思わ - みる会図書館


検索対象: しろばんば
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1. しろばんば

と言った。洪作はその幸夫の言葉でぎよっとした。なるほど向うから急ぎ足でやって来る人物 は、伯父の石守校長に似ていた。体を前屈みにして歩くその歩き方はそっくりだった。その人物 の小さい姿がひと廻り大きくなるまで、洪作と幸夫は何となくそこに立ち竦んでいた。 「校長先生だ。どうする ? 」 幸夫は洪作の方へ顔を向けた。。 とうすると言われても、洪作もどうすることもできなかった。 全くどうしていいのか判断がっかなかった。道は崖と山とに挾まれた一本道であるし、どこへも 匿れ場はなかった。このまま歩いて行ったら、石守校長とぶつかる以外仕方がなかった。 「洪ちゃ、どうする ? 」 五幸夫は半ばべそをかきながら、真剣な表情で言った。洪作はもと来た道を引き返すこと以外に、 いまの自分たちにできることはないと思った。洪作はいきなり廻れ右をすると、 「駈けろ」 前 と、幸夫に命ずるように言った。 「よし」 そう答えるともう幸夫は駈け出していた。洪作も駈けた。洪作はすぐ息が苦しくなり、横腹が 痛くなったが、それでも我慢して駈けた。い くら苦しくても、この場合だけは停ってはならぬと 自分に言いきかせた。併し、二三丁駈けると、幸夫は駈けるのをやめて、大きな息使いをしなが ら道端にしやがみ込んでしまった。洪作も幸夫に倣って同じようにした。二人は暫く休んでから 一緒に立ち上った。石守校長との距離が縮まったので、否応なく立ち上らなければならなかっ 203

2. しろばんば

しろばんば 502 の何という名の老人であるかは全く知らなかった。年に一回か二回、どこかで顔を合わせる老人 であった。 「うん」 と、洪作が答えると、 うしな 「あんたも、おぬいおばあさんを喪って、さぞおカ落しでしたろう。でも、これから町の学校へ 上らっしやるそうで、何よりのこってす。お母さんも、お父さんにもよろしく言って下され」 卞訥な頻をした老人は言った。 「うん」 洪作は言った。大人から丁寧に物は言われても、洪作は何と答えていいか判らなかった。する と老人は、洪作の顔をしげしけと見守って、 「こんど、あんたが来なさるのは何年先のことやら。ーーー大方、このわしはもう生きておらんで しよう。もう、坊にも、これで会えん。勉強して豪い人になんなされ」 そう言うと、そのまま老人は歩いて行った。洪作は小さい時は、よく村人から〃坊〃と呼ばれ 最近はこんな呼び方をされたことはなかった。老人はもうこれで会えないと言ったが、そ う言われてみれば、洪作も亦恐らくこの老人にはもう会うことはできないだろうという気がし た。そう思うと、折角別れの挨拶をしてくれた老人に、自分が言葉らしい言葉を返さなかったこ とが悔まれた。 洪作は何か一言老入に言葉をかけたくて、途中から引き返すと、老人のあとを追った。老人は

3. しろばんば

しろばんば 466 「ええ、行ってみましようか」 洪作も言った。浄蓮の滝までは小一里の道のりだったが、月光に照されて、下田街道を歩いて 行くのも気持いいだろうと思った。勉強は休まなければならなかったが、一晩ぐらい休んでも、 差し当ってどうということもなかった。洪作は風呂敷包みを大飼の部屋において、犬飼と一緒に 旅館を出た。 「もうすっかり秋だな」 大飼はしんみりした口調で言った。 「寒くはないかし ? 」 「寒くはありません」 「風邪を引くなよ。これから試験の日までは、体だけは大事にしておかねばならん」 洪作は、犬飼がすっかりもとへ戻ってしまっているような気がした。今夜の犬飼にはどこにも 神経衰弱患者らしい暗さはなかった。渓合から下田街道へ出る坂道を上って行く間は、犬飼は洪 作と肩を並べて歩いて行ったが、街道へ出ると、洪作から離れて、ひとりでさっさと歩き出した。 「先生 ! 」 洪作は大飼に追いつくために、時折小走りに駈けねばならなかった。併し、追いついても、す ぐまた二人の間附は開いた。犬飼は歩いているのでなく、半ば駈けていると言ってよかった。 二人が大滝部落をぬける頃、洪作はひたすらたれかに会うことを期待した。たれかに会った ら、事情を説明して、大飼を宿へ連れ戻すことを頼もうと思った。やはり犬飼は明らかに常人で

