宝生如来は、私たちが住むこの自然界で、あらゆるものを、つまり私たちにとっての宝 ものを、無尽蔵に生み出すことを法力としています。これが軍荼利明王に変身しますと、 多くの手にいろいろの武器をもち、魔ものを降伏するのです。 こ・うまん ここでいう魔ものとは、私の心にひそんでいる「我」にとらわれる愚痴、見解、高慢、 愛着などのことです。 じゅみよう 阿弥陀如来は、この仏界が永遠の生命をもちつづけられるよう、つまり無量の寿命をも っことを法力としています。これが大威徳明王に変身しますと、六本の足をもって大白牛 に乗り、手には多くの武器をもって、一切の毒蛇悪竜を降伏するというのです。古来、戦 勝祈願のために、この像だけを造ったということも多いのです。 しゅじよう 不空成就如来は、私たち衆生には、どのような願いごとでも、すべてを成就させて下さ ぼんのう る法力があるのです。でもその前に、私たちの一切の煩悩を断ち切って、自分にとってう れしいと思う心と行為を、他人のために行うことを条件としているのです。 これが金剛夜叉明王に変身しますと、いろいろの武器をもち恐ろしい形相となるのです。 つまり私たちが、他人をよろこばす前に、自分の心の中に住む魔ものを降伏することは、 いかにむずかしいかということが、この形相からもうなずけるでしよう。 貧しい人々に崇拝されるシバ神 さて以上が、五大明王の働きについてですが、それらの中で、降三世明王の足下にいる 男女像について、次のような話が伝わっています。 お釈迦さんが仏教を説かれる前に、インドでは、インド教という古来の宗教がありまし た。その中で主神となっているのが、宇宙を創造したというプラフマンという神と、この 神に対抗して、すべてを破壊するという狂暴粗悪なシバ神という神がいました。 こんにち この両者は、今日もなおヒンズー教の中で盛んに信仰されていますが、特にシバ神は、 インドの貧しい人々にとっては、将来に期待をもたせてくれるありカオしネ 、ゝこゝ申として、崇拝 ) 」、つぶく
ましよ、フ 0 一一切の魔を五大尊 優しい顔や姿では : ′、、つ力し みつきよう まレ」け・ 空海は、中国で密教を学んで帰りました。それによりますと、広の世界では大きく五つ と、つかっ の国に分け、各国をそれぞれに統轄している仏たちがおられるというのです。 だいにちによらい あしゆく ほうしよう あみだ 中央は大日如来、東方には阿閾如来、南方には宝生如来、西方には阿弥陀如来、北方に ふくうじようじゅ ごち は不空成就如来で、これらを五智如来といっています。 ところが、この五如来の分け方はあくまで便宜的であって、実はここでいう中央とは、 仏界の全体を意味していますので、大日如来とは、他の四如来の合体した姿であり、また 四如来とは、大日如来の分身であるともいうのです。 仏教では、私たちは、仏界の中にいるといっています。これを密教流でいいますと、私 たちは、大日如来に包まれ抱かれているということであり、そのことはまた、四方の四如 来に抱かれていることにもなるのです。 しやば しかし現実的には、私たちの住むこの娑婆世界には、 ) しろいろの悪魔がいます。その悪 魔たちに、私たちは苦しめられるのです。その私たちを、優しく見守って下さっているの が、この五智如来だといわれています。 ところが悪魔たちにとっては、五智如来のような優しい顔や姿では、その悪行は止まり ません。むしろその仏たちの前で、平気で私たちに悪いことをするのです。 そもそも仏とは、善人も悪人も、すべてを救ってやりたいというのが本性です。しかし ごだいそん 西村公朝
