おとうと 「そうだってね、お父さんそう云ってらした。くだもの少し持って来たけど、気に入るかどう ももかん 「やあどうも。何買ってくれたの ? 姉さん明けてよ。あ、舶来の桃罐だね。すぐ冷やしといて よ姉さん。」 気丈なひとだが母はの・ほせて、額ぎわに汗が光るほど神経をつかっているようすだった。何気 ない、平安な母らしい会話をしている努力が見えていた。この母も優しくすることが不器用であ 、ハンケチを出して立ちどま 、恥かしがりであった。そのくせ部屋を出て廊下を曲ると同時に ・ : 碧郎さんに信仰を勧めようと思っ ってしまった。「あたしはきよう決心して来たんだけど、 : でも、もうあの子いい子になってて、 て、 ・ : 信者にして天国へやりたいと思って。・ 祈りもいらなくなってる、 : : : 私よりイエス様のほうがさきにあの子を救ってくださって。・ げんはぐらぐらして、「ありがとうございます」と云い、泣いている母に感動した。すべてが 好転しているのに、これで終りが来るというのはなぜだ ? と思う。 肉親の心がこんなふうに集まってきた間に、病院側も碧郎へ心配りをしてくれていた。石護婦 長はじめ顔見知りの白衣の人たちが次々に来るのだ。「いま花買ったの」と菊が一本である。「氷 ある ? ついでだったから」とコップ一ツである。「ね、これ名画なんだって」とコローの風景 の絵端書一枚である。さすが看護婦である、賑やかにしてかつ病室を護るこつを心得ていた。そ のそ してその看護婦たちに引っぱられて来るというかたちで、医局の人々も絶えず覗いてくれた。知 ってか知らずか、碧郎は多くものを云わず、ただ愛敬よく笑うだけを挨拶にした。喉は水もしみ
うつかりはしていられないのである。碧郎の意見も随分びつくりするようなませた意見で、そ のうえ全部悪意な解釈の上に成り立ったものである。でもそれが当っていないとは云えない。な パッツがげんをつける必要がどこにある るほどと思うところがある。第一動かしがたいのは、ス かということだった。掻っ払いみたいなへんてこなことをしたのは碧郎であり、そしてそのこと はもう済んだのである。それでも、その後も署の親切で二度そんなことのないように注意してく れて、わざわざ人をつけているというのなら、ちゃんと筋が立ってわかる。けれども当の本人へ は別にどうということもなくて、掻っ払いのかの字も考えたことのない姉のほうを、こうしげし あやま と げつけて歩くとはどういうことなのか。最初は、そういう過ちをしでかしてしまった若者を、こ うの際よく注意善導するための参考にというロ実だったし、それだからげんは学校の帰り途を連れ とだたれてもしかたがないと観念したのである。だから本人をおつぼり出しておいて、けんにしつ から なんてきざな こく絡んでいるのは、おかしい話だ。それにものの云いかた、しぐさ眼つき、 お 人なんだろうとは度々思わせられたけれど、大体がはじめからげんは拒絶的に軽蔑していたもの で、そう一々深く気にしていなかった、が、碧郎にそう云われてみれば、それがみな意味をもっ て映ってくる。 「実際いやなやつだ、あいつは姉さんをたらそうとしてやがるんだ。」いやな云いかただ。たらす などという下劣なことばを遣えは、たらそうとするあいっと、たらされる姉と両方ともがあいこ に下劣だ、というふうに聞える。でもげんは黙っていた。感覚的に身顫いの出るいやらしさをこ らえて、黙って考えているのである。親が多少名を知られていて、弟が不良で、母が継母で、自 みぶる けいべっ
おとうと ことも考えなくてはいられない」と。 それがロ火で父と母との間にはすさまじいばかりの暗闘が開かれた。時には子供たちや他人が いても平気ではげしい言い争いがはじまる。碧郎のことでなくても、それは何でもが原因になっ うんぬん て両方のとんがり合いがはじまる。底に、その血がつながる云々がしこりになっているのは明ら かなのに、それを究明してしまわないでおいて、事毎にほかのことによそえて、ぶつかるのだ。 激した母はあるとき、げんのまえで父にこう言った。 「警察だってそう云ったんです。こういう子を出す家庭は、父親に飲酒癖があり、子は体質劣等 で精神的にゆがみをもっているものなんですって。そして子に対する愛情がいつも一定になだら 私のまま かでなくて、親の我意のままに愛情の不安定な高低があるうちに限るんですって。 