広河原の松上げ ( ①—③ ) 天の神・地の神 日本の各地で行われている伝統行事のなかで、特に人々の心を惹くものに火の祭りがあ なち ります。鞍馬や那智の火祭り、東大寺のお水取り、それに若草山の山焼きといった著名な ものはいうに及ばず、余り知られていない辺地の火祭りでもなかなか盛んで、大勢の人達 がつめかけます。その人気の秘密は、勢い良く燃える炎に、心の躍動と、恐ろしさを秘め た不思議な美を感じるからでしよう。だがもう一つ、昔から祭りの火は御神火で、燃える 炎を神の出現される姿と考えられて来ましたから、こうした古い信仰の心も現代に投影し ているように思えます。 一般に、日本古来の神祭りでは、主役であるべき神の姿はありません。神は人の目にふ い・こ れる存在ではなく、また視てはならない神聖なものでありました。だがそれでは神が何処 におられるのか見当がっきません。そこで、神霊が依りつく場所として「依り代」が用意 孀されました。依り代には玉や鏡といった人工のものから、樹や岩、山や滝といった自然そ ひもろぎ いわさか いわくら のものまで各種なものがありますが、代表的なものに神籬と磐境 ( 磐座 ) があります。 神籬は、自然の樹木や人工的に立てた木や柱で、磐境も自然や人工で配した岩石です。 いまあまっかみ くにつかみ このシリーズ第 7 巻『十一面観音』には、天上に座す天津神の依り代が神籬で、国津神の こうりん れいぼく 依り代が磐境であったこと、また神籬は神の降臨する霊木ですが、十一面観音には霊木信 ほうじよ、つ じぞう イと、いかかわりを持つものが多く、一方、地蔵は大地豊穣の神ですが、これは日本式に いうと国津神で、その依り代である磐座に地蔵を刻んだことが石の地蔵の起源だと書きま 火祭りと不動信仰 くらま しろ 川光三
いたのです。 さて燈籠木の火は、やがて火勢が盛りを過ぎるかと思われる頃、突然柱が倒されて、火 かたまり の塊となった笠は地上に落下します。すると長い棒を持った人達が現れて、一斉に棒の 先で火を広げ、地上を火の海にします。現在では危険防止のため、燈籠木はあらかじめ設 定された方角に倒れるようにしてありますが、昔はどの方向に倒れるかわからず、倒れた 方角に当たる田畑が、その年豊作になるとされていました。その理由は、柱の倒れた方向 に御神火が落下するわけですから、その神の霊力の、より強い場所が豊作になると信じら れたのです。そして落下した火を地上に広げるのは、地上に迎えた神霊を、より広い土地 に行きわたらせようとする行為であったのです。 古代信仰と不動尊 このように松上げは、神籬に迎えた神霊を大地に導き、豊穣を願う行事であったのです が、それを地蔵盆に行うのは、地蔵が「大地に諸宝を蔵す」という大地豊穣の神であるか らでした。しかし少々奇妙に思われることは、ここでは天津神から国津神へという神霊の 転換が見られることです。だがこれに似たものに、春に山から神を田に招き、秋に再び山 いわくら へ帰す「山の神信仰」があります。また第 7 巻には、神籬と磐座を一体化し、十一面観音 と地蔵を合体した長谷寺観音のことを書きましたが、昔の人達は、天の神と地の神が一体 となって、幸せをもたらして下さると信じていたのです。そして、天からこの神籬に降臨 ひ する神霊を、光り輝く火炎で象徴したのが松上げですが、その火は陽で、太陽霊だと考え られていました。つまり神籬の上に輝く火炎は、天にいます天津神の主神である太陽神の 分身や使者と思われていたのですが、これに似た思想のほとけに不動明王があります。 この明王は、本来ヒンズー教の神でありましたが、仏教にとり人れられ、密教では大日 如来の使者とされています。つまり、太陽のほとけさまの使いが、火炎の神の不動明王、 というわけですから、松上げの火と同様な意味を持った明王です。このように、火炎を太 陽の分身や使者とする思想は、インドも日本も共通ですが、古代の中国では、「積陽の熱気 みつきよう
