時代 鎌倉時代は宗教改革の時代ですが、東寺においても信仰の流れが変わります。それは大 師信仰といって、弘法大師に対する信仰が興ってきます。これまでは大師のご命日三月二 えんおう えぞう 一十一日に限り、灌頂院の絵像の前で法要が行われたのですが、一二四〇年 ( 延応二年 ) 三 みえいく みえいどう こうしよううんけい 一月、仏師康勝 ( 運慶の子 ) の作になる大師像を御影堂の本尊として御影供を行います。こ ごんぎよう ぐそう のために御影堂に五ロの供僧をおき、毎月の行事とします。しかも毎日、朝昼タの勤行と しようじんく 共に、大師像に生身供を修することが定められました。生身供は生前と同様、像に対して と、つしよく かゆ 粥食、時食、湯菓、燈燭の給仕を行うものです。これは永く東寺の伝統となり今でも行わ 」れております。 みなもとのよりとも りつりよう ととの
きえ せんようもんいん このような行事が始まったのは、宣陽門院の大師への帰依によるといわれております。 によいんごしらかわほうおう ばくだい 女院は後白河法皇の第六皇女で、法皇の莫大な遺産を譲られました。二十四歳の時出家、 しやりこう 七十二歳で亡くなられます。女院は御影堂の行事、毎月みそかの舎利講等の仏供料として、 一二三九年 ( 延応元年 ) 、四〇年、四二年とあいついで荘園を寄進されて東寺を戦乱から救 う大きな力となりました。御影堂の大師信仰が民衆信仰へと進展することが宣陽門院から 始まることになります。 ′」うだじようこう とくじ 女院の事業を受け継ぎさらに進められたのが後宇多上皇です。上皇は一三〇七年 ( 徳治 さがじゅりよういん ぜんじよ べっとう 二年 ) 七月、嵯峨寿量院において禅助導師により出家。同年十一月東大寺にて別当聖忠師 いわしみず を戒師として受戒。翌年一月五日石清水八幡宮参詣。同日より東寺において二十一日間灌 けぎよう さんろう あじゃり ペ該頂の加行として参籠。同年一月二十六日灌頂院にて禅助阿闍梨より伝法灌頂を受けられ、 こんごうち 金剛智の法名を得、法皇となられ大師の血脈に名をつらねられました。 」とカき 、始法皇は東寺の興隆を、六カ条の事書をもって誓われました。それは修学僧五十人を専住 たっちゅう ~ 一、造させて、教義の研究をすること、そのために十五の塔頭を建てること等々であります。東 ほうえ 、 ~ 一「阯ん亠。堂寺はこれまで真言密教の根本道場ということで、ふだんは僧がおらず、法会などのある時 だいご にん ~ い・か′、 いとな は醍醐寺、仁和寺、大覚寺などから僧がやってきて法会を営んでおりました。そこで東寺 の興隆には常住の僧がいるというので寺内に寺を建てることになりました。 これによって学僧の養成、教学の興隆、法要組織の整備がそろい、宗教活動が軌道にの しようわ しんびっせにゆうじよう りました。一三一三年 ( 正和二年 ) 法皇は宸筆の施入状をもって四カ所の荘園のほか、多 くの所領を寄進され、事業を推進されております。 この法皇の事業をさらに発展されたのは、その御子後醍醐天皇でした。天皇も二十の荘 ぐそう ぎようほう 園を寄進して講堂・灌頂堂・五重塔においてそれぞれ供僧を増やし行法を修せしめ、さら かんカく に十二の荘園を寄付して勧学の費用とされました。なおその他にも寄進がありますが、要 するに中世寺院として整備された東寺は、後醍醐天皇によって、一層の充実がはかられた わけであります。 以上法皇とか天皇とかによって、東寺は大きな保護を受けますが、一方で庶民の信仰も ごだいご
