号外を出さなければならぬ記事が持ち込まれると、彼はざっとそれに眼を通し、その取扱いの 伺いを立てているデスクの方は見向きもしないで、ゆっくりと席を立った。そして自分の席の直 ぐ背後にある大きい円柱のベルの方へ、背後向きに二、三歩寄って行き、片手を背の方へ廻して、 自分以外誰も押す権限を与えられていないそのベルを押した。 号外発行を指令する電鈴は編集局、工場、その他必要部署に鳴り響く。それと同時に、急に社 内は色めき立って来る。山岸大蔵の周囲には、多勢の人間が詰めかけて来る。 一体」とか「何の事件だ」とか、彼を取り巻く幹部たちの質問が彼に向かっていっせ いに発射される。 狐 このベルを押す時の山岸大蔵の表情は、その他の時とはまるで違って活き活きとしている。 の かにも新聞記者の生活に生き甲斐を感じている男の、満足な表情であった。 春鮎太はこうした山岸社会部長を尊敬もしていたし、自分もまた彼のように一事に没人し、そこ に生き甲斐を感ずる男になりたいと思った。山岸大蔵のベルを押す時のような表情を持ちたいと 思った。 杉村春三郎はまるでこれと対蹠的だった。鮎太は人社当初、杉村から新聞記者の手ほどきを受 けた。あとで知ったことであるが、この至極一線の新聞記者らしからぬのんびりした仕事は、毎 年春になると彼に廻って来る仕事であった。 それだけで大記者だ。そうそ 「新聞記者という者は、一生に一度大きいスクープをすればいい。 たいしは
141 結局、春の狐火の記事は載らなかった。 四、五日してから鮎太は聞いたのであるが、若いカメラマンは「コンちゃん」という綽名を他 のカメラマンたちから奉られていた。 しかし、春の狐火事件は、梶鮎太にとっては、生涯にとっての大きい事件であった。 鮎太は、あの晩の女が、一体人間であるか狐であるか、人間とすれば一体どこの誰であるか、 全然判らす、得体の知れぬ謎に包まれたままであったが、それとは別にこの事件に依って、鮎太 火は長い間彼が持ち続けて来た佐分利信子の亡霊を振り落すことができたのであった。 憑きものが落ちるという言葉があるが、全くそんな風に、鮎太の心から、佐分利信子は落ちた 狐 のであった。 の 鮎太は自分が初めて他の若者たちと同様に自由な天地に立っことができたのを感じた。戦争で 春さえ落すことのできなかったものが、鮎太は女を知るという一事に依って、簡単に自分から払い 落すことができたのであった。 佐分利信子は鮎太にとっては、いまや自分を長年月夢中にさせた過去の女であるに過ぎなかっ 春さんが軽い脳溢血で倒れたのは「春の狐火」事件から一年ほど経ってからである。 鮎太は春さんのそうしたことは聞いたが、仕事が忙しくて見舞にも行けなかった。鮎太が一年 がしよう 振りで、中国山脈の山懐にある春さんの家を再び訪ねて行ったのは、春さんが臥床してから一カ ) 0 のういつけっ なぞ あだな
う大特種というものは廻って来るものではない。一生に一度も大記事を取れないような奴は、こ れは論外であるが、何も、諸君はがつがっと事件事件で毎日眼の色を変える新聞記者になる必要 杉村春三郎は、「春さん」とか、「お祭り春さん」とか呼ばれていた。尤も「お祭り春さん」の 方は蔭でそう呼ばれるのであって、面と対かっては「春さん」である。 この春さんの新入社員に対する訓辞は、まことに春さんらしいものであり、そのまま春さん自 五ロ 身の信条でもあり、慷慨でもあり、懣でもあ「た。 物彼は彼自身のこの言葉のように生きていた。決してがつがっと跳び廻ることはなかった。人社 ろ 以来三十年の社会部では飛び抜けての最古参であったが、春さんは火事の記事と、それから神社 ←は す仏閣の催しとか祭礼とかの記事しか受持っていなかった。 あ勿論初めから彼にこうしたポストが与えられたわけではない。い っ頃からか知らないが、彼の 性格と彼の生活信条と彼の勤務態度とが、自然に彼にこうした特殊なポストを与える結果になっ たのであった。 ゅうゆう 春さんは長身で、額は大きく抜け上がっていた。動作は悠々迫らぬ緩慢さを持し、ロのきき方 も極めて鷹揚であった。 彼は彼自身の言葉のように、絶対に何事にもがつがっしなかった。どんな大事件が起っても自 ばや 分から腰は上げなかった。しかし、どんな小火でも、彼はゆっくりと立ち上がって行く。そして おうよう もっと やっ
