内儀 - みる会図書館


検索対象: あすなろ物語
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1. あすなろ物語

内儀さんは横から逆襲した。鮎太は熊さんの味方でも内儀さんの味方でもなかったが、熊さん のなだめ役に廻った。また家を壊しかねなかったからである。熊さんは、実際に、時々座を立っ きようばう ては、羽目板に握り拳を当てたり、兇暴な眼付きでそこらを歩き廻ったりした。内儀さんの方は、 終始つんとして静かにしていた。 三日間、毎日のように、鮎太は銀河に引張り出され、別れたいという内儀さんと、別れるのは いたばさ 嫌だと言う熊さんの間に板挾みになった。 地そして三日目に、やっと銀河の店を売って、その金を山分けにし、自分の子供をそれぞれ自分 民のところへ引き取ると言うことで、別れ話が成立した。 もくあみ 植「そうすれば元の木阿弥で、後腐れがなくてさつばりしてい 。わしはまた伊那へ帰ります」 の案外、さつばりと熊さんは納得した。内儀さんの方は、折角店をこれまでにしたのだからと、 星多分に店に未練はあったらしいが、結局、彼女もそれを承諾した。 まきなお 「また新規蒔直しにやりますわ、頼みまっせ」 内儀さんは言った。彼女はまたどこかで喫茶店を新しくやるということだった。 内儀さんは、熊さんには未練はなかったが、熊さんの娘には愛着があるらしく、その娘が熊さ んに連れ戻される話が出た時だけ、声を上げて、その場に泣き伏した。 熊さんこと翌檜第一号の幸福な家庭の設計はかくして、終戦後一年足らずで崩壊しなければな らなかった。いい尸 人罰同士が集って、それでいて幸福というものが撼めないことが、鮎太には割

2. あすなろ物語

186 内儀さんが傍で言うと、 「出世ゃないか。今時、ちゃんと一軒の店を持ち、食うに困らん奴はそう沢山はいないぞ、なあ、 梶さん」 鮎太は熊さんのそんな満足そうな表情を見ていて楽しかった。 「髯を剃るんだな」 鮎太が一「ロ , っと、 語「梶さんがそう一言うなら剃らんこともないか」 物熊さんは三寸はあろうと思われる髯を、しきりに、大きな掌で撼んでは引張っている。 ろ 「ごろっきみたいー 汚いったらありはしない」 す内儀さんは、熊さんの髯を前から嫌っていた。 あ「ごろっきゃないか ! ごろっきで悪かったな。そのごろっきのお蔭でお前は倖せになったんじ ゃあない力」 「あほらし、 鮎太はその日初めて、顔に薄化粧をしている内儀さんを見た。育ちは内儀さんの方が少し上等 さんが時々自分の趣味に合わぬ人物に見えてい らしく、そんなことから、内儀さんの眼には、 るようであった。 犬塚山次は、こうした場所には全然慣れていないらしく、黙って酒のコップを取り上げては、 きら しあわ

3. あすなろ物語

内儀さんのその言葉で気付いたのだが、店の内部は、掃除こそしてあったが、ひどい痛みよう まどわく であった。羽目板は割れ、窓枠は落ち、隅には卓や椅子の壊れた木片が積み重ねられてあった。 「見ておくんなはれ」 内儀さんはもう一度言ったが、熊さんは気難しく腕組みしていた。 「ど , っしたんた」 鮎太が訊くと、 「どうもこうもあらへん。敲き壊してやった」 地 民と、熊さんは言った。内儀さんは熊さんには取り合わず、鮎太に、 植「何が気に障ったか知らないが、この始末です。自分の物を自分で壊すのは勝手や。だけどこの の家も、この家の内部の品も、わたしが半分は造ったものです」 けんか 上さんは腹を立てて、大荒れ 星幾ら訊いても、喧嘩の原囚ははっきりしなかったが、とにかく、育 . に荒れて、家を半分敲き壊したものらしかった。そしてすった揉んだの挙句、その謝罪の意味で、 熊さんは半年間、この家を出るということを承知させられたもののようであった。熊さんは詰め 腹を切らされた形だった。 「半年経ったら、もともと、ここはおっさんも半分権利があるによって、家へ人れてやりますさ。 半年経たんと、うち諾きしません」 、こ。砧太は仲裁役を買って出たが、内儀さんの方も諾かなか 内儀さんの方が理路整然としてしオ角 195 たた

