~ 五大明王 魅惑の仏像Ⅱ五大明王京都・教王護国寺 魅惑の仏像Ⅱ 五大明王 魅惑の仏像 十一面観音 ( 奈良・室生寺金堂 ) Ⅱ・五大明・王 ( 京都・教王護国寺講堂 ) ①阿修羅 ( 奈良・興福寺 ) ( 奈良・興福寺 ) 2 千手観音 ( 奈良・唐招提寺金堂 ) 不空索観音 ( 奈良・東大寺法華堂 ) 天燈鬼・竜燈鬼 如意輪観音 ( 京都・宝菩提院 ) 1 金剛力士 ( 奈良・興福寺 ) 3 釈迦三尊 ( 奈良・法隆寺金堂 ) ( 京都・神護寺本堂 ) 薬師如来 Ⅱ百済観音 ( 奈良・法隆寺 ) 弥勒菩薩 ( 京都・広隆寺 ) ( 奈良・薬師寺金堂 ) 一一十八部衆 ( 京都・妙法院三 + 三間堂 ) 圃如意輪観音 ( 大阪・観心寺 ) 仏 3 薬師三尊 ( 奈良・室生寺弥勒堂 ) 釈迦如来 1 風神・田神 ( 京都・妙法院 = 一十三間堂 ) 惑 3 四天王 ( 奈良・東大寺戒壇堂 ) ( 奈良・中宮寺 ) ( 京都・平等院鳳凰堂 ) 如意輪観音 雲中供養菩薩 《⑦十一面観音 ( 滋賀・向源寺 ) ( 奈良・円成寺多宝塔 ) 大日如来 ( 京都・平等院鳳凰堂 ) 感主観日 ( 奈良・薬師寺東院堂 ) 8 阿弥陀如来 ( 京都・神護寺多宝塔 ) ( 奈良・新薬師寺 ) 四五大虚空蔵菩薩 ⑨十二神将 ( 兵庫・浄土寺浄土堂 ) 匯盧舎那仏奈良・唐招提寺金堂 ) 阿弥陀三尊 写真 小川光一 西村公朝 西川杏太郎 小川光一 小川瞳 特別寄稿 岩橋政寬 毎日新聞社 定価本体 1 , 942 円十税 ①毎日新聞社① I S B N 4 ー 6 2 0 ー 6 0 4 9 1 ー 7 C 0 6 71 \ 1 9 4 2 E 装幀・松本芳和
京都・教王護国寺講堂 鑑賞のガイド 一切の魔障を砕く五大尊・ 密教彫像の精華、五大明王 火祭りと不動信仰・ 教王護国寺 ( 東寺 ) の沿革史・ 教王護国寺 ( 東寺 ) の年表・ 「五大明王像」一覧・ ヘム 孑市 教王護国寺 ( 東寺 ) 伽藍復原図 ワ〕 . っ 0 LO 0 講堂内陣 8 , 、 . 1 LO Q.C 教王護国寺 ( 東寺 ) 史 五大明王目次や 4 4 : 西村公朝 : ・西川杏太郎 : ・ ・ : 岩橋政寬・
伽藍眺望 一〇五五年 ( 天喜三年 ) 八月五重塔、雷火により焼亡。仏像及び八幡三所御体を金堂の西庇に安置 一〇八〇年 ( 承暦四年 ) 五重塔その他の造営に着手 らつけいくよう 一〇八六年 ( 応徳三年 ) 八月五重塔竣工。十月落慶供養 しやりえ 一一〇三年 ( 康和五年 ) 舎利会が始まる。仏舎利安置の五輪塔を造る ぎしかくにん 平一一二七年 ( 大治二年 ) 三月宝蔵炎上し、宝物多数焼く。五大尊、十二天等。皹儀師覚任、五大尊、 十二天を制作 もんがく 一一八九年 ( 文治五年 ) 文覚、東寺の修造を始める 一一九七年 ( 建久八年 ) 文覚、五重塔・金堂・講堂・八幡宮・南大門を修造。運慶一門、講堂諸尊像・ 南大門仁王像・中門持国天・増長天像を修理 こうしよう 一二三三年 ( 天福元年 ) 十月仏師康勝、新作の弘法大師像を西院に安置する ぎようへん 一二三九年 ( 暦仁二年 ) 一月宣陽門院、大和国平野殿庄を行遍を通して東寺に寄進 いよのくにゆげのしましよう 一二三九年 ( 延応元年 ) 十二月宣陽門院、伊予国弓削嶋庄を東寺に寄進する ぐそう 一二四〇年 ( 延応二年 ) 弘法大師像を西院北西に移し、御影供を勤む。