鮎太が言うと、左山は黙って考え込んでしまった。佐伯英子が毒を飲むかも知れないと言った こた ことが、左山町介には応えたらしかった。 「君に仲に立って貰って、うまく収めないと、この問題は厄介だな 「そう言う役は辞退する」 「ど一つしても嫌か ? ・」 「嫌だな」 語左山町介は冷たい視線を鮎太に投げると、意味不分明な笑いを残して、ついと席を立って行っ 物てしまった。 ろ 左山町介が、佐伯英子と結婚式を挙げたのはその年の秋である。 す長い間鮎太は左山と会わないでいたが、突然結婚式の披露宴の招待を受けた。二人が結婚の運 あびになる経緯については何ら知るところはなかったが、鮎太は、自分もまた、左山と英子の結婚 のどこかに、、 乙さいながらも、一役買っているのではないかと思った。 その左山の結婚の披露宴の席上で、鮎太は全く思いがけない人物と卓を同じくした。加島浜子 である。 鮎太は小学校時代を郷里の伊豆半島の山奥の小さい村で過したが、そこの温泉旅館に大学生の 兄と一緒に来ていた十一、二歳の頃の浜子を見知っていた。 おとな それからも一度、鮎太は中学生の頃、見違える程大人びた女学生の浜子に会っていた。会った 164
あることを憶い出した。この春も、彼は一カ月近く伊豆屋に泊っていた。大変な勉強家だという 噂だった。鮎太たちはこの男の四角な帽子が珍しくて、「大学生、大学生」と口々に言いながら、 彼が村を引き上げて行く時、馬車の乗場まで背後からついて行ったものである。 男は頭を坊主刈にし、肩の張った大きい躰を持っていた。彼は手紙を取り上げると、部屋の隅 の机の上に置き、 「君、何年生 ? 」 きロ 物「六年生です」 ろ 「蔵の中におばあさんと住んでいるの ? 」 す「そうです」 あ鮎太は、この大学生が自分のことを知っているのが不思議だった。 「お坐り」 一刻も早くこの場所から退散したかったが、鮎太は男からそう言われると、縁側に腰を降ろし 工うじま すなばこり た。鮎太は榾縞の着物と、縄のような帯と、先刻川を渡る時濡れて、砂埃をくつつけて汚れてい わらぞうり る藁草履が気になった。 「お菓子あるだろう」 大学生が言うと、少女はきれいな半紙の上にカステラを二切れ載せて持って来た。それを縁側
「人より二倍勉強するんだな。二倍勉強すれば二倍だけ出来るようになる。朝起きても学校へ行 くまで勉強。学校から帰っても、又勉強。ーーーそうすりゃあ、どこへだって人れる」 ほとんひとごと 大学生は殆ど独り言を言っているような調子で喋っていた。 「君、勉強するってことは、なかなか大変だよ。遊びたい気持に勝たなければ駄目、克己って言 葉知っている ? 」 「知っています」 吾「自分に克って机に向かうんだな。入学試験ばかりではない。人間一生そうでなければいけな 物 ろ 鮎太は、この時、何か知らないが生れて初めてのものが、自分の心に流れ込んで来たのを感じ すた。今まで夢にも考えたことのなかった明るいような、そのまた反対に暗いような、重いどろど すきま あろした流れのようなものが、心の全面に隙間なく非常に確実な速度と拡がり方で流れ込んで来る のを感じた。不思議な陶酔だった。 Ⅱに沿った道が、川から離れて、折返しに上り坂になる所まで来た時、大学生はふと立ち止ま ると、何かをびりつと裂いて、それをまるめると川の方へ投げた。 鮎太は、その時、大学生が破いたものが、先刻自分が彼に渡し、彼が机の上に置いた冴子の手 ゆかた 紙であることを知った。浴衣を肩までまくっている大学生の白い右腕の動きが、その時、鮎太に は印象的だっこ。