悪人が善人を苦しめるとき、その善人を救うのが優先です。だから五智如来は、私たちを ふんぬぎようそう 守るために、悪魔に立ち向かうとき、それこそ恐ろしい忿怒の形相となるのです。つまり 五如来は、それぞれに明王の姿へと変身するのです。 あしゆく ほうしよう ぐんだり あみだ ごうさんぜ 大日如来は不動明王に、阿闔如来は降三世明王、宝生如来は軍荼利明王、阿弥陀如来は ふくうじようじゅ こんごうやしゃ 大威徳明王、不空成就如来は金剛夜叉明王にと変身するのです。その彼らを五大尊、また しいます。 は五大明王とゝ ほつりき つまり五大明王とは、五智如来がもっそれぞれの法力を、強力な形で、私たちに働きか けて下さるときの姿です。その五如来の法力と、明王の働きをつぎに簡単に説明しておき ましょ一つ。 剣は魔を断ち切る 大日如来は、仏界全体の姿ですから、私たちにとっては、ありがたい極楽国のようなも のです。これが不動明王に変身しますと、その働きは積極的です。 ぼだい 彼は経典の中で「わが身を見るものは菩提心 ( 仏道に入る心 ) を起こし、わが名を聞く 松ものは、悪を断ち善を修し、わが説を聞くものは大智恵を得、わが心を知るものは即身に 成仏 ( 悟りを開く ) する」といっています。 また彼は、いつも右手に魔を断ち切る剣をもち、左手には、悪魔を逮捕、また水火の中 さく で苦しむ私たちに投げかける、救いの投げ縄のような索をもっています。 阿閃如来は、この美しい仏界が、いついつまでも不動であり不変であることを守る法カ をもっています。これが降三世明王に変身しますと、いろいろの武器 ( 仏器 ) をもって悪 ましよ、つぼんのう 魔に向かい、あらゆる魔障煩悩を打ちこわし、すべての汚れを取り去って、美しい菩提心 を起こさせるように働きかけるのです。 この明王が像として造られるときには、男女を両足で踏みつけている表現にします。こ れには、おもしろい話がありますので後述します。 なわ
~ 五大明王 魅惑の仏像Ⅱ五大明王京都・教王護国寺 魅惑の仏像Ⅱ 五大明王 魅惑の仏像 十一面観音 ( 奈良・室生寺金堂 ) Ⅱ・五大明・王 ( 京都・教王護国寺講堂 ) ①阿修羅 ( 奈良・興福寺 ) ( 奈良・興福寺 ) 2 千手観音 ( 奈良・唐招提寺金堂 ) 不空索観音 ( 奈良・東大寺法華堂 ) 天燈鬼・竜燈鬼 如意輪観音 ( 京都・宝菩提院 ) 1 金剛力士 ( 奈良・興福寺 ) 3 釈迦三尊 ( 奈良・法隆寺金堂 ) ( 京都・神護寺本堂 ) 薬師如来 Ⅱ百済観音 ( 奈良・法隆寺 ) 弥勒菩薩 ( 京都・広隆寺 ) ( 奈良・薬師寺金堂 ) 一一十八部衆 ( 京都・妙法院三 + 三間堂 ) 圃如意輪観音 ( 大阪・観心寺 ) 仏 3 薬師三尊 ( 奈良・室生寺弥勒堂 ) 釈迦如来 1 風神・田神 ( 京都・妙法院 = 一十三間堂 ) 惑 3 四天王 ( 奈良・東大寺戒壇堂 ) ( 奈良・中宮寺 ) ( 京都・平等院鳳凰堂 ) 如意輪観音 雲中供養菩薩 《⑦十一面観音 ( 滋賀・向源寺 ) ( 奈良・円成寺多宝塔 ) 大日如来 ( 京都・平等院鳳凰堂 ) 感主観日 ( 奈良・薬師寺東院堂 ) 8 阿弥陀如来 ( 京都・神護寺多宝塔 ) ( 奈良・新薬師寺 ) 四五大虚空蔵菩薩 ⑨十二神将 ( 兵庫・浄土寺浄土堂 ) 匯盧舎那仏奈良・唐招提寺金堂 ) 阿弥陀三尊 写真 小川光一 西村公朝 西川杏太郎 小川光一 小川瞳 特別寄稿 岩橋政寬 毎日新聞社 定価本体 1 , 942 円十税 ①毎日新聞社① I S B N 4 ー 6 2 0 ー 6 0 4 9 1 ー 7 C 0 6 71 \ 1 9 4 2 E 装幀・松本芳和
