清香 - みる会図書館


検索対象: あすなろ物語
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1. あすなろ物語

「まあ、 しいさ。男と女のことはみんな縁というものでな。幾ら好きでも縁がなければ一緒には なれない」 と、そんなことを言った。清香との結婚話についての、春さんらしい打ち切りの宣言らしかっ た。その席に清香もいたが、彼女はむしろいつもの彼女より落着いていて、繩をかけた荷物がい りん 1 一 つばい置かれている部屋で、彼女は鮎太のために林檎をむいてくれた。そして四つに割った林檎 の切片を、一つ一つホークに刺して、鮎太の方へ差し出して寄越した。 火鮎太は後まで、この時の清香の印象が心に残った。素朴な横顔と、白い手指が、長く下に垂れ ている赤い林檎の皮と共に美しく見えた。 狐 鮎太は、彼が清香ばかりでなく、他の如何なる女性をも、愛情の対象として考えることのでき の ないことを、春さんにも清香にも伝えることのできないのが残念だった。そんなことを話そうも 春のなら、ひどく気障つほくなったからである。 実際に、佐分利信子を女王とすれば、清香に限らず他の多くの女性が下婢でしかなかった。信 子は総てのものを所有していたが、彼女以外の女性は何物をも所有していなかった。鮎太の眼に は、信子の持っている悪徳と称すべきものさえ美しい彼女の財宝に見えていたのである。 そしてその財宝の宝庫はどこに行って、どこに住んでいるか知らなかったが、鮎太の心の中で は依然として大きい権力を持っていた。総ての彼の眼に触れる女性から一切の輝きを取り上げて 。佐分利信子に一度憑かれたことのある鮎太の眼には、清香は、単に気立ての優しい、虔し かひ つつま

2. あすなろ物語

鮎太はその時返事ができなかった。春さんの言葉が彼流の言い方ではあったが、冗談の調子の ない生真面目なものであったからである。 「悪い話ではないと思うがなあ」 春さんは、鮎太がその話に二つ返事で飛びついて行かないことが不満のようであった。 鮎太は正面から断わるわけにも行かなかったので、その場は何となく誤魔化しておいた。 「まあ、ええわ、急ぐことはない」 火春さんもそんな風に言った。 春さんが貰っても損はないと言ったように、清香は確かに可愛らしい、邪気のない気立てのい 狐 かれん い娘であった。美人ではなかったが、笑うと両規に大きいえくほができて、それが可憐だった。 なにわぶし の いっか社会部の春の懇親会で、「春さんに過ぎたるものが二つある」と、誰かが浪花節で彼を 春からかったことがあったが、その過ぎたものの一つは妹の清香であった。 鮎太はこうした妹の清香が、自分に対して特別の気持を持っているのではないかということに は以前から気付いていた。春さんの家を訪ねる度に、鮎太は時折、白眼の多い眼でじいっと自分 を見詰めている清香の視線を感じた。それから又、いっか春さんが留守で、鮎太は清香と部屋に はかな 対かい合って坐ったことがあったが、その時の清香は、少し調子でも外れたように、虚ろな儚い 感じの笑い方で、鮎太が何か一言言うとその度に笑った。 又、一度こう一一一一口う事があった。鮎太は春さんの家で酒を御馳走になり夜遅く帰ったことがある きまじめ たび

3. あすなろ物語

5 が、その時清香は家から三町程離れている省線の駅まで彼を送って来た。途中では一言も清香は 喋らなかった。鮎太は駅の改札ロで清香と別れてホームへ出たが、故障で電車は三十分近く遅れ 寒い時で、鮎太はその三十分の時間をホームをあちこち歩きづめに歩いて過したが、入って来 た電車に乗って、電車が動き出してから何気なく窓外へ眼をやって驚いた。駅の木柵のところに、 えりまき 襟巻でロを覆って、じっと動いているこちらの電車の方へ顔を向けている清香の姿を眼にしたか 吾らである。 一口 なか 物春さんから清香の話が持ち出されて半年程してから、突然春さんは彼の郷里である岡山の田舎 ろ 町の通信部主任となって転出することになった。春さん自身が前から希望していたためであると すか、春さんの嚮とは全く別に、社の幹部に依って採られた春さん追い出しの処置であるとか、 あいろいろな噂があった。 当人はそれについて何事も語らなかった。嬉しくもなさそうであったが、と言って、別段嫌で もなさそうであった。 「祖先の墓を守り、百姓をやりながら、傍ら新聞記者をやるというのもええぜ」 彼は会う人ごとに、そんな風に言っていた。 春さんが大阪を発っ二、三日前に、鮎太はこの不遇な老新聞記者の家を訪ねた。その時春さん しゃべ ヂ」 0 かたわ いや

4. あすなろ物語

凵 2 月程経ってからであった。 した。一「「 , っことがはっきり聞きと 春さんは手足が不自由なはかりでなく、ロも不自由になって れなかった。 清香は去年の秋、近村の物持ちの長男のところへ嫁いで行ったということだったが、兄が発病 したので、身の廻りの世話をするために戻って来ていた。 いところへお嫁に行ってよかったですね」 五ロ 鮎 - , 太気かい , っ -\ ス 三 1 ロ 物「食べるのが困らんだけですの。お百姓なんて、たいしていいことありませんわ。やはり農家の ろ お嫁さんは農家からでないと す清香は言った。そのロ振りでは、たいして嫌でもなさそうであったが、格別満足している風で あもなかった。清香はいつまでも実家にいるわけにも行かないので、兄の世話をする人が見付かり 次第、婚家先きへ帰るということであった。 「一度お遊びに来て下さい。私の村でも狐火が出ますのよ。こんどこそ写真が撮れますわ」 それから、 「お逃げになるの、お早いですわ」 と言って、くつくっと、鮎太の眼を意味ありげに見て笑った。 「逃げるって ! 」