に置く時、彼女は意味のない笑いを鮎太の方へ見せた。堪まりかねて、 「僕、帰ります」 鮎太が言うと、 「そう、そこまで送って行って上げる」 大学生は立ち上がると、縁から降りて、庭下駄を履いた。少女は器用にカステラを紙に包むと、 鮎太の方へ差出した。 こわ ぜいじゃくてごた で鮎太にとっては、それは妙に脆弱な手応えのない紙包みだった。彼はそれを毀れないようにそ 中 っと手に撼むと、大学生の背後について歩き出した。 の つりばし 今度は川を渡る必要はなかった。中庭から明るい玄関の方へ廻り、そこから吊橋の方へ出た。 吊橋を渡ると、道は少しの間川に沿って走っていた。 深「君、六年生なら、来年は中学へ行くんだろう」 「そうです」 「勉強しないと駄目だな」 「都会の学校は難しいよ。勉強している ? 」 うなず 鮎太は、勉強はしていなかったが、黙って大学生の方へ頷いてみせた。急に自分が大人扱いに されているような変な気がした。 にわげた
雪枝はつかっかと近付いて来ると、 「ここで待っていて、あんたを殴りつけた奴を言いなさい」 と言った。鮎太はそれだけはごめんだと思った。鮎太は物も言わすに、雪枝の前をすり抜ける と、そこから駈け出そうとした。が、鮎太の鞄は雪枝の手に撼まれていた。 「な、せ逃げるの」 はずか 「駄目ねえ、羞しがることないじゃあない」 もう、みんな帰っちゃった 実際、鮎太は自分を殴りつけた上級生の何人かが校門を出て行ったのを見ていた。 「帰ったのなら、駅へ行ってみましよう。どうせ、そのうち何人かは汽車通学でしよう」 月 寒「駅なら行く」 鮎太は一刻も早くこの場を逃れたいばかりに、そう返事をした。 それから鮎太は雪枝に付添われて z 市の大通りをぬけて駅まで行った。駅の建物が見えて来る と、鮎太の足は重くなった。 駅へ着くと、雪枝は待合室に人って行った。 そこには汽車で通学する z 市の中学生や女学生たちが溢れていた。 「あそこに一人いる」 あふ
かれてあった。東京の大学へ進んだ大沢、木原、金子の三人からの寄せ書きであった。 「佐分利夫人、英子さん、貞子さんの花々しき一家は金沢から東京へ移って来た。まるで俺たち を追いかけてやって来たようなものだ。まことに君にはすまない話だが、われわれは、また、毎 週一回ずつ佐分利家のサロンに集ることになるだろう」 これは法科へ進んだ大沢。ーー鮎太は仲間の中で、この大沢が一番苦手であった。何も勉強を しないくせに、成績は常に組で三、四番を上下していた。頭もよかったが、それ以上に要領がよ くちびる りかった。唇の薄い、睫分長い顔は、鮎太には軽薄に見えたが、鮎太の知っている女たち ( と言っ 面ても下宿の小母さんや寮の小母さんたちしかないが ) の眼には、彼は美貌な青年として映ってい の こ。佐分利夫人がいっか大沢に外国製のシガレット・ケースを与えたことがあったが、それ以来 水 う鮎太はこの大沢に軽い憎しみを抱いていた。 漲「佐分利さん一家が東京に出て来て、駒込の本郷中学の裏手に居を構えました。英子さん貞子さ んの二令嬢が東京の学校へ上がるためだと言うことです。今日初めて、われわれ三人は東京の佐 分利邸を訪れました。美しい人たちはどこにいても美しいと思いました。もう大学生になったか らと言って、夫人は上等のウイスキーを出してくれました。今までのように紅茶ではありませ ん」 これは剣道二段、農科へ進んだ金子。ーーー手紙を書くとなると、いつも柄になく子供つほい文 みずま 章しか書けない男である。二十貫近い金子が、佐分利家の庭に水撒きをして半裸体になった時、 まっ こま 1 一め びぼう
のは一回だけであったが、少年時代の彼を通じて、もし恋情に似たものがあるとすれば、それは 加島浜子に対するものであった。 左山町介の結婚披露宴は大阪の町の真ん中のホテルで開かれた。戦争中にしては少し派手すぎ ると思われるもので、百人近い人たちが集っていた。 鮎太には、どういうものか、左山の同僚たちの席から一人だけ離れた、メイン・テープルに近 い窓際の席が与えられてあった。左山町介は自分の結婚に対する鮎太の役割を、彼らしい評価の 敗仕方で計算していたかも知れなかった。 鮎太は席に着くと、直ぐ、自分の前に坐っている二十四、五の令嬢が、加島浜子であることに 気付いた。十年以上の歳月の隔たりはあったが、浜子の少し眼の吊り加減な特徴のある容貌は直 ぐ判った。 勝少女時代は病弱な神経質なところが目立っていたが、いまの彼女に於ては、そうしたものが、 彼女の容貎を、エクセントリックなきついものに見せていた。しかし、やはり美しいと言ってい 顔立ちだっこ。 文字通りの奇遇であった。しかしその奇遇の驚きは鮎太だけのもので、彼女は全然鮎太に気付 いていなかった。考えてみれば、幼少の頃知り合ったと言っても、小学生の時一度、中学生の時 わず 一度、僅かに二度、しかも極く短い時間会っているに過ぎなかった。記憶していろと言う方が、 無理な注文であった。 165