鮎太は二人には声をかけないで、縁側に腰を降ろしたまま、中庭の植込みの方へ視線を向けて 走って来た息切れがまだ続いていた。 鮎太は自分の身に何が起ったか、いまの事件に正確な判断を下すことはできなかった。季節か ら言って、盆踊りなどの行われている筈はなかった。ただ 何事か、容易ならぬことが、殆ど信じ られぬ速度で、しかも極めて自然に起ったことだけは明らかであった。 五ロ 鮎太は誰にもその事を語らなかった。春さんの家へ一泊して翌日二人は大阪へ帰った。その日 物の午後、カメラマンは鮎太のところへやって来て、 ろ 「現像してみたら出ませんよ」 すと、幾らか声を低くして言った。 あ「出ないって 「本当に出ないんです。なんにも出やあしない」 若いカメラマンの顔は幾分不気味そうであった。 「写真が出ないとなると、記事にはならんな」 「そう思うんですが、どうもねえ」 鮎太はうんざりした。遠路出張して行って一行の記事にもならんということは、いかにしても だらしのない話であった。 凵 0
「四明山頂を焼く紅蓮の烙、紫の煙は、重慶へ重慶へと流れて行く」 多少気障ではあったが、そんな文章で、左山町介は、彼の長い口述の記事を結んだ。 電話口を離れると、彼は奥の方へ行って、老婆に茶を運ばせて来て、それをゆっくりと飲ん その頃になって、他紙の多勢の記者たちが固まってやって来て、寺務所は急に賑やかになった。 梶鮎太の眼には、その時他紙の記者たちがみんな愚かに見えた。 左山町介は真先きに帰って行った。 「一 1 ロ 物 ろ 鮎太はこの事があってから、間もなく、左山町介と言葉を交わすようになった。鮎太にとって すは一番怖ろしい競争相手であった。記事の上では抜いたり抜かれたりしていたが、しかし、これ あぞと言う大きな仕事になると、いつも鮎太は左山町介に敵わなかった。一 容赦なく、こ「びどく 医、つけ、り . れ 4 」。 左山町介は普通の新聞記者のタイプとは全く違っていた。これと言って親しい友達もないらし く、どこで見掛ける時も、常に一人であった。それが却って彼を孤独というよりは、むしろ精悍 に見せていた。 「ど , つ、忙しい ? ・」 町などで会うと、彼は親しげに近寄って来たが、その口調の親しさに似す、眼はいつも鮎太を 15 ( ) ぐれん じゅうけい せいかん
仔細に火事場を見学し、社へ帰って来て三行の記事を書く。 それから鮎太自身春さんについて行って知ったのであるが、神社の祭礼などになると、彼はま る一日をつぶして社務所に坐り込み、繩張りの世話から、賽銭の人り具合の心配までして廻った。 なり 春さんのそうした日の一日は忙しかった。だから神社仏閣は勿論、町内の小さいお稲荷さんなど に対する彼の顔は大したものであった。彼はあらゆることの相談ー こ乗ってやっていた。しかし遅 く社へ帰って来て書く記事はほんの三、四行であった。「 x 日、 x x 神社祭礼」時には一行に虐 火待されることもあった。 しかし春さんはそうした社の自分の待遇にさして不満は持っていなかった。ただ、 一生涯一度 狐 の、大記者たるを証明する大事件にはまだ出会っていないらしく、彼が特種を取ったという噂は の 一度も聞かなかった。 春鮎太は多勢の先輩記者の中で、この山岸大蔵と杉村春三郎の二人を特殊な眼で見ていた。春さ んは春さんで立派だと鮎太は思った。自分が山岸社会部長のような記者になりたいと思うと同時 に、春さんのようになるのもまたそれはそれで立派ではないかと思った。 彼は人社してから二年の間、よく春さんの家を訪ねた。大抵仕事のことで意気銷沈した時であ る。 x x 駅構内で汽車が追突して数十名の死傷者を出した事件があったが、その時も鮎太は新聞社 すみよし ひんし の帰りに住吉公園に近い春さんの家を、遠路遠しとせす、わざわざ訪ねている。瀕死の重傷を負 さいせん しようちん うわさ
たど そう言う彼の視線を辿って部屋の隅に眼を遣ると、そこには、なるほど、今夜の行事に参列す る主な僧侶の名とその受持ちの役が、大きく紙に書かれて貼られてあった。 彼は受話器を取り上げると、 「社の京都支局ですね。こちらは左山です。これから記事をおくります」 と、はっきりした口調で言った。鮎太が十行程記事を書いたばかりの時だった。左山町介とい うのはこの男かと、鮎太は改めて彼の方を見た。 五ロ 一カ月程前»-2 社に左山と言う記者が東京から転勤して来たと言うことは聞き知っていたが、会 物うのは初めてであった。しかし彼の筆になる記事は幾つか読んでいた。