4. あすなろ物語

8 「あの人はいい人です。うちより余程いい人です。でも、あの髯面を見ると、うち、かないませ ん。あの人のいいとこが、みんな嫌になってしまいます」 「まだ髯を生やしてるの ? 」 「そうですがな」 「じゃあ、僕が剃らしてやろう」 「剃ったって同じことですがな。剃ったらおっさんらしくなくなって、変なものですわ」 五ロ 鮎太は内儀さんを社の客室へ人れて、そこで、真剣に話を聞いてみた。あれこれ訊いてみた挙 物句の果てに到達した結論は、内儀さんが結局は熊さんを段々嫌いになって行くということであっ ろ す終戦直後、二人が一緒になった時はいい人だと思ったが、世の中が次第に正常に戻るにつれて、 あその熊さんのいいところが、だんだん嫌になって行く。そういう内儀さんの気持も言われてみれ ばなるほど判らぬこともなかった。熊さんの持っているよさには、確かにそんなところがあった。 その晩銀河の店で、熊さんと内儀さんと鮎太の三人は、言葉少く酒を飲んだ。熊さんは、髯面 の中で、眼をぎらぎらさせて、 「半年間清浄でした」 ごうぜん そんなことを倣然と鮎太に訴えた。 「まだ半年にならへんが」 」 0

5. あすなろ物語

183 の硬派の不良少女だった。気性は鉄火だったが、眼を細めて笑うと、色の黒い顔がひどく優しく なり、むつつりと黙っている時の横顔は、鮎太が何かの写真で見た外国の宮廷の皇女に似ていた。 ひげづらー さんの家を覗いた。髯面の熊さんの大きな それから鮎太は毎日のように、新聞社の帰りに、 躰の向うで、内儀さんの小さな躰が、こまめに立ち働いていた。 一見すると、似合の夫婦であっ た。しかし二人がそれぞれ子供を連れていることに、何か二人の間をしつくりさせないものがあ るようであった。内儀さんの連子は八つの男の子だった。 地「どうも、俺の娘よりも、自分の子供の方にいいものを食わせていると思うんです。それでなく 民て、ああ、まるまると肥るものではない」 植内儀さんがいない時、熊さんは鮎太にそんなことを言った。しかし、これは内儀さんの方も同 のじだった。 星「どうです。どこから仕入れたのか、おっさんと来たら、娘にあんな純綿のシャツを着せてやっ て。幾ら働いても、せいがないことですわ」 そんな愚痴をこばしたしかし、子供の事以外では、二人は仲睦じいようで、お互いにおっさ ん、おばさんと呼び合って、朝から晩まで汗を出して立ち働いてい はたけ 熊さんの店は終戦後一カ月の間に二回変った。最初の土蔵が二人の手で整理され、小さい畠が 耕された頃、持主がやって来て立ちのきを要求したからである。熊さんは仕方ないので、近くの 他の土蔵に変り、そこで店を開いた。二軒目の土蔵の時から、店には毎日のように客が立て込ん からだ おれ むつま

6. あすなろ物語

皿り切れぬ気持で残った。 鮎太は伊那へ帰る熊さんを内儀さんと一緒に大阪駅へ送る途中、駅のホームの階段で、田原と 会った。田原とは一回しか顔を合わせていなかったが、派手な服装をした、それでいてどこか崩 れた感じを歩き方に持っている大柄な美貎の青年は、やはり田原以外の人物ではなかった。彼は 四、五人の、彼よりはずっと見劣りする服装の青年たちに取り巻かれるようにして、改札ロの方 へ足早に降りて行った。 語熊さんは列車の窓から髯面を突き出しては、内儀さんの差し出す風呂敷包みを、一つすっ車内 むつま 物へ人れていた。傍から見ていると、二人は睦じそうな夫婦に見えた。列車が動き出すと、熊さん ろ ど彼の娘はやたらに手を振った。列車が見えなくなってから、内儀さんは、 す「おっさん、到頭往ってしもうた ! 」 あそうばつんと言って、暫くそのままの姿勢でそこに立っていた。 熊さんがいなくなってから二、三日してからのことだった。夕方、鮎太は受付から面会人だと いうので、階下へ降りて行ってみるとオシゲが立っていた。 かた 新聞社の受付の空気が窮屈にでも感じられるのか、オシゲは身を硬くしていた。 すなぼこり 鮎太はオシゲを連れて、直ぐ社外へ出た。街角で風が砂埃を巻いていた。夕方はもうすっかり 夏の感じだった。