漲ろう水の面より 北国の城下町の高等学校を卒業した梶鮎太は、仲間がそれぞれ東京や京都の大学へ進んだのに、 一人だけ九州の大学を選んだ。鮎太が九州の大学を選んだのは、その頃官立の大学の中で、九州 五ロ の大学の法文学部だけが、無試験で入学できたので、人学試験のない最も安易な道を採ったと言 物えば、それに違いなかったが、それとは別に、もう一つの理由があった。 さぶり ろ それは高校生の鮎太の仲間がよく取巻いていた佐分利信子の郷里が九州の博多であったからで すある。 かっ - 」う あ鮎太たちは何回か、郷里の博多へ里帰りする佐分利信子を女王を送る家来たちのような恰好で、 北国の城下町の暗い感じの駅へ送って行ったものである。 佐分利信子は、その城下町では、一、 二の旧家として知られている佐分利家の若い未亡人だっ じよおうばち こ。学生たちの間には彼女の行状は、女王蜂か何かのように美しく派手に見えたが、町の人々に は多少の顰蹙されるべき性質のもののようであった。 彼女は博多のやはり旧家として通っている真門家の末っ子に生れ、土地の女学校を出ると直ぐ この北国の名家の長男のところへ縁づいて来たのであるが、結婚生活五年で、夫に。ハリで客死さ 0 ひんしゆく みなぎ はかた
黄の水着が青い波と映って、鮎太の眼には美しく見えた。あるいはこの海水浴場で彼女が一番美 かもめ しいのではないかと思った。鮎太は背後に倒れての飛んでいる蒼い空に見入った。 「君、雪ちゃんの家にいるんだね」 ゆかた そう言う声で起き上がると、二十二、三の学生らしい浴衣の男が立っていた。 「そうです」 「これ、あの人に渡してくれないか」 五ロ 横柄な言葉で差し出されたのは角封筒へ入っている手紙だった。そう言ったまま、その男はす 1 三ロ したた 物ぐ背を向けて去って行った。裏を見ると佐伯とペン字で認められてあった。 ろ 鮎太は佐伯とはあの青年かと思った。 z 市の商業を中途で退校になり、現在は東京の私大に人 すっていて、東京でも名うての不良で通っているという噂の青年だった。鮎太はその噂を、中学校 ざた あの級友たちが学校で語るのを何回となく聞いていた。佐伯は一種の英雄として、腕カ沙汰の好き な中学生たちにはある種の魅力を持っているようであった。 そんな有名な不良とは見えぬ顔の生白い、しかし体格はがっちりした青年であった。 雪枝がボートから降りた時、鮎太はそれを雪枝に手渡した。 「いやなもの貰うわね。わたし、あいつ、大嫌い」 雪枝は言った。 「よ , り、・破。け・・はいい おうへ さえき あお
「鮎ちゃん、あの人どう思った ? 」 「僕は、あの人、好きだ」 鮎太は全く、冴子の心とは遠く離れた別の意味で、そう強く言った。 「幾ら好きでも、私の方がもっと好きよ」 冴子は、特徴のある細い透き通るような声で笑うと、 いきなり鮎太の肩を抱きしめて来た。 鮎太は身をもがいたが、冴子の二本の腕にこめられたカは意外に強いもので、それが身内に滲 物みるように快かった。冴子は執拗に鮎太の上半身を抱きすくめていたが、やがてくつくっと切れ くちびる ろ 切れに笑った。冴子の唇が鮎太の頬に捺された。 ふとこ す鮎太は冴子を突きのけると、懐ろに手を人れた。カステラの紙包みは見る影もなくひしやげて あいた。カステラを包んでくれた少女に悪いと思った。 「何、それ」 「お菓子を貰ったんだ」 加島というのが、大学生の名前らしかった。 ちょうだい 「わたしに半分頂戴 ! 」 しつよう