しろばんば 朝食を食べていると、近所の幸夫や亀雄や芳衛などの、洪作を学校へ誘う声が聞えて来る。 「洪ちゃ、学校へ行こう。洪ちゃ、学校へ行こう」 そう言って、何人かの子供たちが声を揃えて土蔵の前で呼ぶが、それは、コウチャ、ガッコ工 コウと聞える。登校の誘いであるが、学校の始まるまでには、いつでもたつぶり一時間はあった。 時には一時間半近くもあることもある。学校までは走れば五分もかからなかった。 それでも友達の声が聞えると、洪作は教科書と弁当を大急ぎで風呂敷に包み、それを持って大 周章てにあわてて、階段を駈け降りる。 「坊や、坊や」 そのあとから決って、おぬい婆さんは紙かハンケチを持って追いかけて来る。紙やハンケチな どは、部落の他の子供たちには無縁なものであった。洪作もまた、そんな物を持って行っても使 うことはなかった。併し、おぬい婆さんは大切なものでも忘れたように追いかけて来る。おぬい 婆さんはうちの坊は他の部落の餓鬼共とは違っているのたという信念を持っており、違っている ことの一つの証拠として、洪作に紙やハンケチを持たせねばならないのであ・つた。 子供たちは次々に部落の家を廻り、学校へ通っている仲間を誘い出すと、御料局の横手とか、 洪作の家のの田圃のいなむらのだとかに集って、登校するまでの時間をたつぶりと遊んた。 子供たちの屯ろするところは時々変った。誰が命令して変らせるわけでもなかったが、自然に集 る場所は変った。そしてそこへ集り出すと、二カ月でも三カ月でも同し場所ばかりに集った。男 は男、女は女で別々の場所に屯ろした。
のくらい眠ったのか、眼を覚してみると、さつぎあれ程待った念仏を唱和する部落の老婆たちの 声がなたらかな韶律で家内を流れていた。 洪作は長い間それに聞き入っていた。するとその念仏の声の中から、二階に横たわっている曾 祖母の顔が浮んで来た。一日中置物のように同じ場所に坐ったままで、めったに階下へも姿を見 せなかったおしな婆さんのことが、次から次へと思い出されて来た。みつの方にばかり加勢して、 ぎんなんを焼いても、みつには二つずつ与え、自分には一つずっしかくれなかったことや、座蒲 団の厚いのにはみつを坐らせ、薄い方には自分を坐らせたことなど、いろいろなことが思い出さ れて来た。その時は、何と意地悪い婆ちゃんだと思ったが、いま思い出してみると、ふしぎにそ 六うしたことに腹が立たなかった。 編洪作は積み上けた蒲団の山から降りると、納戸部屋から出た。居間は戦場のような騒ぎで、近 所の内儀さんたちが、食べ物の皿を持ったり、徳利を持ったりして右往左往していた。 前 「洪ちゃ、あんたどこにいたの ? 」 洪作はたれかにそんな声をかけられて、夜食を食べるために階下の居間の隅に坐らせられた。 洪作は大きな牛蒡の切れを箸でつまんたが、食慾というものは全くなかった。手伝いの内儀さん たちも、めいめい適当な場所に陣取って、それそれ夜食の箸を取り上けた。 おお婆ちやは、まあ、 ℃い星廻りの人だったさ。薙刀と朱塗りの風呂桶を持って嫁に来な さったんだから。 とか 219
しろばんば た表情で、 「婆ちゃが鼠に引かれるで、あすになったら、早く帰っておいで。一晩泊ってやったら、それで 充分じゃ。何もぐすぐずといつまでも門ノ原などに居てやる必要はない。さっさと帰っておい おぬい婆さんは言った。気がつくと、石守森之進は痩身を真っ直ぐに立てて、もうずっと先を 歩いていた。洪作はそこへおぬい婆さんを残して、すぐ伯父のあとを追った。 駐車場の前を通り抜けると、五十メートル程のところに、市山部落との境界をなしているすの こ橋があった。いつの場合でもこの橋を渡ると、子供たちは他部落へ足を踏み入れたという感を 強くした。他部落へはいると、敵がいつばいいて、警戒心を解くことはできなかったが、今日の 洪作は、併し、いつもとはまるで違った心境だった。