れた六体と共に、二十一体の群像がもとのように安置されているのです。 密教道場の尊像 横に長い講堂の中に、十八本の円柱に囲まれた大きな壇があり、その中央に、大日如来 一一像を主尊とする五体の如来像が安置されています。これは密教で最も重要な金剛界の五仏 ′」ちによらい で、五智如来と呼ばれています。これらはみな十五世紀の火災のあとで後補されたもので こんごうはらみつぼさっ す。その向かって右側には金剛波羅蜜菩薩を中心とする五大菩薩像 ( 中尊は後補、他は創 ごだいみようおう 、、菩建時の貴重な像、国宝 ) が、また向かって左側には、不動明王を中心とする五大明王像 ( 国 ぼんてんたいしやくてん 宝 ) が安置され、壇の左右の端に梵天と帝釈天像 ( 国宝 ) 、壇の四隅に四天王像 ( 国宝 ) 一一。国が、この仏壇のガードマンとして安置されています。 実に整然とした配置で、これを図にあらわしてみると、まるで曼荼羅のようにみえます。 この配置はおそらく空海が考えた独特の構想によるものだと思います。中央の五智如来は じしようりんしん ほレ」け . 仏そのもの、つまり密教で「自性輪身」と呼ばれるもので、この仏が菩薩の姿となって優 しようぼうりんしん しく、正しい法を説くという「正法輪身」、また仏の教えに従わない悪をこらしめ救うた きようりようりんしん めに怒りの姿となった五大明王つまり「教令輪身」の、密教で説明する仏の三種の姿を 一つのお堂の中にまとめ、曼荼羅のように安置しているのです。 このように四角いプランの中にキチンと仏像を整列させたような安置の仕方は、天平時 代のお寺にはまったく見られなかった密教独特のものです。 これら二十一体の像が安置されている薄暗い講堂の中に入って行くと、厳しく暗く、し かもピーンと空気がはりつめているような身の引きしまる緊張感があります。これが密教 拡の神聖な道場ならではの雰囲気なのだと思います。 怒りとカの明王像 五大明王像をよく拝んでみましよう。ちょっと観ただけで、顔がいくつもあったり、手 足が何本もある異様なこわい像のあることに気づきますが、これらは、もとはインドのヒお
阜ご 一事 0 第を ツを一朝・ 0 0 ・ ました。 この新しい密教は、とくに規律の正しさを重要と考え、儀式の時の作法や、お堂に安置 ずぞう する仏像の形までが、お経や図像 ( 図であらわした仏像の形の手本 ) によって厳しく規定 りようかいまんだら されたのです。真一一一一口宗でとくに大切にする「両界曼荼羅」と名付けた大きな画像は、その げんずまんだら 代表的なものです。これは空海が唐から持ち帰った「現図曼荼羅」を手本として描かれた ほと一け . たいぞうかい ものですが、仏の世界を理論的に「金剛界」と「胎蔵界」の二つに分け、密教での最高の だいにちによらい 仏である大日如来を中心として、数多くの種類の仏を厳密な枠組みの中にきちんと並べて、 仏の世界のすべてを絵であらわそうとしたものなのです。 このほか密教の理論書もたくさん中国から輸入され、また九世紀 ( 平安時代のはじめの 百年間にあたる ) には、空海や最澄の後に続いて多くのお坊さんがしきりに唐に留学して 密教の研究が行われました。 荼絵画だけでなく、お堂に安置される仏像の彫刻も、ここへ来て種類が急に多くなりまし かんのんぞうへんげ 両た。たとえば観音像も変化観音 ( 観音のバリエーション ) といって各種のものが造られ、 いよう ふどうみようおう 寺またこわい顔をした異様な姿の像、たとえば不動明王を中心とする五大明王なども、この 時代になってはじめて造られるようになったのです。