間かけられてるみたいだった。 「水飲めばなおる ? 」と一人が訊ねた。 「まさか。」と僕は腹を立ててどなった。 それでも双子は僕にバケッ一杯分もの水を飲ませた。腹が苦しくなっただけだった。耳は痛く なかったから、くしやみの拍子に耳あかが奧に押し込まれたに違いない。そうとしか考えようも なかった。僕は押入れから懐中電灯を二つひつばり出し、二人に調べさせてみた。二人は風穴で ものぞき込むみたいに耳の奧に光をあて、何分もかけて調べあげた。 荷もないわよ。」 「塵ひとつないわ。 「しゃあ何故聴こえないんだ。」と僕はもう一度どなった。 「寿命が切れたのね。」 「つんばになったのよ。 僕は一一人に取り合わすに電話帳を調べ、いちばん近い耳鼻科の病院に電話をかけた。電話の声 はひどく聞き辛かったが、そのせいもあって看護婦は少しは同情してくれてたようだった。そし てまだしばらくは玄関を開けておくからすぐに来るようにと言った。僕たちは急いで服を着こみ、 ートを出てバス道路ぞいに歩い
132 淡いピンクに変え、胸のふくらみの目立っ薄いセーターを着た。そして秋の空気の中に溶けこん でいった。 何もかもが永遠にその姿を留めるようにも思える、素晴しい一週間だった。 ジェイに街を出る話を切り出すのは辛かった。何故だかわからないがひどく辛かった。店に三 日続けて通い、三日ともうまく切り出せなかった。話そうと試みるたびに喉がカラカラに乾、 それでビールを飲んだ。そしてそのまま飲みつづけ、たまらないほどの無力感に支配されていっ た。どんなにあがいてみたところで何処にも行けやしないんだ、と思う。 時計が十一一時を指すと鼠はあきらめて、そして幾らかホッとして立ち上がり、いつものように こョ市′、 ジェイにおやすみを言って店を出た。夜の風はもうすっかり冷え込んでいた。アパ べ ッドに腰を下ろし、ばんやりとテレビを眺める。缶ビールを開け、煙草に火を点ける。古い西 ート・テイラー コマーシャル、天気予報、コマーシャル、そしてホワイト・ノ 部劇映画、ロヾ イズ : 鼠はテレビを消し、シャワーに入る。そしてもう一本缶ビールを開け、もう一本煙草 に火を占 ( ける。
113 僕が本当にピンポールの呪術の世界に入りこんだのは一九七〇年の冬のことだった。その半年 ばかりを僕は暗い穴の中で過ごしたような気がする。草原のまん中に僕のサイズに合った穴を掘 一り、そこにすつほりと身を埋め、そして全ての音に耳を塞いだ。何ひとっ僕の興味をひきはしな ンかった。そしてタ方になると目を覚ましてコートを着こみ、ゲーム・センターの片隅で時を送っ 年 機械はやっとみつけた 3 フリソ ーの「スペースシップ」、ジェイズ・ ーと全く同しモデル だった。硬貨を放り込みプレイ・ボタンを押すと機械は身振いでもするように一連の音を立てて 十個のターゲットを上げ、ポーナス・ライトを消し、スコアを六個のゼロに戻し、レーンに最初 ナし公立中学の女教師なら気に入ってくれるかもしれない。 便所を出るとアイラインを半分だけ引いた女の席に行って丁密に詫びた。そしてカウンターに 戻り、ビールをグラスに半分飲み、それからジェイにもらった氷水を一息で飲んだ。二、三度頭 を振り、煙草に火を点けたところで頭の機能が正常に動き始めた。 さあ、もういいぜ、と鼠はロに出して言ってみた。夜は長い、ゆっくり考えろ。