文化関係の記事の、少し ろ 大きいものは、殆ど彼の手になっているらしく、彼が来る前にはなかった生彩が、最近の社の す社会面のそうした記事には溢れていた。 あ「左山と言う奴は相当な奴らしいな」 そんな声が、鮎太の周囲でも、何回か囁かれていた。しかし、記事の担当部門がかち合ってい かみそり るだけに、鮎太が一番この男の存在を意識していた。剃刀のような冴えが、どんな記事の取扱い にも現われていた。 鮎太は左山町介が、一見するとまだ学生と言っても通りそうな生自い若僧であることが何より くちびる も意外だった。唇が少年のように赤いことも、手指の華奢なことも意外であった。 「天台宗総本山延暦寺に於て行われる敵国降伏を祈念する歴史的な採燈護摩を見ようと、記者は 148 あふ ささや きやしゃ
「頭はいい人ですが、研究が趣味的というか、どうも横道に人りましてね。あのままでは、学位 を取るというわけにも行かないし、惜しい人ですが、ちょっと困り者ではないんですかな」 と言った。大学関係でも、犬塚山次は変人と目されているようであった。 しかし、その時、鮎太は、その教授が「もう研究どころではありませんよ」と言うのを聞きな たいしは がら、犬塚山次の風貌を対蹠的に清潔に眼に浮かべたものであった。彼こそ、戦争末期に於て、 鮎太が発見したただ一人の翌檜であった。 地終戦の詔勅が放送された日、鮎太は終戦の日の町の表情を記事にした。社会面の大半はそれで 民埋められた。町の表情と言っても、市街の大部分は焼野原と化していたので、そこらをうろつい 植ている人々の虚脱した姿や、会話を、そのまま記事にしたわけであった。 の記事の取り扱いは全く鮎太にも判らなかった。明日の日本というものが判らない以上、どのよ 星うな事をどのように書いていいものか見当はつかなかった。鮎太はただ客観的にそれを何十行か の文章に綴った。 しかし、これは鮎太が何年か振りで書いた何の作為も主張も持たない記事らしい記事であった。 みたて 何の飾りの前書きも要らなければ、必勝の信念という言葉も、国の御盾という言葉も要らなかっ た。あるいは鮎太が新聞記者になってから書いた初めての、当然そうあるべき本来の新聞記事と いうものであったかも知れなかった。 鮎太は夕方新聞社の建物を出た。夏の陽はやっと落ちたばかりで、一望の廃墟には、白っほい 177 はいきょ
いた。今夜のような晩、もし春さんが大阪にいたら、自分はきっと彼を訪ねて行ったろうと思っ 何回かその春さんの手紙に眼を通しているうちに、鮎太はふと、酔っている頭の底で、 「春の狐火は記事になる ! 」 と思った。春さんの言うことが真実なら、その狐火を写真に撮って、それに説明をつければ、 ちょっとした読みものになる筈であった。 火翌日、鮎太は部会の席上で春さんの「春の狐火」のことを提案した。 「そいつは、ちょいと面白いな」 直ぐ眼を光らせたのは部長の山岸大蔵だった。 の 「鮎太、行ってみろよ : : : 」 春と彼は言った。 「写真を連れて行きますよ」 もちろん 「勿論だ」 「記事は春さんに書いて貰っては不可ませんか」 鮎太は、春さんに杉村特派員発の署名人りの記事を書かせたかった。 「春さんは下手だからな」 「僕が手を人れますよ」 131 はず
おとな 顔は温和しかったが、性格は左山を窓から人れるくらいだからお侠んなところがあった。 鮎太は五、六回佐伯家を訪問したが、左山の病状が心配でなくなると、あとは顔を出さなかっ 左山は結局一カ月程佐伯家の厄介になり、終りの方の何日かは、そこから社へ通ってい 「随分、だらしない事で厄介かけたな」 左山は佐伯家を引き上げて来た日に、社に鮎太を訪ねて来て言った。病床にある時、一時消 語えていた刃のようなものが、鮎太には、またその日の左山町介からは感じられた。 物「しばらく遊んでしまったから、もりもり仕事をするつもりだ」 ろ 左山は礼に来たと言うより、宣戦布告にでも来た恰好だった。 す実際、その月、鮎太は法隆寺の壁画保存問題の記事で、大きく左山町介に抜かれた。 あその抜かれた日、社に佐伯英子の訪問を受けた。鮎太は英子を社の近くの喫茶店へ連れて行っ おっしゃ 「左山さんと婚約だけはしておきたいんですが、左山さんは嫌だって仰言るんですの、困るわ、 わたし、父や母の手前もありますし」 英子の言うことに一応無理はなかった。 「今日母が結婚ができないと困ると言うんで、困りはしない、毒を飲んでやると言ってやりまし 162 」 0 チ」 0 きや