母という立場は気の毒だと云っているんです。そういう環境でいくら一人だけ正しい路を行こう しよせん としたって所詮だめで、家内中みんなで気をそろえてかからなくては、一度不良になったものは なかなかなおせないそうです。」 けいべっ 父親は軽蔑しきってきいていて、 「おまえ一人だけ別物のような口ぶりだが、そんならきくが、碧郎は愛されているかどうかだ、 何もとがめているのではない。お互いさまだ。 わたしはいま碧郎に申しわけない気持た。か かな あいそうなことをしてきたと思ってくやんでいるのた。ひとを咎めるより、哀しみのほうが大き い」「そこがあなたの甘いとこで、碧郎さんはなかなかそんなものじゃない。そういうあなたの 甘やかしを利用して、悪の誘惑にさらわれているんです。あまいから、あますぎるから不良にな ごと みち
おおぎよう なんか、別にそんな大業なことじゃないんだ。多少タチは悪いけどまあ、遊びなんだ。盗んでど うしようなんて悪い気はもっていないんだ。だからなるべく、こまっかいものを撰ってするんだ。 別に盗賊なんて気はないんだよ、母さんはおれのこと盗賊々々っていうけど、盗賊とちがうと思 うなあ。たからそこがへんなんだ。友達と一緒にいるときには遊びなんだのに、大人のあいだや うちへ帰ると、すごいどろぼうになるんだ。そして自分もそんな気がするし、すごく悪事を働い たって思うんだ。ぜひ後悔しなくっちゃいけない事をやっちまった。チャベルで告白しなくっち ゃいけない堕落をしたと思うんだ。どっちも本当なんだからへんなんだ。」「だってあんた、かり にもひとのものをとるなんて、よくないわよ。それが遊びの一種だなんて図々しくない ? 」「だか うらさ、図々しいって云われればたしかに図々しいさ。でもね、姉さんどう思う ? おれ盗賊やっ ぬすと とたんだろうかね ? 姉さんおれのことを盗つ人だと思うかい ? 」全くそうた。弟はぬすっとをし たとは思えなかった。でも掻っ払いはやったのだ。ただし世の常の掻っ払いとは少し趣がちがっ お ている。趣が違っても掻っ払い行為は、どこまでも掻っ払いで、それが盗みでないとは云えな 、 0 やつばりどろ・ほうなのだろうか。分ったような分らないことだった。よく分っているのは、 盗賊であってもなくても、彼は悪の道へそれて行きつつあることだった。 げんは父親一人のときに、敢えて勇気を出した。「碧郎さんは、よくない事はしたんだけど、ど ろぼうと云っちゃあわれだと思うわ。どろ・ほうって云うんなら、あんな清いどろぼう他にないわ、 あんな無邪気な子がいたずらにやった泥棒なんて、退校っていう罪にするのひどいと思うわ。」 父親は「おまえもあの子をスポイルする一人だ」と云った。それは孤独なひとりごとにきこえ
おとうと 碧郎は川のなかで浮きはしたものの、どうにもならない。スカールはひっくり返ったまま。ほこ ぼこ流れるし、自分も慌てているから潮に押される、大ぶもがいたらしく、とうとう近くを流し ていた荷船の船頭さんが見かねて手を貸したという。まだ陽が高かったから河じゅうの船が出来 事を見物していたのであるそうな。 「あぶなござんすよ。浮けるというくらいなことで、大 川へ一人で乗りだしちゃ。見ていたものの話じゃ、誰だって坊っちゃんが泳げるんだと思って、 手を出さずにいたんだそうですよ。スカールへ乗ってるんだからそう思いますよ。それがからき し泳けないんでしよ、それでやっとこれはと思ったって云いますよ。でもまあ河んなかに大勢い たんで間に合いましたが、ときによると河ってものは、まるで船がいないときもあるものですか らね。それに、いても遠いあっちの岸からじゃ追っつかないことがいくらもあるんです。船より 水のほうが早いからね。」 職業人の話によると、彼はあつぶあっぷだったらしい。それを一ト言も云わなかったのであ こら る。それは父にはショックであった。水を知らない母は、「懲しめだ」と云った。生きていられ たからこそ懲しめだが、運わるく死んでしまえば懲らされるのは誰だろうとげんは慄体とした。 助かってよかった、と姉は思うのである。あの弟はきっと哀れにもがいたのだと思う。恐怖でわ れを忘れたろうと思う。でも黙っていたのだと思う。口がきけなかったというのではなくて、危 険のほどを考えるより恥と強情のほうが大きかったのだろう。そういう弟なのだとげんは知って あお いた。蒼い顔にかっと見ひらいた彼の眼を思い描いて、げんは自分が眼をつぶった。ここらでや めてもらいたい遊びぐせではあったが、彼はやめまいと思える出来事だった。