このため五ロの供僧をおく 一二四二年 ( 仁治三年 ) 行遍、唐本大般若経六百巻を西院に納む。このころ宣陽門院所持の宋版一切 経七千余巻 ( 車六輛 ) 寄進 倉一二七〇年 ( 文永七年 ) 四月五重塔炎上 一二七八年 ( 弘安元年 ) 八月塔の再建を始める 一二八五年 ( 弘安八年 ) 二月塔上棟 かんてんおう 一二九三年 ( 永仁元年 ) 塔竣工。新塔の塔内に両界諸尊・八天・八龍・八祖を描く。筆者感典主 一二九六年 ( 永仁四年 ) 両界曼荼羅図 ( 永仁本 ) を描く。筆者感典主、永仁七年宝蔵に納む ぜんじよ 一三〇八年 ( 徳治三年 ) 一月後宇多上皇、禅助僧正より灌頂を受け、東寺興隆條々事書一巻を賜う でんぼうえしゅう 一三一二年 ( 応長二年 ) はじめて七ロの伝法会衆を置く。これにより教学興隆す かみかつらのしようはりまのくにやのしよう はいしのしよう 一三一三年 ( 正和二年 ) 十二月後宇多上皇、山城国拝師庄・同上桂庄・播磨国矢野庄・八条院町 たっちゅうこん 十三カ所を東寺に寄進される。これにより十五あるいは二十一の塔頭が建 りゅう 一三一五年 ( 正和四年 ) 二季伝法会始まる 一三二六年 ( 正中三年 ) 三月後醍醐天皇、最勝光院、宝荘厳院の寺院とその荘園を寄進される
れた六体と共に、二十一体の群像がもとのように安置されているのです。 密教道場の尊像 横に長い講堂の中に、十八本の円柱に囲まれた大きな壇があり、その中央に、大日如来 一一像を主尊とする五体の如来像が安置されています。これは密教で最も重要な金剛界の五仏 ′」ちによらい で、五智如来と呼ばれています。これらはみな十五世紀の火災のあとで後補されたもので こんごうはらみつぼさっ す。その向かって右側には金剛波羅蜜菩薩を中心とする五大菩薩像 ( 中尊は後補、他は創 ごだいみようおう 、、菩建時の貴重な像、国宝 ) が、また向かって左側には、不動明王を中心とする五大明王像 ( 国 ぼんてんたいしやくてん 宝 ) が安置され、壇の左右の端に梵天と帝釈天像 ( 国宝 ) 、壇の四隅に四天王像 ( 国宝 ) 一一。国が、この仏壇のガードマンとして安置されています。 実に整然とした配置で、これを図にあらわしてみると、まるで曼荼羅のようにみえます。 この配置はおそらく空海が考えた独特の構想によるものだと思います。中央の五智如来は じしようりんしん ほレ」け . 仏そのもの、つまり密教で「自性輪身」と呼ばれるもので、この仏が菩薩の姿となって優 しようぼうりんしん しく、正しい法を説くという「正法輪身」、また仏の教えに従わない悪をこらしめ救うた きようりようりんしん めに怒りの姿となった五大明王つまり「教令輪身」の、密教で説明する仏の三種の姿を 一つのお堂の中にまとめ、曼荼羅のように安置しているのです。 このように四角いプランの中にキチンと仏像を整列させたような安置の仕方は、天平時 代のお寺にはまったく見られなかった密教独特のものです。 これら二十一体の像が安置されている薄暗い講堂の中に入って行くと、厳しく暗く、し かもピーンと空気がはりつめているような身の引きしまる緊張感があります。これが密教 拡の神聖な道場ならではの雰囲気なのだと思います。 怒りとカの明王像 五大明王像をよく拝んでみましよう。ちょっと観ただけで、顔がいくつもあったり、手 足が何本もある異様なこわい像のあることに気づきますが、これらは、もとはインドのヒお