1973 年のヒ。ンポル 103 レストランは事務所からタクシーで五分ばかりの静かな住宅街のまん中にあり、僕たちが席に トの上を音もなくやってきて、水泳の つくと黒服のウェイターがやしの繊維であんだカーベ " ビート板ほどもあるメニューを一一枚置いていった。料理の前にビールを一一本注文した。 「ここの海老はとてもおいしいのよ。生きたまま茹でるの。 僕はビールを飲みながら唸った。 彼女はしばらくのあいだ細い指で、首にかけた星型のペンダントをいしりまわしていた。 と僕は一一一口った。そして言ってしま 「一言いたいことがあれば食事の前に言っちまった方がいい ってから言わなければよかったと後海した。毎度のことだ。 彼女はほんの少し微笑んだ。そしてその四分の一センチほどの微笑みはもとに戻すのが面倒だ からという理由だけでしばらくのあいだロもとに留まっていた。店はひどく空いていたので、海 一老が髭を動かす亠日さえもが聞こえそうだった。 「今の仕事は好き ? 」と彼女が訊ねた。 「どうかな ? 仕事に関してそんな風に考えたことは一度もないんだ。でも不満はないね。」 「私だって不満はないわ。」と彼女はそう言ってビールを一口飲んだ。「給料だって良いし、あな たたち一一人とも親切な人だし、休暇だってきちんと取れるし : : : 、」 僕はしっと黙っていた。他人の話を真剣に聞くのは実に久し振りだった。
140 始めた。 「何処に行くの ? 」 「ピンポールをやりに一丁く。行く先はわからない」 「ピンポール ? 「そ、つ、フリ ーでポールを弾いて・ : ・ : 、」 「知ってるわよ。でも、何故ピンポールなんて : : : 、」 「さあね ? この世の中には我々の哲学では推し測れぬものがい 彼女はテープルに頬杖をついて考え込んだ。 「ピンボールは上手いの ? 」 「以前はね。僕が誇りを持てる唯一の分野だった。」 「私には何もないわ。」 「失くさすにすむ。」 彼女がもう一度考え込んでいる間に僕はスパゲティーの残りを食べた。そして冷蔵庫からジン ・エールを出して飲んだ。 「いっかは失われるものにたいした意味はない。失われるべきものの栄光は真の栄光にあらす、 てね。」 つばいある。」
114 のポールをはしきだした。限りのない硬貨が機械に放り込まれ、ちょうど一カ月後、冷たい雨が 降りつづく初冬の夕方、僕のスコアは気球が最後の砂袋を投げ捨てるようにして六桁を越えた。 ・ボタンからもぎ取るように放し、背の壁にもたれかかり、氷のよ 僕は震える指をフリ うに冷えた缶ビールを飲みながらスコア・ポードに表示されたままの 10 5 2 2 0 という六個の 数字を長い間しっと眺めていた。 僕とピンポール・マシーンの短かい蜜月はそのように始まった。大学には殆んど顔も出さす、 アルバイトの給料の大半をピンポールに注ぎ込んだ。ハギング、パス、トラップ、ストップ・ 、 / ョッ・ 大抵のテクニックを習熟した。そして僕がプレイする背後ではいつも誰かが見物 するようになった。赤い口紅を塗った女子高校生が僕の腕に柔らかい乳房を押しつけたりもした。 スコアが十五万を越えるころに本当の冬がやってきた。僕は冷え切って人影もまばらなゲーム・ センターで、ダッフル・コートにくるまり、マフラーを耳までひつばりあげたままピンポール・ マシーンを抱きつづけた。便所の鏡の中に時折見かける僕の顔はやせて骨ばり、皮膚はひどくカ サカサと乾いていた。三ゲーム終えるごとに壁にもたれて休み、ガタがタと震えながらビールを 飲んだ。ビールの最後の一口はいつも鉛のような味がした。そして煙草の吸殻を足もとにまきち らし、ポケットにつつこんだホット・ドッグをかしった。 ーのスペースシップ : : : 、僕だけが彼女を理解し、彼女だけ 彼女は素晴しかった。 3 フリ
160 の鶏の匂いをさせていた。着ていた服を全部洗濯機につつこみ、熱い風呂につかった。人なみの 意識に戻るために三十分ばかり熱い湯に入っていたが、それでも体の芯まで浸み込んだ冷気は落 ちなかった。 双子は押入からガス・ストーヴをひつはり出して火を点けてくれた。十五分ばかりで震えが止 まり、一息ついてから缶詰のオニオン・スープをあたためて飲む。 「もう大丈大」と僕は言った。 「本当に ? 」 「まだ冷たいわ。」双子は僕の腕首をつかみながら心配そうに言った。 「すぐに暖かくなるさ。」 それから僕たちはべッドに潜り込み、クロスワード・パズルの最後の二つを・〕筬させた。ひと つはにしますで、ひとつはさんほみちだった。体はすぐに暖かくなり、僕たちは誰からともなく 深い眠りに落ちていった。 僕はトロッキーと四頭のトナカイの夢を見た。四頭のトナカイは全員が毛糸の靴下をはいてい た。おそろしく寒い夢だった。