した。つまり、天津神↓神籬↓十一面観音、国津神↓磐座↓地蔵という図式が出来るわけ ですが、日本の庶民信仰を代表する観音と地蔵の信仰の彼方には、日本古来の神々が存在 していたのです。しかし庶民信仰といえば、もう一つ忘れてならないものが「お不動さま」 - はで、地方によ「ては、観音や地蔵よりも盛んな信仰が見られます。このように不動信仰が 庶民化した原因については諸説がありますが、火炎のほとけとして、古くからの火祭りと 物も深いかかわりがあると思えます。 まつあ 松上げ しゅうざん おばま 日本海に面した若狭の小浜から、京都へと南下する周山街道や、古い時代の街道であっ はなせご た花背越えの山間部では、「松上げ」という火祭りがあります。松上げは松明けとも書きま たいまっ すから、つまりは松明のことですが、昔は小浜と京都の間の一帯で行っていた行事であっ たようで、今でも十数個所で八月下旬の地蔵盆の夜に行われています。この松明は、処に よって大きさや手順などに変化がありますが、写真の洛北広河原のものなどは、古い形を 守っているので、次に紹介します。 とろぎ ここでは、まず、明るい間に燈籠木という柱を立てます。これは二〇メートル余りもあ ほだ る長い丸太の上に、枯木や茅草をつめ込んだ直径二メートルばかりの榾を付けたもので、 あまっ 燈籠木場という広場に固定しておきます。やがて夜中になると、「上げ松」とか「上げ松明」 にと称する小さな縄付きの松明に火を点け、次々に「笠」と呼ぶ榾を目がけて投げ上げます をと、やがて笠に命中した上げ松の火で笠は炎々と燃え上がり、しばらくすると、あたりは 炎 昼間のように明るくなります。 みわやま これもこのシリーズ第 7 巻に書いたことですが、大和の神山として知られる三輪山の山 こうしよう 頂に巨大な神杉があって、社伝によると「孝昭天皇の御宇、夜半にこの峯の古大杉の上に にちりん 日輪の如き火気が有り、光を放ち山を照らす」とあり、これが三輪山の神の降臨であったと ひもろぎ 記しています。この巨杉は自然木の神籬ですが、燈籠木は人工的に立てた神籬で、その上 に炎々と日輪のように燃えさかる火は、三輪山の伝承にあるように、神の降臨を象徴して
されているのです。 なぜ破壊の神をよろこぶのかといいますと、何ごとも絶対に不変ということは、豊かな 富をもつ者にはうれしいことですが、貧しいものには、その現状を破壊し、少しでも良い 方に変化をしたいのです。とかく人間社会では、戦争と平和のように、破壊と復興をくり 返しています。この願いが、シバ神への信仰となったのでしよう。 さて、このシバ神に多くの妃がいました。 , 彼の本性は、人・牛を好んで殺すという凶悪 な神ですから、彼が迎える妃たちは、皆それぞれに、特別な狂暴性をもっ女性から選んで ちょうあい いました。その妃たちの中に、彼が最も寵愛したウマーという女神がいました。 彼女はもと「雪山の娘」といわれ、山地の民族たちから崇拝されていた山の神でした。 彼女は、酒肉の供犠 ( 生きものを生きたまま供えること ) を好む女神でしたので、人々は いろいろの生きものをお供えしました。しかし、彼女が最もよろこび満足してくれるのが 人間の首です。これは、千匹の野牛の供犠よりも勝るというのですから、人々には恐ろし い女神です。 きさき シバ神は、このウマー神を后として迎えました。つまり彼女をそばにおくことは、人・ ン公牛の供犠が絶えないからです。しかも、雪のような肌をもっ美女ですから、それこそ酒肉・ 西 性欲と、悪の極をほしいままにして、人々を恐れさせていたのです。 絵 この人々の苦しみを知ったお釈迦さんは、阿閾如来に祈願して降三世明王に変身しても 、不 らい、シバ神とウマー神を降伏させたのです。それには、まず両神の貪 ( むさばり・どん しん 欲 ) ・瞋 ( 憎しみ・うらみ・立腹 ) ・癡 ( 愚痴 ) を完全に封じ込め、過去・現在・未来の三 マ み世にわたって消滅させたのです。 この降三世明王の働きによって、両神はざんげ改心して三宝 ( 仏・法・僧 ) に帰依しま した。そしてシバ神は、疫病から救済する医師のように、慈愛仁徳の神となり、仏法を守 だいじざいてん 護する大自在天になりました。 また一方のウマー神は、家庭円満を守る慈悲深い女神になったということです。
