竿も、袖垣もちまちまと動かずに月光を浴びている。柿の木もいのちを忘れたようにして立って いた。足音を盗んで部屋へ帰れば、ぎよっとしたことに、そこにゆかた寝巻の腕を組んで父が立 っていた。「碧郎どうした。何時だ ? 」 ふる まだです、もう十一時ですと云って、げんは顫えだした。居睡りあとでどきりとし、外へ出て 冷たかったのだと承知していても、そうでないものから顫えが伝わってくるのだ。馬のとき咄嗟 に「死んだか」と思ったのが癖になったのか、今もなにか「死ーとか「死屍の碧郎」とかが突き けんを顫え つけられているのだった。先走りなのだ。なにも弟の死を連想する種はないのだが、・ させているのは死だった。父はにがりきって煙草を飲みはじめた。げんは顫えながら、父の寝室 うに行き、不断着を取って来て着せかけた。こちらのけはいで母も起きた。これはもう羽織って出 ひばちうず とて来た。げんは火鉢の埋み火を掻きたてて炭を足した。口が乾いていた。母は碧郎の友人のうち へ電話をしてみると云い、父にとめられた。げんは、大を護衛にして土手まで出てみると云った。 お それも父はとめた。渋茶が喉を通った。げんは月が明るいと、そのことばかりを思った。外の冷 たさばかりが感じられた。むごたらしいが月光のなかで、冷気のなかで、しんと静まっているー ーとよりほか、思いがにつちもさっちも動かないのだった。 「帰って来るものなら二時三時でも帰るし、帰らなければいでみても帰らない。かぜをひいて くれるな」と父は云った。かぜをひいてくれるな、と。母にだか、けんにだか、碧郎にた・か。 ふとん 三人は三人とも蒲団にはいって待っていた。締りは一ト晩じゅうしてなかった。かわりかわり にお手洗へ立った。しとどの露になって夜は明け、碧郎は帰らなかった。朝食の膳の父はいつも ざお とっさ
日、碧郎も学校へ行くことを許されるのだ。その一週間ばかりのあいだにクラスでも変化が起っ ていた。碧郎にはこれも思いがけない肩書が用意されていた。「不良」のレッテルてある。そし て彼は自分が待たれていることを知らないで出かけて行ったのだった。 久しぶりな感じで登校してみると、教室の空気は表面なにごともなかったかに見えて、実は大 へきろう 分変っていた。碧郎は教室をなっかしがって出て行ったのに、そして友だちはみな「やあどうし はす たいーと云っているのに、それはなにか以前とちがって、そらせている外しているといったよう と すがあった。敏感な碧郎は、不愉快だった。対手の腕を折った子はどうかと見ると、こちらはは うつきりわかる受入れられかたをしている。その子は友だちを大勢引き出したようなかたちで、気 と もちよさそうにちょろちょろしている。急に教室というものがよそよそしく色褪せて見え、碧郎 の心はぐいっと捻れてきた。 なんだって云うんだ ? という反抗と、自分はみんなにいやが さび お られている、ばかにされているという淋しさがあった。 二度目の休み時間に、誰もにさりげなく逃けられている碧郎のところへ、あの二年生が仲間と いっしょにやってきた。「おう、どうしたい、大ぶ長く来なかったな。なんともないものが骨折 のつきあいで休ませられちやかなわないやな、退屈したろ。」 碧郎の頬に人なっこい徴笑が浮いた。「うん、退屈でもしようがないや、・ほくが加害者だから。」 みんなが声をあげて笑った。「いいやつだな、おまえは。自分で加害者たなんて云ってるとこ ろは頼もしい。」 ほお ねじ
うつかりはしていられないのである。碧郎の意見も随分びつくりするようなませた意見で、そ のうえ全部悪意な解釈の上に成り立ったものである。でもそれが当っていないとは云えない。な パッツがげんをつける必要がどこにある るほどと思うところがある。第一動かしがたいのは、ス かということだった。掻っ払いみたいなへんてこなことをしたのは碧郎であり、そしてそのこと はもう済んだのである。それでも、その後も署の親切で二度そんなことのないように注意してく れて、わざわざ人をつけているというのなら、ちゃんと筋が立ってわかる。けれども当の本人へ は別にどうということもなくて、掻っ払いのかの字も考えたことのない姉のほうを、こうしげし あやま と げつけて歩くとはどういうことなのか。