中田 - みる会図書館


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1. おとうと

と お 「な・せ来ないんたよ。おまえのほうじゃ来なくっても、こっちは行くからな。」囲みは一歩ぐっ と詰められた。思わず、投げだしたまま動けなくなっていた脚が縮んで腰が浮いた。心臓がどき つどきっとしていた。 「よせよ、おどかすの、まだ子供だからよしてやれよ。」中田が笑って起ちあがり、ずぼんの尻 をはたいた。 「おい、起てよ、驚かなくったっていいんだよ。」傍まで来て手を出した。胸のボタンに陽がき すが らめいている。碧郎はも一度おろしていた腰を浮せて中田の手に縋って起った。 と が、中田の手は碧郎を援け起すだけでなかった。碧郎はぐいっと引っ張りこまれすぎて、たた うたと弾みをつけて前へのめった。うしろからとんとはたかれ、さっき中田のすわっていたうしろ の笹のもさもさへ突っこんで膝を突いた。その上へどさっと重量のあるからだがかぶさって伸さ れた。顔が笹つばをこすって笹の根っこへぶつかった。両手がやはり笹のなかへ引っ張られ、指 を拡げて無理におさえつけられた。そしておさえつけ、おさえつけられたまま、みなが黙って荒 荒しく息を吐いていた。 「君 ! 」背なかにいるのが中田だと声でわかった。 碧郎は悔やしさいつばいでふてぶてしくなっていた。「なんだーこ 「静かにして、よく見ろよ。ほら頭あげて見てみろ、手のさきを見るんだ。」二人の子分に片手 てのひら ずつおさえられている掌の、開いた親指と人さし指の股に、触れるばかりに刃を向けてジャック ナイフが土に突きさされていた。ナイフの柄は子分の手に握られていて、まさにこちらへ倒され

2. おとうと

分は美人でもなくて偏屈にこちんとしてる娘だとくれば、たらされる資格は十分だ、と碧郎は云 うのだ。 「美人なんかたらそうとおもっても、おいそれとたらせるものじゃないって、中田ゃなんかそう 云ってるよ。第一、娘が美人なら親たちが大事にしていて、とてもだめだってさ」とも云うし、 「みんながそう云ってるよ。女親なんてどこのうちでもおおよそだらしがないもんだって、ちょ いと息子が不良だって云われると、すぐ金出しちゃうんたってさ。その点うちじゃしつかりして る。御信仰で万事やっちゃうからね。おれ、あいつに云われたもの、君のおっかさんはえらいっ と おまえんところのおふくろ て。何のことかわからなかったんだけど、中田が教えてくれた。 たちま うはきっと金を出さなかったろう。どこでも忽ち出しちゃうらしいよーとも云った。 「だって碧郎さん、それじや警察署ってものは、 と 「警察がどうってことはないさ、でもあいつはそうだっていう話があるんだ。うそたって思うん なら姉さん、中田に訊いてみれはいし 、中田はいろんなことを知ってるし、おれだってあいつに 金持ってるたろって云われたことあるんだ。」 碧郎の話を聴いているとげんは、弟が弟でなくて兄か叔父くらいの大人に思えた。彼はさきご ろあんな経験をしたが、おもてむき特別な変りようはしていないように見えていて、単純な姉は それだけのことに思っていた。それが実は、経験は経験たけのことがあったのだ。やはり腹のな かで相当な大人になってい、それ相当な裏側の知識を急速に身につけさせられている。改めてげ んは恐ろしさを感じるのである。それにしても父親にいくらかの名があって、母が継母で、弟が

