178 やがて、つぐみが部屋に戻ったのだろう、隣の部屋で物音がした。そしてついでに、 犬がきゃんきゃん鳴く声が聞こえてきた。 私はつぐみの部屋へ行き、ふすまを開けながら言った。 「何やってんの ? ポチを連れ込んでるの ? おばさんにぶっとばさ : : : 」 まで言って、驚いて黙ってしまった。もちろん、それは死んだ権五郎ではなかった が、全く同じ種類の犬で、一瞬どきりとするくらい似ていた。 「何それーー 私は言った。 「借りてきたんだ、こいつを。すぐ返すけどさ つぐみは笑った。 「犬が恋しくってさ」 「うそをおっきなさい」 とだけ言ってつぐみのそばにすわり、私はその犬をなでながら、猛烈な勢いで考え た。この手の戦いの感触を久しぶりに味わった。こういう時、つぐみの考えを当てな いと、つぐみはそれつきり口を閉ざしてしまうのだ。
195 面影 をふちどる船明かりのように、つぐみの行動を言葉にすればするほど、つぐみの生命 の光が今ここにあるみたいな強烈さで話のそこここに輝きはじめるのだ。 「あんな傑作な奴いないよー 聞き終わると、笑いをこらえながら恭一は言った。 「穴だって。何考えてるんだろうね」 「本当よね」 私も笑った。あの時は陽子ちゃんに悪いのと、気持ちが高ぶっていたのとであまり 思わなかったが、今思えばその妙にまっすぐな、そしてどことなくひねくれた方法が ひどくつぐみらしくておかしかった。 「俺ね、あの子のことを考えていると、いつの間にか巨大なことを考えてしまってい る時があるんだ」 恭一が告白のようにふいにそう言った。 「考えがいつの間にか、とてつもなく大きいことにつながっている。人生とか、死と か。別に、あの子が体弱いからではないんだ。あの目を見ていると、あの生き方を見 ていると、何とはなしに厳粛な気分になっているんだ」
じた。目を開けると、つぐみが私を見おろしていた。逆光の中、つぐみの白い肌と強 く光る大きな瞳がまぶしかった。 「何で急にふむのー と言って、私は仕方なく起きあがった。 「サンダルばきのままでふまなかっただけでもありがたく思え」 やっとなま温かい足を私の手の平から離して、つぐみはサンダルをはいた。横で父 がうーんと起きあがり、 「やあ、つぐみちゃん」と言った。 「おじさん、こんにちは。お久しぶり」 私の横にかがみこんだつぐみが父を見て笑顔になった。同じ学校に行かなくなって 久しいので、こういうよそゆき顔の彼女の笑顔が妙になっかしく、彼女のセーラー服 姿を思いおこした。学校で猫をかぶっているのはつぐみの趣味だった。一瞬、もし恭 ど一がつぐみと同じ学校に通っていたら彼は彼女を発見しただろうかという考えが浮か 父 一つのことだけに人生を んだ。うん、きっとしただろう。彼もつぐみと同じように、 深く掘り下げてしまうようなアイハランスな感覚を抱えていた。そういう者同士は、
224 あるいは、これが届く頃にはおまえは私の葬式のためにこちらへ出向いているかも しれません。これが本当の「お化けのポストーだ。 秋の葬式は淋しくていやですね。 ここのところ、ずいぶんおまえに手紙を書いた。書いては破き、また書き始めてい た。どうしておまえなんだろう ? しかしなぜか私の周りでおまえだけが、私の言 葉を正確に判断し、理解することができるように思えてなりません。 どうも本格的に死にのそんでいるらしい今、おまえに手紙を遺すという考えだけが、 私の心の中で希望となっています。他の誰もが、いたずらに多く泣いたり、本当は 私という人間はこうだった、と自分なりに善く解釈したりする様を思い浮かべると、 虫酸が走ります。恭一はちょっと見どころがありますが、恋愛はバトルですから、 最後まで弱みを見せてはなりません。 おまえは本当に、どうしてそんなにマヌケなのに、きちんとした大きさでものごと を測れるのでしよう。不思議でなりません。 それからもうひとつ、今回入院してすぐに、「デッドゾーンーという小説を読みま した。ヒマつぶしのつもりが案外面白くて一気に読んでしまい、ますます具合が悪