校長の石守森之進のあとをついて歩いて行 く以上、何ものをも警戒する必要はなかったが、その替り、あらゆるところから監視されている ような気持たった。 市山部落の真ん中を走っている下田街道を、伯父は相変らず痩身を真っ直ぐに立て、短い口髭 を持った気難しい顔を前へ向けて歩いていた。伯父は学校に於てもそうだったが、歩く時横を見 るというようなことは決してなかった。そして、その伯父から二間程離れたあとを、洪作は伯父 との間隔を詰めるために時々小走りになっては歩いていた。伯父は足が早かった。背後を振り返 るでもなく、また洪作に言葉一つかけるでもなかったので、伯父の歩調にはいささかの乱れもな かった。伯父は毎日のように朝晩こうして、門ノ原から湯ヶ島へと一里近い道を歩いて通ってい いちゃま
前編 りぎったところでおぬい婆さんが背を伸ばす姿が見えた。おぬい婆さんはそこで一息入れてか ら、 「あいよ、あいよ」 とたて続けに返事をして、戸棚をあけ、そこに用意してある紙にひねった駄菓子を持って洪作 の枕許へやって来た。 おめざ」 おぬい婆さんは紙包みを洪作の手に握らせたり、蒲団の中へ突っ込んだりして、 「ごはんできるまでまだ間があるから寝とれや」 と言って、また階段を降りて行った。早く起きよとも、起きて顔を洗えとも言わなかった。ひ ねり紙の中味は大抵黒砂糖の飴玉だった。洪作はその黒玉を二つか三つしゃぶり終えるまで床の 中にはいっていた。 こうした朝のおめざは、上の家では非難されていた。祖母のたねはよく、 「顔も洗わんで黒玉なんぞしゃぶって、いまに歯がぼろぼろになる」 と、洪作に言った。そのことを洪作がおぬい婆さんに告けると、 「ぼろぼろになるような歯は坊は持っとらん。おみつとは違うわい。そう言っておやり」 と息まいて言った。兎も角、毎朝のように、洪作は寝床の中で黒玉をしゃぶった。時には、そ れが大きい水晶玉一個の時もあった。水晶玉は白砂糖の飴玉で、微かにハッカの味がした。それ 以外では豆板とか、ねしまきとかいオ っこ駄菓子が時たま当った。 章
しろばんば 380 風が強いので凧揚げはできなかった。駐車場からは午後に初馬車が出た。平生は午前中にも二回 馬車は出たが、元日だけは午後に最初の馬車が出ることになっていた。 子供たちは折角の元日だったが、風のために何も出来なかったので、いつまでも駐車場に集っ たまま初馬車の出るのを待っていた。初馬車の客はただ一人であった。前日の大みそかの最終の 馬車で帰郷した山口平一だった。きのうと同じみすぼらしい身なりをした平一は、こんどは風呂 敷包みを一つ持って、お飾りのついている馬車に乗った。 洪作は少し離れたところからそんな山口平一の姿を見守っていた。他の子供たちは平一が駐車 場に姿を現してから、馬車の支度のできるまでの短い時間、平一につきまとっていたが、洪作は 少し離れたところにいて、彼に近寄って行かなかった。考えてみると、平一が郷里で過した時間 は極く僅かであった。郷里の家で元日の朝を迎えたというだけの話で、こっそりと人目をしのぶ ようにやって来、逃げるようにあわただしく帰って行こうとしている。洪作は相手が学校の成績 のいいことで知られた山口平一でなかったら、彼がいかなる帰り方をしても特別な関心は持たな かったに違いなかったが、自分が畏敬していた山口平一であるだけに、妙に割り切れない気持で 心が痛んた。平一を乗せた馬車が走り出した時、 「市山までついて行こう」 洪作は言うと、馬車を追いかけて走り出した。子供たちの一団は洪作に倣って駈け出した。寒 しししからな い風の中にただ徒らに突っ立っているより、馬車を追いかけて走る方がどのくら、 かった。馬車はほろを降しているので、その内部の山口平一の姿は見えなかった。馬は駐車場を