3. おとうと

の幹の間にあちらの空が見えているからたが、こちらからはその空に町家の屋根は見えない。そ のくらいの高さはあるらし いが、向う側がどうなっているのかあてはつかない。 / 学校の遠足で むさしの しいこ A か亠の一 行った武蔵野の畑のなかにある小さい丘に似ている、なっかしい静けさである。 そうな気がして、碧郎は若い葉を透す青空を見あげた。重なりあった葉のぎざぎざがはっきり見 えた。「おう ! 」と中田と中田の仲間のいつも見る顔の二、三が現れた。この細い木の蔭からで も出て来たというように突然あちらへ現れた。彼等の立っているそこは高みの頂上である。逆光 あし 線のなかのず・ほんの脚は、さっきの鞄のという字に似ていて黒かった。 さと 碧郎はすべてを一時に暁った。これは何かかならず好まないことを云われるにきまっていた。 肩に斜にかけた鞄がぐっと重い気がする。ちょっと肩をすぼめた。実際の肩幅よりずっとたつぶ とりにこしらえてある新入生の服なのだから、なかみのからだをすくめれば鞄はずるりと落ちる。 つりひも はす 自然に手が吊紐にかかって鞄は外された。いやなことを云われるだろうという予感で鞄の重さを お 感じ、無意識に外したのだったがそれはいけなかった。 「おう、おまえ何を考えてるんだ、別に何をどうしようって云うんじゃないんだよ。・ : だけど さ、相当なまいきなやつだな鞄なんぞ外しやがって、覚悟があるってわけなのか。勘ちがいする なよ。」運動場で話していたときとはうって変って、急に思いもかけない調子である。話にたけ 聞いている不良の本性を見せびらかされたのである。 中田が笑って、「まあいいよ、知っててやってるんじゃないよーととりなした。 いま息巻いたそれと、迎えに来ていた新しいのと、あと一一人と中田と五人である。逃げられも

4. おとうと

と と お うなず それで中田のたらたらと話す話には頷くだけで、はじめに感じた緊張も恐れも消えてしまって いた。「仲間って結局は友だちっていうことなんでしょ ? 」 「まあそうだな。」 「そんなら特別こんな人に隠れた処で話なんかしなくても平気だ。学校じゅう誰でもみんな友だ ちで、誰でもみんなイエスの兄弟だって云うんじゃなしカ 、、。ぼく、みんな友達だと思ってたか ら、なんとなく仲間たなんて云うと別のなんかいやな仲間みたいな気がするんだ。」気楽で、こ とばまで新人生らしくない友だちづきあいにかわっていた。彼等は眼まぜをしたようだった。 かたほお 「おまえ、いやだっていうのか、ことわるのか。」中田はいやいやしていて片頬に紅い陽の色を 染めている。はじめに息巻いていたのが一人だけ突っかかってきた。滑稽だった。ふふふとおか しさがこみあげてきて、つい洩れた。 迎えに来たのが、やおらこちら向きになった。「笑ったね。」 「あんまりおこるんだもの、おかしいよ。」 「なに ! 」びつくりするような高声だった。そして中田をのぞいた四人は起ちあがってしまって いた。ほんとうに手ざしをしかねない気勢があって、碧郎は起てなかった。本能的に崖に向って いる地理の恐さを考えた。腰を据えたまま見あげるとまったく囲まれていて、のがれ道は崖より ない。崖までは一一間ばかり、そろりと下って地肌は黒いぽか土にぶつぶっと笹の根がもちあがっ ている。 「なまいきな口は利くけど、腰は立たないって云うのか。」 こわ くだ こつけい

5. おとうと

しなければ反抗もできそうもない。しかも彼等はおどすかと見れば忽ちとりなすし、腹が読めな いのである。こわいような、なんでもないような定めかねる気分で、碧郎はぐるりを囲まれて道 がけ の細いなかを連れて行かれた。あちら側へ少しくだると、そこはいきなりの崖になって切れてい た。そこも熊笹がまだらで木はない。中田は、「よいしよ」とかけ声をして崖へ向いて腰をおろ す。すわれと云う。碧郎を間にはさんで、息巻いたのと連出し役が脚を投げだす。他の一一人はう しろにぶらりぶらりと立っている。 晩春の午後の陽がまぶしい。太陽は遠い屋根の上にある。中田も仲間もたった一年の年長だけ と なのに、からだっきはすっかりおとなに見え、申しあわせたようにず・ほんの。フレスが利いている。 つま それをさも大切そうに膝のあたりで摘みながらおだやかに話す。時々、立てた膝小僧を両手でか とかえて、その手の指を組みあわせたり、また腕を突っかい棒にからだをうしろへ倒してみたり、 きどったポーズである。碧郎は見とれていて話などよくわからなかった。なんでも学生は一度し お くじると、当人はその気でなくても周囲から不良にされてしまう。しくじりと云ったってほんと うにそうかどうかわかりはしないけれど、なんでもかでも事件が一ッあれば、きっと一人は不良 にきめられるのが習慣で、しかたがない。碧郎もそれで、多分もはや学校じゅうの誰も彼もに不 ごと 良と極めをつけられているだろう。不良は事毎に軽蔑され、なみな待遇を受けることはない。だ といった意味の話なのだが、碧郎は別に少しも から不良同士で仲間をつくるよりほかない 仲間入りをしたいという気はもっていなかった。そんな話ならなあんだ、大したことじゃなかっ かっこう たんだと思う。それより彼等のおつにすました恰好が気に入った。 きわ たちま

