年 - みる会図書館


検索対象: 1973年のピンボール
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1. 1973年のピンボール

わたる。そして誰かの部屋のドアがこしで叩かれた。その音はいつも僕に死神の到来を思わせ た。どおん、どおん。何人もの人間が命を絶ち、頭を狂わせ、時の淀みに自らの心を埋め、あて 一九七〇年、そういった年だ。も のない思いに身を焦がし、それぞれに迷筬をかけあっていた。 し人間が本当に弁証法的に自らを高めるべく作られた生物であるとすれば、その年もやはり教訓 の年であった。 僕は一階の管理人室の隣の部屋に住み、その髪の長い少女は一一階の階段の脇に住んでいた。電 ト内のチャンピオンだったので、僕はつるつるとすべる 話のかかってくる回数では彼女はア。ハー っ 十五段の階段を何千回となく往復する羽目になった。まったく、実に様々な電話が彼女にかか てきた。丁重な声があり、事務的な声があり、悲し気な声があり、傲漫な声があった。そしてそ ポれぞれの声が僕に向って彼女の名を告げた。彼女の名前はすっかり忘れてしまった。悲しいほど ヒ平凡な名前、としか覚えていない。 の 彼女はいつも受話器に向って低い、疲れきった声でしゃべった。殆んど聞きとれないはどポソ ポソとした声だった。美しくはあるが、どちらかといえば陰気な感じのする顔立ちだった。時折 まるで奥深いジャングルの小径を白象 道ですれちがうことはあったが、ロをきいたことはない。

2. 1973年のピンボール

かな午後の光の中をゆっくりと、まるでエクトプラズムのように彷徨った。がラス板の下には銀 まるで夢のようだっ 行でもらった小さなカレンダーがはさみこまれている。一九七三年九月 : 一九七三年、そんな年が本当に存在するなんて考えたこともなかった。そう思うと何故か無 陸におかしくなった。 「どうしたの ? 」と 208 が訊ねた。 「疲れたみたいだな。コーヒーでも飲まないか ? こ一丁き、一人がカリカリと豆を碾き、一人が湯を沸かしてカップを暖めた。 一一人は肯いて台所ー彳 僕たちは窓際の床に一列に並んで腰を下ろし、熱いコーヒーを飲んだ。 「上手く行かないの ? 」と 209 が訊ねた。 「らしいね。」と僕は言った。 「弱ってるのよ。ー 2 0 8 荷が ? 」 「配電盤よ。 「お母さん大。」 僕は腹の底からため息をついた。「本当にそう思う ? 一一人は肯いた。

3. 1973年のピンボール

レイモンド・モロニーなる人物の名に心当たりのある方はますいるまい かってそのような人物が存在し、そして死んだ、とそれだけのことだ。彼の生涯については誰 も知らない。深い井戸の底のみすすましほどにしか知らない もっともピンボールの史上第一号機が一九三四年にこの人物の手によってテクノロジーの黄金 の雲の間からこの穢れ多き地上にもたらされたというのはひとつの歴史的事実である。そしてそ れはまたアドルフ・ヒットラーが大西洋という巨大な水たまりを隔てて、ワイマールの梯子の一 段めに手をかけようとしていた年でもあった。 さて、このレイモンド・モロニー氏の人生はライト兄弟やマルカム・ベルの如き神話的色彩に いろどられているわけではない。 む暖まる少年時代のエピソードもなければ、劇的なユリイカも ない。僅かに物好きな読者のために書かれた物好きな専門書の第一ページめにその名を留めるの みである。一九三四年、ピンポールの第一号機はレイモンド・モロニー氏により発明された、と。 ピンポールの誕生について

4. 1973年のピンボール

1973 年のビンポール これは「僕」の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。その秋、「僕」たちは七百キロ も離れた街に主んでいた。 ししと田 5 、つ。もし 一九七一二年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があれば、 なければ、文章を書く意味なんて何もない。 「悲しいの ? 」と片方が訊わた。 僕は黙って肯いた。 「お眠りなさい。」と片方が言った。 そして業は民っこ。 GI

