136 「何かの葬式みたいだ。 鼠は笑った。そして一一人は何も言わすにコーラとビールを飲んだ。テープルに置いた鼠の腕の 時計が不自然なほどの巨大な音を立て始める。十一一時三十五分、おそろしく長い時間が流れてし まったようでもある。ジェイは殆んど動かなかった。鼠はジェイの煙草がガラスの灰皿の中で吸 口まで灰になって燃え尽きるのをじっと眺めていた。 「何故そんなに疲れたんだい ? と鼠は訊ねてみた。 「さあね ? 」とジェイは言って、思い出したように足を組みかえた。「理由なんて、きっと何も ないんだろう。」 鼠はグラスに半分ばかりビールを飲み、ため息をついてそれをテープルに戻した。 「ねえジェイ、人間はみんな腐ってい そうだろ ? 」 「そうだね。」 「腐り方にはいろんなやり方がある。」鼠は無意識に手の甲を唇にあてる。「でも一人一人の人間 にとって、その選択肢の数はとても限られているように思える。せいせいが : : : 二つか三つだ。」 「そうかもしれない。」 泡を出しきったビールの残りは水たまりのようにグラスの底に淀んでいた。鼠はポケットから 薄くなった煙草の箱を取り出し、最後の一本を口にくわえる。「でも、そんなことはどうでもい
「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何 もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひど すぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解でき ない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言っ たっていいかもしれないね。」 鼠はビール・グラスに目をやったまま、もう一度首を振った。「俺にはどうもわからない 「いいんだよ。わからないで済めば、それに越したことはないのさ。」 ジェイはそう一一一口うと、暗いがランとした客席に向けて煙草の煙を吹いた。そして白い煙が空中 にすっかり消えてしま、つのを見届けた。 一一人は長いあいだ黙っていた。鼠はグラスを眺めてばんやりと考え込み、ジェイは相変らずカ ウンターの板を指でこすりつつけた。ジューク・ポックスは最後のレコードを流しはじめる。 ノラードだった。 ファルセット・ポイスの甘いソウル・ヾ 「ねえ、ジェイ。」と鼠はグラスを眺めたまま言った。「俺は一一十五年生きてきて、何ひとっ身に つけなかったような気がするんだ。 ジェイはしばらく何も言わすに、自分の指先を見ていた。それから少し肩をすばめた。
「初めて見た時から東京の景色って好きになれなかったわ。 「そう ? 」 あなたは ? 「土は黒すぎるし、川は汚ないし、山もないし : 「景色なんて気にしたこともなかったな。」 彼女はためいきをついて笑った。「あなたならきっとうまく生き残れるわ。」 駅のフォームに荷物を置いたところで、彼女は僕に向っていろいろありがとう、と言った。 「あとは一人で帰れるわ。 荷処まで帰る ? 「ずっと北の方よ。」 「寒いだろうね。」 「大丈夫よ、慣れてるもの。」 ポ電車が動き出すと彼女は窓から手を振った。僕も耳のあたりまで手を上げたが電車が消えてし のポケットにつつこんだ。 まってから手のやり場に困ってそのままレインコート の 年 雨は日が暮れても降り続けていた。近所の酒屋でビールを一一本買って、彼女にもらったグラス に注いで飲んだ。体の芯までが凍りついてしまいそうだった。そのグラスにはスヌーピーとウッ ドストックが大小屋の上で楽しそうに遊んでいる漫画が描かれ、その上にはこんな吹き出し文字
