佐分利 - みる会図書館


検索対象: あすなろ物語
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1. あすなろ物語

かれてあった。東京の大学へ進んだ大沢、木原、金子の三人からの寄せ書きであった。 「佐分利夫人、英子さん、貞子さんの花々しき一家は金沢から東京へ移って来た。まるで俺たち を追いかけてやって来たようなものだ。まことに君にはすまない話だが、われわれは、また、毎 週一回ずつ佐分利家のサロンに集ることになるだろう」 これは法科へ進んだ大沢。ーー鮎太は仲間の中で、この大沢が一番苦手であった。何も勉強を しないくせに、成績は常に組で三、四番を上下していた。頭もよかったが、それ以上に要領がよ くちびる りかった。唇の薄い、睫分長い顔は、鮎太には軽薄に見えたが、鮎太の知っている女たち ( と言っ 面ても下宿の小母さんや寮の小母さんたちしかないが ) の眼には、彼は美貌な青年として映ってい の こ。佐分利夫人がいっか大沢に外国製のシガレット・ケースを与えたことがあったが、それ以来 水 う鮎太はこの大沢に軽い憎しみを抱いていた。 漲「佐分利さん一家が東京に出て来て、駒込の本郷中学の裏手に居を構えました。英子さん貞子さ んの二令嬢が東京の学校へ上がるためだと言うことです。今日初めて、われわれ三人は東京の佐 分利邸を訪れました。美しい人たちはどこにいても美しいと思いました。もう大学生になったか らと言って、夫人は上等のウイスキーを出してくれました。今までのように紅茶ではありませ ん」 これは剣道二段、農科へ進んだ金子。ーーー手紙を書くとなると、いつも柄になく子供つほい文 みずま 章しか書けない男である。二十貫近い金子が、佐分利家の庭に水撒きをして半裸体になった時、 まっ こま 1 一め びぼう

2. あすなろ物語

うわさ れ、それ以来、佐分利家を去らないでとかくの噂を持ったまま、依然として同家の若夫人として の生活を続けていた。 当時鮎太の耳に人った噂では、信子の父親が炭鉱事業に手を出して失敗して以来、実家の真門 家は相当窮迫した実情にあり、悧な信子は実家に戻されることを嫌「て、佐分利家に居坐「て しまう腹らしいというのであった。 鮎太はそうかも知れないと思った。信子にはそう見られてもいいような、何事につけても貧し さを極端に嫌う派手な一面があった。しかしまた、鮎太の仲間の木原などは、別の見方をしてい 面た。二十歳、十八歳という年頃の未婚の二人の義妹を持っているので、信子としては、彼女等の の 身の振り方を決めてしまうまでは、婚家を去りたくても去られない立場にあるというのであった。 水 しゅうとめ 実際に七十近い姑と二人の年頃の義妹を持ち、大きい家の采配を揮っている信子にしたら、 ろ 漲佐分利家から籍を抜きたくても、抜けない実清に置かれてあったかも知れない。 いすれにしても、その佐分利信子の郷里が博多であって、彼女が博多の土地を踏む機会が多い というだけの理由で、梶鮎太は、友達と別れて自分一人九州の大学へと進んだのであった。言う までもなく、梶鮎太は高校生活三年の中で、彼が為した最も大きい仕事として、自分より三つほ ど年長の佐分利信子を好きになっていたのである。 鮎太が新しい角帽をかむって、連絡船で九州に渡り、福岡の唐人町の、裏が直ぐ海になってい る小さい煙草屋の二階に下宿したのは、西公園の桜がいまやこばれるばかりに満開の時であった。 ふる