えなんじ が久しくたって、そこに火が生じ、その火気の精が太陽である」 ( 淮南子・天文訓 ) として いますから、ここにも同じ思想が見られます。ところがこの火炎の明王は、本場のインド や中国では余り崇拝されず、日本で盛んに信仰されるようになりました。 ひえいざんせんにちかいほう 日本の不動信仰は、山岳仏教と深いかかわりを持っています。例えば比叡山の千日回峰 ぎよう ぎようじゃ 「笠」も不動尊だとされていますが、 行では、行者は不動明王の出現を願い、頭にいただく じゅはう しゅげんしゃ 不動崇拝を普及したのは、古来の山岳信仰に、密教的呪法をとり入れた修験者たちでした。 しゅう ところで笠といえば、松上げに火を付ける榾も笠と呼びますが、中国最古の天文数学書『周 かたち ひさんけい 髀算経』には、「円形の笠によって天の形を象どることが出来る」とあります。日本では笠 みかさ のような形をした山は神聖な神山で、大和の三輪山や御蓋山、京都の比叡山などが日の出 の山として著名ですが、こうした山々が崇拝されるのは、太陽霊をいただく天の形の山と 考えられたからでしよう。そしてこうした山の信仰からは、笠↓天↓太陽↓不動尊、とい った連想が生まれます。不動信仰が、こうした山岳信仰と関係があると考えると、これが 日本で普及した理由がうなずけるのではないでしようか。 たた 日本古来の神々は、恵みをもたらすという優しさの反面に、祟るという荒々しい性格を かんばっ 持っています。だが祟りと恵みは表裏一体で、例えば日照りが続けば旱魃に、降雨が過ぎ 笠れば水害が起こります。ところが、これが上手にコントロール出来れば恵みがもたらされ るわけですから、荒ぶる神々に祈願をして来たのです。そうした人々にとって、火炎を背 よ、つぼうかしし に、剣を手にした容貌魁偉な不動尊は荒ぶる神の姿でしたが、これを崇敬し、礼拝する信 者にとってこの御姿は、たのもしい守護神と見えたに違いありません。不動尊は、一般に のはこうした荒ぶる火神の姿ですが、東寺講堂の不動明王からは、不思議とこうした荒々し さは感じません。むしろ、何か大らかな、包み込まれるようなあたたかさをさえ感じます。 そういえば、不動尊を取り巻く他の四体の明王像も、その恐ろしいお顔とは裏腹に、身体 はふくよかで、まるで慈母のような優しさに満ちています。日本の不動信仰は、この五大 明王から始まったとされていますが、これらの御像を拝しておりますと、神々に恵みを祈 願した、遠い祖先の想いがよみがえって来るように思えるのです。
宝生如来は、私たちが住むこの自然界で、あらゆるものを、つまり私たちにとっての宝 ものを、無尽蔵に生み出すことを法力としています。これが軍荼利明王に変身しますと、 多くの手にいろいろの武器をもち、魔ものを降伏するのです。 こ・うまん ここでいう魔ものとは、私の心にひそんでいる「我」にとらわれる愚痴、見解、高慢、 愛着などのことです。 じゅみよう 阿弥陀如来は、この仏界が永遠の生命をもちつづけられるよう、つまり無量の寿命をも っことを法力としています。これが大威徳明王に変身しますと、六本の足をもって大白牛 に乗り、手には多くの武器をもって、一切の毒蛇悪竜を降伏するというのです。古来、戦 勝祈願のために、この像だけを造ったということも多いのです。 しゅじよう 不空成就如来は、私たち衆生には、どのような願いごとでも、すべてを成就させて下さ ぼんのう る法力があるのです。