大人 - みる会図書館


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1. しろばんば

496 しろばんば と、芳衛は言った。芳衛がこんなにまとまったことを他人に言うことはめったになかったの で、洪作は驚いた。それにすっかり大人のロのきき方たった。 「来るさ。正月にも、夏休みにも、遊びに来る」 洪作は多少改まった気持で言った。亀男もまた、洪作に平生言わないようなことを言った。 「こんど来る時は、中学生になって来るんずら。おらっちを見ても、ロをきかんかも知れんな」 「そんなこ一とあるもんか」 洪作が言うと、 「人間というもの・はえてしてそうしたもんだ。洪ちゃ、ロをきいてくれよ、な」 亀男は言った。亀男は大きな図体をしているくせに少し感傷的になっていた。幸夫もまた大人 つぼい口をきいたが、この方は幸夫らしく明るくて、元気があった。 「洪ちゃ、こんな山の中へなど、もう来ん方がいい。俺だって、もう二三年したら、こんなとこ ろは棄てるぞ。こんなところにいたら、村長になるのがやっとだ。俺は町へ出て、雑貨屋をやっ て、成功して、小僧を五六人使うようになるんだ」 幸夫はそんなことを言った。四人は共同湯に行くと、湯桁に腰を掛けて、長い時間、勝手な話 をした。亀男は大工になるのだと言い、大工ほどいい商売はないと言った。酒屋の芳衛は、やは り家業を継いで、酒造りの仕事をするのたと言った。酒屋は、もっと小規模にやれば、なかなか しい商売だ。いまのように大きくやっていると、人手ばかり沢山かかって、儲けにならないとい うようなことを、芳衛らしいぼそぼそした言い方で言った。部落の大人たちに聞かせたら、一人

2. しろばんば

をつけ、時折競馬らしいものが行われさえすればそれで充分だった。 紺屋の次男の清さんの馬が駈ける時は、洪作も幸夫も緊漲した。大見部落の左官屋の辰さんの 馬と競争するということなので、洪作たちは清さんを応援するために、人々の余り集っていない 馬場の北側に席を取り、そこで頑張ることにした。 一番難しいとされているスタートは、このレースでは成功した。二頭の馬は同時にスタートを 切って、並んで駈け出した。併し、間もなくどういうものか辰さんの馬はふいに駈けるのをやめて 立ち停り、天にでも駈け上るように、後脚で立って、前脚で宙を掻いた。そのために、忽ちにし て辰さんは落馬した。どっと喚声は沸き起り、多勢の人々が宴席を離れて、辰さんの倒れている 五方へ走って行った。併し、辰さんが怪我もせず起き上ったのを見ると、みんないっせいに、何だ つまらないと言った顔をして、またぞろそろと自分の席の方へ戻った。 そうしている間に、紺屋の清さんは自分だけで馬場を一周し、それで足りないのかもう一周馬 前 を駈けさせた。清さんの姿は、洪作の眼には立派に見えた。平生は道楽者だとか、怠け者だとか、 悪口を言っている大人たちも、この日ばかりは清さんを褒めた。 「本物の騎手になったら清の奴は日本一の騎手になるずらに」 そんなことを言う老人もあった。そんな清さんについての賞讃の言葉を聞くために、洪作たち は大人たちの酒盛りの場を、次から次へと廻って歩いた。 洪作たちはそうした一」とに倦きると、あとは辛抱強く次のレースが行われるのを待った。そし て次に出走することになっている騎手のばかりにくつついていた。騎手はコールテンのしゃれ 175

3. しろばんば

しろばんば 140 「上の家の姉ちゃんは、夜になると中川先生のところへ遊びに行くずら」 そんなことを訊かれることがあった。そして決って、そんなことをいう青年は、そのあとで野 卑な奇声を発した。洪作はまた近所の家の女たちが、さき子と中川基の噂をしているのを耳に することがあった。大人たちは洪作の姿をみとめると、急に声をひそめるのが常だったが、そ んな大人たちに洪作は烈しい反感を持った。それまで好きだった小母さんたちでも、嫌いになっ 勿論こうした噂が上の家にも聞えない筈はなく、祖母のたねはそのことのために頭を痛めてい た。生れてから他人を非難したことのない祖母は、子供たちのはやし声などが聞えてくると、何 とも言えない悲しそうな顔をして、いかにも困ったことだというように眉をひそめて、子供たち をたしなめるために、家から出て行った。そして、 「これ、これ、あんたたち」 と、子供の群の方へ近付いて行った。子供たちはうわっと喊声を上げて散って、決して祖母に はつかまらなかった。 こうしたことのために、上の家は何となく暗い感じだった。祖父の文太と祖母のたねが、真剣 な顔をして、何か相談していることがあり、そんな時、そこへ近寄って行くと、 「洪ちゃ、 いい子だから、・向うへ行っておいで」 と、祖母は洪作を追い払った。さき子のことを相談しているのに違いなかった。 こうした情勢の中にあって、当のさき子は平気で学校へ通っていた。学校ではさすがに中川基