仏像の種類だけでなくその表現も、 てん 密教の厳しい信仰を背景として、大変に力強くたくましい姿のものとなりました。前の天 うるし そぞう かんしつぞう 平時代のような漆を主とした乾漆造や、土をもり上げて造る塑造などは用いられなくな ぼさっ り、日本で豊富に手に入る各種の木材が材料として使われ、如来や菩薩などまで、鋭い彫 り口で顔立ちは厳しく、体は太くたくましく、観る人にせまって来るような迫力のあるも のとなったのです。 これは前の天平彫刻には見られなかった特色です。こうした特色が平安初期 ( 九世紀 ) じよう もちあじ の仏像の持味ともいえるものなのです。この時期の彫刻は、九世紀の年号の一つである貞 がん 観 ( 八五九—八七七 ) をとって貞観彫刻とも呼ばれています。 この本で紹介する教王護国寺の五大明王像はこの時代の密教彫刻の代表といえるもので 五大明王の作例としても、 いま遺る最も古い、最も秀れた作品といえます。 びよう こん′」うかい さほう
ふみわり 足下に蓮の花を踏む ( 踏割蓮華 ) 。 〔所在地〕 〔材質〕 京都市南区九条町 1 もくぞう こうどう まき 木造 ( 槇材 ) 。彩色。 教王護国寺 ( 東寺 ) ・講堂 〔制作された時代〕 電話 075 ー 691 ー 3325 〔国宝の指定〕 平安時代 ( 承和 6 年 = 839 年 ) 〔仏像の種類について〕 「木造五大明王像 ( 講堂安置 ) 五驅」 仏像の姿はさまざまで、その種類も数え切れないは として昭和 27 年 3 月 29 日に 孑旨 . 正。 によらい 〔五大明王の名称と特徴〕 ど多いのですが、主なものを大きく分けると、如来・ ふどうみようおう ばさつみようおうてんぶ 菩薩・明王・天部の四つに区別されます。 不動明王 = 中尊。両眼をいからせ、上の歯と牙で下唇 ふんぬ を噛みしめる忿怒相。髪は右から左へなで 五大明王は明王に属します。如来の命をうけ、悪を べんばっ と つけ束ねる弁髪。右手に剣を執り、左手に 打ち破り、威をもって教化するために激しい忿怒の表 しつしつざ 羂索 ( つな ) を下げる。瑟々座に坐す。 情をして、様々な武器を持った姿で表されます。 ごうさんぜみようおう 降三世明王 = 不動明王の右前に安置。顔は四面、手は 〔拝観の案内〕 八本で左右第一手は「降三世印」を結ぶ。 ◇京都駅 ( 八条ロ ) から西へ徒歩約 15 分。 軍荼利明王 = 左前に安置。眼が三つで、八本の手を持 近鉄東寺駅から徒歩約 7 分。 だいしんいん つ。胸の前で両手を交叉する「大瞋印」 ◇拝観日年中無休 を結ぶ。各腕や足に蛇が巻きついている。 ◇拝観時間午前 9 時 ~ 午後 4 時 30 分 だいいとく 大威徳明王 = 左後方に安置。顔は六つ、手は六本。足 〔年中行事〕 も六本。水牛にまたがる。左右第一手は 修正会 1 月 3 日 印を結ぶ。 彼岸会 3 月 21 日 こんごうやしや 金剛夜叉明王 = 右後方に安置。三面六手で、正面の顔 弘法大師誕生会 6 月 15 日 しようりようえ には眼が五つある。手に五鈷杵、箭、 精霊会 8 月 12 日 剣、左手は金剛鈴、弓、羂索を持つ。 弘法さんの縁日が毎月 21 日に行われ、境内がにぎわう。 きようおう きば ぐんだり 羅城門へ東寺南門前 9 東寺西門前 ■教王護国寺境内図 蔵■ー 0 鐘 書院 御供所 蓮華門 " 勤番所 北門 灌頂院 0 5 ( ) m 毘沙門堂 0 事 坊 客 小子房 東門 大師堂 大日堂 本殿書院 穴門 鐘楼跡 宝物館連 ′ . 八幡宮跡 北大門 講堂 ( 五大明王像 ) 九条通り 南中門跡 北総門へ 金堂 食堂 夜叉神堂・ : ロ 拝観受付 0 ・ ロ 客殿 ス、 - 島・ル又 ノ・山一 観智院 ーー駐車場 . ・ . 社蔵跡 ロ 五重塔 瓢池 宝蔵 賀 洛南会館 東大門 ( 不開門 ) 東寺東門前 9 交番 消防署 七条大宮へ 近鉄東寺駅へ 大宮通り
