。土蔵の中だから、隙間風の寒さはなかったが、夜 鮎太は睡眠時間をつめて机に対かっていた うしな も朝も、机に対かっていると、手足が凍えて感覚を喪った。 「冷たいわねえ、まあ、可哀そう、もう暫くの頑張りね」 冴子は、ある時、珍しくしんみり言って、冷たい鮎太の手を取って、自分の手の中に包んだ。 十二月の中旬の夜だった。 冴子の手も同じように冷たかった。鮎太はその時、冴子の手指の自く華奢なことに初めて気付 いた。いっか冴子に抱きしめられた時とは違って、鮎太はいつまでも冴子に手を握らせておいた。 で 中 冴子のその時の動作には、少しも毒のある感じはなく、その手から次第にこっちに伝わって来 の る体温の温かみは、姉か母の持つに違いないそれと同じもののような気がした。 冴子が祖母に、この前と同じように港町の家へ帰って来ると言って出て行ったのは、その翌日 深のことであった。三日程と言って出て行ったが、冴子は一週間経っても帰って来なかった。 鮎太は冴子がいなくなると、勉強するのに気が抜けた気持だった。 日曜の珍しく暖い日のことだった。どこからか帰って来た祖母が、 「この寒いのに酔狂なことじゃ。天城に心中もんがあったそうだ」 と言った。山を降って来た炭焼人夫の報告だということだった。 はっとして立ち上がった。 その祖母の言葉を鮎太は自分の机の前で聞いたが、 「心中もんが見付かったの」 がんば きやしゃ
「梶さんがいらしたので、きっとカフェーにでも行きたいのでしよう。とめないで上げますわ」 信子はそんなことを言いながら玄関まで送って来た。 四人は巣鴨まで暗い道を歩いて、木原の主唱でおでん屋へ人った。酒を飲み出すと、鮎太の心 は次第に静まって、勧められるままに木原の下宿に泊ることを承諾した。「一週間ぐらい るか。金は一文も持っていないぞ」 「大丈夫だ。大船に乗ったつもりでいろ」 五ロ 鮎太は木原と話していたが、大沢と金子は黙って酒ばかり飲んでいた。 物と、突然、大沢が鮎太につつかかって来た。 ろ 「何だ ! 東京へ出て来たと思って興奮しゃあがって。先刻の態度は何だ ! 俺たちは佐分利家 しんせき すとは何でもないんだぞ。あそこは親戚でも、兄弟の家でもないんだぞ。俺たちは三年越し、何一 あっ持って行かないで、いつも勝手なことを駄弁って、ただ紅茶を御馳走になって来ただけの間柄 だ。少しは礼儀というものを弁えろ」 そこで、言葉を切って、 「英子さんに惚れやがって ! 笑わせるよ」 そう大沢は突き放すように言った。 英子と聞いて、鮎太はびつくりして顔を上げた。思いも寄らなかった。 「ばかを言え ! 英子さんなどに惚れるか」 すがも わきま だべ
なぐ ぎようそう : ら 鮎太は、その時、自分より三つ年下の少年を殴らんばかりの形相で睨みつけた。どうして、突 然、怒りが自分を襲ったか、鮎太は自分自身で見当がっかなかった。 留吉が使者を辞退したので、次の時は、幸夫を使者に立てた。 「小母ちゃんが来ていて、荷物を作っていた」 と、幸夫は報告した。小母ちゃんという人物がいかなる女性か見当はつかなかったが、荷物を 造っていたというのは、彼が伊豆屋を引き上げるのではないかと思った。 で「手紙は誰に渡した ? 」 の「小母ちゃん」 小母ちゃんに渡したということが、ちょっと気にならないこともなかったが、鮎太はそのこと 深は冴子には内緒にしておいた。 深翌朝、鮎太は勉強を早く打ち切って家を出ると、留吉と幸夫の二人を伊豆屋へ偵察に派遣した。 加島とあの少女が今日この村を引き上げて東京へ帰るのではないかと思ったからである。留吉と 幸夫が帰って来ての報告は、やはり鮎太の予感を裏書きしていた。 「小母ちゃんと肺病のあまっこが、荷物を持って、坂道を上って来た。おらあ、直ぐ逃げて来 留吉は言った。 鮎太は腹が痛くなったからと言って、登校の子供たちの一団から離れると、少し遠廻りして、