4. しろばんば

前編五章 199 うちに、焚出しのむすびが数人の女たちの手によって運ばれてきた。大人たちはそれを一つずつ 受け取って口に運んだが、子供たちは貰えなかった。 幸夫と洪作は、むすびを食べている大人たちの間に挾まって、ひどく退屈な割の悪い時間を過 した。そのうちに大人たちは正吉が昨日発見されたという杉林へ行き、神かくしが見付かったこ とに対するお礼の祈疇をし、それからここへ戻って、正吉を運び出すという相談をし出した。こ のことを大人たちの口から聞いて、洪作と幸夫はうんざりしたが、十人程の大人たちが一団とな って歩き出すと、二人もその中へはいって彼等と一緒になって歩いて行った。 杉林まではかなりの距離があった。洪作と幸夫は、大人たちの喋る言葉を一言も聞き洩らすま いと、周囲の大人たちの頻を眺めては、それらを見較べながら、絶えす小走りに走っていた。走 っていないと、大入たちについて行けなかった。もう少しで杉林へ到着するというところまで来 「お前ら、なんじゃ」 と、大人の一人が初めて洪作と幸夫の二人の存在に気付いて言った。 「どこのがきだ ? 」 もう一人の大人が立ち停って訊いた。 「久保田だ」 幸夫は答えた。 「久保田」

5. しろばんば

五 正月のあとの子供たちの楽しみは四月の馬飛ばしであった。長野部落の向うにある小さい峠を かみおおみ 越えると、隣村の上大見部落になるが、その上大見部落にはいったところにある小さい平坦地の 筏場で、毎年四月の桜の花の時期に、草競馬が行われる慣わしだった。村では大人たちも子供た ちも、競馬とは言わないで、馬飛ばしという言い方をした。その日近郷十箇村程の青年たちは馬 を持って筏場に集り、そこで小さい馬場に馬を駈けさせる技を競った。集る青年たちも農村の若 五者であり、連れて来る馬も平生農耕に使っている馬であった。競馬そのものは、一時間に一回ぐ 編らいの割で三四頭の馬が馬場を駈ける頗るのんびりしたものであったが、それを見るために集る 人は夥しい数に上った。人々は競馬場の到るところに、筵を敷いて宴席を張り、桜を見たり、馬 前 を見たりしながら、春の一日を楽しんだ。おでんやしんこ饅頭などを売る小屋もできた。食べも のの店は農村の女たちの内職で、大抵毎年同じ顔触れが店を張った。大人たちにも楽しい一日に 違いなかったが、これは子供たちにとっても楽しい一日であった。ある意味では、子供たちには 馬飛ばしは、お盆や正月よりも、もっと大きい魅力を持っていた。 洪作たちは三月頃から、馬飛ばしの話ばかりした。紺屋の次男の清さんという若者が、毎年こ の村から馬を引いて行った。子供たちは三月の終りになると、紺屋の前ばかりに集り、街道を駈 ける時も、馬に乗ってでもいるように、躰に調子をつけて手綱を取る恰好をして走った。 169

6. しろばんば

しろばんば 178 駄菓子屋の平一が口を尖らせて言った。 「箱ん中へなんか産むもんか。たらいだそ」 一人が言うと、 「嘘なもんか。箱の中だ。俺ちゃんと見た」 平一は頑張った。そうしている中に、うわっという人々のどよめきが沸き起った。三頭の馬が、 一列になって走り出したところたった。騎手たちはいずれも体を馬体から上げて、鞭を振り上げ ては馬の尻をたて続けにひつばたいていた。 「大レースだ」 傍の大人の言葉が耳にはいって来たが、洪作もまた大レースというのはこういうものであろう かと思った。 そのレースが終ると、子供たちは思い残すことなく馬場を離れた。洪作は帰路に就くと、一刻 も早くさき子の赤ん坊を産むところを見に行こうと思うことで気がせいた。早く行かないと、嬰 児は生れてしまうかも知れないと思った。 とんな風にさき子が赤ん坊を産むのかそれを見たかっ たし、それからまた、さき子の産む赤ん坊がどんな顔をしているかも見たかった。村の他の家の 赤ん坊には少しも興味がなかったが、さき子の赤ん坊となると、事情は少し違っていた。 子供たちは二時間前に無我夢中で駈けたその同じ道を、こんども亦真剣に駈けた。そして峠へ 登りつくと、こんども亦茅の原の中へ躰を埋めて休んだ。往きには風が出ていなかったが、いま は烈しい風が絶えず茅を揺れ動かしていた。風のために陽の光まで散ってしまいそうであった。