れいさい 全国各地に伝わります。庶民の大師信仰の端的なあらわれは、一反・二反という零細な土 「一地が御影堂へ寄進されていることからもわかります。一二四四年 ( 寛元一一年 ) 、一三〇一一一年 かげん ( 嘉元元年 ) の年号のある寄進状があります。 南北朝以降 かんむ かんじよう 寺伝には東寺の八幡宮は桓武天皇が帝都鎮護のために勧請されたとあり、嵯峨天皇は薬 子の乱の時、大師と共に八幡宮に戦勝を祈願されました。戦後その御礼のため官社をとと あしかがたかうじ のえ、大師自ら神像を彫刻されたのが今に残っています。足利尊氏が大軍をもって九州か えんげん ら上洛し、一三三六年 ( 延元元年 ) 六月、光厳上皇を奉じて東寺に入り本陣とします。臨 時の朝廷と幕府が東寺に設けられるわけです。その六月の末に尊氏の運命を決する合戦に かぶらや + 際し、東寺の八幡宮社殿から鏑矢が敵陣に飛んでいき、それによって勝っことができたと かみしもくぜのしよう いうことです。これは八幡さんのおかげということで、都の上、下久世荘を八幡宮に寄進 すると同時に、もともと源氏の氏神でもあったので、室町幕府は代々東寺の保護に尽くし だいはんにやてんどく 落ています。現在、東寺において毎月修される大般若転読や、お火たき等はこの時から始ま 蒲っているということです。 また、室町時代から戦国時代になると大師信仰も一層、大衆の間に浸透していきます。 せんく 現在の毎月二十一日の弘法さんの起源は江戸時代になっていますが、その先駆は室町時代 にまでさかのばることができるよ , つです。 だん こんりゅう 東寺を根本道場とするにあたって、大師は講堂の建立に力をそそがれます。堂内に壇を ぼんてん ぼさっ きずき、その上に二十一体の仏像を置かれます。五仏・五菩薩・五大明王・四天王・梵天・ しゅじよう 帝釈天です。これは仏の世界と、そこに生きる衆生をあらわしております。それによって さと 拝む人々に、浄土と、およびその生活を悟らせることを目的としています。 りたぎようきようけ だいじようぶつきよう 国土と衆生は仏教の中心課題です。特に大乗仏教になると利他行、教化衆生に重点がお かれ、衆生も一切の衆生を目標にします。五大明王は殆んど教化不可能な衆生を相手に戦 っておられる姿として受けとると、納得がいきます。人間理解なしに教化はできません。 をー亂一 / ( 4 当第 たいしやくてん こ こうごん ちんご くす
ましよ、フ 0 一一切の魔を五大尊 優しい顔や姿では : ′、、つ力し みつきよう まレ」け・ 空海は、中国で密教を学んで帰りました。それによりますと、広の世界では大きく五つ と、つかっ の国に分け、各国をそれぞれに統轄している仏たちがおられるというのです。 だいにちによらい あしゆく ほうしよう あみだ 中央は大日如来、東方には阿閾如来、南方には宝生如来、西方には阿弥陀如来、北方に ふくうじようじゅ ごち は不空成就如来で、これらを五智如来といっています。 