気持 - みる会図書館


検索対象: あすなろ物語
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1. あすなろ物語

。土蔵の中だから、隙間風の寒さはなかったが、夜 鮎太は睡眠時間をつめて机に対かっていた うしな も朝も、机に対かっていると、手足が凍えて感覚を喪った。 「冷たいわねえ、まあ、可哀そう、もう暫くの頑張りね」 冴子は、ある時、珍しくしんみり言って、冷たい鮎太の手を取って、自分の手の中に包んだ。 十二月の中旬の夜だった。 冴子の手も同じように冷たかった。鮎太はその時、冴子の手指の自く華奢なことに初めて気付 いた。いっか冴子に抱きしめられた時とは違って、鮎太はいつまでも冴子に手を握らせておいた。 で 中 冴子のその時の動作には、少しも毒のある感じはなく、その手から次第にこっちに伝わって来 の る体温の温かみは、姉か母の持つに違いないそれと同じもののような気がした。 冴子が祖母に、この前と同じように港町の家へ帰って来ると言って出て行ったのは、その翌日 深のことであった。三日程と言って出て行ったが、冴子は一週間経っても帰って来なかった。 鮎太は冴子がいなくなると、勉強するのに気が抜けた気持だった。 日曜の珍しく暖い日のことだった。どこからか帰って来た祖母が、 「この寒いのに酔狂なことじゃ。天城に心中もんがあったそうだ」 と言った。山を降って来た炭焼人夫の報告だということだった。 はっとして立ち上がった。 その祖母の言葉を鮎太は自分の机の前で聞いたが、 「心中もんが見付かったの」 がんば きやしゃ

2. あすなろ物語

鮎太は自分が暗い顔をしているとは思っていなかった。 「気持をふっ切って、外国へでもどこへでも行く気持におなりになったら ? 「外国へなんか、第一金がありませんよ」 「お金なんか ! 」 変なことを言うと思っていると、 「貞子が、貴方となら結婚していいんですって ! 自分の仕事を理解してくれそうな気がするん ですって」 よ 面鮎太は顔を上げて、信子の顔をみた。彼がこれほど真直ぐに信子の顔を見詰めたことは、これ の までに一度もなかった。鮎太はここ何年かの信子への思慕が、それはそれなりに、木原や金子や 水 大沢のそれに較べて、それに勝るとも決して劣るものとは思っていなかった。 ろ 漲鮎太は発作のように可笑しさが込み上げて来るのを感じた。軽く声を出して笑った。笑いはと まらなかった。 「どうなさったのよ、嫌な方」 「可笑しいんです」 「何が ? 」 「 . 何 4 も、かネも・刀」 笑いがとまると、鮎太は用事を思い出したと言って、信子に別れて、行先きを確かめずに真先

3. あすなろ物語

「貴女も到頭檜になりましたね」 と、鮎太が一一一口一つと、 「まだですわ、檜の子ぐらい」 貞子は識選して言ったが、さすが悦びを包み匿せないで、自分の作品の前に立って、それをじ っと見詰めていた。 その日、鮎太は初めて佐分利夫人と二人だけで上野公園を歩いた。貞子が絵の先生の家へお礼 こくと言って、一人先きに帰ったからである。 こはるびより 面小春日和の気持のいい日であ「た。鮎太は眩しい気持で信子の右側に添「た。その時、歩きな の がら、信子は、 水 う「木原さんはこんど伊太利へ交換学生で行くかも知れないんですって、二、三日前、報告に来ま 漲したわ」 それは鮎太には初耳だ・。った。 「そうすると、彼も到頭檜と言うことになるかな」 と鮎太は一一一口った。 「そう大沢さんも、金子さんも、木原さんもみんな、どうやら檜ですわね」 「貞子さんも、英子さんも」 「あの人たちは、まだ檜の子」 1 1 1 まぶ