③① . ( 三 成不 就空 大威徳 叉剛 薩金 唾剛 蜜剛 大日 不動 降三世 無量寿 五大菩薩 五大明王 空海と教王護国寺 東海道新幹線で京都駅に近づくと、南の方 ( 東京に向かって右側 ) に大きな五重塔がみ えます。これが教王護国寺で、もと平安京の正門である羅城門の東隣りに建てられた東寺 がそれに当たります。つまり平安京が日本の首都になって最初に建てられたお寺の一つな のです。いまは羅城門もなく、その西側の西寺もなくなっていますが、東寺だけは教王護 国寺の名で、もとの場所にそのまま残されているのです。 ヤ」、つにん 八二三年 ( 弘仁十四年 ) 、空海は密教の修行の場である高野山と別に、都における真一言密 こんぽん こんどう 教の根本の道場として嵯峨天皇から東寺を賜りました。そのころの東寺には、金堂のほか、 そ、つぼう 図坊さんたちが修行し生活するための僧房だけが建てられていたようです。空海はつぎの年 こうど、つ ぞうとうじべっとう ( 八二四年 ) に東寺を整備する責任者である「造東寺別当」に任命され、まず講堂を建ては じようわ 来州じめ、八三五年 ( 承和二年 ) には完成したようです。ここに安置する仏像二十一体は、八 如堂 てんちょう 智講 五芋三三年 ( 天長十年 ) に造りはじめられ、八三九年 ( 承和六年 ) に完成しています。日本古 りつこくし 護代の重要な歴史書である『日本書紀』をはじめとする『六国史』の四番目にあたる『続日 かいげんくよう 教ほんこうき 本後紀』の承和六年六月十五日の所に、公卿がみな、諸仏の開眼供養 ( 仏像完成の儀式 ) のため東寺に参集したと記していますが、この時、講堂の仏像が完成し、盛大な式典の行 われたことがわかります。しかし残念なことに、その計画者であった空海は、これら仏像 じっえ の完成をみることなく、八三五年に世を去り、弟子の実慧によって供養が行われたのです。 このころから、東寺は、真一言密教の根本道場であるだけでなく、国を守護する寺として、 きようおう′」こくじ 「教王護国寺」とも呼ばれるようになったのです。 、つんけい その後、講堂とその仏像は何回か修理されました。とくに鎌倉彫刻の名匠仏師運慶らに けんきゅう よって一一九七年 ( 建久八年 ) 講堂の諸像が修理されたことは有名です。また講堂の建物 ぶんめい は、一四八六年 ( 文明十八年 ) 他の主なお堂と共に戦火にあって失われ、その時、六体の 像が焼失し、またほかの像も損傷していますが、講堂は創建された時の規模の通り再建さ けん れ、いまも間口が九間 ( 柱の間の数が九つあること ) 、奥行が四間の大きな堂の中に再興さ さカ しよくに
胎蔵界曼荼羅図より 南北朝 時代 教王護国寺 ( 東寺 ) の歴史 しんかんごしようそく 一三三三年 ( 元弘三年 ) 建武政権成立。九月後醍醐天皇宸翰御消息一巻を賜う 一三三四年 ( 建武元年 ) 九月五重塔落慶供養 ( 四十一年前竣工の塔 ) 。後醍醐天皇塔供養御願文一巻 供養のため十二天図修理、法会所用具類のうち持物七本、新写御経等奉納 しようりゅうわじよう 一三三五年 ( 建武二年 ) 弘真、青龍和尚香染袈裟一帖を西院施入 あしかがたかうじこうごん 一三三六年 ( 建武三年 ) 六月足利尊氏、光厳上皇を奉じて入洛し、東寺に陣する そうしつ しようらい 一三四一年 ( 暦応四年 ) 十一月東寺所蔵の聖教、兵乱によりて喪失、よって寺僧等空海請来の経論 章疏を書写、貞和元年まで前後五カ年に及ぶ 一三四二年 ( 暦応五年 ) 寛恵、後七日御修法勤仕。この時両界曼荼羅乙本施入 しゅじ しようそんほうしんのう ちゅうしゆっ 一三四八年 ( 貞和四年 ) 十月新たに梵鐘成る。四面に四仏種子 ( 聖尊法親王筆 ) を鋳出する よしあきら ′」うほ、つ 一三五二年 ( 観応三年 ) 四月足利義詮、東寺に山城国植松庄を寄進する。五月杲宝、東宝記を編 集。草本とも十二巻及び一冊 ( 巻八奥書 ) かいこう 一三五四年 ( 文和三年 ) 十二月東寺修造作所火あり、尊氏、大勧進会皎に再建させる 一三六一年 ( 康安元年 ) 六月近畿大地震、講堂傾き仏像破損する 町一三六二年 ( 康安二年 ) 七月杲宝寂 かんぶ 一三六八年 ( 応安元年 ) 室町幕府、東西九条を東寺に還附し、講堂の修造費にあてる。