決して彼女の母のいる港町ではないことを知っていた。 冴子はその時、鮎太に参考書を二冊買って来てくれたが、その書物の包紙は、彼女の郷里の港 町とは反対側の、半島の基部の海水浴場で有名な小都市の書店のものであった。 鮎太はすぐそれに気付いたが知らん顔をしていた。 「鮎ちゃん、勉強するわねえ。そんなに勉強して面白いの。でも、男は勉強しないと駄目ね。一 生勉強するのよ。わたし、段々、勉強する人が好きになるわ。なぜだか知ってる ? 」 語そんな事を、ある時、冴子は言った。 物「知るもんか」 ろ 鮎太は言ったが、そんな冴子の言葉は、恐らくあの加島という大学生の影響であろうと思った。 すしかしそれを口にするのは、何となく、鮎太には憚かられた。 あすると、冴子は、 「教えて上げようか」 「一つるさいな」 「教えて上げるわよ、誘惑って知っている ? 勉強するひと誘惑するの、面白いからよ」 しかし、その時の冴子の顔は決して面自そうではなかった。 例年より早い冬がやって来た。十一月の初めにはもう富士は真自だった。そして同じ月の終り には、天城続きの一帯の山々に初雪が降った。
「ただ呼んでくればいいの ? 」 「女の人が待っていますと言えばいい 「本当に待っているの ? 」 「莫迦だな、君は ! とにかく、そう言えま、、 かっ 鮎太は言われるままに、曽ての上級生の一人を呼び出した。 酒で赤い顔をして出て来たのは、鮎太も見覚えのある、曽ての自分への加害者の一人であった。 語その青年が料亭の前を二、三間離れると同時に、横合から、山浦が飛烏のように飛びかかった。 びんしよう 物あっと言う間の出来事だった。山浦は躰は小さかったが、驚くほど敏捷だった。たちまち相手を ろ 倒すと、上にのしかかって、やたらに殴りつけた。手には石か何かを持っているらしかった。 す相手の男は大きい悲鳴を上げ続けていた。 あ「もう一人呼んで来い ばうぜん 山浦は相手を殴りながら、傍で茫然としている鮎太に言った。 しかし鮎太は、その命令に服する必要はなかった。 二人の男が旅館の玄関から飛び出して来た。 それを見ると、山浦は新しい男の一人にまた飛びかかって行った。 相手方の一人は咄嗟に襲撃者があることを知って、そのまま鮎太に飛びかかって来た。鮎太は 砂の上に突き飛ばされ、上からのしかかられた。 とっさ
うわさ 「あの人たち、どうせ帰って来はしないと思うの。朝鮮かどこかへ渡ってしまったという噂よ」 それだけで、その話は切って「奥さんに悪いわ」とちょっと首をすくませて、鮎太の机の置い てある部屋のあちこちを見廻した。 鮎太は、毎夜、家へ帰って玄関を開ける度に、オシゲが来ているのではないかと思った。しか し、大抵の場合、その期待は裏切られた。 オシゲは思い出したように、月に二回か三回訪ねて来た 9 相変らす、いつも、右腕の桜の花弁 地の人墨を左手で匿すようにして眠った。鮎太は、そうしたオシゲから次第に離れられなくなって ふち 民行く自分を、時々、深い淵でも覗くような絶望的な気持で振り返った。終戦翌年の冬から初夏へ 植かけて、二回程、疎開している家族のもとへ帰ったが、何とか口実をつけて、その度に疎開の引 のき揚げを延ばしていた。 星五月に人ったばかりの時だった。銀河の内儀さんが顔色を変えて、新聞社の受付へやって来た。 鮎太が階下へ降りて行くと、 「帰って来やはりました」 そう言って、息を呑んだ。熊さんが昨夜帰って来たと一言うのである。 「まだ半年になれしまへんが、家へ人れんと言ったら、意地張りやもんで、戸外へ寝ました」 「もういいじゃあないか、半年になったってならなくたって。仲直りしたら、どう ? 」 鮎太は、内儀さんの依怙地さに反感を感じて強く言った。すると、内儀さんは急に泣き出して、 199
しまわなければならなかった。 伊豆屋までは五、六町の道のりがあった。細長い部落を縦断している街道を通って、部落の外 れから、渓谷への道を降りて行った。途中で共同湯から帰って来た三年生の幸夫と四年生の留吉 を誘って、一緒に行った。冴子から預かった手紙は留吉に持たせた。 「秘密の使者だからな。口をきいたら駄目だぞ」 「うん」 で留吉は手紙を帯の間に挾んで、自分もまた秘密の使者の一員に加えて貰「たことが彼のを上 の気させ、両の眼をきらきらさせていた。 幸夫は、竹の棒をどこからか拾って来ると、それを腰にさして、一人で先きに駈けて行った。 以坂道を降り切ると、川瀬の音がい「せいに立ら上「て来た。鮎太と留吉は礎へ降りて行「た。 ひざ 深の中の石を次々に飛び移って行「て、一カ所だけ膝から下を濡らして浅瀬を横切ると、向う岸へ やもり と渡った。そして伊豆屋の二間程の石垣に守宮のように張りついてそこをよじ登って行った。 せつこう 伊豆屋の庭の地面へ躰を乗り出した時、斥候の幸夫が樹蔭から飛び出して来て、 「二人いらあ」 と一「ロった。 「二人って」 鮎太は意外だった。二人いられては手紙を渡す相手を知るのに困ると思った。すると、