6. おとうと

お 他の一人も云った。「ときにどうだい。ちょっとよそよそしいようだな」と、友だちに囲まれ ている怪我の子のほうへ顎をしやくる。碧郎は痛いところへ触られて、かっと薄い皮膚へ血を透 す。級友に冷たくされていることを指摘されるのは恥かしい。「大概そうだろうと思っ・てたんだ よ。おれたちはそうじゃないんだ、ああいうやつらの態度に反対なんだ。おれたちは待っていた んだよ、おまえが出席するのをさ。」 迎えてくれているのだ。しかし碧郎はかんでその快い迎えを受けるのは危険だと承知してい た。不良と云われる仲間へ引入れられるのは恐ろしかった。彼等は他意なく思える顔つきで不穏 な影は少しもない。とかくの返辞をためらうところへベルが鳴った。ほっとして行きかけると、 あわ のがさない調子で、「あとでまた会おう」と一方的に押しつけてきた。碧郎は慌てて、そろそろ 蟻のように入口へ吸われて行く制服の群の中へもぐった。 教室は先生が来るまでは、がやがやである。行儀よく席に着いて帳面を出しているものもいれ ば、運動場の名残りで立ったまま独りでいるのもいる。そのなかで碧郎は隣の子に、「君、中田 と一緒にいたね」と云われた。 「うん、あっちから来たんだ、ぼく行ったんじゃない。」 「ふうん、どっちが来たにしろ行ったにしろ、やつばり尊どおりなんだね。」 「噂ってなんの尊たい。」 「あれ、しらばっくれてらあ、きまってるじゃないか。」 「不良たってか。」 あり あご ひと うわさ

7. おとうと

おとうと るばかりである。碧郎は刃を感じた。「いやだということは、君、できないんだよ。」「いやだ ! 」 : これ、おどしじゃな、 「いやでもだめなんだ。親指の根を切られると一生すたりもんだぜ。・ ぜ。いったん云いだしたんだから是非云うとおりになってもらわないと、顔にかかわるからな。 是非そうしてもらいたい : : ナイフは倒れたこともあるんだよ。」 「いやだい。やってみろ。」がっと頬骨が鳴った。「ばかやろ、やってみろー がつがっと今度は熊笹の根へ押しつけられた。じゃりじゃりと砂が歯へ触った。鼻血が出てし おからかった。もう一発耳のあたりへやられて、彼はぐるっと我を失った。 日がすっかり落ちていた。小さい喫茶店のわびしい燈の下に腰かけていた。あのとき引き起さ れ支えられてから気がついた。服のあちこちを払ってくれていたし、中田が右腕を取っていてく れた。誰のハンケチか、白さを赤くして鼻血も拭かれていた。顔しゅうひりひりとするのは熊笹 の擦り傷なのだろう、指はなんともなかった。碧郎は自分が勝ったのか敗けたのかわからない。 たしかなのは、子分になるとか仲間になるとかを誓わなかったことだけである。でも、 はもうどっちでも同じだった。そうなっては疲労の度の多いほうが敗けたにひとしい。精神の萎 えているほうが下につくようになるのは当然なのだ。それも、しかもこんな喫茶店などに連れこ ふんいき 、こきまっていた。ずぼん まれてしまえば、喫茶店の雰囲気にかなっているもののほうが分がいし冫 のプレスが利いた脚を意識して、かたちよく重ねているほうがお茶を飲むにふさわしく、泥のつ きしよう いただぶだぶず・ほんに腫れあがった顔、みみず腫れの頬、頭には徽章ばかりがびかびかする帽子 ひく をちょんと載せていれば、みずから身を卑くしないでも人がそう見て、それできまってしまう。 ささ あかり