されているのです。 なぜ破壊の神をよろこぶのかといいますと、何ごとも絶対に不変ということは、豊かな 富をもつ者にはうれしいことですが、貧しいものには、その現状を破壊し、少しでも良い 方に変化をしたいのです。とかく人間社会では、戦争と平和のように、破壊と復興をくり 返しています。この願いが、シバ神への信仰となったのでしよう。 さて、このシバ神に多くの妃がいました。 , 彼の本性は、人・牛を好んで殺すという凶悪 な神ですから、彼が迎える妃たちは、皆それぞれに、特別な狂暴性をもっ女性から選んで ちょうあい いました。その妃たちの中に、彼が最も寵愛したウマーという女神がいました。 彼女はもと「雪山の娘」といわれ、山地の民族たちから崇拝されていた山の神でした。 彼女は、酒肉の供犠 ( 生きものを生きたまま供えること ) を好む女神でしたので、人々は いろいろの生きものをお供えしました。しかし、彼女が最もよろこび満足してくれるのが 人間の首です。これは、千匹の野牛の供犠よりも勝るというのですから、人々には恐ろし い女神です。 きさき シバ神は、このウマー神を后として迎えました。つまり彼女をそばにおくことは、人・ ン公牛の供犠が絶えないからです。しかも、雪のような肌をもっ美女ですから、それこそ酒肉・ 西 性欲と、悪の極をほしいままにして、人々を恐れさせていたのです。 絵 この人々の苦しみを知ったお釈迦さんは、阿閾如来に祈願して降三世明王に変身しても 、不 らい、シバ神とウマー神を降伏させたのです。それには、まず両神の貪 ( むさばり・どん しん 欲 ) ・瞋 ( 憎しみ・うらみ・立腹 ) ・癡 ( 愚痴 ) を完全に封じ込め、過去・現在・未来の三 マ み世にわたって消滅させたのです。 この降三世明王の働きによって、両神はざんげ改心して三宝 ( 仏・法・僧 ) に帰依しま した。そしてシバ神は、疫病から救済する医師のように、慈愛仁徳の神となり、仏法を守 だいじざいてん 護する大自在天になりました。 また一方のウマー神は、家庭円満を守る慈悲深い女神になったということです。
いたのです。 さて燈籠木の火は、やがて火勢が盛りを過ぎるかと思われる頃、突然柱が倒されて、火 かたまり の塊となった笠は地上に落下します。すると長い棒を持った人達が現れて、一斉に棒の 先で火を広げ、地上を火の海にします。現在では危険防止のため、燈籠木はあらかじめ設 定された方角に倒れるようにしてありますが、昔はどの方向に倒れるかわからず、倒れた 方角に当たる田畑が、その年豊作になるとされていました。その理由は、柱の倒れた方向 に御神火が落下するわけですから、その神の霊力の、より強い場所が豊作になると信じら れたのです。そして落下した火を地上に広げるのは、地上に迎えた神霊を、より広い土地 に行きわたらせようとする行為であったのです。 古代信仰と不動尊 このように松上げは、神籬に迎えた神霊を大地に導き、豊穣を願う行事であったのです が、それを地蔵盆に行うのは、地蔵が「大地に諸宝を蔵す」という大地豊穣の神であるか らでした。しかし少々奇妙に思われることは、ここでは天津神から国津神へという神霊の 転換が見られることです。