でもその前に、私たちの一切の煩悩を断ち切って、自分にとってう れしいと思う心と行為を、他人のために行うことを条件としているのです。 これが金剛夜叉明王に変身しますと、いろいろの武器をもち恐ろしい形相となるのです。 つまり私たちが、他人をよろこばす前に、自分の心の中に住む魔ものを降伏することは、 いかにむずかしいかということが、この形相からもうなずけるでしよう。 貧しい人々に崇拝されるシバ神 さて以上が、五大明王の働きについてですが、それらの中で、降三世明王の足下にいる 男女像について、次のような話が伝わっています。 お釈迦さんが仏教を説かれる前に、インドでは、インド教という古来の宗教がありまし た。その中で主神となっているのが、宇宙を創造したというプラフマンという神と、この 神に対抗して、すべてを破壊するという狂暴粗悪なシバ神という神がいました。 こんにち この両者は、今日もなおヒンズー教の中で盛んに信仰されていますが、特にシバ神は、 インドの貧しい人々にとっては、将来に期待をもたせてくれるありカオしネ 、ゝこゝ申として、崇拝 ) 」、つぶく
ンズー教のシバ神など、異教の神がみだったのですが、釈迦の教えに従い、仏教の護り神 唐となったものなのです。だから、インド風の、なにかアクの強い、おそろしい姿に造られ ているのです。 まっ 中央の坐像が不動明王です。全国の真一一一一口宗や天台宗のお寺に祀られ、「お不動さま」とし 館て親しまれているのがこの姿の像なのです。岩をかたどったという、四角い箱をたがい違 しっしつざ こ、つはい ) こつみ重ねたような瑟瑟座という台座にどっかりと坐り、火焔がうずまく意匠の光背を 立し。 良背にしています。その名の通りどっしりと、なにがあっても動かないような安定した姿で 奈 たば べんばっ す。髪の毛は右から左へなでつけ、左耳の前で束ねて弁髪とし、両眼をいからせ、上の歯 つるぎ と牙で下唇を噛みしめたおそろしい顔で、右手には両刃の剣を持ち、左手には悪をからめ けんさく 取る羂索を下げています。この姿は、お経で決められた形を忠実にあらわしたものです。 どん しん ごうさんぜ 不動の向かって右隣りにあるのが降三世明王像です。貪 ( 慾望 ) ・瞋 ( 怒り ) ・癡 ( おろ かさ ) という三つの悪をこらしめる明王です。顔が四つ、腕が八本ある異様な姿で、よく だいじぎい みると、四面とも額にもう一つの眼が刻まれています。そして岩座の上に横たわる大自在 きさき 天 ( ヒンズー教のシバ神のこと ) とその后である烏摩の体を踏みつけて立っています。 ぐんだり 不動の左隣りのは軍荼利明王像です。三つの眼をいからせ、牙をむき、腕は八本ありま れんげ す。そして岩の上の二つの蓮華を踏む両足にも、また八本の腕にも小蛇を巻きつけていま しよう力い す。人が出会うすべての障碍を除いてくれる明王とされています。不動明王の左後ろは大 すいぎゅう 威徳明王像です。なんと六面をつけ、腕は六本、そして足も六本あり、うずくまる水牛の 背にまたがっています。この像も六面とも眼は三つずつあります。そして右後ろに立つの こんごうやしゃ が金剛夜叉明王像です。三面で腕が六本あります。三面のうち正面だけ、両眼が上下二重 に刻まれ、額の一つと合わせて合計五つの眼を持つ、こわい姿です。 ぐんじよう 五大明王像は五体とも体の色は青 ( 群青 ) ですが、一つとして同じ姿はありません。彫 刻作品としてみると、体も手足も太くひきしまり、不動像は怒りを内に秘めたようなおだ やかさがありますが、ほかの四体は、怒りを表にはっきりとあらわし、動きも豊かで、両 足のふんばりも力強く、実に安定もよく、また腰に巻く裳は、太いひだを刻んでおもおも てん いきよう