4. あすなろ物語

157 の事だから、あるいは途中で支局に立ち寄り、その自動車にカメラマンも載せて行ったかも知れ 广、カナ′ その左山町介に鮎太は憎しみに近い感情を抱きながらも、他の社の記者たちよりは、一緒に喋 ったり、お茶を飲んだりする機会を多く持った。 顔を見合せると、お互いにどちらからともなく近寄って行った。 敗ど ) , っ ? ・」 鮎太が言うと、 「まあまあだね」 左山町介は言ったが、そう言う彼の肉の薄い胸の中には、鮎太に向かって刃が匿されている感 ひらめ 勝じだった。そしてその刃はいっ閃くかも知れなかった。 と言って、鮎太は左山町介を尊敬もしていなければ、恐れてもいなかった。自分などの敵わな すわ いものを相手に感じながらも、それが一体何だと言うのだ ! そう言う居据った気持があった。 いっか自分の方が勝つだろう、 いっか再び起てないように、こいつを、こっぴどくやつつけて 仕舞うことがあるだろう。 鮎太はそんな気持で、いつも彼と対かい合って珈琲を飲んだ。 左山町介の身辺に起った変な事件に、鮎太が巻き込まれたのは彼と知り合ってから一年近く経

5. あすなろ物語

は下宿から二、三町離れている海岸へ出た。福岡にしては、珍しく海からの風が身を切るように 冷たい日であった。 彼の立ったところは小さい川が海に流れ込んでいる川口であった。潮が引いていたので川には 水が少く、黒ずんだ州が足許に拡がり、小さい名の知れぬ海烏が何羽かそこに降りていた。 鮎太は自分から半町程のところに一人の二十ぐらいの風体の異様な青年が海に向かって立って しるのを見た。 鮎太はその時誰にでも話しかけたい気持だった。何か話をしていないと、気持がやりきれなか よ の「寒いですね」 う鮎太はその青年に声をかけた。青年はこちらを振返ったが返事をしなかった。赤茶けた髪は文 漲字通りの蓬で、着物もほろばろな粗末なものを着ており、足は素脚だ「た。気がつくと彼は手 に小さい猫を抱いていた。 彼は鮎太の方を焦点のない眼で見ると、直ぐ視線を再び海の方へ向けた。鮎太はその青年が狂 うしろすがた 人であることにその時気がついたが、その背後姿は、天涯孤独の寒々とした感じだった。 鮎太が彼の傍から立ち去ろうとすると、その青年は、緩慢な動作で二、三歩海の方へ歩きなが 「行きたきゃあ、行けばいい っ一 0

6. あすなろ物語

とは毎年のように顔を合わせているわけであった。 鮎太は、祖母が鮎太と同じように、自分が学費を出している一人の姪を可愛がっていることを、 彼女の平生の言葉の端し端しから知っていた。 からだ 鮎太が学校で友達にいじめられたりすると、祖母は、躰を二つに折り曲げて、地面を嘗めるよ うな恰好で、手を腰の背後で振りながら、学校の校庭へ姿を現わした。鮎太は教室の窓からそう した祖母の姿を見ると、絶望的な気持になった。鮎太が祖母について嫌なことはこの事だけだっ ′」 0 物「やい、どこの家の子じゃ。家の坊をいじめたのは。先生か何か知らぬが、どこの馬の骨か判ら よそもの ろ ぬ他国者めが ! 大体お前さんが悪い ! 」 す祖母は窓の下から長いこと喚いて教師に毒づ した。これは鮎太の成績が一つだけ下がっても同 あじことだった。 これと同じように、冴子の悪口が彼女の耳に人っても彼女は、千里の道を遠しとせずに出掛け て行った。 「わしの姪を一度でも見たことあるかや。ろくでなしのおのが娘の言葉を真に受けくさって ! 」 そんな時、鮎太は祖母から少し離れた所で、祖母の毒舌の終るのを、子供心に孤独な気持で待 ほのお っていた。大抵の場合相手は農家だったので、囲炉裏の薪の焔の光で、土間に立っている祖母の 顔の半面は、鮎太には堪まらなく醜く見えた。 わめ まき