最初は、そういう過ちをしでかしてしまった若者を、こ うの際よく注意善導するための参考にというロ実だったし、それだからげんは学校の帰り途を連れ とだたれてもしかたがないと観念したのである。だから本人をおつぼり出しておいて、けんにしつ から なんてきざな こく絡んでいるのは、おかしい話だ。それにものの云いかた、しぐさ眼つき、 お 人なんだろうとは度々思わせられたけれど、大体がはじめからげんは拒絶的に軽蔑していたもの で、そう一々深く気にしていなかった、が、碧郎にそう云われてみれば、それがみな意味をもっ て映ってくる。 「実際いやなやつだ、あいつは姉さんをたらそうとしてやがるんだ。」いやな云いかただ。たらす などという下劣なことばを遣えは、たらそうとするあいっと、たらされる姉と両方ともがあいこ に下劣だ、というふうに聞える。でもげんは黙っていた。感覚的に身顫いの出るいやらしさをこ らえて、黙って考えているのである。親が多少名を知られていて、弟が不良で、母が継母で、自 みぶる けいべっ
「ひつばったんじゃないんでしょ ? 碧郎は姉を見た。げんはその眼を受けることを知っていた からたじろがない。 「ひつばらないさ。」小石を蹴飛ばし蹴飛ばし弟は行く。「あいつら嘘つばちばかり上手なんだ ぼくがあんまり悔やしかったから、はっきり云え、 よ。いつひつばったって云うんだー つばった ? って云ったら、ひつばられたような気がした、なんてごまかすんだ。でもそういう ことにされちゃったんだ。」 「ほんとはどうなの ? 」 と 「ほんとは、・ほくとも一人と駈けだして鉄棒のところへ行ったんだけど、行きついたとき・ほくの ほうが一ト足さきだった。だから飛びつこうとしてちょっと屈んたんだけど、そのときたしかに と背中どんと突かれたんだ。それで、ぶらさがっていたあいつに触ったことは触ったんだけど、足 なんかひつばりはしないよ。ほんとなんだよ。第一、あいつのこと別になんとも思ってやしなか お ったんだ。足ひつばるなんて下等だ。」 げんはそれを信じる。「で、どっちがどうなってころんだの。」 「・ほくが下になってやつが上からどさっと来たよ。だから変なんだ、腕が折れるなら・ほくのほう が折れるはずなんだがな、そうだろ、屈んで両手伸ばしてるところを上から重なられちゃ、どう してもぼくのほうがだめになるわけなんだが、・ほくなんともないんだ。」 「あんたが起きるとき、その子痛い痛いって云ったんじゃない ? 」 「だって・ほく、あいつおっぺして起きたってお・ほえないよ。どんと背なかを突かれて、ふわっと さわ
と った。土手を歩く間しゅう碧郎のしゃべることばは、人が変ったような凄い下等なことばっきで 話すのである。父の云ったことなど全然影も形もお・ほえていない様子で、僕という自分を呼ぶ言 葉など、まるでどこかへなくしてしまっていた。オレがオレは、である。教師はすべてきゃあが けい・ヘっ る、しゃあがる、で云われ、敬語はみな軽蔑とからかいの時に用いられるもののようだった。げ んは困惑から来るヘんな負けん気で、その弟の下司ことばへ、同様な下司ことばでおっかぶさっ て行った。いえ、おっかぶせて行く反抗的なそしてまた心配な気持もたしかにあるにはあるのだ が、少しはその下司つぼさに挑発されもしたのである。「なにをう ? 」とか「なにを云いやが すご る ! 」などという調子はいとも簡単に云えるものなのである。そしていっかど凄いらしく聞え、 凄いらしいことは或る快さがあ「た。「たまれ、弟野郎の厖で : : : 。足がふといから歩くのがの ろいなんて、馬鹿いいやがって。さあ来い、竸争だぞ。」そんなことを言う。すると弟はすっか りてれて、てれながら大喜びをし、「うめえもんだ、そういう調子だ。お父上はおれにばかりおこ ねえこう 」きようがく るけれど、姉公がよそじゃこの調子でしゃべるんだから、きいたら御驚愕、御憤慨のあまり目え まわしゃあがるだろう」というように云う。楽しげに不安なげに、そうして笑っていれば、一本 だけ永久歯に抜け変らない糸切り歯がとんがっていてあどけなく、たった三ッしか違わなくても あわれ 姉には姉の憐みが湧くのである。無条件で可哀想にげんは思わされてしまうのだった。でも、そ の可哀想に思うことはいい事だったろうか、悪いことだったろうか。しし 、も悪いもけんはそんな こと考えてみる気になったことはない。ただ自然が、げんに弟を可哀想がらせたのであり、げん は自分の気持に遠慮するなどということを知ってはいないのた。とにかく、げんは弟の不良化を すご