ところが、この五如来の分け方はあくまで便宜的であって、実はここでいう中央とは、 仏界の全体を意味していますので、大日如来とは、他の四如来の合体した姿であり、また 四如来とは、大日如来の分身であるともいうのです。 仏教では、私たちは、仏界の中にいるといっています。これを密教流でいいますと、私 たちは、大日如来に包まれ抱かれているということであり、そのことはまた、四方の四如 来に抱かれていることにもなるのです。 しやば しかし現実的には、私たちの住むこの娑婆世界には、 ) しろいろの悪魔がいます。その悪 魔たちに、私たちは苦しめられるのです。その私たちを、優しく見守って下さっているの が、この五智如来だといわれています。 ところが悪魔たちにとっては、五智如来のような優しい顔や姿では、その悪行は止まり ません。むしろその仏たちの前で、平気で私たちに悪いことをするのです。 そもそも仏とは、善人も悪人も、すべてを救ってやりたいというのが本性です。しかし ごだいそん 西村公朝
胎蔵界曼荼羅図より 南北朝 時代 教王護国寺 ( 東寺 ) の歴史 しんかんごしようそく 一三三三年 ( 元弘三年 ) 建武政権成立。九月後醍醐天皇宸翰御消息一巻を賜う 一三三四年 ( 建武元年 ) 九月五重塔落慶供養 ( 四十一年前竣工の塔 ) 。後醍醐天皇塔供養御願文一巻 供養のため十二天図修理、法会所用具類のうち持物七本、新写御経等奉納 しようりゅうわじよう 一三三五年 ( 建武二年 ) 弘真、青龍和尚香染袈裟一帖を西院施入 あしかがたかうじこうごん 一三三六年 ( 建武三年 ) 六月足利尊氏、光厳上皇を奉じて入洛し、東寺に陣する そうしつ しようらい 一三四一年 ( 暦応四年 ) 十一月東寺所蔵の聖教、兵乱によりて喪失、よって寺僧等空海請来の経論 章疏を書写、貞和元年まで前後五カ年に及ぶ 一三四二年 ( 暦応五年 ) 寛恵、後七日御修法勤仕。この時両界曼荼羅乙本施入 しゅじ しようそんほうしんのう ちゅうしゆっ 一三四八年 ( 貞和四年 ) 十月新たに梵鐘成る。四面に四仏種子 ( 聖尊法親王筆 ) を鋳出する よしあきら ′」うほ、つ 一三五二年 ( 観応三年 ) 四月足利義詮、東寺に山城国植松庄を寄進する。五月杲宝、東宝記を編 集。草本とも十二巻及び一冊 ( 巻八奥書 ) かいこう 一三五四年 ( 文和三年 ) 十二月東寺修造作所火あり、尊氏、大勧進会皎に再建させる 一三六一年 ( 康安元年 ) 六月近畿大地震、講堂傾き仏像破損する 町一三六二年 ( 康安二年 ) 七月杲宝寂 かんぶ 一三六八年 ( 応安元年 ) 室町幕府、東西九条を東寺に還附し、講堂の修造費にあてる。十二月宝蔵 の両界曼荼羅・五大尊・十二天等を修復する 一三六九年 ( 応安二年 ) 七月京都地震、講堂傾く えうん 一三七六年 ( 永和二年 ) 二月惠運請来の五大虚空蔵を観智院に奉遷修理する 一三七九年 ( 康暦元年 ) 十二月西僧房より出火、西院・子小坊・僧房二宇・東西唐門・西大門等焼 ぎようじようえことば 紙本着色弘法大師行状絵詞十二巻を応安七年より絵師六人参加して完成 一三八〇年 ( 康暦二年 ) 六月西院造営を始める。七月立柱上棟。十一月造営成る 一三八八年 ( 嘉慶二年 ) 二月観智院に小堂造立。五大虚空蔵菩薩を安置する 一三九三年 ( 明徳四年 ) 十二月歴代天皇尊崇の二間観音、宮中より東寺に移る ちんじゅ 一四〇八年 ( 応永十五年 ) 八月鎮守八幡宮の修造を始む 西暦 ( 和暦 ) かたむ