3. あすなろ物語

漲ろう水の面より 北国の城下町の高等学校を卒業した梶鮎太は、仲間がそれぞれ東京や京都の大学へ進んだのに、 一人だけ九州の大学を選んだ。鮎太が九州の大学を選んだのは、その頃官立の大学の中で、九州 五ロ の大学の法文学部だけが、無試験で入学できたので、人学試験のない最も安易な道を採ったと言 物えば、それに違いなかったが、それとは別に、もう一つの理由があった。 さぶり ろ それは高校生の鮎太の仲間がよく取巻いていた佐分利信子の郷里が九州の博多であったからで すある。 かっ - 」う あ鮎太たちは何回か、郷里の博多へ里帰りする佐分利信子を女王を送る家来たちのような恰好で、 北国の城下町の暗い感じの駅へ送って行ったものである。 佐分利信子は、その城下町では、一、 二の旧家として知られている佐分利家の若い未亡人だっ じよおうばち こ。学生たちの間には彼女の行状は、女王蜂か何かのように美しく派手に見えたが、町の人々に は多少の顰蹙されるべき性質のもののようであった。 彼女は博多のやはり旧家として通っている真門家の末っ子に生れ、土地の女学校を出ると直ぐ この北国の名家の長男のところへ縁づいて来たのであるが、結婚生活五年で、夫に。ハリで客死さ 0 ひんしゆく みなぎ はかた

4. あすなろ物語

れていることを思い、これだけは誰にも知らせてはならぬと思った。そこには何か知らぬが罪の 臭いがあったからである。 その年、もう一度鮎太は上京した。 佐分利英子が声楽の勉強のために渡欧するので、その歓送会に出て来ないかという木原からの 手紙を受け取ったのは暮のことであった。 五ロ 鮎太はこの前の佐分利家訪問以来、もう二度と自分は佐分利信子の前へ姿を現わすことはない 物だろうと思っていた。佐分利夫人に対する思慕は烈しくなるとも衰えることはなかったが、それ ろ を自分の心の内側で押し殺してしまおうと努力していた。土曜から日曜へかけて、毎週のように、 す久留米の有名な禅寺に通った。学業に対する興味はすっかり失くなってしまって学校へは全然行 あ 力なカったが、禅に対する関心は強まり、苦学生ばかりがいる一番安い下宿に引越し、粗衣粗食 たんどく をし、そこで禅関係の書物ばかり耽読した。 鮎太が木原からの手紙を読んだのは、禅寺の一年中の行事で一番重く見られている、十二月一 ろうはちせっしん 日からの臘八接心を終えて、福岡の下宿へ帰ったその日であった。 何日かにわたる接心で躰は疲れていた。木原の手紙を鮎太は下宿の火の気のない部屋で読んだ。 信子に会うことは避けねばならぬと思った。 したた 残念ながら病気で上京出来ないという返事を木原に認め、それをポストすると、その足で鮎太 くるめ

5. あすなろ物語

もちろん の間に出来上がっていた。勿論何の取り決めもなかったが、そんな黙契が高等学校以来成立して いたのである。 その夜、珍しく佐分利夫人は化粧していた。 , 彼女は平常化粧しなかったが、化粧しなくても誰 よりも美しく見えていた。 佐分利夫人が化粧しているということが、鮎太には妙に嫉ましかった。何事かが彼女の身辺に 持ら上がっているのではないかという予感があった。 語と、果して、信子は、 物「ちょっとお約束があるので、私失礼します。ゆっくり遊んで行って下さい」 ろ そう言い残して、彼女は一人でいそいそと出て行った。 す木原と鮎太は応接室で貞子を相手に話していたが、信子がいないとなると、鮎太には佐分利家 あの応接室は火の消えた感じだった。 貞子が部屋を外した時、鮎太は、 「君には悪いが、俺はもう帰りたいんた」 と、木原に言った。 「君には悪いがとは何だ」 と、木原は聞き咎めた。 「君は貞子さんが好きなんだろう」 わた