だがこれに似たものに、春に山から神を田に招き、秋に再び山 いわくら へ帰す「山の神信仰」があります。また第 7 巻には、神籬と磐座を一体化し、十一面観音 と地蔵を合体した長谷寺観音のことを書きましたが、昔の人達は、天の神と地の神が一体 となって、幸せをもたらして下さると信じていたのです。そして、天からこの神籬に降臨 ひ する神霊を、光り輝く火炎で象徴したのが松上げですが、その火は陽で、太陽霊だと考え られていました。つまり神籬の上に輝く火炎は、天にいます天津神の主神である太陽神の 分身や使者と思われていたのですが、これに似た思想のほとけに不動明王があります。 この明王は、本来ヒンズー教の神でありましたが、仏教にとり人れられ、密教では大日 如来の使者とされています。つまり、太陽のほとけさまの使いが、火炎の神の不動明王、 というわけですから、松上げの火と同様な意味を持った明王です。このように、火炎を太 陽の分身や使者とする思想は、インドも日本も共通ですが、古代の中国では、「積陽の熱気 みつきよう
えなんじ が久しくたって、そこに火が生じ、その火気の精が太陽である」 ( 淮南子・天文訓 ) として いますから、ここにも同じ思想が見られます。ところがこの火炎の明王は、本場のインド や中国では余り崇拝されず、日本で盛んに信仰されるようになりました。 ひえいざんせんにちかいほう 日本の不動信仰は、山岳仏教と深いかかわりを持っています。例えば比叡山の千日回峰 ぎよう ぎようじゃ 「笠」も不動尊だとされていますが、 行では、行者は不動明王の出現を願い、頭にいただく じゅはう しゅげんしゃ 不動崇拝を普及したのは、古来の山岳信仰に、密教的呪法をとり入れた修験者たちでした。 しゅう ところで笠といえば、松上げに火を付ける榾も笠と呼びますが、中国最古の天文数学書『周 かたち ひさんけい 髀算経』には、「円形の笠によって天の形を象どることが出来る」とあります。日本では笠 みかさ のような形をした山は神聖な神山で、大和の三輪山や御蓋山、京都の比叡山などが日の出 の山として著名ですが、こうした山々が崇拝されるのは、太陽霊をいただく天の形の山と 考えられたからでしよう。そしてこうした山の信仰からは、笠↓天↓太陽↓不動尊、とい った連想が生まれます。不動信仰が、こうした山岳信仰と関係があると考えると、これが 日本で普及した理由がうなずけるのではないでしようか。 たた 日本古来の神々は、恵みをもたらすという優しさの反面に、祟るという荒々しい性格を かんばっ 持っています。だが祟りと恵みは表裏一体で、例えば日照りが続けば旱魃に、降雨が過ぎ 笠れば水害が起こります。ところが、これが上手にコントロール出来れば恵みがもたらされ るわけですから、荒ぶる神々に祈願をして来たのです。そうした人々にとって、火炎を背 よ、つぼうかしし に、剣を手にした容貌魁偉な不動尊は荒ぶる神の姿でしたが、これを崇敬し、礼拝する信 者にとってこの御姿は、たのもしい守護神と見えたに違いありません。不動尊は、一般に のはこうした荒ぶる火神の姿ですが、東寺講堂の不動明王からは、不思議とこうした荒々し さは感じません。むしろ、何か大らかな、包み込まれるようなあたたかさをさえ感じます。 そういえば、不動尊を取り巻く他の四体の明王像も、その恐ろしいお顔とは裏腹に、身体 はふくよかで、まるで慈母のような優しさに満ちています。日本の不動信仰は、この五大 明王から始まったとされていますが、これらの御像を拝しておりますと、神々に恵みを祈 願した、遠い祖先の想いがよみがえって来るように思えるのです。