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検索対象: あすなろ物語
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1. あすなろ物語

「じゃあ、もうお帰り」 大学生の言葉で鮎太は頭を一つ下げると、そこから一人で坂を上って行った。 来年は都会の中学校へ入り、両親の許からそこへ通うことになることは、鮎太の心の中では漠 ぜん ) た。祖母もそう言っていたし、自分もまた 然とした形ではあったが一つの既定の事実となってし そうなると思っていた。 しかし入学試験というものを、はっきりと意識し、勉強をしなければ合格できないという冷酷 でな事実が、彼の前に立ちはだかって来たのは、この夜が鮎太にとっては初めてであった。 中 克己とは何だろう。自分に克つ。その言葉の意味は充分に理解されなかったが、しかし、鮎太 の はこれまでに、これほど魅力ある言葉にぶつかったことはなかった。 やみ 坂を上って行きながら、鮎太は自分を取り巻く開が、いつもとは全く変っていることを感じて 、」 0 深 家へ帰ると、冴子は蔵の横手の、十数本ある梅林の中で彼を待っていた。 「どうだった ? 手紙渡してくれた」 「渡した ! 」 「何て言ってた ? 」 「何とも言っていなかった」 鮎太が言うと、冴子は息を飲んだように暫く黙っていたカ、

2. あすなろ物語

内儀さんのその言葉で気付いたのだが、店の内部は、掃除こそしてあったが、ひどい痛みよう まどわく であった。羽目板は割れ、窓枠は落ち、隅には卓や椅子の壊れた木片が積み重ねられてあった。 「見ておくんなはれ」 内儀さんはもう一度言ったが、熊さんは気難しく腕組みしていた。 「ど , っしたんた」 鮎太が訊くと、 「どうもこうもあらへん。敲き壊してやった」 地 民と、熊さんは言った。内儀さんは熊さんには取り合わず、鮎太に、 植「何が気に障ったか知らないが、この始末です。自分の物を自分で壊すのは勝手や。だけどこの の家も、この家の内部の品も、わたしが半分は造ったものです」 けんか 上さんは腹を立てて、大荒れ 星幾ら訊いても、喧嘩の原囚ははっきりしなかったが、とにかく、育 . に荒れて、家を半分敲き壊したものらしかった。そしてすった揉んだの挙句、その謝罪の意味で、 熊さんは半年間、この家を出るということを承知させられたもののようであった。熊さんは詰め 腹を切らされた形だった。 「半年経ったら、もともと、ここはおっさんも半分権利があるによって、家へ人れてやりますさ。 半年経たんと、うち諾きしません」 、こ。砧太は仲裁役を買って出たが、内儀さんの方も諾かなか 内儀さんの方が理路整然としてしオ角 195 たた

3. あすなろ物語

衆も、白い石灰の線が何本も引かれてあるフィールドも、トラックも、鮎太の頭の上になったり、 下になったりした。 鮎太は何回廻ったか、自分で判らなくなった。躰からカというものが脱けてしまって、鉄の棒 を握っている手が嫌に頼りなかった。 もっと、もっと、まだよ、まだよー 雪枝のそんな声だけが鮎太の耳には聞えていた。もう何も見えなかった。 へんてこ 鮎太は天と地が変梃な方向で見えたと思った。と、次の瞬間、地面が急速に自分を目がけて突 語 物進してくるのを彼は感じた。 ろ 鮎太は砂場に顔を埋めて気を失った。 すあとで雪枝の話によると、鮎太は十三回で鉄棒から撥ね飛んだと言うことであった。雪枝は、 あその晩も又鮎太の額を手拭いで冷やしていた。 「駄目ねえ、器用なんだけど、腕に力がないのね」 と言った。そして、 「ボートをやってみる ? もしかしたら水泳の方がいいかも知れないわね」 その言葉に鮎太は恐れをなした。 鮎太は運動会の事件があってから鉄棒というものには触れなかった。雪枝もまた鉄棒熱はさめ てしまったのか、あるいは鮎太に鉄棒の天分がないということを覚ったのか、再び彼に鉄棒の練

4. あすなろ物語

た。山ノオクノオクノ山オクデ、フカイフカイ雪ニウズモレテ。鮎太は冴子がいっか耳もとで囁 いた言葉を思い出したまま、堅市と、佐次郎に、 「歩くな、歩くな」 と言って、いつまでも半分雪の面に埋まっている冴子の白い手首を見詰めて立っていた。二人 の友達に歩き廻られて、美しい雪面を汚されることが怖かった。 自分に克己ということを教えてくれた大学生の加島が誘ったか、冴子が誘ったか、勿論それは 語判らなかったが、自分に今までに一番大きいものを与えてくれた二人の人間が、同時に、同じ場 物所で死んでいることが、鮎太の心に悲しみよりもっと大きい得体の判らぬ衝撃を与えていた。二 ろ つの全く異質なものが、雪に包まれて、息をひそめている感じだった。 あすなろう す気がつくと、二人の死体の右手に、杉の木立に混じって、翌檜の老樹が一本だけ生えていた。 あ鮎太はいっか冴子が家の庭にある翌檜の木のことを、 「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれな いんだって ! それであすなろうと言うのよ」 と、多少の軽蔑をこめて説明してくれたことが、その時の彼女のきらきらした眼と一緒に思い 出されて来た。 あすなろうの木の下で二人が横たわっているそのことに何の意味もあろう筈はなかったが、そ の木の命名の哀れさと暗さには、加島の持っ何かが通じているように鮎太には思われた。 ひのき ささや