4. しろばんば

しろばんば 328 洪作が立っている入口とは反対側の向うの出口は、洪作のところからは半月状をなして見え、 その半月の中に小さい他国の風景が嵌めこまれてあった。峠のこのずいどうを境にして、こちら は田方郡であり、向うは賀茂郡であった。洪作には半月状に切り取られた賀茂郡の風景が、こち らのそれとはまるで違って、妙に生き生きとした新鮮なものに見えた。 馬車がやって米ると、洪作は再びそれに乗った。馬車がひんやりしたずいどうを抜けて賀茂郡 へ一歩踏み込むと、洪作の胸はある感動で大きくふくらんた。もうさき子の事は思わなかった。 思う暇がなかった。馬車はいまや他国の風景の中を、南伊豆を、天城の向う側を、やはりある感 動で身ぶるいしながら走っていた。峠から道は下りになっていて、深い渓谷を絶えず手に見降 しながら、山裾に沿った折れ曲った道を、馬は慣れた足つきで、あるところはゆるく、あるとこ ろは早く走っていた。 馬車は湯ケ野という小さい温泉部落へはいった。湯ケ野という名前は洪作には親しいものであ った。峠を越えた向う側の最初の部落であるということで、村の大人たちの口からはたえずその 名が出ていた。 「鍛冶屋の嫁っ子と、車夫のかねさんとこの嫁っ子はこの村から来ている。な、そうだろうが」 おぬい婆さんが言うと、 「反対に辰さんとこの末っ子は、ここの菓子屋の総領のとこへ来とる。去年、双生児を生んだ」 御者のおっさんは言った。 「双生児をな、あれ、まあ」

5. しろばんば

しろばんば 明るく広く見えた。寝具もみな豊橋から送られて来た新しいものであった。初めて母屋の二階に、 おぬい婆さんと別れて寝た夜、洪作はふいにおぬい婆さんはどうしているかと思うと、そのこと が気にかかって眠れなかった。 夜半、洪作は階下の廊下の戸を開けて、庭伝いに土蔵に行ってみた。土蔵の窓からは燈火が洩 れていた。 「ばあちゃん」 呼んだが、聞える筈はなかった。裏の水車の音がその洪作の声を消している。洪作は正面に廻 って土蔵の重い戸に手をかけた。いつも戸は洪作が閉めることになっていたが、この日は洪作が 居ないので、戸は完全には閉められてなかった。二寸程開いていた。重い戸なので、おぬい婆さ んの手には負えなかったものと思われた。洪作が戸を開けると、 「洪ちやか」 と、すぐおぬい婆さんの声が上から降って来た。 「うん。本を取りに来た」 洪作が言うと、 「そうかいそうかい」 おねい婆さんは階段の上から顔をつき出した。ランプの光で、おぬい婆さんの顔の半面だけが 般若の面のように見えた。二階へ上ると、本を一冊持って、洪作はすぐ帰ろうとしたが、 「ばあちゃ、何してた ? 」

6. しろばんば

はかり、ロを開けて咽喉を覗ぎこみ、それから復部を手で何回か押えたり探ったりしてから、 「今回はどうにか二人とも生命だけは取りとめるらしい。併し、もう一回家の人に内緒で買食い ℃い力な」 などをすると大変なことになる そんなことを言って、すぐ席を立って帰って行 0 た。医者が居なくなると、れい子は赤い舌を 出して、 「洪ちゃ、もうよくなった ? 」 と訊いた。 「うん」 七 と、洪作が答えると、 編「わたしも」 と言って、それから、 前 「面白かったわね」 れい子はませた口調で言 0 た。洪作はおぬい婆さんのことを思い出して、そろそろ駅前の旅館 へ帰りたくなったが、寝床を脱け出すのもどうかと思って、蒲団の上に仰向けに横たわったまま にしていた。いっか戸外には夏の白っぽい薄暮が迫っていた。退屈なので、れい子と話をしたか 「たが、れい子は軽い寝息を立てて眠 0 ていた。そうしているところへ小母さんがはい 0 て来て、 「婆ちやからお迎えが来ましたが、洪ちやは御病気だからと言って帰って貰いました」 と言った。 275

7. しろばんば

しろばんば 274 「うん」 洪作は、併し、食べたものを訊かれたら、それを最後まで黙っていられるか、どうか、甚だ不 安なものを感していた。訊かれたらみんな喋ってしまいそうであった。 「お医者さんがくるけど、言ってはだめよ」 お医者さんと聞いて、洪作は絶望的なものを感じた。相手がお医者さんでは嘘をつくわけには ゆかなかった。 「本当にお医者さんが米るのかな」 「いま、兼さんが招びに行ったわ」 「洪ちゃ、もう癒った」 洪作はいきなり床の上に起き上った。すると、丁度そこへ小母さんがはいって来た。 「起きてはだめ、さ、寝てらっしゃい。あんたたち二人とも、死んでしまうかも判らない。可哀 そうだけど仕方がありません。落花生食べたり、トコロテン食べたりしたんだから、多分もう助 からない。お医者さんを招ぶより、お坊さんを招んだ方がよかったかも知れない」 小母さんはそんなことを言った。洪作はえらいことになったと思った。れい子は眼をつぶって 眠ったふりをしていた。小母さんが部屋から去って行くと、すぐお医者さんが来たらしい何人か の人の話し声が聞えて米た。れい子は依然として眠ったふりをしていた。洪作が話しかけても返 事をしなかった。 医者は黒い鞄を抱えてやって来ると、洪作とれい子の枕もとに坐り、二人の脈をとり、体温を