「ええ、大丈夫ですーと言った。「うちの犬の方が、先にそちらにちょっかいを出し たんです。ごめんなさいー 「いえ、こいつは血の気が多い上に恐れを知らない奴なんです」彼はそう言って笑っ た。そしてつぐみを見て「そちらの方は大丈夫でしたか ? 」 と一一一口った。 とっさ つぐみは咄嗟に人格のチャンネルを変え、 「ええ」 と微笑んだ。 「じゃ」 と言って、彼は権五郎を抱えたままで浜のほうへ歩いていった。 もうすっかり夜だった。そのほんのちょっとの間に夜がすとんと来ていたという感 じだった。ポチは、私とつぐみに不満を訴えるように見上げて鼻をくんくんならして 「行こっか つぐみが言い、私たちは淡々と歩きはじめた。
245 解説 彼女とは長い付き合いではあるけれど、このインタヴ = ーをするま ているようだが、 / で、彼女自身、まさかここまで「人生に対して否定的であり、それゆえにせめて小説 では肯定的に書いている」とはうかつにも知らず、いささか驚きもした。しかし、こ の、一種したたかとも言える感性が、彼女をより深い作家〈と成長させる原動力かも しれないと、いまでは思っている。
176 「うん と一一 = ロった。 それから映画のラストシーンのように、 3 人は黙ったまま港の突端に立ち、沖の方 を、沈みきったタ陽をうっす空の色を見ていた。 5 日たっても、まだ恭一は戻って来なかった。電話が来ても、つぐみは怒って切っ ているようだった。 私が部屋でレポートを書いていると、ノックの音がして陽子ちゃんが入ってきた。 「なあに ? 」 私は言った。 「ねえ、つぐみが最近、毎晩どこへ出かけているか知ってるフ と陽子ちゃんは言った。 「今もいないのよ」 「散歩じゃないのフ 私は言った。恭一がいなくなってイライラしているつぐみは、このところものすご
167 怒り 置いとけないよ」 と恭一は言った。 「何であさってなの ? 」 陽子ちゃんがたずねた。 「あさってまで、親が旅行に出てて家に誰もいないんだよな」 恭一が言った。 「ねえ、それじゃあ、権五郎を裏の家のポチといっしょに、小屋に入れてあすかって もらうようにしましよう」陽子ちゃんが言った。「それならあさってまで安心じゃな いかしら」 「あ、それがいいわ」 私も言った。 「うん、そうしてもらえると助かるな」 と恭一が言った。たき火を囲んですわっていた私達みんなの気持ちが、それでふい に和んであたたかくなった。 こう。犬がひとっ所にいると、楽 いっしょに散歩にい 「つぐみ、朝呼びに行くから、
222 「つぐみ、大変たったんたって ? 私は言った。 「うん、でも今はもうそうとう元気みたいたよ。一時は面会謝絶になんかなってさ、 ひどかったのにね。あわてたよ 恭一は言った。 「よろしく言っといて。 : ねえ、恭一はつぐみが山に引っ越したら、自然と別れち ゃうと田いう ? 」 質問はさらりと口から出た。 「うーん、先のことはどうなるか、離れてみないとわからないが、あんな強烈な女が この先、そうそういるとも思えない。あの子はいいよ、最高に傑作だよ。この夏は多 分、忘れられない夏になるだろう。たとえ別れてしまっても、一生強烈に心に刻まれ るだろう。それは確かなことだよ 恭一は淡々と言った。 「それに今度は山本屋の代わりに、うちのホテルがいつもここにある。君たちはいっ でもここに来ればいいんだ」
「うん、わかってる」 とつぐみは言い下に向かって大声で、 「おまえ、何て言うの ? 名前」 と言った。彼は権五郎をひょいと抱きあげて、私達を見上げて言った。 「俺は、恭一だよ。君らは ? 」 「あたしはつぐみ。こっちはまりあ。ねえ、おまえって、どこの子 ? 」 「俺の家はまだこの町じゃない、あそこの と山の方を指さしながら、 「あそこの、新しくできるホテルが俺の家になるんだ」 「なに ? 女中の息子なの ? おまえ」 つぐみは笑った。あんまり鮮かな笑顔なので、闇が照らされたような気がした。 「ちがうよ。支配人の息子だよ。うちの親がここが好きでさあ、ここに住むんだって。 俺の大学は市にあるから、俺もここに住んで通うんだ」 夜はいきなり人を親しくさせる。彼はすっかり打ちとけた笑顔を見せた。 「毎晩、夜中に散歩してるの ? 」