8. おとうと

「あれ、まだしらばっくれてらあ、そんなことなんか今更じゃないか。よせよ、ごまかすの。お かしいや、君が中田の仲間だってことは誰でももうみんながそう云ってることだもの、今更そん なあたりまえみたいなこと訊いているんじゃないよ。」 はっきりと自分が不良視されていると知った。だが、それ以外の噂とは何を指すのだかわから ない。不良仲間になるのがいやさに、たった今も何の返辞も躊躇して、うまくべルの鳴ったのに 乗ってのがれて来たくらいだのに、すでに不良ときめられているらしいのである。混乱して碧郎 は、不良以外にもっと何をされているのか、訊きたさより腹のたつほうが大きくして云いまど なが った。隣の子は立腹を押えている碧郎を興味ある薄笑いでじいっと眺めていた。見つめられてい るやりきれなさで、なんということなしにふりかえると、後の席もそのまた後の席も、隣の子同 と様に薄笑いで興味ありげにこちらを平然と見迎えていた。本能的に、そっと気味悪くなって思わ うなず ず着席し、なにか敗けた気がした。背なかに彼等のにやにや笑いが頷きあうけはいを感じた。学 お 校は息苦しい場所になっていた。その時間が済むと、侮辱感や腹だたしさはずっと潮が退いて、 何もしないのにへんな後めたさがくつついていて、これだけ沢山いる生徒たちからどうやって眼 を避けたらいいかなどということに心を占領される状態になっていた。 学校じゅうでチャ。ヘルはいちばん人のいない処である。ことに晴れた昼休みに礼拝堂にいるも のなどない。そこを考えつくほど碧郎はしょんぼりとしている。けれども礼拝堂へ行くところを 見られればまた何か云われるだろう。すばしこくあちこちと横眼にさぐりながら、そちらへ行け むね ば一ト棟別建てになっているチャベルは、ぐるりの芝生ばかりが生々と青くて、なまじ人影のな ちゅうちょ

9. おとうと

おとうと な音をたてたか。病院側でも、「え ? 笛 ? 」と意外さに・ほんやりしたという。なぜ承知してい て、ひょこっと下らないまねをしてしまうのか、あるいは避けにくいまわり合せとでもいうもの がこれなのか。碧郎にしても笛の人にしても、自分が一生弱い胸を抱いていることを忘れるの いりまめ ぼうぜん だ、そしてはっとしたあとは茫然たるものであろう。傷ましい結果なのである。煎豆に花の咲く たびたび ことがそう度々あるはずはない、二度の奇蹟はないものと覚悟しなくてはならなかった。 ギ、ようが そのままで一週間たち、いくらか気力も戻って短い会話を許された。しかし仰臥したまま食事 も養ってもらうのである。べッドへ糊で貼ったように臥ていて、ちっとも動かなかった。残暑が しつこく敷蒲団の綿へこもるらしく、「背骨が暑い。なんとかして背骨をひやす方法はないかな あ」と嘆いた。 入院のとき、あわてて荷物のなかへ見もしないで、突っこんできた扇子は、お中元にどこかの ひなけし 会社から届けて来たもので、有名な画家の筆を版にした男持ちのだった。紅い雛罌粟の花と莟 が、繊細なくせにどぶりと描いてあった。いやな図柄のを持って来てしまったと思ったが、今ほ かにないから、げんは碧郎に見えないようにして煽いでやる。碧郎は壁へ眼をやって知らん顔を した。看護婦がそれとなく、「お扇子は風が小さいから、小使さんに頼んで団扇買いましよう」 と云う。あの医局員はげんに人の智と天の恵みということを云ったが、自分も碧郎も人の情を受 けていることが思われた。 まえの退院のときに特別よくしたわけでもないが、調理場のコックさんにも心ばかりのお礼が してあ 0 た。苦労人の父親が、「院長はじめ表側の人たちにだけ挨をしておくなどという気に のり あお うちわ つぼみ