165 ターの羽目板にビールの冷たい露がたまったのを彼は紙ナプキンで拭き取った。 「何時たつんだい ? 「明日、あさって、わからないな。多分この三日のうちだろう。もう用意はしてあるんだ。」 「すいぶん急な話だね。 「うん : あんたにもいろいろと迷或ばかりかけた。」 「ま、いろいろあったものね。 , ジェイは戸棚に並んだグラスを乾いた布で拭きながら何度も肯 いた。「でも過ぎてしまえばみんな夢みたいだ。 「そうかもしれない。でもね、俺が本当にそう思えるようになるまでにはすいぶん時間がかかり そうな気がする。」 ジェイは少し間をおいて笑った。 一「そうだね。時々あたしはあんたと二十も歳が離れてるのを忘れちまうんだよ。」 ン鼠はビールの残りをグラスに空け、ゆっくり飲んだ。こんなにゆっくりとビールを飲んだのは の初めてだった。 「もう一本飲むかい ? 」 鼠は首を振った。「いや、 のさ。」 これが最後の一本てつもりで飲んだんだ。ここで飲むビール
137 いような気がし始めた。どのみち腐るんしゃないかってね、そうだろ ? 」 ジェイはコーラのグラスを傾けたまま、黙って鼠の話を聞いていた。 「それでも人は変りつづける。変ることにどんな意味があるのか俺にはすっとわからなかった。」 鼠は唇を噛み、テープルを眺めながら考え込んだ。「そしてこう思った。どんな進歩もどんな変 化も結局は崩壊の過程に過ぎないしゃないかってね。違うかい ? 」 「違わないだろう。」 「だから俺はそんな風に嬉々として無に向おうとする連中にひとかけらの愛情も好意も持てな 、カオ : この街にもね。」 ジェイは黙っていた。鼠も黙った。彼はテープルの上のマッチを取り、ゆっくりと軸に火を燃 え移らせてから煙草に火を点けた。 「問題は、とジェイが言った。「あんた自身が変ろうとしてることだ。そうだね ? ポ ン「実にね。」 のおそろしく静かな何秒かが流れた。十秒ばかりだろう。ジェイが口を開いた。 「人間てのはね、驚くはど不器用にできてる。あんたが考えてるよりずっとね。」 鼠は瓶に残っていたビールをグラスに空け、一息で飲み干した。「迷ってるんだ。」 ジェイは何度か肯いた。
166 まるで闇の中の透明な断層を滑るように風は音もなく流れた。風は頭上の樹々の枝を微かに震 わせ、その葉を規則的に地上に払い落とす。車の屋根に落ちた葉は小さな乾いた音を立て、しば らく屋根の上を彷徨ってからフロント・グラスの傾斜をつたってフェンダーに積った。 霊園の林の中で鼠は一人、あらゆる一一一一〔葉を失くしたままフロント・グラスの奥を眺めつづけて いた。車の何メートルか前方で地面はすつばりと切り落とされ、その先には暗い空と海と街の夜 景が広がっていた。鼠は前かがみになって両手をステアリングに載せたまま身動きひとっせすに 空の一点をしっと眺めていた。指先には火の点いていない煙草がはさまれ、その先端は空中に幾 「もう来ないのかい ? 「そのつもりだよ。辛くなるからさ。」 ジェイは笑った。「またいっか会おう。 「今度会った時には見分けがっかないかもしれないぜ。 「匂いでわかるさ。」 鼠はきれいになった両手の指をもう一度ゆっくりと眺め、残った落花生をポケッ み、紙ナプキンでロを拭ってから席を立った。 OI トにつつこ
164 「この街しやだめなのかい ? 」 「だめさ。」と鼠は言った。「ビールが欲しいな。」 「あたしが奢るよ。」 「有難く受ける。 鼠は氷で冷やされたグラスにビールをゆっくりと注ぎ、一口で半分ばかり飲んだ。「何故ここ じゃだめなのかって訊かないのかい ? 」 「わかるような気はするからね。」 鼠は笑ってから舌打ちした。「なあ、ジェイ、駄目だよ。みんながそんな風に問わす語らすに ・査〕てつ 理解し合ったって何処にもいけやしないんだ。こんなこと言いたくないんだがね : も余りに長くそういった世界に留まりすぎたような気がするんだ。 「そうかもしれない。 しばらく老ノえてからジェイはそ、 2 言った。 鼠はビールをもう一口飲んでから、右手の爪を切り始めた。「すいぶん考えたんだ。何処に行っ たって結局は同じじゃないかともね。でも、やはり俺は行くよ。同じでもいい」 「もう帰って来ないのかい ? 「もちろんいっかは帰って来るさ。いっかはね。別に逃げ出すわけしゃないんだもの。」 鼠は小皿の落花生のしわだらけの殻を音を立てて割り、灰皿に捨てた。磨き込まれたカウン