5. 1973年のピンボール

1973 年のピンポール 双子を見わける方法はたったひとっしかなかった。彼女たちが着ているトレーナー・シャツで ある。すっかり色のさめたネイビー・プルーのシャツで胸には白抜きの数字がプリントされてい た。ひとつは「 2 け 8 」、もうひとつは「 209 」である。「 2 」が右の乳首の上にあり、「 8 」ま たは「 9 」が左の乳首の上にある。「 0 」はそのまんなかにポツンとはさみこまれていた。 その番号は何を意味するのか、と僕は最初の日に二人に訊ねてみた。何も意味しない、と彼女 たちは一一一口った。 シリアル・ナンパー 「機械の製造番号みたいだな。」 荷のこと ? と一人が訊ねた。 「つまりさ、君たちと同じようなのが何人も居てさ、その ZO ・ 208 と ZO ・ 209 ってこと い時には来年のことが昨日のことのように思えたりもした。一九七一年九月号の「エスカイヤ」 に載っているケネス・タイナンの「ボランスキー論」を訳しながら、すっとポール・べアリング のことを考えたりもした。 何カ月も何年も、僕はただ一人深いプールの底に座りつづけていた。温かい水と柔らかな光、 そして沈黙。そして、沈黙 : GI

6. 1973年のピンボール

1973 年のヒ。ンポール れに、もし誰か一人に説明すれば他のみんなも聞きたがるかもしれない。そのうちに世界中に 向って説明する羽目になるかもしれない、そう考えただけで鼠は心の底からうんざりした。 「中庭の芝生の刈り方が気に入らなかったんだ。」どうしても何かしらの説明を加えないわけにい かぬ折りにはそう言った。実際に大学の中庭の芝生を眺めに行った女の子までいた。それほど悪 くはなかったわ、と彼女は言った。少しばかり紙屑が散らかってはいたけど : : 。好みの問題さ、 と鼠は答えた。 「お互い好きになれなかったんだ。俺の方も大学の方もね。、幾らか気分の良い時にはそうも 言った。そしてそれだけを言ってしまうと後は黙り込んだ。 もう一二年も前のことになる。 時の流れとともに全ては通り過ぎていった。それは殆んど信じ難いほどの速さだった。そして 一時期は彼の中に激しく息づいていた幾つかの感情も急激に色あせ、意味のない古い夢のような ものへとその形を変えていった。 鼠は大学に入った年に家を出て、父親が一時書斎がわりに使っていたマンションの一室に移っ 両親も反対はしなかった。ゆくゆくは息子に与えるつもりで買ったわけだし、当分一人暮し で苦労してみるのも悪くはあるまいと田 5 ったわけだ。

7. 1973年のピンボール

わん 円 73 年のビンポール ◎ Haruki Murakami 1983 円 83 年 9 月日第一刷発行 円 97 年 8 月田日第引刷発行 発行者一一野間佐和子 発行所ーー株式会社講談社 東京都文京区音羽 2 ー 12 ー 21 〒 112 ー 01 電話出版部 ( 03 ) 5395 ー 3510 販売部 ( 03 ) 5395 ー 3626 製作部 ( 03 ) 5395 ー 3615 Printed ⅲ Japan I S B N 4-0 6-1 8 51 0 0-3 デザイン一菊地信義 製版 印刷 製本 講談社立庫 定価はカバーに 表示してあります 豊国印刷株式会社 豊国印刷株式会社 株式会社大進堂 落丁本・乱丁本は小社書籍製作部あてにお送りください。 送料は小社負担にてお取替えします。なお、この本の内 容についてのお問い合わせは文庫出版部あてにお願いい たします。 ( 庫 ) 本書の無断複写 ( コビー ) は著作権法上での例外を除き、禁じられています。