うちまでついて来るつもりなのかもしれず、本能的に離れたい気がして、「碧郎さん、あたし 寄り道の買物して帰るから先へ行くわよ」と逃げる。男は「いずれまた」と絶えずにやにや笑っ ていた。 男はうちへは来なかった。何事もなかったように、一人で帰ってきた弟へげんは詰め寄った。 うつむいて土手に立往生をしていた人とは同一人とは思われない太々しさで碧郎は、「なんでも ないや、あんなやつ。あれでかさ」と平然としている。 「なんでもなくて、どうして一緒に歩いてたの ? あの人うちへ来る気じゃなかったの 2 ・何云 と ってたの ? 」 いやになっちゃうな、姉さんまでなんだいー それからどうした、それからどうやったっ とて、でかかぶれしてんだからな。うるせえや、罪人っていうのこんなもんだろうな。」 罪人とはこんなものか ! その一ト言でげんははっとして、自分が姉として執るべからざる態 お 度を執っていることを指摘されていると知った。愛がなくて疑いばかり持っている態度であった。 そのことはなぜか父母に話せなかった。隠しておくというのではない。きりだしにくかった。 それは別に事件があったのではなしとたかをくくったのだ。げんにしてもでかはあの日あの時な にかの都合で、もしかすればほんとに隅田川を見たことがなくてやって来たにすぎないのかと思 っていた。むしろ忘れてしまっていた。それが今度は、げんが校門を出たところの電柱の蔭か ら、するんと現われてにやにや笑った。五、六人の友達と一緒に歩いていたげんは息がつまりそ うになった。男は鳥打を取ってなれなれしい挨拶のしかたをした。 ふてぶて
111 あいさっ 違いの同じ小学校出身の学生たちが、いままでろくに挨拶もしたことのない間がらだのに、いき なり途中から連れだちになってくることだった。彼等はけんより年下のは碧郎君のお姉さんと呼 んで、「いっしょに行こうよ」と云うし、年上のはそれそれに呼びかける。「やあ、このあいだ君 のおやじさんの書いたもの読んだ」とか、「あんたのうちにいい大いるでしよ。仔ができたらくれ あき ないかなんて妹が云ってるんだけど」などというふうな会話をしかけてくる。さらに呆れること があった。その川筋には大学のポート部の合宿があって、選手が練習をしていた。その人たちは舟 を漕ぐ練習ばかりではなくて、体操をしていることもランニングしていることもある。もちろん と ランニングのコートは土手を行くのである。それが駆けぬけて行きながら、「げんさんこんちは。 うこんちは」と口々に云って行ったのだ。急に土手じゅうがげんに親しくなった。土手じゅうに友 達がいつばいになったのだった。うそのようなへんなほんとだった。碧郎は誇らしげに云った。 と けいべっ 「おれは不良だからね。不良ってものは人に軽蔑されるけど、誰とでも友達になろうと思えばな お れる技術を知ってるものなんだ。でもね、もともとみんな知ってる間がらなんだよ。ねえさんだ けだよ、一人で澄ましかえって誰にもっきあわないのは。あっちしゃ誰でも、あいつの姉貴はあ れで、あれの兄貴はこれだって知ってるよ。」 「あんた、頼んだの ? 」「何を。」 「何をつて、あたしに声かけるようにつて。 「頼んださ。だけどそんなにみんなに頼んだわけじゃないよ。頼んだのは一人かな二人かな。で もねえさんは知らないけど、みんなもう承知してたらしいよ。好かない野郎がこのごろうろうろ
3 ュノ 「わたくし、うれしく、おもいます。いっしょに祈りますなら、それよろしいことです。」 「いえいえ、かまいません、心配いりません。ひとり祈る ? それかまいません。わたくしあち らまいります。どうそどうぞ。」 碧郎はヘどもどして木の椅子にかけた。椅子の切ったった背板が男の子の背なかを突っぱっ た。牧師は靴音をきかせて回廊をまわって遠のいた。耳を澄ましていて碧郎は逃げだした。今を なにわ、、 そでがきたて と 盛りと咲いている浪花ばらの袖垣を楯にとって芝生に腰を落して、ロのなかで、畜生 ! と云っ ら . - 」 0 あいつ、骨折事件のこと聞いて知ってるにちがいない、でなければあんな顔つきするは とずがない、そして・ほくを不良と思ってきめてるんだろう。