鼠は煙草をくわえたまま唸った。ジューク・ポックスがカチリと音を立てて、レコードを 「マッカーサー ーク」にかえる 「ねえ、猫はどんなことを考える ? 」 「いろいろさ。あたしゃあんたと同じだよ。」 「大変そうだな。」鼠はそう言って笑った。 ジェイも笑った。そしてしばらく間をおいて、指先でカウンターの表面をこすった。 「片手なんだよ。 「片手 ? 」鼠は訊き返す。 「猫のことさ。ビッコなんだよ。四年ばかり前の冬だったね、猫が血まみれになって家に戻って きたんだ。手のひらがママレードみたいにぐしゃぐしやに潰れてたよ。 鼠は手に持ったグラスをカウンターに置きジェイの顔を見た。「どうしたんだい ? 「わからないよ。車に轢かれたのかとも思った。でもわ、それにしちやひどすぎるんだ。タイヤ ン のに轢かれたぐらいしや、そんなにはならない。ちょうどね、万力にかけられたような具合だった 年 ね。まるつきりのペシャンコさ。誰かが悪戯したのかもしれない。」 「まさか。」鼠は信じられないように首を振った。「いったい誰が猫の手なんて : ジェイは両切の煙草の先を何度かカウンターで叩いてから、ロにくわえて火を点けた。
「少々わ。」とジェイは言った。そしてしばらく黙っていた。「そんな日だってあるさ。誰にでも ある。 鼠は肯いてテープルの椅子を引き、ジェイの向いに腰を下ろした。 「雨の日と月曜日には誰の心も暗くなるってね、歌にある。」 「まったくね。」ジェイは煙草をはさんだ自分の指をじっと眺めながらそう言った。 「早く帰って寝た方がいいぜ。」 いいんだ。」とジェイは首を振った。虫でも追い払うようなゆっくりとした振り方だっ た。「どうせ家に帰ってもうまく寝られそうもないからわ」 鼠は反射的に腕時計に目をやる。十一一時一一十分だった。物音ひとっしない地下の薄くらがりの ーの中には何 中で時間は死に絶えてしまったよ、つに田 5 える。シャッターを下ろしたジェイズ・ 一年ものあいだ彼が求めつづけてきたきらめきのかけらもなかった。全てが色あせ、そして全てが ン疲れ切ってしまっているようだった。 の「あたしにコーラをくれないかな。。とジェイが言った。「あんたはビールでも飲めばい、。 鼠は立ち上がって冷蔵庫からビールとコーラを取り、グラスと一緒にテープルに運んだ。 「音楽は ? とジェイが訊ねる。 「いや、今日は静かにやろう。」と鼠は言った。 135
110 「ジェイズ・ ー」は久し振りに客で込みあっていた。見覚えのない顔が殆んどだったがそれで も客は客というわけで、ジェイの機嫌は悪かろうはすもなかった。アイスピックが氷を砕く音、 オン・ザ・ロックのグラスを回す力チカチという亠日、笑い声、ジューク・ポックスのジャクソ ン・ファイヴ、漫画の吹き出しのように天井に浮かんだ白い煙、まるで夏の盛りがもう一度巡っ てきたような夜だった。 それでも鼠には、どうも何かが違っているように思える。彼はカウンターの端に一人でばつん と座り、開きつばなしになった本の同じページを何度も読み返してからあきらめて本を閉じた。 できることならビールの最後の一口を飲み干し、部屋に帰って寝てしまいたかった。もし本当に 眠れるものなら : その一週間ばかり、鼠はツキからもすっかり見放されていた。こま切れの睡眠とビールと煙 草、天候までが崩れ始めていた。山肌を洗った雨水が川に流れ込み、そして海を茶色とグレーの まだらに変えた。嫌な眺めだった。頭の中はまるで古新聞を丸めて押し込んだような気がする。 民りは土スく、 いつも短かかった。暖房がききすぎた歯医者の待合室のような眠りだった。誰かが