138 している娘の感じだった。 女は鮎太に近寄って来ると、 「随分探しましたわ」 と言って、それと同時に、鮎太の方へ身を寄せて来た。 鮎太は、その女の態度から親しさ以外のものは感じなかった。 鮎太は気付くと女の躰を抱いていた。女の体臭が春の生暖い夜気の中に解けていた。下から首 語へかけられた女の手で、鮎太は顔を下へ向けた。女の唇が頬に触れた。次の瞬間、鮎太は唇を女 物のそれに捺していた。 ろ 鮎太は女を抱えたまま横に倒れた。線路から半間程離れている丘陵の裾であった。柔かい雑草 すが鮎太の全身に感じられた。 あ鮎太は女の躰を抱いている手に力をこめて行った。女の口から小さい言葉が洩れたが、鮎太に ははっきりと聞き取れなかった。 近くでむせつばい花の匂いがしていた。鮎太にとっては女の躰というものは初めての経験だっ こ。長い間彼の思念にまといついていたような、粘着性の黒いどろどろしたものではなかった。 鮎太はどうして自分がこのような事になったか知らなかった。しかし、すべては極く自然に、彼 と相手の女との間に持ち上がったもののようであった。大きい花東がいきなり二人の間に置かれ、 いっしょにそれにむせて行った感じであった。
皿り切れぬ気持で残った。 鮎太は伊那へ帰る熊さんを内儀さんと一緒に大阪駅へ送る途中、駅のホームの階段で、田原と 会った。田原とは一回しか顔を合わせていなかったが、派手な服装をした、それでいてどこか崩 れた感じを歩き方に持っている大柄な美貎の青年は、やはり田原以外の人物ではなかった。彼は 四、五人の、彼よりはずっと見劣りする服装の青年たちに取り巻かれるようにして、改札ロの方 へ足早に降りて行った。 語熊さんは列車の窓から髯面を突き出しては、内儀さんの差し出す風呂敷包みを、一つすっ車内 むつま 物へ人れていた。傍から見ていると、二人は睦じそうな夫婦に見えた。列車が動き出すと、熊さん ろ ど彼の娘はやたらに手を振った。列車が見えなくなってから、内儀さんは、 す「おっさん、到頭往ってしもうた ! 」 あそうばつんと言って、暫くそのままの姿勢でそこに立っていた。 熊さんがいなくなってから二、三日してからのことだった。夕方、鮎太は受付から面会人だと いうので、階下へ降りて行ってみるとオシゲが立っていた。 かた 新聞社の受付の空気が窮屈にでも感じられるのか、オシゲは身を硬くしていた。 すなぼこり 鮎太はオシゲを連れて、直ぐ社外へ出た。街角で風が砂埃を巻いていた。夕方はもうすっかり 夏の感じだった。
。土蔵の中だから、隙間風の寒さはなかったが、夜 鮎太は睡眠時間をつめて机に対かっていた うしな も朝も、机に対かっていると、手足が凍えて感覚を喪った。 「冷たいわねえ、まあ、可哀そう、もう暫くの頑張りね」 冴子は、ある時、珍しくしんみり言って、冷たい鮎太の手を取って、自分の手の中に包んだ。 十二月の中旬の夜だった。 冴子の手も同じように冷たかった。鮎太はその時、冴子の手指の自く華奢なことに初めて気付 いた。いっか冴子に抱きしめられた時とは違って、鮎太はいつまでも冴子に手を握らせておいた。 で 中 冴子のその時の動作には、少しも毒のある感じはなく、その手から次第にこっちに伝わって来 の る体温の温かみは、姉か母の持つに違いないそれと同じもののような気がした。 冴子が祖母に、この前と同じように港町の家へ帰って来ると言って出て行ったのは、その翌日 深のことであった。三日程と言って出て行ったが、冴子は一週間経っても帰って来なかった。 鮎太は冴子がいなくなると、勉強するのに気が抜けた気持だった。 日曜の珍しく暖い日のことだった。どこからか帰って来た祖母が、 「この寒いのに酔狂なことじゃ。天城に心中もんがあったそうだ」 と言った。山を降って来た炭焼人夫の報告だということだった。 はっとして立ち上がった。 その祖母の言葉を鮎太は自分の机の前で聞いたが、 「心中もんが見付かったの」 がんば きやしゃ
189 やがてむくむくと起き上がると、紙のように白くなった顔のままで、山西省の山奥の部落の踊り かっこう を珍妙な恰好で踊った。踊りというより、蝙蝠でも舞うような、不思議な飛び廻り方で、あわや 羽目板に衝突するかと思うと、そのたびに器用に身を翻した。 オシゲは、驚くほど酒に強かった。飲み出すと気持が滅入って来る方で、眼を据えて、数年前 流行した感傷的な流行歌を繰返して唄った。 熊さんは芸がなかったので、「やれ ! やれ ! 」とか「うまいぞ ! 」とか「やかましい どな 地か大声で呶鳴り立てていたが、やがて戸外へ出て行った。 民間もなく、 植「月がいいぞ、みんな出て来い」 のそんな声が聞えて来た。その声で少女たちは出て行った。続いて、鮎太も、オシゲも、内儀さ 星んも、月を観るために戸外に出た。 見晴るかす焼野に月光が降っていた。四辺は荒涼たる荒磯の感じで、十月の夜気が肌に寒かっ どこかで銃声が聞えた。鮎太ははっとした。 「毎晩でっせ、一発や二発」 と内儀さんは動じないで言った。 又、銃声が聞えた。二発目の時、 」 0 - 」うもり あらいそ