5. あすなろ物語

「汽車でびつくりして 鮎太ははっとして、清香の顔を思わず見詰めた。やつばりそうだったかと思った。 あなた 「貴女は逃げなかったのですか」 いえ、わたしは反対の方へ走りましたの。御一緒の方向へ逃げていたら と考えます。でも、ああいう場合は、神さまのお指図ですもの、仕方ありませんわ」 それだけで、清香はもうあの晩のことには触れなかった。鮎太も触れなかった。 火春さんは、それから三カ月病んで他界した。鮎太は春さんの死亡の記事を、地方支局から廻っ て来たものに丁寧に筆を加えて何行か増やして載せた。 狐 の 143 よくそんなこ

6. あすなろ物語

って朱に染まって倒れている運転手を抱き起して、その氏名と年齢、住所を訊き出す芸当ができ なかったからである。 鮎太はまたある殺人事件の被害者の娘の写真を、その家から借り出さなければならぬ立場に立 ち、それができないことがあった。翌日の新聞には、競争相手の紙では、堂々と大きいその娘 の写真を載せていた。後で判ったことであるが、 *-ä紙の記者は、告別式の際、飾られてある娘の 写真を、焼香者に紛れ込んで焼香しながら、無断借用して来たのであった。 石ロ この二つの事件に限らず、鮎太はこうした種類の記者活動が苦手だった。どこかに社会部記者 物としては気の弱いところがあった。 ろ 山岸大蔵に言わせると、「もう一つ押しが足りなかった」し、杉村春三郎の言葉によると、「え 」であった。 すえやないか、そんなこと他の奴に任せておけ あ鮎太は新聞記者として自信を失った時は、いつも春さんの小さい平家建ての借家を訪ねた。 春さんは十年程前に細君に別れて、清香という古風な名前を持っている一番末の妹と一緒に生 活していた。 清香は春さんに似た顔を持った二十二、三の娘で、いかにも心から兄の春さんを尊敬しており、 彼に愛情を持っていた。それが、春さんの家を訪ねて行くとよく判った。 ある時、鮎太は春さんからの意外な申込みを受けた。 おれ 「どうや、俺のところの妹を貰わんか。君にべた惚れや。貰うても損はないぜ」 あけ もら

7. あすなろ物語

鮎太自身は狐火の取材に行くというその事だけで満足だった。佐分利信子に訪問された直後の 救われない淋しさは、青い ( そう鮎太には思われた ) 狐火を見るということで幾らかでも慰めら れそうな気がした。 翌日の昼、鮎太は中国山脈を横断している線の山間の小駅に降り立ち、部落の外れの春さん の家の玄関に立った。暫く見ないうちに、春さんはすっかり年取っていた。田舎の通信部の事と て、服装を構わなくなっているせいもあった。 火「よお、鮎太、出て来たな。それでもよく出張できる身分になったものだな。ろくすつほ記事の 書き方も知らなかったのに」 狐 春さんは先輩の口調で興奮して言った。自分の教え子が大学教授にでもなったような悦び方だ の 春夕方まで鮎太とカメラマンは春さんの家の茶の間で睡った。昨夜ろくに眠っていなかったし、 それに幾つか乗り継ぎして、長時間汽車に揺られて来た疲れが出ていた。 眼がさめると春の夕暮が、春さん自慢の狭いがよく手入れのできている中庭に立てこめようと していた。 ガラスど 鮎太は眼を覚まして寝床に横たわったまま、硝子戸越しに、中庭に眼をやっていた。大阪辺で は余り見られない白い桜が庭の隅で二本満開であった。 春さんも清香も、たまの都会からの来客が嬉しいらしく、二人とも台所で絶えず喋りながら、 133 つ ) 0 ねむ しやペ よろこ

8. あすなろ物語

128 、平凡な女性にしか過ぎなかった。 鮎太は他の何人かの同僚と一緒に春さんと清香を、大阪駅へ送って行った。大阪地区に大々的 な動員のあった頃で、駅は応召者とその見送りで雑沓を極めていた。長いこと住みなれた大阪の さび 土地を去って行く春さんの姿は、どこか鮎太たちの眼には淋しく映った。 佐分利信子が突然鮎太を新聞社に訪ねて来たのは、彼が新聞記者になってから三年目の春であ 石ロ 11 = ロ 物「横溝さんと言う方が面会です」 ろ と、受付から電話があったが、鮎太はその名前に記憶がなかった。 た 6 す「三十ぐらいの奥さんと五十ぐらいの御主人らしい方です」 あ 少し声を低めた受付の女の子の声が、また聞えて来た。 鮎太は会ってみることにして机を離れた。 そして階下への階段を中途まで降りて、鮎太は視線を下の受付の方へ投げたままそこに棒立ち こよっこ。 佐分利信子と、彼女の主人らしい上品な紳士が立っていた。二人は新聞社の受付では余り見受 けない豪華な一 . 粗だっこ。 とっさ 鮎太は、咄嗟の判断で、降りて来た階段を大急ぎで上がった。そして二人が視野の外に出た時、 つア 0 ざっとう