7. あすなろ物語

うわさ 「あの人たち、どうせ帰って来はしないと思うの。朝鮮かどこかへ渡ってしまったという噂よ」 それだけで、その話は切って「奥さんに悪いわ」とちょっと首をすくませて、鮎太の机の置い てある部屋のあちこちを見廻した。 鮎太は、毎夜、家へ帰って玄関を開ける度に、オシゲが来ているのではないかと思った。しか し、大抵の場合、その期待は裏切られた。 オシゲは思い出したように、月に二回か三回訪ねて来た 9 相変らす、いつも、右腕の桜の花弁 地の人墨を左手で匿すようにして眠った。鮎太は、そうしたオシゲから次第に離れられなくなって ふち 民行く自分を、時々、深い淵でも覗くような絶望的な気持で振り返った。終戦翌年の冬から初夏へ 植かけて、二回程、疎開している家族のもとへ帰ったが、何とか口実をつけて、その度に疎開の引 のき揚げを延ばしていた。 星五月に人ったばかりの時だった。銀河の内儀さんが顔色を変えて、新聞社の受付へやって来た。 鮎太が階下へ降りて行くと、 「帰って来やはりました」 そう言って、息を呑んだ。熊さんが昨夜帰って来たと一言うのである。 「まだ半年になれしまへんが、家へ人れんと言ったら、意地張りやもんで、戸外へ寝ました」 「もういいじゃあないか、半年になったってならなくたって。仲直りしたら、どう ? 」 鮎太は、内儀さんの依怙地さに反感を感じて強く言った。すると、内儀さんは急に泣き出して、 199

8. あすなろ物語

「ほう、今まで男手で養っていたのかな」 「そ , つだっしやろな」 ひと 1 】と 内儀さんは、他人事のように、突き放した言い方をした。そして、急に、 「まあ、お人りやす」 と、鮎太を客扱いにした。 薄暗さに慣れると、鮎太は土蔵の板の間に横坐りに坐っている若いこれも半裸体の、余り風体 地のよくない女性がいることを知った。 民女がどんぶりようの器物で汁粉らしきものを飲んでいるところを見ると客らしかった。 あくび 植女はどんぶりを置くと、欠伸を一つして、それを二つ三つ拳で敲いてから、 の「砂糖持ってくるが、買うか、小母さん ! 」 星と言った。 やす 「買いまっせ、廉けりゃあ」 内儀さんが答えると、 、つムってくるんだから」 「廉いに決まっている。カキ 鮎太はびつくりして顔を上げた。若い女は、 「リャカーでも、トラックでも、何ででも持って来る」 「そんな仰山持ち込まれても、どう仕様もあらへん」 181 ふうてい

9. あすなろ物語

「酒と言うものは何年振りかな」 カふりがぶりと飲んでいた。 そんな事を言っては、・、、、 「大丈夫か」 鮎太が注意すると、 「大丈夫だろう」 クダンを喉に流し込んだ。 やたらに食卓の上の物を頬張っては、バ はず 地「オシゲさん、まだかな、遅いな。あの子が来んと、どうも弾まなくて不可ん」 民熊さんは時々立ち上がって行っては、扉を開けて戸外を覗いた。 植「しようもない ! 女の子だと言うと眼尻を下げて。鏡を見てごらん」 しっと の内儀さんは、そんな熊さんに嫉妬した。 しい年をしゃあがって」 星「お前さんだって男の客の時は返事が違うじゃあないかー 熊さんは熊さんで、やはり内儀さんに嫉妬していた。 さん夫婦がやはり幸福そうに見えた。 鮎太の眼には、 月が焼跡のビルの上に上がった時、スキーズボンの上に、真赤なセーターを着て、最初見た時 とは見違える程綺麗な服装になっているオシゲが飛び込んで来た。 彼女は店へ一歩踏み込んで、 「連れがあるで、ええか ? 」 187 きれい のど

10. あすなろ物語

内儀さんも、びつくりしたらしかった。 「買ってえな。多勢で分けりゃあ、ええやないか」 「一体、そんな仰山、どこから持って来ますねん」 ばうくう 1 」う 「神戸から運んで来る。友達の家がもともと砂糖屋で、売り惜しみして防空壕の中へ沢山しまっ てあるんや」 「あんた、一体なんやね」 「三の宮の不良や」 物若い女は悪びれずはっきりと言って、 ろ 「ああーあ、三の宮も焼けてしもうた ! 宿なしや、ここに置いて貰おうかな」 すロでは、そんな事を言ったが、直ぐ立ち上がると、勘定をして戸外へ出た。タ明りの中で見る あと、若い女は、少し顔は険しかったが、すっきりした顔をしていた。二十二、三であろうか。 「戦争もっとありゃあええに ! 終ってしもうた。なあも、面白いことあらへん」 ぜりふ 捨て台詞を残して、女は向うへ立ち去って行った。 「あんなのがいるんで、戦争敗けたんや」 内儀さんは言いながら、鮎太のところへどんぶりを運んで来た。鮎太は、しかし、女が全く戦 争というものに対して他人と考えを異にしていることが、妙に新鮮に感じられた。 この女とは、鮎太はその後、同じこの熊さんの家で親しくなった。本当にオシゲという三の宮