6. あすなろ物語

二人が、佐分利夫人を争っても、到底自分は彼の敵ではあるまいと思った。 彼を送ってから一カ月もしないうちに、金子二等兵は上海郊外のクリークの戦闘で華々しい戦 死を遂けた。 彼の戦死の記事は新聞社の特派員に依って、詳細に報道されて、紙の社会面を賑わした。 決死隊に選ばれた彼は、右手を対岸にかけたまま、機銃の一斉射撃を浴び、左手を二回高く突 き上げて、敵味方環視の中で水中に没したということであった。 彼の戦死の報が新聞に載った時、木原と鮎太は佐分利家を訪ねた。珍しく二人は信子の居間に 面通された。 の 机の上に、金子の小さい写真が飾られ、それが黒いリボンで結ばれてあった。そして床には、 水 たんざく わきま う「この夏は血も汗もただに弁えず」という彼が出立の日に遺して行ったという短冊がかけられ、 漲その前に線香が焚かれてあった。 何もかも、鮎太には意外だった。彼が自分の写真を佐分利夫人のところに遺して行ったという ことも、ちょっと信じられぬ彼の一面であったが、鮎太は少しも嫌な気はしなかった。 また彼が俳句を作るということは知っていたが、このように重々しい句が、彼ののほほんとし た人柄から生み出されているとは知らなかった。句の意味は多分に独りよがりのようであったが、 鮎太は彼自身の勝手な見方で、その句の意味を考えていた。金子の佐分利夫人に対する気持がい つか鮎太などは遠くに置いてけばりにして、血も汗も弁えぬ烈しいものになっていたかと思った。 109 シャンハイ ひと

7. あすなろ物語

と言ったが、鮎太は気持がしらけて、一口も酒は飲みたくなかった。 わず 僅か三カ月ばかりの間に、高等学校の仲間の気持はまるで、ばらばらになっていた。佐分利家 を挾んで意味もなく、みんな刺げ刺げしくなっている感じだった。 その晩、鮎太は酔っ払った木原を連れて、彼の本郷の下宿へ行った。 下宿の部屋へ入っても木原は、妻をめとらば才長けてと、何十回も同じ歌の最初の歌詞だけを 繰返して唄い、下宿の主人に注意されて、漸く床に就いた。そして床に就くと直ぐ正体なく眠っ てしまった。鮎太は眠っている木原の右の眼から涙が流れているのが、何か気になった。 よ 面鮎太は下宿で借りた蒲団の中で、いつまでも眼を開けていた。佐分利家で昼中眠「てしまった の ので、少しも睡くなかった。考えてみると、九州からわざわざ出て来たが、全く意味のないこと 水 うになっていた。大沢に言われた通り佐分利家で自分が示した態度はなっていないようであった。 漲突然訪ねて行って朝食を御馳走になり、昼中眠り、起きるとこんどは夕食を御馳走になり、その 果に何の理由もなく不機嫌になって飛び出したのだから、これ以上我儘で莫迦な行為はないわけ であった。 それにしても、大沢と金子は英子に、木原は貞子に恋をしているらしいことが、奇異な気がし た。美しいと言えば英子も貞子もそれぞれ花のように美しかったが、鮎太自身にとっては、二人 は到底愛情の対象には考えられなかった。 鮎太は自分が美しい姉妹のいすれでもなく、高校生活三年を通じて、ずっと佐分利夫人に惹か ようや わがまま