悪人が善人を苦しめるとき、その善人を救うのが優先です。だから五智如来は、私たちを ふんぬぎようそう 守るために、悪魔に立ち向かうとき、それこそ恐ろしい忿怒の形相となるのです。つまり 五如来は、それぞれに明王の姿へと変身するのです。 あしゆく ほうしよう ぐんだり あみだ ごうさんぜ 大日如来は不動明王に、阿闔如来は降三世明王、宝生如来は軍荼利明王、阿弥陀如来は ふくうじようじゅ こんごうやしゃ 大威徳明王、不空成就如来は金剛夜叉明王にと変身するのです。その彼らを五大尊、また しいます。 は五大明王とゝ ほつりき つまり五大明王とは、五智如来がもっそれぞれの法力を、強力な形で、私たちに働きか けて下さるときの姿です。その五如来の法力と、明王の働きをつぎに簡単に説明しておき ましょ一つ。 剣は魔を断ち切る 大日如来は、仏界全体の姿ですから、私たちにとっては、ありがたい極楽国のようなも のです。これが不動明王に変身しますと、その働きは積極的です。 ぼだい 彼は経典の中で「わが身を見るものは菩提心 ( 仏道に入る心 ) を起こし、わが名を聞く 松ものは、悪を断ち善を修し、わが説を聞くものは大智恵を得、わが心を知るものは即身に 成仏 ( 悟りを開く ) する」といっています。 また彼は、いつも右手に魔を断ち切る剣をもち、左手には、悪魔を逮捕、また水火の中 さく で苦しむ私たちに投げかける、救いの投げ縄のような索をもっています。 阿閃如来は、この美しい仏界が、いついつまでも不動であり不変であることを守る法カ をもっています。これが降三世明王に変身しますと、いろいろの武器 ( 仏器 ) をもって悪 ましよ、つぼんのう 魔に向かい、あらゆる魔障煩悩を打ちこわし、すべての汚れを取り去って、美しい菩提心 を起こさせるように働きかけるのです。 この明王が像として造られるときには、男女を両足で踏みつけている表現にします。こ れには、おもしろい話がありますので後述します。 なわ
しくひるがえらせ、ポーズも自由にかえながら、一組の群像として見事な統一がとれてい ます。 槙材を刻んで造った木彫像ですが、頭から体にかけての主要な部分が一木から刻み出さ ふた れ、材が乾燥した時に割れるのを防ぐため、後頭部と背中に穴をあけて像内を刳り、蓋を 当てています。そしてこの一材からはみ出す両手や衣の端などに別の槙材が矧ぎつけられ た、一木造りで出来ています。面白いのは、水牛に坐る大威徳明王で、本体の頭から体、 そして像の下の水牛の胴だけが一木で刻み出され、その材からはみ出す、水牛の前と後ろ に別の材を継いでいるのです。そして木彫の表面には漆が全面に塗られて地固めが行われ、 まっこう 髪の毛や胸飾りその他の細かい部分は、漆に木の粉や抹香を混ぜて練った木屎漆で整形し てんびよう ています。この技術は、天平時代の乾漆造の技術なのです。東寺を造営したエ人の中には、 ぞうぶっしょ 多分、もと東大寺の造仏所で働いていた人たちも多くいたと想像され、その人たちによっ て天平の技術が、ここに伝えられたと考えることが出来るでしよう。 さいしき こうして仕上げた像身には、美しく彩色が施されていたのです。