7. あすなろ物語

と言ったが、鮎太は気持がしらけて、一口も酒は飲みたくなかった。 わず 僅か三カ月ばかりの間に、高等学校の仲間の気持はまるで、ばらばらになっていた。佐分利家 を挾んで意味もなく、みんな刺げ刺げしくなっている感じだった。 その晩、鮎太は酔っ払った木原を連れて、彼の本郷の下宿へ行った。 下宿の部屋へ入っても木原は、妻をめとらば才長けてと、何十回も同じ歌の最初の歌詞だけを 繰返して唄い、下宿の主人に注意されて、漸く床に就いた。そして床に就くと直ぐ正体なく眠っ てしまった。鮎太は眠っている木原の右の眼から涙が流れているのが、何か気になった。 よ 面鮎太は下宿で借りた蒲団の中で、いつまでも眼を開けていた。佐分利家で昼中眠「てしまった の ので、少しも睡くなかった。考えてみると、九州からわざわざ出て来たが、全く意味のないこと 水 うになっていた。大沢に言われた通り佐分利家で自分が示した態度はなっていないようであった。 漲突然訪ねて行って朝食を御馳走になり、昼中眠り、起きるとこんどは夕食を御馳走になり、その 果に何の理由もなく不機嫌になって飛び出したのだから、これ以上我儘で莫迦な行為はないわけ であった。 それにしても、大沢と金子は英子に、木原は貞子に恋をしているらしいことが、奇異な気がし た。美しいと言えば英子も貞子もそれぞれ花のように美しかったが、鮎太自身にとっては、二人 は到底愛情の対象には考えられなかった。 鮎太は自分が美しい姉妹のいすれでもなく、高校生活三年を通じて、ずっと佐分利夫人に惹か ようや わがまま

8. あすなろ物語

ずうずう うんだ。余りにも図々しいからな」 と大沢は言った。 「しかし俺は郷里の蒲鉾を持って行ったことがある」 と金子は言った。 「こいっー 一人だけ、こっそりとそんなものを持って行ったのか」 木原が詰ると、 「こっそりと一「ロうわけではないが、ともかく、みんな美味しいと言っていた」 よ と、金子はにやにやして、 の「だが、俺ばかりではない。大沢は羊を持「て行「ている筈だ。いっか女中がそう言「てい ろ 漲と言った。大沢は少し赤い顔をして、 「羊羹を持って行ったということが何だというんだ。木原は花の模様のはいったハンカチを何枚 か持って行ったのを、俺はちゃんと見ているんだ」 すると、木原は、 たんす 「あれは、妹の篁笥から無断で持ら出して来たものだ、お前らみたいに買ったりはせん」 と言った。鮎太は佐分利家に何も持って行った記憶はなかった。持って行かないのが自分一人 だと知ると、友に裏切られたような暗い気持がした。 ぞ」

9. あすなろ物語

「僕帰ります」 鮎太は化粧して朝よりすっと美しく見える信子の顔に初めて眼を当てて言った。 「帰るってどこへ ? 」 「九州です」 「朝着いて、夜帰るのか」 木原が横から真顔で言った。 「冗談じゃあないわ、梶さん、今夜はここへお泊りなさいよ」 よ 信子の言葉は優しく鮎太の気持を揺すぶったが、 面 の「昼中眠ったんだから、そうは鮎太でも眠れまい」 まじめ 金子が言った。ひやかしの調子はなく真面目な口調だったが、その真面目さが却って周囲の者 ろ 漲を笑わせた。 「僕帰ります」 また鮎太は言った。すると、 「よし、帰るなら帰れ。九州へ帰る鮎太をみんなで送って行ってやろう」 大沢はふいに言「て、来たばかりで半時間とは経っていないのに、彼はあっさりと立ち上がっ た。鮎太はその大沢の態度を意地悪く感じた。 信子に留められてそれから半時間程いて、一同は佐分利邸を辞去した。

10. あすなろ物語

星の植民地 明日は何ものかになろうというあすなろたちが、日本の都市という都市から全く姿を消してし ようやしれつ まったのは、四の爆撃が漸く熾烈を極め出した終戦の年の冬頃からである。日本人の誰もがも 語う明日と言う日を信じなくなっていた。 あすなろう 物新聞社にも、もう翌檜は一人もいなかった。誰もがただ暗い戦争が終るのを待つだけの絶望的 ろ な毎日を送ってし 、た。しかし、その戦争さえもいっ終るか判らす、永遠にそれは終ることのない す業のようなものに見えた。 あ 梶鮎太は、戦争中に遅い結婚をして、おとなしいのと無ロなだけが取柄の平凡な妻と二人の幼 児を持っていた。 鮎太はぎりぎりまで疎開ということを考えなかった。家族の者たちが疎開して別れ別れになる ことが、こうしたただならぬ戦乱の時代を生きのびるために、果していい処置かどうか判断がっ むしおそ かなかった。それぞれの上に、それぞれの嶼った運命が見舞うことを、鮎太は寧ろ怖れる気持の 方が強かった。 三月になって、四歳の男の子が、ラジオの警報を人並みに怖れ、その度に火のつくように泣き 172 たび