しろばんば うことでひどく引け目を感した。それだけでこの少女の意を迎える資格は自分にはないような気 、刀学 / 一一一月の休みに沼津に行ったことは、洪作にとってはやはり一つの事件であった。蘭子というま せた少女に依って、洪作の全く知らなかった高級で甘美な世界があるということを教えられた思 いであった。千本浜で啄木の歌を唄った蘭子の声は、いつまでも洪作の耳から消えなかった。歌 の文旬は覚えなかったが、その歌声の調子は聞く者の心をその根底からゆすぶるような、甘くて、 上品で、しかも烈しいものを持っていた。 新学期が始まって、洪作は高等科へ進んだあき子と顔を合せたが、蘭子と思いくらべると、あ き子はずっと稚く見えた。あき子の方が二つほど年長の筈であったが、身なりも言葉の使い方も やはり田舎の少女だという気がした。 蘭子のことは上の家でもよく噂に上っていた。あの我が儘娘にも困ったものだというようなこ とが、必ず誰かの口から出たが、洪作はそれほど蘭子のことを悪く言う気にはならなかった。我 が儘で、おませで、れい子との喧嘩の仕方などには確かに異常なところがあったが、併し、あと でそれを思い出してみると、妙にきらきらした美しさが感しられた。れい子にも亦蘭子に似たと しつか ころがあったが、 れい子の方には、どこかに確り者といった気の強いところがあって、二人を較 べると、洪作は蘭子の方に好意を持った。 新学期が始まるとすぐ洪作は受験のための勉強にとりかかった。もうこの一年は遊んではいら おさな
子供たちがその集合場所でやる遊びも、一つのことをやり出すと長い期間それ許りやった。そ してそれにすっかり倦きてしまうまでそれをやり、倦き倦きしてしまうと、新しい遊びが彼等の 心を捉えた。そしてその新しい遊びが、またある期間子供たちの間に流行し、よく倦きもしない でやると思われるほど、子供たちはそれ許りやった。斯くして子供たちはメンコに熱を上げた り、鳥のわなに夢中になったり、角力の番付を毎日のように作ったりした。 そしていい加減遊び疲れた頃、よくしたもので誰かが学校へ行くことを思い出し、みんなひと 固まりになって、学校の方へ移動して行った。その頃になると、学校の正門を目指して、半里も、 一里も離れた部落の子供たちが、それそれやつばりひと固りにな 0 て新道や旧道に姿を見せる。 一子供たちは集団集団でお互いに敵意のようなものを持 0 ていた。みんな怖い顔をして、他部落 の者たちをねめ廻しながら学校へと急ぐ。決して口はきかない。口をきかないどころか、時には 何の理由もなしに相手に石をぶつけたりする。そしてこの敵意は学校の門をはい 0 て、部落単位 の集合が解かれるまで続く。 小さい校舎は八つの教室を持っていた。一年から六年まで、各学年がそれそれ一つの教室を持・ ち、その他に高等科の教室が一つと裁縫室が一つあった。一学年は大体三十人ぐらいである。み んな同じような棒縞の着物を着、藁草履を履き、たくあんのはいった弁当箱か、梅干のはいった むすびを持ち、同じように汚い顔とでこぼこの頭を持っていた。 教師は教室の数と同じく八人いゑ一人ずつ一つの教室を受け持っている。先生たちは大抵す 幻ぐ生徒の頭をなぐったり、 / 突いたりするので、生徒たちは教室へはいると、刑務所へでもはい 前編 章 すもう
しろばんば が男湯でどっちが女湯か決められてなかったし、そんなことに頓着する入浴者は一人もなかっ 洪作たちは西平の共同湯を選ぶ場合、もう一つの理由があった。それは共同湯のすぐ隣りに馬 の湯があって、よく馬がここで躰を洗われていることがあったからである。長方形に仕切られた 浴槽は、勿論屋根も持っていず、人のはいる方の浴槽に較べると、ずっと浅かった。 洪作たちは共同湯に着くと、われ先にと真 0 裸になり、思い思いに浴槽に飛び込んで、湯の飛 沫を上げて暴れた。みつも男の子供の中にはいって暴れた。建物の傍を大川が流れていたので、 裸で河原に出て、大きな石を運んで来て湯の中へ投げ込んたりした。昼の共同湯には大抵の場合 誰も居なかった。村人がはいるのは一日の仕事を終えたタ刻からである。洪作たちは、さき子に 叱られても叱られても、そんなことにはいっこうに構わず暴れた。