鑑賞のガイド 各部の名称と寸法 かえんこ 火焔光 天冠台 えん : よっはのお 焔髪 ( 焔のような形の髪 ) さんかん むわかざリ 胸飾 ( ネックレス ) 三鈷杵 ゆみ 臂 l( プレスレット ) 月リ しようはく 条帛 ( 窰まける ) 、てせ らた叉 かを交 を指で 指二 ( 則 降 こうさんせいん 剣」 ( 柄たけ残っている ) わんせん 腕釧 ( プレスレット ) そくせん 足釧 たいしざいてん 大自在天 ( ヒンズー教のシバ神 ) . 島 ) 梺 ( 大自在大の后 ) 岩座 こっさんせみようおう 降三世明王 像高 頭頂からあこ 顔の幅 臂の張り 台座 光背 高 317.0c 175.1 c 55 . 2 cm 高 126.3cm 142 .5cm 178.7 c 38 . 9 cm 径 60 . 0 c 幅 126.0cm 107. ()cm 203.1 c 38 . 0 cm 径 60 . 0 c 蓮肉径 32 . 0 106.0cm 141.0 c 径 60 . 0 c 37 . 8 cm 牛座高 68 . 0 cm 107. ()cm 174 . 2 c 37 . 8 cm 径 60 . 0 c 蓮肉径 30.5cm 108 .5cm ( 多面像の顔の幅は本面、多臂像の臂の張りは第二手 ) 34 . 5 cm 17.4 cm 17 . 5 cm 17 . 0 cm 18 . 0 cm 不動明王 降三世 199.0 c 軍荼利 207.7 c 大威徳 166.7 c 金剛夜叉 201.7 c ろ 4
ふみわり 足下に蓮の花を踏む ( 踏割蓮華 ) 。 〔所在地〕 〔材質〕 京都市南区九条町 1 もくぞう こうどう まき 木造 ( 槇材 ) 。彩色。 教王護国寺 ( 東寺 ) ・講堂 〔制作された時代〕 電話 075 ー 691 ー 3325 〔国宝の指定〕 平安時代 ( 承和 6 年 = 839 年 ) 〔仏像の種類について〕 「木造五大明王像 ( 講堂安置 ) 五驅」 仏像の姿はさまざまで、その種類も数え切れないは として昭和 27 年 3 月 29 日に 孑旨 . 正。 によらい 〔五大明王の名称と特徴〕 ど多いのですが、主なものを大きく分けると、如来・ ふどうみようおう ばさつみようおうてんぶ 菩薩・明王・天部の四つに区別されます。 不動明王 = 中尊。両眼をいからせ、上の歯と牙で下唇 ふんぬ を噛みしめる忿怒相。髪は右から左へなで 五大明王は明王に属します。如来の命をうけ、悪を べんばっ と つけ束ねる弁髪。右手に剣を執り、左手に 打ち破り、威をもって教化するために激しい忿怒の表 しつしつざ 羂索 ( つな ) を下げる。瑟々座に坐す。 情をして、様々な武器を持った姿で表されます。 ごうさんぜみようおう 降三世明王 = 不動明王の右前に安置。顔は四面、手は 〔拝観の案内〕 八本で左右第一手は「降三世印」を結ぶ。 ◇京都駅 ( 八条ロ ) から西へ徒歩約 15 分。 軍荼利明王 = 左前に安置。眼が三つで、八本の手を持 近鉄東寺駅から徒歩約 7 分。 だいしんいん つ。胸の前で両手を交叉する「大瞋印」 ◇拝観日年中無休 を結ぶ。各腕や足に蛇が巻きついている。 ◇拝観時間午前 9 時 ~ 午後 4 時 30 分 だいいとく 大威徳明王 = 左後方に安置。顔は六つ、手は六本。足 〔年中行事〕 も六本。水牛にまたがる。左右第一手は 修正会 1 月 3 日 印を結ぶ。 彼岸会 3 月 21 日 こんごうやしや 金剛夜叉明王 = 右後方に安置。三面六手で、正面の顔 弘法大師誕生会 6 月 15 日 しようりようえ には眼が五つある。手に五鈷杵、箭、 精霊会 8 月 12 日 剣、左手は金剛鈴、弓、羂索を持つ。 弘法さんの縁日が毎月 21 日に行われ、境内がにぎわう。 きようおう きば ぐんだり 羅城門へ東寺南門前 9 東寺西門前 ■教王護国寺境内図 蔵■ー 0 鐘 書院 御供所 蓮華門 " 勤番所 北門 灌頂院 0 5 ( ) m 毘沙門堂 0 事 坊 客 小子房 東門 大師堂 大日堂 本殿書院 穴門 鐘楼跡 宝物館連 ′ . 八幡宮跡 北大門 講堂 ( 五大明王像 ) 九条通り 南中門跡 北総門へ 金堂 食堂 夜叉神堂・ : ロ 拝観受付 0 ・ ロ 客殿 ス、 - 島・ル又 ノ・山一 観智院 ーー駐車場 . ・ . 社蔵跡 ロ 五重塔 瓢池 宝蔵 賀 洛南会館 東大門 ( 不開門 ) 東寺東門前 9 交番 消防署 七条大宮へ 近鉄東寺駅へ 大宮通り