8. しろばんば

しろばんば 亦座席の上に坐った。坐り心地はそういいものではなかったが、そうするものだと思った。四人 向い合せの座席がすつぼり空いていたので、荷物を網棚に載せなくてもゆっくり二人で占領する ことができた。 「それにしても、ここまでくるの大変しやったな。洪ちゃ」 話し相手が他にないので、おぬい婆さんはやたらに洪作に話しかけて来た。そう言われて考え てみると、洪作も本当にここまで来ることは大変たったと思った。湯ヶ島を発ったのは昨日の朝 だったが、それが洪作には何日も前のことのように思われた。上の家の祖父母やさき子、それか ら幸夫、芳衛、亀男たちと別れてからずいぶん長い時日が経っているような気がする。 洪作はそんなことを思いながら窓の外へ顔を向けた時、ふいに眼の前に立ちはだかっている大 きな富士山を発見して驚いた。富士山に違いなかった。湯ヶ島で何時も見ているのとは大きさが まるで違っていたが ( 併し富士山に違いないと思われた。 「あ ! こんなとこにも富士があらあ」 洪作は叫んだ。すると周囲から笑声が起った。通路を隔てた向う側に若い女たちが四人坐って いたが、みんな洪作の方を向いて笑った。洪作は恥しかったので、すぐ窓の方を向いた。そして、 どうして自分の言葉が女たちを笑わせたのであろうかと思った。自分の田舎言葉がおかしかった のか。洪作には笑われた原因が判らなかった。 おぬい婆さんは団扇を使ったり、煙草を喫んだり、窓から飛び込んで来る煤煙を払ったり、絶 えず体を動かしていた。洪作の着物に降りかかる煤煙をも、時々手拭いではたいてくれた。洪作

9. しろばんば

と言った。そしてそう言ってから般若の面のような顔をして、黒く染めた歯を出して笑うと、 右手で洪作の肩を押し遣るような仕種をした。洪作は驚いた。自分を悅んで歓迎してくれている ことだとは思いながらも、何となく不気味だ。 とう 「洪作、遊んでいな。いまに唐が使いから戻って来る」 伯父はそう言うと、すぐ洪作をそこへ置きつばなしにして、自分だけ母屋の土間へはいって行 った。すると、伯母も、 「洪ちゃ、唐が来るまでそこらで遊んでな」 そう言って、彼女も亦母屋の中にはいって行ってしまった。洪作は遊んでいろと言われても、 二一人では遊びようがないと思った。洪作は広庭に残されたまま、暫く見慣れない周囲を見廻して 編いたが、やがて土蔵の方へ行ってみた。土蔵の前へ行っても別に面白そうなことは見付からなか った。仕方ないので、それから背戸の方へ廻り、再び前庭へ戻り、家の前の道へ出て、そこに立 っていた。何とつまらないところへ来たものだろうと思った。 すると、伯母が母屋から来て、 「洪ちゃ、悪させんと、温和しくしておれや。伯母ちやは、洪ちゃが来たお蔭で急に忙しくなっ た。折角門ノ原へ来たのに、何も食べさせんと帰したとあっては、おぬい婆ちゃに恨まれるで、 せっせとぼた餅作らにゃならん」 と言った。そしてまた黒い歯を出して笑った。洪作は、悪戯なんかしたくてもできないではな いかと思った。そして自分に御馳走するために伯母がぼた餅を作っているらしいことは判った

10. しろばんば

しろばんば 134 洪作も洪作で、仲間の方へは接近して行かなかった。洪作は大人たちの間に挾まったまま、土 蔵へとはいった。土蔵へはいってから、 洪チャ、遊ボウ、洪チャ、遊ボウ。 という子供たちの合唱が聞えて来た。幾つかの聞き憶えのある声が混っていた。その声を聞い ただけで、洪作はたれとたれが戸外に居るかが判った。 洪作は着替えすると、上の家の祖母から菓子を貰って、それを食べ、お茶を飲み、それから外 へ飛び出して行った。すると、子供たちはうわっという喚声を上げて四方へ散った。洪作はまた 土蔵へ引き返した。 二度目に洪作が外へ出た時は、もう近くに子供たちの姿は見えなかった。夏の白っぽいタ暮が 来ていて、みんなタ食のために、それそれの家へ引き上げたものらしかった。洪作は上の家へ行 った。さき子に会って、豊橋の話をしたかった。豊橋の話をする場合、一体何から話すべきであ ろうかと思った。話さなければならぬことは沢山あった。 洪作は上の家の石段を上ったが、妙にはいりにくいものを感じた。祖母のほかに誰ともまだ頻 を合せていなかったので、みんなからいっせいに声をかけられると思うと、何となくはいって行 くのが気が重かった。洪作は冢にはいらないで、その替りに玄関のすぐ横にあるあすなろの木に 登った。 家の内部からは、祖母とさき子が話している声が聞えた。祖父の声も聞えた。おぬい婆さんと か、洪ちゃとか、そんな声が耳にはいって来た。祖母がおぬい婆さんと洪作が帰って来たことを