十二月宝蔵 の両界曼荼羅・五大尊・十二天等を修復する 一三六九年 ( 応安二年 ) 七月京都地震、講堂傾く えうん 一三七六年 ( 永和二年 ) 二月惠運請来の五大虚空蔵を観智院に奉遷修理する 一三七九年 ( 康暦元年 ) 十二月西僧房より出火、西院・子小坊・僧房二宇・東西唐門・西大門等焼 ぎようじようえことば 紙本着色弘法大師行状絵詞十二巻を応安七年より絵師六人参加して完成 一三八〇年 ( 康暦二年 ) 六月西院造営を始める。七月立柱上棟。十一月造営成る 一三八八年 ( 嘉慶二年 ) 二月観智院に小堂造立。五大虚空蔵菩薩を安置する 一三九三年 ( 明徳四年 ) 十二月歴代天皇尊崇の二間観音、宮中より東寺に移る ちんじゅ 一四〇八年 ( 応永十五年 ) 八月鎮守八幡宮の修造を始む 西暦 ( 和暦 ) かたむ
ふみわり 足下に蓮の花を踏む ( 踏割蓮華 ) 。 〔所在地〕 〔材質〕 京都市南区九条町 1 もくぞう こうどう まき 木造 ( 槇材 ) 。彩色。 教王護国寺 ( 東寺 ) ・講堂 〔制作された時代〕 電話 075 ー 691 ー 3325 〔国宝の指定〕 平安時代 ( 承和 6 年 = 839 年 ) 〔仏像の種類について〕 「木造五大明王像 ( 講堂安置 ) 五驅」 仏像の姿はさまざまで、その種類も数え切れないは として昭和 27 年 3 月 29 日に 孑旨 . 正。 によらい 〔五大明王の名称と特徴〕 ど多いのですが、主なものを大きく分けると、如来・ ふどうみようおう ばさつみようおうてんぶ 菩薩・明王・天部の四つに区別されます。 不動明王 = 中尊。両眼をいからせ、上の歯と牙で下唇 ふんぬ を噛みしめる忿怒相。髪は右から左へなで 五大明王は明王に属します。如来の命をうけ、悪を べんばっ と つけ束ねる弁髪。右手に剣を執り、左手に 打ち破り、威をもって教化するために激しい忿怒の表 しつしつざ 羂索 ( つな ) を下げる。瑟々座に坐す。 情をして、様々な武器を持った姿で表されます。 ごうさんぜみようおう 降三世明王 = 不動明王の右前に安置。顔は四面、手は 〔拝観の案内〕 八本で左右第一手は「降三世印」を結ぶ。 ◇京都駅 ( 八条ロ ) から西へ徒歩約 15 分。 軍荼利明王 = 左前に安置。眼が三つで、八本の手を持 近鉄東寺駅から徒歩約 7 分。 だいしんいん つ。胸の前で両手を交叉する「大瞋印」 ◇拝観日年中無休 を結ぶ。各腕や足に蛇が巻きついている。 ◇拝観時間午前 9 時 ~ 午後 4 時 30 分 だいいとく 大威徳明王 = 左後方に安置。顔は六つ、手は六本。足 〔年中行事〕 も六本。水牛にまたがる。左右第一手は 修正会 1 月 3 日 印を結ぶ。 彼岸会 3 月 21 日 こんごうやしや 金剛夜叉明王 = 右後方に安置。三面六手で、正面の顔 弘法大師誕生会 6 月 15 日 しようりようえ には眼が五つある。手に五鈷杵、箭、 精霊会 8 月 12 日 剣、左手は金剛鈴、弓、羂索を持つ。 弘法さんの縁日が毎月 21 日に行われ、境内がにぎわう。 きようおう きば ぐんだり 羅城門へ東寺南門前 9 東寺西門前 ■教王護国寺境内図 蔵■ー 0 鐘 書院 御供所 蓮華門 " 勤番所 北門 灌頂院 0 5 ( ) m 毘沙門堂 0 事 坊 客 小子房 東門 大師堂 大日堂 本殿書院 穴門 鐘楼跡 宝物館連 ′ . 八幡宮跡 北大門 講堂 ( 五大明王像 ) 九条通り 南中門跡 北総門へ 金堂 食堂 夜叉神堂・ : ロ 拝観受付 0 ・ ロ 客殿 ス、 - 島・ル又 ノ・山一 観智院 ーー駐車場 . ・ . 社蔵跡 ロ 五重塔 瓢池 宝蔵 賀 洛南会館 東大門 ( 不開門 ) 東寺東門前 9 交番 消防署 七条大宮へ 近鉄東寺駅へ 大宮通り