和歌山 県 大 丘 六 豊後高田市不動明王 金剛三昧院不動明王 名 阪 庫 良 所蔵者 醍醐寺 同聚院 般舟院 峰定寺 放生院 遍照寺 観心寺 金剛寺 金剛寺 滝谷不動 明王寺 神咒寺 金心寺 光久寺 無動寺 玄賓庵 西福寺 十輪院 新薬師寺 草谷寺 千万院 唐招提寺 唐招提寺 東大寺 長谷寺 不退寺 普門院 宝山寺 法隆寺 吉祥寺 金剛峯寺 金剛峯寺 金剛峯寺 名称 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 四驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 降三世明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 二驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 大威徳明王 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 五大明王 不動明王 五大明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 品質 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 形状 坐像 坐像 坐像 立像 立像 坐像 坐像 坐像 坐像 立像 坐像 立像 立像 坐像 坐像 立像 立像 立像 坐像 立像 木造騎牛像 坐像 木造半伽倚像南北朝 坐像 坐像 立像 立像 立像 坐像 坐像 立像 時代 鎌倉 平安 平安 平安 平安 平安 南北朝 鎌倉 南北朝 平安 平安 南北朝 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 平安 江戸 平安 平安 平安 江戸 平安 平安 平安 鎌倉 鎌倉 鎌倉 備考 1203 1154 二童子・ 毘状 1094 二童子 毘沙状 二童子 二童子 1373 二童子立像 1701 厨子入 護摩堂 二童子 南北朝 二童子 不動堂 県 鳥 岡 山 香 高 福 佐 大 資料 名 取 山 ロ 川 知 岡 賀 分 所蔵者 釈迦文院 正智院 親王院 南院 蓮上院 長楽寺 勇山寺 高山寺 日応寺 国分寺 弘憲寺 金林寺 宗安寺 竹林寺 円清寺 鎮国寺 永寿寺 臼杵市 真木区 真木区 竜岩寺 名称 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 不動明王 ( 二驅のうち ) 不動明王 大威徳明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 ( 三驅のうち ) 大威徳明王 不動明王 ( 三驅のうち ) 不動明王 形状 立像 坐像 坐像 立像 立像 立像 坐像 坐像 立像 立像 立像 立像 坐像 木造騎牛像 坐像 立像 坐像 石造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 木造 品質 ( 古園石仏 ) 木造 木造 石造 坐像 立像 木造騎牛像 時代 平安 平安 平安 平安 鎌倉 平安 平安 鎌倉 鎌倉 平安 平安 鎌倉 鎌倉 平安 平安 平安 鎌倉 平安 ~ 鎌倉 平安 ~ 鎌倉 平安 鎌倉 平安 備 考 文化庁編『国宝・重要文化財総合目録』 波明働 帆不動 二童子立像 毘状 毘状 二童子立像 二童子立像 臼杵 磨崖仏 熊野 磨崖仏 二童子 二童子 62