7. しろばんば

200 しろばんば 相手は呆れたような声を出すと、 「学校はどうした、ばかもん ! 」 それからすぐ、 「帰れ ! 」 と怒鳴った。幸夫と洪作は相手の見幕が余り烈しかったので、大人たちの一団から出て路傍へ 移動した。この時初めて、洪作も幸夫もいっか自分たち以外、一人の子供も居ないことに気付い た。一緒に新田まで駈けて来た子供たちも、いっか二人を残して帰ってしまっていた。 二人は仕方がないので、また正吉の寝ている農家へ帰った。農家の前には、前よりもっと多勢 の大人たちが集っていて、わいわい言いながら焚出しのなすびを頬張ったり、お茶を飲んだりし ていた。二人はなおも暫く大人たちの間に挾まっていたが、その間学校のことが気にならないわ けではなかった。う学校の始まる時刻かも知れなかったし、あるいはもうとっくに始まってい る時刻かもしれなかった。 洪作はそのことを幸夫に言いたかったが、なにか口に出すのが怖かった。幸夫は幸夫でやはり そのことは気になっているらしく、 「先生に憤られたって、神かくしの正吉さんを見た方がいいや、なあ、洪ちゃ」 そんなことを洪作に言った。 「そりゃあそうさ。その方がずっといいや」 しいかどうか、甚だ自信はなかったが、併し、そうロに出さな 洪作も言った。その方がずっと、

8. しろばんば

しろばんば 132 他の一人が言うと、 「あれ、まあ」 おぬい婆さんは、また複雑な表情をして、 「ろくでもない犬を飼うと、人さまに迷惑じゃ。酒屋でも少しはこりたべ」 その時、 「柿の木が折れたそ、根もとからー 駄菓子屋の一年生の平一が大人たちの間から顔を出して口を挾んだ。平一はいっかやって来 て、大人たちの間に混っていた。 「柿の木って、どこの柿の木じゃ」 「洪ちゃとこの柿の木よ」 「あれ、まあ」 おぬい婆さんは聞き棄てならぬといった表情をすると、 「川つぶちのか、さるすべりの傍のか」 「川つぶちのだ」 「川つぶちのたら、甘柿じゃがな。どうして折れた」 「おらあ知らん」 「あの木が折れたらことじゃ。洪ちゃの大事な柿の木じゃがな。 ないか」 お前、登って折ったんじゃ

9. しろばんば

夫と為吉が乗り込んで来て、洪作の体をつつ突くと、すぐ御者台から降りた。幸夫はそんなこと を二三回繰り返したので、六さんに叱られて頭を掻いた。 二度目の喇叭が鳴ると、三人の大人たちも乗り込んで来た。さき子が窓の外から洪作に声をか けた。 「洪ちゃ。 いね、汽車に乗れて。嬉しがって宿題やらなかったらだめよ。二学期には一番にな らなければ」 それを聞いたおぬい婆さんはちょっと表情を固くしたが、さすがにこの場合は聞かんふりし て、ヘらずロは叩かなかった。 ん 「じゃ、みなさん」 そう言っておぬい婆さんは洪作の肩揚のところを掴んで引っ張り、自分と一緒に並んで立たせ ろ した。それと同時に馬車は動き出したので、二人は反動で大きくよろめいた。おぬい婆さんは両手 を大ぎく泳がせて、すんでに倒れるところを男の客の手に支えられた。 洪作の耳には、子供たちの喚声が車輪の音と一緒に聞えていた。大人たちの一団はみな手を振 り、子供たちは馬車と共に駈け出していた。先頭の幸夫の歯を喰いしばっている顔が、すのこ橋 の袂まで馬車のすぐうしろについていたが、そこで彼は馬車との競争を打ち切った。洪作の眼の 中で、大人たちの姿は小さくなって行った。御者の六さんは、すのこ橋までの三十メートル程の 間、喇叭を吹きながら馬に鞭をくれたが、橋を渡り切ると喇叭を手から離し、手綱をゆるめて馬 の歩調をゆるくした。橋のところから道は大きくカープを切っており、市山部落の茂みにはいる

10. しろばんば

けが、着物の包みは持たずに手ぶらで歩いていた。彼等は着物の東を路傍に匿して来たり、木の 上にくくりつけたりして来ていた。 時折、この一団は大人たちと会った。大人たちは例外なく、 「お前らはそんな恰好して、どこへ行くんか」 と訊いた。 「ずいどうだ」 たれかが答えると、 「すいどうは裸では通れんぞ。夏でも寒いからな」 八そして、 「しようもない餓鬼どもじゃ」 編 と、付け加えることを忘れなかった。 前 洪作は行手の天城の稜線にかかる白い夏雲を見ながら歩いた。全身から汗は吹き出しており、 それに埃がついて、汗は黒い滴りとなって裸身を伝わって落ちていた。洪作は一度、幸夫に、 「さき子姉ちゃん、死んだぞ」 と言った。すると、幸夫は、 「知っていらあ」 と言ってから、急に声を張り上げて、 「なむまいだ、なむまいだ」 291