8. 1973年のピンボール

125 く複雑なのですよ。熟練した専門技術者が何人も要るし、それを統率するプランナーが要る。そ れに全国をカバーするネットワークが要ります。部品を常にストックしておくエージェントが要 るし、どこの機械が故障しても五時間以内にとんで行ける数の修理工もいる。まあ残念なことに ート社にはそれだけの力はなかった。そこで彼らは涙をのんで引きさがり、それか 新参のギルバ らの約七年間自動販売機やクライスラーのワイバーを作り続けていたわけです。でも彼らはピン ポールをあきらめはしなかった。」 彼はそこでロをつぐんだ。トのポケットから煙草を取り出し、テープルの上で先をとんとん と叩いてからライターで火を占 ( けた。 「あきらめなかったんです。彼らにはプライドがあったんですな。秘密工場で研究は進められ た。ビッグ・フォーを退職した連中をこっそりと引き抜いてプロジェクト・チームを作ったわけ 7 です。そして莫大な研究費を与えてこう命令した、ビッグ・フォーのどんな機械にも負けないも ンのを作れ、それも五年以内に、とね。一九五九年のことでした。その五年間を会社の方でも有効 のに市んった。彼らは別の制衣ロを利用してバンクー ハーからワイキキまでの・〕王なネットワークを作 りあげた。これで全ての準備は完了しました。 再開の第一号機は予定どおり一九六四年に完成しました。『ビッグ・ウェイヴ』というのがそ れです。」

9. 1973年のピンボール

幻ヴェンダー いわゆる平和産業ですな。ピンポールの一号機は一九五一一年に完成しました。 悪くはなかった。実に頑丈だし、安価でもあった。でも面白味のない台でしてね、『ビルポー ト』誌の評を借りるなら『ソビエト陸軍婦人部隊の官給プラジャーの如きピンポール・マシー ン』であったわけです。もっとも商売としては成功しました。メキシコを始めとして中南米閇 に輸出したのです。そういった国には専門技術者が少ない。だから複雑な機械よりは故障の少な い頑丈なものが喜ばれるわけです。」 ンと長い棒のないのが実に残念そうだっ 彼は水を飲むあいだ黙った。スライド用のスクリ 「ところで御存知のようにアメリカの、つまり世界のということですが、ピンポール業界は四つ シカゴ・コイン、ウィリアム ばかりの企業による寡占状態にあります。ゴッドリープ ート社が殴り込んできた。激しい戦いが五 いわゆるビッグ・フォーですな。そこにギルバ ート社はピンポールから ) 于を引きました。」 年ばかり続きました。そして一九五七年、ギルバ 「手を引いた ? 彼は肯きながら残りのコーヒーを不味そうに飲み、ハンカチでロもとを何度も拭いた。 「ええ、敗退したわけです。もっとも会社自体はもうけたんです。中南米輸出でね。でも傷口が : 結局ピンポール作りのノウハウはひど 大きくならない、っちにとい、つことで手を引きました。

10. 1973年のピンボール

1973 年のヒ。ンポール 同じ一日の同じ繰り返しだった。どこかに折り返しでもつけておかなければ間違えてしまいそ うなほどの一日だ。 ートに帰ると双子の その日はすっと秋の匂いがした。いつもどおりの時刻に仕事を終え、アパ 姿はなかった。僕は靴下をはいたままべッドに寝転び、ばんやりと煙草を吸った。いろんなこと を考えてみようとしたが、頭の中で何ひとっ形をなさなかった。僕はため息をついてべッドに起 き上がり、しばらく向い側の白い壁を睨んだ。何をしていいのか見当もっかない いつまでも壁 を睨んでるわけにもいくまい と自分に言いきかせる。それでも駄目だった。卒論の指導教授が 、つまいことを一言、フ。文亠早よ ) ) 、 論旨も明確だ、だがテーマがない、と。実にそんな具合だっ 久し振りに一人になってみると、自分自身をどう扱えばいいのかが上手く把めなかった。 不思議なことだ。何年も何年も僕は一人で生きてきた。結構上手くやってきたしゃないか、そ れが思い出せなかった。一一十四年間、すぐに忘れてしまえるはど短かい年月しゃない。まるで捜 し物の最中に、何を捜していたのかを忘れてしまったような気分だった。いったい何を捜してい たのだろう ? 栓抜き、古い手紙、領収書、耳かき ?