「じゃあ、どこか、そこらへ顔を出してみますか」 そう言って、オシゲに連れて行かれたのは、ビルの地下室にある酒場だった。 五、六人の先客がスタンドに腰を降ろしていた。 「兄哥さん、今晩は」 オシゲは、一番奥にいる三十前後の男に挨拶した。 男はこちらを振り返った。煉瓦色の、女でも着そうな首までのセーターを着た色の白い整った 地顔の青年だった。 民「オシゲ、金あるか」 植男はいきなり言った。 の「あらへん」 星オシゲが答えると、男は、 「持って行けよ」 そう言って、ポケットから何枚かの紙幣を取り出した。オシゲは近寄って行くと、 「おおきに」 と言って、それを受取って、鮎太のところへ戻って来た。 「あれが有名な田原」 オシゲは言ったが、その田原と言う青年が何で有名なのか、勿論鮎太には判らなかった。 193
囲「どうれ、相手になって進ぜよう」 そう言ったかと思うと、オシゲはズボンのポケットから拳銃を取り出し、それを空に向けた。 「よせー・」 思わす鮎太が叫ぶと、 「射ちはしないわよ」 そう言って、拳銃を両手に捧げるようにして、鮎太の方へ近寄って来た。鮎太は自分の方に真 五ロ 直ぐに向けられているオシゲの、半面月光に照らされている顔に思わず見惚れた。 物鮎太はオシゲから眼を離して空を仰いだ。夜空は頭の直ぐ上に重っていた。星の植民地ーーー鮎 ろ 太は自分の周囲の、天体から蒼白い照明を当てられた廃墟の街跡を見廻して、ふとそんな感じを す持った。その星の植民地の上で、地面に胡坐をかいている犬塚山次の奇妙な姿が、焼け残りの石 あ仏か何かのように、人間離れのした固い冷たさで鮎太の眼には映っていた。 鮎太は銀河の月見の宴から十日程経ってから、住吉にオシゲが住んでいるという家を、新聞社 の若いカメラマンと二人で訪ねて行った。犬塚山次に頼まれた入墨の写真を撮るためであった。 そこは二部屋程の小さい平家建ての家であった。 鮎太はオシゲ自身の家だとばかり思「て訪ねて行「たが、卍い人夫か何かの中年の夫婦者の 家で、どういうわけかオシゲはそこで大きな顔をしていた。 ささ あぐら
この鮎太の言葉を受けつけないで、 「戦争が終ったばかりの時だっしやろ、当るのはどうせ、あんなとこですわー一 自嘲的に内儀さんは言った。 十二月には鮎太の方にも一つ新しい出来事が起った。 初めての女性名前の風が本土に上がった日だ「た。颱風に名前がつけられていることが、人 人には耳新しく奇異に感じられていた。 地その颱風の夜、鮎太は郊外の家へ帰ってみると、電燈の消えた部屋に蠑燭をつけて、オシゲが 民一人待っていた。 植「どうして人った」 の「窓をこじ開けて入りました」 ・」とばづか 星平生のオシゲより、言葉遣いが少し丁寧だった。 「何の用 ? 」 「用なんてあれしまへん。うち、淋しい」 横坐りに坐って、暗い蠑燭の光に照らされているオシゲの寒そうな姿は、どこか本当に淋しそ うだった。 鮎太はそんなオシゲに戸惑いを覚えたが、オシゲの眼が自分を下から見詰めているのを感じる と、鮎太の心は決まっていた。自分は到底この粗野で生き生きしたものの誘惑には勝てない気が じちょう さび ろうそく
「あの横についているのが、チャナ。あまりよくない女や」 オシゲは説明した。そして鮎太に、 「やけくそや、じゃんじゃん飲みましようか」 と言った。 その晩、鮎太は終電車までオシゲと酒を飲んだ。酔っ払えば、酔っ払うほど、オシゲは眼を光 せいかん らせて、色の黒い、整った顔を、精悍にした。 「お金欲しくなかったけれど、貰ってやった」 ろれつ 物オシゲは、半ば呂律の廻らなくなった言葉で、鮎太を送って来た駅のホームで、三回程同じこ ささや ろ とを囁いた。鮎太は、オシゲが酒場にいた腕っ節の強そうな美貌の青年を好きになっているので すーなしかと思った。 あ 十二月にはいってから、鮎太は仕事が忙しくて、一週間程銀河へ顔を出さなかった。すると、 ある日、熊さんからの使いが来て、ちょっと来て貰いたいと言うことであった。社の退ける間際 鮎太が行って見ると、表戸を閉めた店の内部で、熊さんも内儀も言い合せたように、土間の上 に対かい合って坐って、難しい顔をしていた。 「見ておくんなはれ」 194 びぼう おかみ まぎわ
「嫌に気が早いんだな」 鮎太はこのままオシゲを手離す気にはならなかったが、言い出したら諾かないものを、真直ぐ に前を向いて歩いて行くオシゲの横顔は持っていた。 「田原に会った」 「あの人、三の宮に来ています」 オシゲの表情には何の変化もなかった。田原については、それだけの会話しかしなかった。し 語かし、鮎太はオシゲが結婚するという気になったどこかに、田原という不良の青年が何かの役割 物をしていそうな気がしてならなかった。 ろ 銀河の前を通った。銀河は既に人手に渡っていて、頭髪をもじゃもじゃにした若い娘が一人人 す口に立って いた。今度も喫茶店になるらしかったが、まだ店は開いていなかった。 あ「犬塚さん、どうしています ? 」 鮎太はその後犬塚とは会っていなかった。去年人墨の写真を送ってやったが、それに対する礼 状も来なかった。そして一カ月程前一度、彼から腕のい 、報酬の廉い、よく働く製図屋を至急 探して寄越してくれという虫のいい依頼の葉書が舞い込んだが、鮎太は忙しさにかまけて、その ままにしてあった。 「何かやっているのだろう」 鮎太はオシゲに答えて、犬塚山次だけは、何ものにもくたばらす、勝手な自分の研究を続けて 204