「人より二倍勉強するんだな。二倍勉強すれば二倍だけ出来るようになる。朝起きても学校へ行 くまで勉強。学校から帰っても、又勉強。ーーーそうすりゃあ、どこへだって人れる」 ほとんひとごと 大学生は殆ど独り言を言っているような調子で喋っていた。 「君、勉強するってことは、なかなか大変だよ。遊びたい気持に勝たなければ駄目、克己って言 葉知っている ? 」 「知っています」 吾「自分に克って机に向かうんだな。入学試験ばかりではない。人間一生そうでなければいけな 物 ろ 鮎太は、この時、何か知らないが生れて初めてのものが、自分の心に流れ込んで来たのを感じ すた。今まで夢にも考えたことのなかった明るいような、そのまた反対に暗いような、重いどろど すきま あろした流れのようなものが、心の全面に隙間なく非常に確実な速度と拡がり方で流れ込んで来る のを感じた。不思議な陶酔だった。 Ⅱに沿った道が、川から離れて、折返しに上り坂になる所まで来た時、大学生はふと立ち止ま ると、何かをびりつと裂いて、それをまるめると川の方へ投げた。 鮎太は、その時、大学生が破いたものが、先刻自分が彼に渡し、彼が机の上に置いた冴子の手 ゆかた 紙であることを知った。浴衣を肩までまくっている大学生の白い右腕の動きが、その時、鮎太に は印象的だっこ。
鮎太はその時返事ができなかった。春さんの言葉が彼流の言い方ではあったが、冗談の調子の ない生真面目なものであったからである。 「悪い話ではないと思うがなあ」 春さんは、鮎太がその話に二つ返事で飛びついて行かないことが不満のようであった。 鮎太は正面から断わるわけにも行かなかったので、その場は何となく誤魔化しておいた。 「まあ、ええわ、急ぐことはない」 火春さんもそんな風に言った。 春さんが貰っても損はないと言ったように、清香は確かに可愛らしい、邪気のない気立てのい 狐 かれん い娘であった。美人ではなかったが、笑うと両規に大きいえくほができて、それが可憐だった。 なにわぶし の いっか社会部の春の懇親会で、「春さんに過ぎたるものが二つある」と、誰かが浪花節で彼を 春からかったことがあったが、その過ぎたものの一つは妹の清香であった。 鮎太はこうした妹の清香が、自分に対して特別の気持を持っているのではないかということに は以前から気付いていた。春さんの家を訪ねる度に、鮎太は時折、白眼の多い眼でじいっと自分 を見詰めている清香の視線を感じた。それから又、いっか春さんが留守で、鮎太は清香と部屋に はかな 対かい合って坐ったことがあったが、その時の清香は、少し調子でも外れたように、虚ろな儚い 感じの笑い方で、鮎太が何か一言言うとその度に笑った。 又、一度こう一一一一口う事があった。鮎太は春さんの家で酒を御馳走になり夜遅く帰ったことがある きまじめ たび
た。山ノオクノオクノ山オクデ、フカイフカイ雪ニウズモレテ。鮎太は冴子がいっか耳もとで囁 いた言葉を思い出したまま、堅市と、佐次郎に、 「歩くな、歩くな」 と言って、いつまでも半分雪の面に埋まっている冴子の白い手首を見詰めて立っていた。二人 の友達に歩き廻られて、美しい雪面を汚されることが怖かった。 自分に克己ということを教えてくれた大学生の加島が誘ったか、冴子が誘ったか、勿論それは 語判らなかったが、自分に今までに一番大きいものを与えてくれた二人の人間が、同時に、同じ場 物所で死んでいることが、鮎太の心に悲しみよりもっと大きい得体の判らぬ衝撃を与えていた。二 ろ つの全く異質なものが、雪に包まれて、息をひそめている感じだった。 あすなろう す気がつくと、二人の死体の右手に、杉の木立に混じって、翌檜の老樹が一本だけ生えていた。 あ鮎太はいっか冴子が家の庭にある翌檜の木のことを、 「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれな いんだって ! それであすなろうと言うのよ」 と、多少の軽蔑をこめて説明してくれたことが、その時の彼女のきらきらした眼と一緒に思い 出されて来た。 あすなろうの木の下で二人が横たわっているそのことに何の意味もあろう筈はなかったが、そ の木の命名の哀れさと暗さには、加島の持っ何かが通じているように鮎太には思われた。 ひのき ささや