おとうと けんか げんは父と話したそのあと、碧郎にぶつかって行った。暄嘩をしかけたかたちになった。父に さえロ返答をして、それもまともな返辞でなく、おちゃらかすような口をきく弟が、姉に従順で あることはない。盛大な論判になって、みつともないことなど忘れてどなりあった。母が恐れて、 「げんちゃん、あなたどうしたの」となだめた。げんがわめきやまないと知ると、「ここのうちは 誰もみんな気ちがい沙汰だ。げんちゃんまでとうとうこんな恐ろしい喧嘩して」と嘆く。げんに すれば、「そんなこと云ってるひまに、かあさんもどなるなりいたわるなり親身になってやって 頂戴。そうすれば碧郎の一人くらい何とでもなる、もともと優しい子なんだのに」と反撥する。 なんにもしないで嘆いていて済むことではない。姉と弟はとうとう掴みかかりそうになるまでや あざ りあって、父に引き分けられた。手頸などに痣をつけられたかわり、げんはロでは弟を云い負か し、もうポートを乗りまわすことは慎むと云わせた。 父は云った。「そうひどく禁止することもない。好むところなのだから、まあ気をつけて遊ぶ なら遊べ。もうおまえも子どもじゃないだろう。」 そう云うのを聴くとげんはいやになる。なぜこう甘いのか。げんとしては大決心で、喧嘩とい すご う凄さを代償にして、やっとポートを諦めさせたのである。でも父の語調にはしみじみする温か さがあった。自分も碧郎も片親の子なのだと思いあたり、しやくりあげて泣いた。 「ねえさんヒステリーだよ。いきなりやって来て大変な見幕でがみがみ云ったと思ったら、たち まち泣きだしちまうんだからな。それたしかに平衡を失いたる心だよ。ヒステリーだよ」と、し やらんとして弟は云う。母に気ちがい沙汰と云われ、弟にヒステリ 1 だと云われれば世話はな、。
「そのときの病気の状態によるんだ。」 「そんなら、何を訊いてもはっきり返辞してもらえるっていう状態もあるわけだな。」 げんはあっと思ったが、先生は馴れていた。 「ははは。病気が長びいてくると、どうも医者はしよっちゅう患者に負かされるんで困るんだ。」 「先生、僕の喉どうなるんです。」 なお 「治るさ。心配か ? うそ 「はっきりと嘘をつくね、先生。」碧郎の作り笑顔はあわれに崩れて壁のほうを向いた。 と 「そう神経を立てちゃいけない。今が悪い状態だってことは確かだが、実は君がよけい昻ぶっち ゃいかんと思って黙っていた。でももう峠は越しちゃったんだ、君の知らないうちにね。」 : いやだなあ、ほんとのこと云ってくれないんだ。医者は是非ほんとの返辞をしなければい けない時期ってものがあるのになあ。」 お 「碧郎昔。誰でも医者を信じてくれなくなる一時期があるんだ。医者も患者もその時期がもっと も大切なんだ。」 「もういいよ、なんにも云ってくれなくても。おれはね、もうむずかしいんだって云ってもらっ たほうがいいんだ。」 「そんなことないんだ。君は治るんだ。」先生は激しく云った。 碧郎が先生へひたとあてていた眼を閉じた。「先生、もう一ッ訊きます。喉切って取っちゃっ て、人工的に食物送ることができるっていうの、ほんとですか。」
と と お へきろう まっている。ーー碧郎のばかめ、おこらずになみに歩いて行け、と云いたいのだが、まさか大声 おおまた を出すわけにも行かないから、その分を大股にしてせっせと追いっこうとするのだが、弟はそれ を知っていてやけにぐいぐいと長ズボンの脚をのばしている。げんも傘なしにひとしく濡れてい た。だってそんなに急げば、たとえ傘はさしていても、まるでこちらから雨へつきあたって行く もめんかつばそで ようなものだからだ。左手に持った教科書の包みも木綿の合羽の袖も、合羽からはみだした袴の すそ 裾も、こまかい雨にじっとりと濡れていた。追いついて蛇の目を半分かけてやりたかった。かわ いそうにと思う気もちが強かった。 土手は十八町あった。姉と弟は三ッ違っていた。十七の姉はもう誰が見ても大人のからだだ とうとう十八町を カ合羽に足駄の砂利道では、靴ばきの一年坊主に追いつくことはできない。 一定の間隔で逃げきって、弟は橋のたもとへかかっている。橋を越えれば町で、町も町東京のう ざっとう ちでも指に数えられる盛んな場処である。