8. あすなろ物語

「立派な躰ねえ。ギリシャの彫刻みたい」 きり そう信子が言ったのを、鮎太は胸に錐でも刺されるような痛みで聞いたことがある。それ以来 鮎太は金子にも余りいい感情は持っていなかった。夏など何かというと、佐分利家で裸体になり たがる金子を、何と嫌な奴だろうと思っていた。 「佐分利夫人は君に会いたがっていた。なぜ一人だけ九州などへ逐電したのだろうと言っていた。 英子さん、貞子さんは相変らず。ーー・それにしても、夏休暇には早いめに東京に出て来ないか。 吾みんな待っている」 物これは仲間の中で一番分別をわきまえている工科の木原。ーーこの親友にも、鮎太は好感ばか ろ り持っているわけではない。信子の義妹たちに取り人って、その家庭教師のような役を買って出 すみ すて以来、鮎太は木原をも隅に置けない奴だと思っている。それに信子が木原を一番信用していて、 あ何かと相談役に彼を選ぶことも、鮎太には心外だった。 鮎太は三人の友達からの手紙を読み終った時、よし、今から直ぐ東京へ出掛けて行くぞと思っ 1 」ちそう た。まだ見たこともない東京の佐分利邸を想像し、そこでウイスキーを御馳走になっている三人 の仲間の姿を眼に浮かべると、もうじっとしてはいられなかった。夏休暇などとても待っていら はず れなかった。そもそも信子が東京へ居を構えると知っていれば、わざわざ九州の大学など選ぶ筈 はなかったのである。 佐分利夫人は君に会いたがっている。 この木原の下手糞なペン字の一行が、その晩、梶鮎 へたくそ ちくてん

9. あすなろ物語

といきなりむっとしたように言った。 「ある一人の女の為に取っておいた童貞をつまらぬ女にくれて来た ! 睡いから俺は眠るぞ」 そう言って彼は蒲団の中へもぐり込んだ。 「一人のひととは誰だ」 「そんなことが言えるか」 彼は、物も言わないで、十分程天井を見ていたが、やがて、本当に鼾をたてて眠ってしまった。 鮎太は、金子もまた、佐分利夫人に恋をしていたのではないかと思った。鮎太は金子を残して 面部屋を出ると、この間木原から告白を聞いた時と同様に興奮して、やたらに染井の墓地を歩き廻 水 そんな事があって一カ月程して、また性懲りもなく、三人揃って佐分利家を訪れた。 ろ 漲 が、応接間に出て来た信子には別段変ったことはなかった。変っているのはこっちの方だった。 木原は照れてやたらに五分刈りの頭を撫でていたし、童貞を失った金子は、心持か、彼女の前で しようぜん 肩身狭そうに悄然としていた。 それから翌年の夏までに、何回か、三人で佐分利家を訪れたが、信子は、いつもウイスキーか ビールを出してくれて、彼女も一緒になって騒しオ 「大沢さん、どうしていらっしやるかしら ? でも、あの人は檜だったわ」 実際に大沢は檜に違いなかった。大沢と言えば、学生では誰もその名を記憶していた。新聞に 107 いびき

10. あすなろ物語

141 結局、春の狐火の記事は載らなかった。 四、五日してから鮎太は聞いたのであるが、若いカメラマンは「コンちゃん」という綽名を他 のカメラマンたちから奉られていた。 しかし、春の狐火事件は、梶鮎太にとっては、生涯にとっての大きい事件であった。 鮎太は、あの晩の女が、一体人間であるか狐であるか、人間とすれば一体どこの誰であるか、 全然判らす、得体の知れぬ謎に包まれたままであったが、それとは別にこの事件に依って、鮎太 火は長い間彼が持ち続けて来た佐分利信子の亡霊を振り落すことができたのであった。 憑きものが落ちるという言葉があるが、全くそんな風に、鮎太の心から、佐分利信子は落ちた 狐 のであった。 の 鮎太は自分が初めて他の若者たちと同様に自由な天地に立っことができたのを感じた。戦争で 春さえ落すことのできなかったものが、鮎太は女を知るという一事に依って、簡単に自分から払い 落すことができたのであった。 佐分利信子は鮎太にとっては、いまや自分を長年月夢中にさせた過去の女であるに過ぎなかっ 春さんが軽い脳溢血で倒れたのは「春の狐火」事件から一年ほど経ってからである。 鮎太は春さんのそうしたことは聞いたが、仕事が忙しくて見舞にも行けなかった。鮎太が一年 がしよう 振りで、中国山脈の山懐にある春さんの家を再び訪ねて行ったのは、春さんが臥床してから一カ ) 0 のういつけっ なぞ あだな