5. あすなろ物語

内儀さんは横から逆襲した。鮎太は熊さんの味方でも内儀さんの味方でもなかったが、熊さん のなだめ役に廻った。また家を壊しかねなかったからである。熊さんは、実際に、時々座を立っ きようばう ては、羽目板に握り拳を当てたり、兇暴な眼付きでそこらを歩き廻ったりした。内儀さんの方は、 終始つんとして静かにしていた。 三日間、毎日のように、鮎太は銀河に引張り出され、別れたいという内儀さんと、別れるのは いたばさ 嫌だと言う熊さんの間に板挾みになった。 地そして三日目に、やっと銀河の店を売って、その金を山分けにし、自分の子供をそれぞれ自分 民のところへ引き取ると言うことで、別れ話が成立した。 もくあみ 植「そうすれば元の木阿弥で、後腐れがなくてさつばりしてい 。わしはまた伊那へ帰ります」 の案外、さつばりと熊さんは納得した。内儀さんの方は、折角店をこれまでにしたのだからと、 星多分に店に未練はあったらしいが、結局、彼女もそれを承諾した。 まきなお 「また新規蒔直しにやりますわ、頼みまっせ」 内儀さんは言った。彼女はまたどこかで喫茶店を新しくやるということだった。 内儀さんは、熊さんには未練はなかったが、熊さんの娘には愛着があるらしく、その娘が熊さ んに連れ戻される話が出た時だけ、声を上げて、その場に泣き伏した。 熊さんこと翌檜第一号の幸福な家庭の設計はかくして、終戦後一年足らずで崩壊しなければな らなかった。いい尸 人罰同士が集って、それでいて幸福というものが撼めないことが、鮎太には割

6. あすなろ物語

二人が、佐分利夫人を争っても、到底自分は彼の敵ではあるまいと思った。 彼を送ってから一カ月もしないうちに、金子二等兵は上海郊外のクリークの戦闘で華々しい戦 死を遂けた。 彼の戦死の記事は新聞社の特派員に依って、詳細に報道されて、紙の社会面を賑わした。 決死隊に選ばれた彼は、右手を対岸にかけたまま、機銃の一斉射撃を浴び、左手を二回高く突 き上げて、敵味方環視の中で水中に没したということであった。 彼の戦死の報が新聞に載った時、木原と鮎太は佐分利家を訪ねた。珍しく二人は信子の居間に 面通された。 の 机の上に、金子の小さい写真が飾られ、それが黒いリボンで結ばれてあった。そして床には、 水 たんざく わきま う「この夏は血も汗もただに弁えず」という彼が出立の日に遺して行ったという短冊がかけられ、 漲その前に線香が焚かれてあった。 何もかも、鮎太には意外だった。彼が自分の写真を佐分利夫人のところに遺して行ったという ことも、ちょっと信じられぬ彼の一面であったが、鮎太は少しも嫌な気はしなかった。 また彼が俳句を作るということは知っていたが、このように重々しい句が、彼ののほほんとし た人柄から生み出されているとは知らなかった。句の意味は多分に独りよがりのようであったが、 鮎太は彼自身の勝手な見方で、その句の意味を考えていた。金子の佐分利夫人に対する気持がい つか鮎太などは遠くに置いてけばりにして、血も汗も弁えぬ烈しいものになっていたかと思った。 109 シャンハイ ひと

7. あすなろ物語

鮎太は二人には声をかけないで、縁側に腰を降ろしたまま、中庭の植込みの方へ視線を向けて 走って来た息切れがまだ続いていた。 鮎太は自分の身に何が起ったか、いまの事件に正確な判断を下すことはできなかった。季節か ら言って、盆踊りなどの行われている筈はなかった。ただ 何事か、容易ならぬことが、殆ど信じ られぬ速度で、しかも極めて自然に起ったことだけは明らかであった。 五ロ 鮎太は誰にもその事を語らなかった。春さんの家へ一泊して翌日二人は大阪へ帰った。その日 物の午後、カメラマンは鮎太のところへやって来て、 ろ 「現像してみたら出ませんよ」 すと、幾らか声を低くして言った。 あ「出ないって 「本当に出ないんです。なんにも出やあしない」 若いカメラマンの顔は幾分不気味そうであった。 「写真が出ないとなると、記事にはならんな」 「そう思うんですが、どうもねえ」 鮎太はうんざりした。遠路出張して行って一行の記事にもならんということは、いかにしても だらしのない話であった。 凵 0