165 ターの羽目板にビールの冷たい露がたまったのを彼は紙ナプキンで拭き取った。 「何時たつんだい ? 「明日、あさって、わからないな。多分この三日のうちだろう。もう用意はしてあるんだ。」 「すいぶん急な話だね。 「うん : あんたにもいろいろと迷或ばかりかけた。」 「ま、いろいろあったものね。 , ジェイは戸棚に並んだグラスを乾いた布で拭きながら何度も肯 いた。「でも過ぎてしまえばみんな夢みたいだ。 「そうかもしれない。でもね、俺が本当にそう思えるようになるまでにはすいぶん時間がかかり そうな気がする。」 ジェイは少し間をおいて笑った。 一「そうだね。時々あたしはあんたと二十も歳が離れてるのを忘れちまうんだよ。」 ン鼠はビールの残りをグラスに空け、ゆっくり飲んだ。こんなにゆっくりとビールを飲んだのは の初めてだった。 「もう一本飲むかい ? 」 鼠は首を振った。「いや、 のさ。」 これが最後の一本てつもりで飲んだんだ。ここで飲むビール
111 ドアを開ける度に目が覚める。時計を眺める。 週の半ばに鼠はウイスキーを一人で飲みながら、全ての思考をしばらく凍結させることに決め た。意識のすきまのひとつひとつに白熊でも歩いてわたれそうなほどの厚い氷をはりめぐらし、 これで週の後半を乗り切れるだろうという見通しをつけて眠った。しかし目が覚めた時には何も かもがもとどおりだった。頭が少し痛んだだけだ。 鼠は目の前に並んだ六本のビールの空瓶をばんやりと眺める。瓶のあいだからジェイの後姿が 見える。 引退の潮時かもしれない、と鼠は思う。この店で初めてビールを飲んだのは十八の歳だ。何千 本のビール、何千個のフライド・ポテト、ジューク・ポックスの何千枚のレコード。何もかも 一が、まるではしけに打ち寄せる波のようにやって来ては去っていった。俺はもう既に充分なだけ 氿のビールは飲んだじゃないか。もちろん三十になろうが四十になろうが幾らだってビールは飲め : 一一十五歳、引退するには悪 のる。でも、と彼は思う、でもここで飲むビールだけは別なんだ。 くない歳だ。気の利いた人間なら大学を出て銀行の貸付け係でもやっている歳だ。 鼠は空瓶の列にもう一本を加え、溢れそうになったグラスを一息で半分ばかり飲む。そして反 ・パンツの尻で拭った。 射的に手の甲でロを拭う。そして湿った手をコットン
1973 年のピンポール の中で幾つかの層にわかれたまま淀んでいるようだった。生温く、そして湿っぱい。 「今日は来ないつもりだったんだ。」と鼠は言い訳した。「でも目が覚めちまってね、どうして もビールが飲みたかったのさ。すぐに引き上げる。」 ジェイはカウンターの上で新聞を畳み、ズボンに落とした煙草の灰を手で払った。「ゆっくり 飲んでけばいいさ。腹が減ったんなら何か作ってあげるよ。 いいんだ。気にしないでくれ。ビールだけでい、。 ビールはひどくうまかった。グラス一杯を一息で飲み、ため息をつく。そして残りの半分をグ ラスに注ぎ、泡がおさまっていくのをじっと眺めた。 「よかったら一緒に飲まないか ? 鼠はそう訊ねてみた。 ジェイは少し困ったように微笑んだ。「ありがとう。でも一滴も飲めないんだよ。」 「知らなかったな。」 「生まれつき体がそう出来てるんだね。受けつけないのさ。 鼠は何度か肯き、黙ってビールを飲んだ。そして自分がこの中国人のバーテンについて殆んど ジェイは 何も知らなかったことに改めて驚いた。もっともジェイについては誰も何も知らない おそろしく静かな男だった。自分のことは何ひとっしゃべらなかったし、誰かが質問しても注意 深く引き出しを開けるようにいつもさしさわりのない答を出してくるだけだった。