小説に応募しては、応募のたびに人選して賞金をせしめている。そして昭和十一年、大学卒業の 年に応募した司流転』が入選して、第一回千葉亀雄賞を受賞し、これが機縁となって毎日新聞大 阪本社に人社する。 井上にとって新聞記者時代は、一種の沈潜期あり、醸成期であった。最初井上は宗教記者を 勤め、後には美術欄を担当するようになった。 宗教記者として学芸欄に執筆した経典の解説記事 : らか は、後の『天平の甍』や『敦煌』に見られる経典に関する該博な知識の基礎となっている。また 井上の作品は本来絵画的性格が強く、美術への眼はもともと優れたものを持っていたと思われる 作 が、十年以上に及ぶ美術記者の経験が、井上の絵画的資質をますますとぎすましたことも否めな 人 い事実であろう。かたわら井上はこの時期、安西冬衛、竹中、小野十三郎、野間宏など、関西 靖の詩人たちと交遊を深めている。 井昭和二十年、終戦を迎えるとともに、井上はさながらを切ったように、関西の詩誌や新聞に 詩を発表しはじめた。それは、二十年に及ぶ長い文学放浪時代と醸成期に抱き温めてきたものが、 突如形を求めて溢れ出して来たという趣がある。それらの詩のほとんどは、詩集『北国』に収め られているが、これらの詩によって井上靖の文学の基礎は定められたと見ていいであろう。その 基礎の上に構築されたのが『猟銃』と『闘牛』であり、『闘牛』によって井上は、昭和二十五年 二月、第二十二回芥川賞を受賞して文壇に登場した。 これまで私は、井上靖の文学を支える重要なファクターとして、母性思慕と劣等感情を指摘し 211 あふ
うわさ れ、それ以来、佐分利家を去らないでとかくの噂を持ったまま、依然として同家の若夫人として の生活を続けていた。 当時鮎太の耳に人った噂では、信子の父親が炭鉱事業に手を出して失敗して以来、実家の真門 家は相当窮迫した実情にあり、悧な信子は実家に戻されることを嫌「て、佐分利家に居坐「て しまう腹らしいというのであった。 鮎太はそうかも知れないと思った。信子にはそう見られてもいいような、何事につけても貧し さを極端に嫌う派手な一面があった。しかしまた、鮎太の仲間の木原などは、別の見方をしてい 面た。二十歳、十八歳という年頃の未婚の二人の義妹を持っているので、信子としては、彼女等の の 身の振り方を決めてしまうまでは、婚家を去りたくても去られない立場にあるというのであった。 水 しゅうとめ 実際に七十近い姑と二人の年頃の義妹を持ち、大きい家の采配を揮っている信子にしたら、 ろ 漲佐分利家から籍を抜きたくても、抜けない実清に置かれてあったかも知れない。 いすれにしても、その佐分利信子の郷里が博多であって、彼女が博多の土地を踏む機会が多い というだけの理由で、梶鮎太は、友達と別れて自分一人九州の大学へと進んだのであった。言う までもなく、梶鮎太は高校生活三年の中で、彼が為した最も大きい仕事として、自分より三つほ ど年長の佐分利信子を好きになっていたのである。 鮎太が新しい角帽をかむって、連絡船で九州に渡り、福岡の唐人町の、裏が直ぐ海になってい る小さい煙草屋の二階に下宿したのは、西公園の桜がいまやこばれるばかりに満開の時であった。 ふる
こにはまたかすかながら性のめざめも描かれている。女体のもっ或る雰囲気が、少年の何げない 動作や感覚を通じて巧みに浮び出ている。「深い深い雪の中で」の冴子も同様だが、「教育者」が 若い女性であることも興味ふかい。 次に「漲ろう水の面より」の佐利信子である。ここには北国の町の青春群像がある。みな檜 を夢みているあすなろ達である。華かな若い未亡人をめぐっての学生たちのそれぞれの思慕、な やみ、その様々の表現がみられるが、前の二編とちがって、ここには青春のむせるような体臭が ある。青春時代のものの感じ方の特徴が巧みに描かれている。胸底の思いとして語られ、云わば 物内に抑えられたすがただけに、却って青春の匂いをつよく漂わせることに成功した。同時に主人 ろ 公の鮎太が次第に一種のアウト・ローと化してゆく過程も興味深い。考えはじめるということが、 すつまり迷いはじめるということが、世に背く青春のしるしなのだ。 あ 鮎太は学校を出て、やがて或る新聞社の一員となる。実社会の人となるわけだが、ここには清 きっぬび 香という女性が登場する。「春の狐火」と題しているように、その女性との一夜の幻想的とも云 える交わりを物語りながら、新聞社の生活、記者のタイプなどを描きわけ、実生活のつらさの中 に青春固有の魂の彷徨をつづけてゆく。やがて戦争となり「勝敗」の中では左山町介という他社 の記者が競争相手として登場する。加島浜子という女性も登場するが、ここではむしろ競争相手 との競争の心理が主となっていて、新聞社の生活の奥の方へ一歩一歩と足をすすめてゆく主人公 の、活気もあれば、同時に一種の寂寥をも伴った姿が物語られている。「生活」というものがも せきりよう ふんいき
聴かなければならぬ講義は、全部五月からであった。それまでの一カ月を、鮎太は旅行して過 すことに決心した。授業料やら書籍代やら、相当まとまった金が父親から送られてあったので、 それらを旅行費用に当てれば、学生としては贅沢な旅行ができた。授業料は秋まで滞納しておけ ばよかったし、書物は当分一冊も買わなくても、多少の不便を忍べば、聴講に差しつかえること キ 6 な 6 、かっ 4 」。 ゃながわ きゅうだいせん 鮎太は、北原白秋の生地である柳河で二、三泊し、あとは久大線に沿った山間の盆地にある日 みつくまがわ 語田に行き、そこで二十日間近くを過した。宿の裏手を美しい三隈川の流れがどんよりと流れ、対 はるがすみ 物岸は春霞で霞んで人家が小さく遠く見えた。窓下の流れは動きが全くなかったが、眼を遠く下手 ろ にやると、早い川瀬が春の陽にきらめいて美しく見えた。鮎太は書物一冊読まなかった。宿の一一 な す十歳ぐらいの跛の長男と仲よくなって、毎日二人で魚釣りをして過した。毎朝のように二人は暗 からだ いうちに釣竿を持って宿を出、暗くなってから、くたくたに疲れた躰をひきずって、宿へ帰って 日に二回か三回、鮎太は釣糸を垂れながら佐分利信子のことを思い出した。青い乗馬服を着て、 城下町の公園の坂を降りて来る信子の姿や、鮎太たちのために彼女が送別会を開いてくれた時、 白い細い指を踊らせてビアノのキーをいた信子の、背を真直ぐに伸ばした姿は鮎太の心を一瞬 熱く燃やし、急に足を浸している流れの水温を凍ったものにした。 ゃなぎ 1 」うり 日田から福岡の一物もない下宿の部屋へ帰って来ると、部屋の柳行李の上に、一通の封書が置 た つりざお びつこ ぜいたく