188 と言った。 ししとネも」 熊さんが答えると、戸外へ向かって、 「お入り」 と言った。すると、口々に「今晩は」「今晩は」と挨拶しながら、十八、九の少女が三人入っ て来た。 みやげ すそひも 語「お土産や」立ったままオシゲは言うと、スキーズボンの裾の紐を解いて、それを振った。大型 物の板チョコが二、三十枚飛び出した。オシゲにならって、他の少女たちも、モンべやズボンの中 ろ から、それぞれチョコレートを出して、土間の上にばら撒いた。 す「どうしたんや、それ」 あ 熊さんが訊くと、 「襲撃や」 オシゲは答えた。 急に一座は賑やかになった。熊 さんは二回、護身用の丸太を手にして、どこかへ酒を買いに行 たちま 少女たちは、忽ちにして他愛なく酔っ払い、どこで覚えて来たのか、ジャズを奇声を上げて唄 あお った。犬塚山次は、オシゲが現われた頃は酔っ払って、何回も吐いて、蒼い顔をして寝ていたが、 っ学」 0
192 「羽根はここにありまっさ」 そう言って、小男は、片脚を上げて、それを手で持って、足の裏を鮎太の方に示した。そこに は赤い羽根が一個、足の裏いつばいに彫られてあった。 つぶ カメラマンは何枚か二人の背をカメラに収めた。鮎太たちは縁側で一時間程時間を潰して、更 に別の二人の博奕打ちの人墨を写真に撮った。 「僕は帰りますよ」 語若いカメラマンは余り居心地がよくないらしく、仕事が終ると、直ぐ鮎太を残して帰って行っ なり ろ 鮎太はオシゲがどこからか持って来た稲荷ずしを御馳走になり、部屋に電燈の点ったのを合図 すにそこを引き上げた。 あ「一つちュも一何こ , つつと」 そう言って、オシゲも一緒について来た。 鮎太はオシゲと一緒に三の宮へ出た。 「もっと人墨を見たいんなら、番町でも、新川へでも案内します」 と、オシゲは言った。 「もう沢山」 鮎太が一一一口 , っと、 ごちそう
いることだろうと思った。あいつだけは、正真正銘のあすなろだと思った。 しかし、気付いてみると、あすなろは今や、オシゲと並んで歩いて行く彼の周囲にもいつばい はんらん かっ 氾濫していた。雑多な食料品や得体の知れぬ化粧品の壜を並べたバラックの店が、曽ての焼跡の 上に、所狭いほど、押し合いへし合い並び立っていた。そして、日本人も三国人も声をからして どな 何かを呶鳴り、客を招んでいた。日毎に価値を喪失して行く紙幣を廻って、烈しい争奪戦は展開 わず していた。人々は誰も彼も、自分をのし上がらせるために血みどろになっていた。僅か十カ月足 地らずの間に、すっかり世の中は変っていた。 民「ここで別れましょ一つ」 植闇市の十字路で、風に髪を飛ばせながら、オシゲは言った。 のそこは、去年の秋、熊さん夫婦と、オシゲと、三人の彼女の仲間たちと、それに犬塚山次と鮎 星太が加わって、月を見た星の植民地の丁度真ん中に当る場処であった。 びん
は取り上げられないだろうと思った。 だめ 「日本人の入墨では駄目か」 「日本人のは相当資料を持っているんだ。しかし、・日本人のでもないよりよ、、 ) ーししカら、撮れるん なら撮って貰いたい。資料だから多過ぎて困るということはないんだ」 鮎太は、いっかオシゲが、彼女が出入りしている賭場のことを語った時、男の人はみんな入墨 していると言ったことを思い出し、日本人の入墨なら、オシゲに頼めば何とかなるだろうと思っ 地たのである。 民「よし、じゃあ、一人紹介する、多分その女に頼めばい、 ( と思うんだ」 植鮎太はそう言って、犬塚山次を連れて、その足で熊さんの銀河に出掛けた。 の夜が物騒だったので、熊さんは平生でも日没と共に店を閉めたが、その日は観月の宴のために、 星特に早く店を閉めたらしく、鮎太が銀河に行ってみると、木製の粗末な卓と椅子は店の隅に積み 上げられ、土間には莫蓙が敷かれ、その上に熊さん手製の食卓が置かれてあった。そして食卓の 上にはバクダンと称せられる怪しげな酒と、野菜の煮たのと、急に最近出廻り出した進駐軍の罐 づめ 詰が口を開けて、幾つか並べられてあった。オシゲはまだ来ていなかった。 「おかげで、どうやら出世しました」 熊さんは、そんな挨拶をした。 「あほらし、 185 あいさっ かん
「うち、お嫁さんに行くことにしました」 突然彼女は言った。 「どこへ」 「秋田県の田舎の米屋さん」 それから、くつくっと大った。 「ど , っして」 地「奥さんに悪いから」 民「悪いのは僕の方だろう」 植「そりゃあ、梶さんは梶さんで悪いけれど、わたしはわたしで悪い」 の「決めたの ? 」 星「もう決めちゃった。早いでしよう。それに、友達が留守の間に来ては、洋服を持って行ってし まうし、急に三の宮が嫌になっちゃった」 本当に嫌そうな顔をした。 鮎太は、オシゲと繁く会っていたわけではなかったが、オシゲのいなくなった後の生活を考え て、その索寞さを心で計算していた。 「どこかでタ食を食べようか」 「やめましよう。このまま、すうっと別れちゃった方がい ( 」 203