8. あすなろ物語

しかし、鮎太は、別に生盾に不満はなかった。他人の眼にはどう映ろうと、結構祖母に可愛が られて育っていた。何年も祖母の皺くちゃな両脚に挾まれて寝ていたし、夕食の時は、祖母から みのぶさん 彼女が若い時祖父と共に行ったという日光や、身延山や、それから京大阪の町の話などを聞いた。 もら そんな話をする時の祖母の眼が鮎太は好きだった。そして他処からの貰いものがあると、祖母は 自分ではそれを食べないで、鮎太に食べさせた。そして、村の子供たちの名はみんな呼び棄てに したが、鮎太のことは、「坊 ! 坊 ! 」と呼んでいた。 で鮎太にとっては、詰まるところ、祖母はいい祖母以外の何ものでもなかった。喰いものにされ 中 てもいなければ、人質にされている気持もなかった。離れている両親に対する思慕は少しも涌か の 雪 ず、父や母や弟妹のいる遠い都会の家は、夏休みのある期間だけ帰らなければならぬ固苦しい窮 暾屈な場所であるに過ぎなかった。 深祖母は冴子の学費を負担して、自分の身内へ肩身広い思いをしているわけだが、それでも村人 おもわく の思惑を考えてか、冴子を自分のところへ呼ぶことはなかった。しかし、毎年夏休みに、村人の 誰かを頼んで鮎太を都会の両親の許に送り ( これは鮎太の両親からの要請に依るものであった ) 、 自分一人になると、自分は自分の出生の地であり、何人かの僅かな肉親の者が住んでいる半島の 突端の港町へ馬車に乗り、山を越えて出かけて行っこ。 オつまり、鮎太も祖母のおりようも、毎年 かっこう 夏になると、別々にそれぞれ肉親のいる場所へ里帰りをするという恰好であった。 もちろん だから、勿論、おりよう婆さんは自分の唯一人のお侠んな姪を部落へは呼ばなかったが、彼女 しわ きや わず

9. あすなろ物語

137 生暖い春の夜気がどんよりと辺りに漂っていた。 足が少しふらついていた。 丘陵の背へ出てみると、先刻の狐火は消えていた。十分程鮎太は一 人で山頂に腰を降ろしていたが、もう対かい山の中腹には小さい光の列は点らなかった。 鮎太は立ち上がったが、また腰を降ろした。山道を上ったので、急に酔いが出たらしく、足も ふらついていたが、それより躰全体がけだるかった。 鮎太は、ふと、どこかで賑やかな唄声がしているような気配を感じた。丁度どこかこの近くで 火盆踊りでもしているような感じで、唄声の気配は華やかで賑やかであった。 しかし、それはそうした気配がしているというだけの話で、実際に鮎太の耳へ、そうしたもの 狐 が届いているわけではなかった。 の 鮎太は何回も耳を澄ませてはそれを確かめようとした。 春鮎太は立ち上がると、山のゆるい斜面を鉄道の線路が走っている方角へ降りて行った。 そして十分程で、二本のレールが薄明りの漂っている闇の底を走っているのが見える場所へ出 ずいどう 鮎太は自分が隧道の上に立っていることに気付くと、更にそこを降りて行った。レールに沿っ た半間程の道が丘陵の裾を廻るようにして伸びており、その向うは又崖になって落ら込んでいた。 鮎太は、突然女の声を耳にして立ち止まった。振り返ろうとすると、闇の中に女の姿がこちら に動いて来るのが見えた。いかにも盆踊りの輪から一人だけ脱け出して家へでも帰って行こうと 」 0 はな

10. あすなろ物語

それを自分たちの眼で確かめるということは、それだけでも大きい魅力であった。 子供たちは部落を出る前に、大人たちの口から今度の心中事件の現場が峠より半里程手前の、 杉林の中だということを聞き知っていた。そこまでは一里半程の道のりだった。 街道が渓谷に沿ってじぐざぐに折れ曲るころから、街道は雪で白くなり、杉木立が多くなって 来る頃から、雪は一歩一歩深くなった。 (f) 橋の手前で、足指の冷たさに我慢できなくなった子供たら三人が落伍して、彼等は路に切 でり倒してある杉丸太の雪を払って、その上に乗って、他の連中が帰って来るのを待っことになっ 中 更に半町程行くと、又、数人の子供たちが落伍した。二人の四年生が泣き出し、三、四人が、 深おらあ、もう嫌だと言い出した。 深結局鮎太と、やはり同じ六年生の堅市と佐次郎の三人が、落伍者たちを路傍に残して、足指を 真赤にしながら、心中というものの妖しい魅力に惹かれて行った。 現場はそこから直ぐだった。杉木立の中に、二人の男女が半分雪に埋れて倒れていた。 あたり 雪は二人の男女の顔の高さとすれすれに降り積っており、四辺は少し蒼味を帯んだひどく静か な世界だっこ。 鮎太はやつばりお姉さんだったと思った。男の方の顔は半分雪面に俯伏しているので誰か判ら なかったが、鮎太はそれを確かめなくても、それが大学生の加島であることを信じて疑わなかっ あや うつぶ あおみ