何が、い っしょに祈りますなら、それ よろしいことです、なんだ。何が、いえいえかまいません、ひとり祈る ? かまいません、なん だ。何かに当りつけたくてしかも何にも当れるものがない。そばには友だち一人いるでなし、大 じようぎげん ぎんすなご 一匹いるでなし、空は上機嫌に晴れていて、見ているとその青い空からは銀砂子がもやもやと降 はず りて来る。芝生にはかげろうがゆらゆらしているし、聞えてくるざわめきは弾んでいる。祈る ! 祈るってなんだろう ? りないことにしか思えない。好きでもないあの薄鳶色の眼が覗いてい るような錯覚が起きた。 ぼくはあのひと好きじゃないんだー ものうく午後の授業は終った。いつも開放感で聞く放課の・〈ルは、きようは物々しい響きだけ に聞えた。うちへ帰るーーーと思うとうちで聞かれるに違いないきようの学校のようすを、何と云
その翌日である。 「もうポートは乗らないよ。でもね、ねえさんいっか球つきおもしろかったって云ったろ。ポー トもいいんだよ、これが最後にするからいっしょに乗ってみないか。折角、機械の動かしようお 大橋のたもとに ぼえたんだ。おれだって結構らせられるんだぜ。ねえ、大橋まで乘らない ? すしゃ 鮨屋があって、そこの鮨うまいとおとうさんも云ってるんだよ。あれみやげに買って来ようよ。 そしてみんなでお茶飲んで、これきりということにしてくれないか ? 正直のところ、きのうち よっと驚いた。うちじゅうでねえさんがいちばんおっかないと思った。なんとなく身にしみた と よ、もう乗らないよ。」 へ行 9 碧郎は明るかった。げんも見る見る明るくなった。ああ、と思った。もちろんポート とた。少し、この手かな ? と要慎しながら。 船宿では眼を大きくして、「いいのかねえ」と不安がった。 お 内心びくつきながらげんは虚勢を張る。「ええ、あたしきようはちゃんとっきあうって約東し て来たんだから。」 とも 碧郎は艫の機械にすわった。げんは胴にすわった。船頭の女房は、「またあぶあぶやっても、 いま河はいつばい船が出てるから誰か助けてくれます」とからかい、それでも、「行ってらっし ゃいまし」と陸から挨拶をした。いまさら緊張してげんは固くなる。 岸を離れるとモーターはびびびと震動を細かくする。水のうねりがうしろへ吹っ飛ぶ。水は青 りようげん みずあめ・ いのに船が水を裂けば、水は白い水飴になって両舷にそばだっ。
盟をやるのは、ある半面楽しくはあろうが、家庭での半面はますますつまらないものになる。父に も母にも、げんにさえ黙ってやるのだから、誰にも話して楽しむということができない。どんな に楽しくても黙って澄ましているよりほかはない。自分から求めてひとりぼっちになったと同じ なのだ。スカールのスの字も彼は云わない。げんも知らんふりをした。一体それにいる身じたく などどうして調えたか、どこへ置いてあるのか。すくなくもシャッとパンティとか、日除のつい た帽子とかがいるだろうに。 ふなやど そのうち、いつも、父親が釣に行くときにつかう船宿の船頭さんから、意外なことがすつ。はぬ と かれて聞えてきた。彼は運動神経が小器用にはできているらしいのだが、なんと云ってもスカー うルという舟は特殊である。ろくに漕法を学んだこともなくて、ただ小器用だけでやっていて無事 きび となわけがなかった。泳ぎもできはしても、ものの役に立つほどの厳しい訓練をした経験はない。 それに土地には彼を好いてくれる人ばかりではない、半分学生の半分よたつばちな生活をしてい しやくさわ お るやつなんかぐいと癪に障っているむきもあるし、薄なまいきなやっという嫌いかたをして当り たい気の若ものもいたのだろう。いい気になってスカールを乗りだしているとき、あちらからモ ータ 1 ポートをらせて来た誰だかが、いきなり彼の舟へカープして、しかも速力を落さずびゅ しの あわ うと駛りぬけて行った。慌てて舟の位置を換えて凌ごうとしたけれど、間に合うはずもなくて、 みごとにひっくり返されてしまった。モーターには日除の眼鏡をかけた若い男が二人乗ってい て、スカールを抜くとき片方の男が手を挙げてからかって行ったから、たぶん故意にしたいたず らだろうということである。 ととの ひょけ