は取り上げられないだろうと思った。 だめ 「日本人の入墨では駄目か」 「日本人のは相当資料を持っているんだ。しかし、・日本人のでもないよりよ、、 ) ーししカら、撮れるん なら撮って貰いたい。資料だから多過ぎて困るということはないんだ」 鮎太は、いっかオシゲが、彼女が出入りしている賭場のことを語った時、男の人はみんな入墨 していると言ったことを思い出し、日本人の入墨なら、オシゲに頼めば何とかなるだろうと思っ 地たのである。 民「よし、じゃあ、一人紹介する、多分その女に頼めばい、 ( と思うんだ」 植鮎太はそう言って、犬塚山次を連れて、その足で熊さんの銀河に出掛けた。 の夜が物騒だったので、熊さんは平生でも日没と共に店を閉めたが、その日は観月の宴のために、 星特に早く店を閉めたらしく、鮎太が銀河に行ってみると、木製の粗末な卓と椅子は店の隅に積み 上げられ、土間には莫蓙が敷かれ、その上に熊さん手製の食卓が置かれてあった。そして食卓の 上にはバクダンと称せられる怪しげな酒と、野菜の煮たのと、急に最近出廻り出した進駐軍の罐 づめ 詰が口を開けて、幾つか並べられてあった。オシゲはまだ来ていなかった。 「おかげで、どうやら出世しました」 熊さんは、そんな挨拶をした。 「あほらし、 185 あいさっ かん
おとな 顔は温和しかったが、性格は左山を窓から人れるくらいだからお侠んなところがあった。 鮎太は五、六回佐伯家を訪問したが、左山の病状が心配でなくなると、あとは顔を出さなかっ 左山は結局一カ月程佐伯家の厄介になり、終りの方の何日かは、そこから社へ通ってい 「随分、だらしない事で厄介かけたな」 左山は佐伯家を引き上げて来た日に、社に鮎太を訪ねて来て言った。病床にある時、一時消 語えていた刃のようなものが、鮎太には、またその日の左山町介からは感じられた。 物「しばらく遊んでしまったから、もりもり仕事をするつもりだ」 ろ 左山は礼に来たと言うより、宣戦布告にでも来た恰好だった。 す実際、その月、鮎太は法隆寺の壁画保存問題の記事で、大きく左山町介に抜かれた。 あその抜かれた日、社に佐伯英子の訪問を受けた。鮎太は英子を社の近くの喫茶店へ連れて行っ おっしゃ 「左山さんと婚約だけはしておきたいんですが、左山さんは嫌だって仰言るんですの、困るわ、 わたし、父や母の手前もありますし」 英子の言うことに一応無理はなかった。 「今日母が結婚ができないと困ると言うんで、困りはしない、毒を飲んでやると言ってやりまし 162 」 0 チ」 0 きや
「あの横についているのが、チャナ。あまりよくない女や」 オシゲは説明した。そして鮎太に、 「やけくそや、じゃんじゃん飲みましようか」 と言った。 その晩、鮎太は終電車までオシゲと酒を飲んだ。酔っ払えば、酔っ払うほど、オシゲは眼を光 せいかん らせて、色の黒い、整った顔を、精悍にした。 「お金欲しくなかったけれど、貰ってやった」 ろれつ 物オシゲは、半ば呂律の廻らなくなった言葉で、鮎太を送って来た駅のホームで、三回程同じこ ささや ろ とを囁いた。鮎太は、オシゲが酒場にいた腕っ節の強そうな美貌の青年を好きになっているので すーなしかと思った。 あ 十二月にはいってから、鮎太は仕事が忙しくて、一週間程銀河へ顔を出さなかった。すると、 ある日、熊さんからの使いが来て、ちょっと来て貰いたいと言うことであった。社の退ける間際 鮎太が行って見ると、表戸を閉めた店の内部で、熊さんも内儀も言い合せたように、土間の上 に対かい合って坐って、難しい顔をしていた。 「見ておくんなはれ」 194 びぼう おかみ まぎわ