いま四明岳山頂に立っている。幸い初夏の夜空は定刻八時に近い頃から、一面に隈なく澄み渡り、 またた 左手遙か下には琵琶湖の水面がにぶく光って見え、右手には京都の町の灯が冷たく瞬いている」 ここで左山町介は一息入れて、煙草を吸い込むと、 この日昭和 x 年 x 月 x 日、 「いいですか。いまのは書き出し、これから本文に人りますよ。 京都市比叡山延暦寺では」 彼は時々口をんでは煙草を吸った。そして煙草を吐き出すと、彼の口からは何行分かの文章 すへ 敗が滑り出した。必要なことは抜目なく全部人れられてあり、聞いていて小憎らしかった。 鮎太はな奴だなと思ったが敵わないものを感じた。左山が電話をかけているのを横から見て ると、いかにも頭脳がその機能の全部を上げて、この記事のために活動し、そこに整頓され並 てぎわ べられたものが一方の隅から順々に手際よく引張り出されて、それが口を通して伝達されている 勝感じであった。 新聞記者である以上誰でも予定記事を書くことはあるが、予定記事の持っている荒さもちぐは ぐさもなかった。 どきよう 彼の口から出たことは殆ど事実であった。見物人が熱くて居たたまらなくなったことも、読経 はのお している僧侶たちの顔の一つ一つが、烙の光で本尊の不動明王のように見えたことも、何一つ だとは言えなかった。事実、それはその通りであった。左山町介の口から出た総ての事は、現場 に於て、梶鮎太の眼を捉えたものであった。 149 とら かな せいとん
137 生暖い春の夜気がどんよりと辺りに漂っていた。 足が少しふらついていた。 丘陵の背へ出てみると、先刻の狐火は消えていた。十分程鮎太は一 人で山頂に腰を降ろしていたが、もう対かい山の中腹には小さい光の列は点らなかった。 鮎太は立ち上がったが、また腰を降ろした。山道を上ったので、急に酔いが出たらしく、足も ふらついていたが、それより躰全体がけだるかった。 鮎太は、ふと、どこかで賑やかな唄声がしているような気配を感じた。丁度どこかこの近くで 火盆踊りでもしているような感じで、唄声の気配は華やかで賑やかであった。 しかし、それはそうした気配がしているというだけの話で、実際に鮎太の耳へ、そうしたもの 狐 が届いているわけではなかった。 の 鮎太は何回も耳を澄ませてはそれを確かめようとした。 春鮎太は立ち上がると、山のゆるい斜面を鉄道の線路が走っている方角へ降りて行った。 そして十分程で、二本のレールが薄明りの漂っている闇の底を走っているのが見える場所へ出 ずいどう 鮎太は自分が隧道の上に立っていることに気付くと、更にそこを降りて行った。レールに沿っ た半間程の道が丘陵の裾を廻るようにして伸びており、その向うは又崖になって落ら込んでいた。 鮎太は、突然女の声を耳にして立ち止まった。振り返ろうとすると、闇の中に女の姿がこちら に動いて来るのが見えた。いかにも盆踊りの輪から一人だけ脱け出して家へでも帰って行こうと 」 0 はな
と言ったが、鮎太は気持がしらけて、一口も酒は飲みたくなかった。 わず 僅か三カ月ばかりの間に、高等学校の仲間の気持はまるで、ばらばらになっていた。佐分利家 を挾んで意味もなく、みんな刺げ刺げしくなっている感じだった。 その晩、鮎太は酔っ払った木原を連れて、彼の本郷の下宿へ行った。 下宿の部屋へ入っても木原は、妻をめとらば才長けてと、何十回も同じ歌の最初の歌詞だけを 繰返して唄い、下宿の主人に注意されて、漸く床に就いた。そして床に就くと直ぐ正体なく眠っ てしまった。鮎太は眠っている木原の右の眼から涙が流れているのが、何か気になった。 よ 面鮎太は下宿で借りた蒲団の中で、いつまでも眼を開けていた。佐分利家で昼中眠「てしまった の ので、少しも睡くなかった。考えてみると、九州からわざわざ出て来たが、全く意味のないこと 水 うになっていた。大沢に言われた通り佐分利家で自分が示した態度はなっていないようであった。 漲突然訪ねて行って朝食を御馳走になり、昼中眠り、起きるとこんどは夕食を御馳走になり、その 果に何の理由もなく不機嫌になって飛び出したのだから、これ以上我儘で莫迦な行為はないわけ であった。 それにしても、大沢と金子は英子に、木原は貞子に恋をしているらしいことが、奇異な気がし た。美しいと言えば英子も貞子もそれぞれ花のように美しかったが、鮎太自身にとっては、二人 は到底愛情の対象には考えられなかった。 鮎太は自分が美しい姉妹のいすれでもなく、高校生活三年を通じて、ずっと佐分利夫人に惹か ようや わがまま