はじめに述べたように、 何回か修理がくり返されているので、木彫の技法にも彩色の細部にもはっきりわからない あざ うんげん 所が多いのですが、造られた時は五大明王像の体は全体が青く、衣にはさぞ鮮やかな繧繝 きりかねもんよう ( 段々のポカシ ) 彩色や截金文様が飾られていたことと思います。 のち 五大明王はもとはそれぞれ独立して造られた像ですが、後に一組に組み合わされたもの なのです。インドや中国では、五大明王として一組となった作例は残っておらず、中国か ほうぐ 像ら伝えられた密教儀式に用いる法具の中に五大尊つまり五大明王の姿を浮彫りであらわし 針た鈴が残されているだけで、つまり、この講堂安置の五大明王の彫像は、インド、中国、 ・ー、、・」。 - 鷺、 ( 「そし日本を通じミ現存する最古 0 例と」う = と」なります。 寺教王護国寺には講堂の仏像のほかに、国宝になっている名像がいくつもあり、またこの 寺の歴史と信仰を知る上で大切な絵画や工芸品、それにお経や古文書などがあります。こ しの れらを拝観し、弘法大師を偲び、またいまも真言道場としての厳しさを秘めたこの寺の雰 囲気を十分に味わって頂きたいと思います。 まき いちぼく じがた こくそ
胎蔵界曼荼羅図より 一四一八年 ( 応永一一十五年 ) 九月五重塔の修理事始め。心柱を引く 一四三〇年 ( 永享二年 ) 七月五大虚空蔵菩薩像修理 一四三六年 ( 永享八年 ) 六月五重塔、落雷により損傷。十月修理事始め。十二月修理完了 一四四一年 ( 嘉吉元年 ) 九月土一揆、東寺にこもる 一四四四年 ( 文安元年 ) 五月東寺修理の官符を下す 一四五四年 ( 享徳三年 ) 十二月土一揆、東寺を破る 町一四六一年 ( 寛正二年 ) 六月法眼康永、東寺大仏師職に補せられる 室一四六二年 ( 寛正三年 ) 六月幕府、東寺を修造す 山一四六五年 ( 寛正六年 ) 十一月土一揆、御影堂に乱入する 一四六七年 ( 応仁元年 ) 九月戦乱によりて東寺相伝の道具類を醍醐寺に疎開 一四八一年 ( 文明十三年 ) 八月弘法大師絵詞三帖買入れ 一四八四年 ( 文明十六年 ) 九月土一揆のため、金堂・講堂・鐘楼・経蔵・八幡宮・中門・南大門焼亡。 十二月講堂の仏像十六尊を食堂に安置す 一四八七年 ( 文明十九年 ) 一一月八幡宮造営事始め 一四八九年 ( 長享三年 ) 五月官符を下し、講堂以下諸堂宇を再建せしむ 一五六三年 ( 永禄六年 ) 四月五重塔、雷火により焼亡す おおまんどころ だんしゅ おうご 一五九三年 ( 文禄二年 ) 五重塔、大政所 ( 秀吉の母 ) を檀主として、応其これを造り終わる 一六〇三年 ( 慶長八年 ) 五月金堂竣工 一六三五年 ( 寛永十二年 ) 十二月五重塔焼失 一六四四年 ( 寛永二十一年 ) 七月五重塔竣工 江一八九七年 ( 明治三十年 ) 古社寺保存法により、金堂、五重塔、真言七祖像、風信帖、弘法大師請来目 録等、国宝に指定。翌年、西院大師堂 ( 御影堂 ) 国宝に指定 一八九九年 ( 明治三十二年 ) 兜跋毘沙門天立像、弘法大師行状絵詞、国宝に指定 一九〇一年 ( 明治三十四年 ) 五大明王像 ( 講堂安置 ) 、五大虚空蔵像、国宝に指定 一九四〇年 ( 昭和十五年 ) 金堂、解体修理 一九五三年 ( 昭和一一十八年 ) 講堂、南大門、解体修理 ほ、つげ・んこうえい ( 岩橋政寬 )