その雑沓の中へはいってしまえば、小さい弟の姿など 影もわからず呑まれてしまう。かわいそうにと思うだけで何一ト言云いかけてやれなかったけれ ど、きっとあの濡れたままで、あれは満員の電車に揺られて学校へ行きつくだろう、学校へさえ 着けば友達がいてなんとか気が晴れるだろう、そのうち雨も、ーーー雨はあいにく一日じゅう降り 続きそうな空あいである。帰るときどうするだろう。「おまえ傘ないのか」と云われるにきまって いる。そうすると又あれは今朝の癇癪と惨めったらしさに落ちるだろうが、下らない憎まれロな んか利かなければ、 しいが、たちの悪いからかわれかたをされたらあわれだ、と思う。げんはせめ て自分の持っている手拭を渡してやりたい、手や顔や肩を拭くようにと。しかし橋は向う岸の町 てぬぐい
おとうと る。見透しなんていうものはしばらく様子を見てからでなければ軽々しくは云えないが、多分い ま院長に連絡したから、院長が来て診察の上、話があるだろう。お宅のほうも緊張を解いてもら こと うわけには行かない。それはいま寝台に付添って来た先生に言づてしてあげたから、御両親も聴 いてくださることと思う。看護婦は以前のときいて馴れているあの人を、他の派出さきから引っ こ抜いておいたから、もう追っつけ来るだろう。「あなたは今のうちに御飯でもゆっくりたべて いらっしゃい。御苦労なことですね、お気の毒に。」 今夜にも危険があるようなふうである。うちへ電話をした。母が出て、父は一人で酒を飲んで いると云った。 「お風呂へおはいんなさいよ、気が変ることあるもんだわ。」経験の多い婦長がすすめてくれた。 碧郎はどこが痛いとも苦しいとも訴えなかった。入院して安心したのか、浅く睡ったり覚めた りしている。なじみの看護婦が来てついているのに、ことにねえさんをと呼んで、何の用かと思 えば、水をくれとそれだけだ。院長の診察のとき彼はあわれだった。許しを乞うてお辞儀をしぬ いている気もちがあらわだった。聴診器を当てられているのに、気もちがたかぶってきて胸がひ つばき どく上下し、とうとうごくつごくっと唾を飲みさげた。 「いいんだよ、君。いたずらっ子みたいだね。しくじりをしでかしといて、ごめんなさいって泣 ・ : 大丈夫よくなる。」 ししんだよ。直るよこのくらい いちまう坊やみたいなもんだね。、、 げんはそのままを電話で父に伝え、電話のまえで泣き、「げんが泣いているんじゃないわよ、 1 おとうさん。碧郎さんが泣いているんだわ、おとうさんにもごめんなさいって云ってるんだわ。
131 ・おとうと げんは大医者へ碧郎を走らせた。おやじは大ぶ鎮まった。馬は横腹で息をし、ロのまわりがっ ばきだか涎だかで濡れていた。命に別状はなさそうたが、ものの役に立つかどうかあやぶまれた。 おやじの怒りには計算があることが剥きだしになっていた。げんは自分の手に負えないことを悟 ってい、そう悟れば話は単純になってくる。父は金を取られるのである。碧郎は馬をかわいそう なことにしたと云って泣いたのだ。げんはしつかりと弟を信じた。馬に乗ることの是非は糺さな くてはならないが、馬をかわいそうがっていた心情はけんの胸にこたえた。弟はしようのないや つではあるけれど、彼のなかには生きものへの優しい愛があると信じれば、父に金を出させるの は已むを得ないなりゆきだとも思えた。 かばん 顔見知りの大医者が鞄をさげて土手の傾斜を降りて来た。げんは遠のいて、碧郎を呼んだ。医 者はしばらくあちこち診てからこちらへ来た。「とにかく一応お帰りなさい。今おやじに話しと きました。馬はびつこになると思いますが、まあ手当はします。大きい動物だし、場所が悪いし、 ひきあげるのに時間がかかりますから、あなたがたはここから退いていたほうがいいです。」 心をのこしている碧郎を追うようにして土手へあがると、見物が「ほう」と云った。見ると馬 もち は立っていた。「餅は餅屋だ」と人々が云った。「そんなにひどかないよ」とか、「馬は水をこわ かいぞえ がるのさ、だから介添の手が足りなけりや起きないよ、利ロだからね」などと聞えた。 こうふん 碧郎はまだ昻奮もしていた。そして新しくはでな乗馬す・ほんはかえってみじめたった。彼は大 すずめうさぎ も猫も鶏も雀も兎も、生きものをかわいがる性質たった。しおれていた。 「あんたどこか怪我ないの ? 」 よだれ しず