さき子の白い豊満な裸体が湯 しぶきの間から眩しく見えた。 「洪ちゃん、手拭を持って米たでしよう。手拭を持っておいで ! 洗って上げる」 その言葉で洪作は手拭を着物脱ぎ場へ取りに行く。洪作は躰にしゃぼんを塗られて、前を向か されたり、背後を向かされたりする。さき子はみつと洪作の躰を洗い、他の子供たちの方は、躰 は洗わないで、醤油で煮しめたようなその手拭だけを洗ってやった。 こうしたある日、さき子は浴槽で暴れ廻っている子供たちに、 「あしたからお姉ちゃんは学校の先生になるのよ。みんな言うことをきかないと大変よ。びしび しやっちゃうから」
477 「洪ちゃに作って貰ったそばがきを食べれば、これで思い残すことはない」 そう言ったと思うと、おぬい婆さんは皺たらけの手を眼のところへ持って行った。おぬい婆さ んの眼からは涙が出ていた。 「洪ちゃに、ずいぶんそばがきを作ってやったが、とうとう婆ちゃも、洪ちゃに作って貰うよう になった」 おぬい婆さんの声は震えていた。洪作もこの時、烈しい感動が胸に衝き上げて来るのを感じた。 併し、それはおぬい婆さんの言葉から来た感動ではなく、そば粉を掻き廻している時、その掻き しぐさ 廻すという仕種から自然に湧き起って来たものであった。洪作自身も亦、ずいぶんおぬい婆さん 七にそばがきを作って貰って来たが、いまは自分が彼女のためにそばがきを作ってやっているとい う、そんな感懐に襲われたのであった。そして洪作が感じたと同じことを、おぬい婆さんも亦感 じたのであった。 後 洪作は、おぬい婆さんが病床に就いてから、自分でもそれと感じられるくらい無口になってい た。おぬい婆さんに優しい言葉をかけてやりたいという気持はあったが、言葉は素直に口から出 なかった。いつもおぬい婆さんの枕もとに坐り、彼女の言うことを、むつつりした表情で頷いて 聞いてやり、そして一つ二つ彼女の命ずることをしてやってから、 「ばあちゃん、また来る」 そう言って座を立った。 犬飼が入院して一カ月程経 0 た時、犬飼は全快して近く退院するが、もうこの湯ヶ島の小学校
章 そして大切な物でも持たせられたような気になって、その風呂敷包みを両手で捧げるようにして 上寸っこ。 1 ュ / 半丁程で、旧道は新道に合した。新道には道の両側に何となく家が並んでおり、下駄屋、床屋、 薬屋、郵便局、駄菓子屋、プリキ屋、仕立屋などの店舗もあった。併し、どの店でも家の者が店 へ顔を出していることはめったになく、客は物を売って貰うために、店の横手から背戸の方へ廻 って行かなければならなかった。五六軒の店があるということで、この新道の通りは子供たちに は頗る賑かに見えた。旧道から新道へ来ると、田舎から都会へ米たような気がした。 しゆく その新道の家並みは一丁程続き、そこに並んでいる二十軒程の家の集団は宿という名で呼ばれ た。これに対して洪作の家や上の家のある十二、三軒の集りは久保田という名で呼ばれた。これ あざ にしびらあらじゅくせこのたき 編ら二つの字の他に、温泉の沸き出ている渓合に、西平、新宿、世古滝といった三つの字があり、 山際の方に長野とか新田とかいう部落があった。従って久保田、宿、西平、新宿、世古滝、長野、 前 新田とかいった七八つの字が湯ヶ島という部落名で総括的に呼ばれていた。そして湯ヶ島のほか かみかのむら かのがわ に狩野川沿いの山間のあちこちの渓谷に小さい部落が幾つか散在していて、上狩野村という村を 形成していた。上狩野村は人口も人家も少かったが、地域的にかなり広い範囲にわたり、湯ヶ島 を一番大きい部落として、他は数軒から十数軒の小部落を幾つか併せていた。 洪作たちは新道へ出て宿の通りを抜ける時は、心持ち緊張していた。さき子がみつを連れて先 を歩き、少し距離を置いてお供の洪作が風呂敷包みを捧げ持って続き、それから更に少し距離を 置いて、幸夫、亀男、芳衛の連中が続いた。新道を歩いて行くと、時々、新道の子供たちがはや