116 はないだろう。が、その心配はいらなかった。老人はとんでもないという顔をした。 「いやいや ! きゅうくつかもしれんが、わしとここにいてくれ。わしはねないっ もりだから : : : 」 「そんなことしたら、こんどはおじいさんのからだがまいっちゃうよ」 じゅんさ ふしんばん 「ふん、わしはこれでもわかいころは東京で巡査をしていたんだ。不寝番ならなれ ている」 けいかん 「へ 1 え。警官だったのか、それでどろぼうかなんか、つかまえたかい ? 」 老人はいやな顔をした。むすっとして返事をしなかった。そんな話はしたくないと いっている顔だった。 そのとき、夏代がゆっくりと首を動かして、ひくくうめいた。麻睡からさめたので ある。 「夏代 ! 」 老人が声をかけると、夏代は顔をしかめて老人の顔を見た。それから秀一を見ると、 かすかにわらってみせた。一 「わしがわかるか ? 」 老人はせつかちにたすねた。
そうか、この男は夏代ちゃんの親類なのか。やっかいなことになったそ 秀一はなるべく男の顔を見ないようにした。さいわい男が「見たこともねえ」とい ってくれたので、たすかったと思った。 「名まえはなんてんだ ? 」 じこしようかい 夏代はぐっとつまった。考えてみたら、秀一はまだ、この家へきてから自己紹介も していなかったのである。 「平田秀一」 秀一はとっさにほんとうの名まえをいってしまった。男はいやな目で、じろじろ秀 一を見た。その目は赤く、とろんとして、目やにがついていた。 「だけど、どこかで見たような顔だなあ。おまえ、おれと会ったこ . とはないか ? と 「ないよ」 る で秀一は内心ひやりとしながら、こたえた。秀一はそれ以上、顔を見られないために、 わざと、ざぶざぶ顔をあらった。 「ああねむい。なにせ、農協の友だちと、三日もぶっとおしで麻雀やってたからな あ」 男はそういうと、 いってしまった。 まーじゃん
312 ずらしいものであった。 マ「ミはぼたもちをうけとると、ばらばらとなみだをおとした。 「秀ちゃん、ごめんね。夏代さんにわるいことして : : : 」 「いいんだよ。過去のことにこだわるなよ。おれたちにや、いまが問題なんだ」 秀一は夏代のことばのうけうりをした。 「ふふ、かっこ、 しいこというわね」 トシミがわらった。 みんなの腹ごしらえがすんだところで、秀一はみんなといっしょに焼けあとの整理 をはじめた。そこへとなりの主婦が顔をだした。 「おかあさんが気がついたわ。どなたか、きてちょうだい」 「うん、おれ、いってくらあ」 秀一がいった。みんながうなずいた。秀一はまっくろになった手をあらいながら、 大きく息をした。 : でも、 おふくろさんはおれの顔なんか、見たくないっていうかもしれない : : でも、 おれはこの顔を見てもらおう。おふくろさんはおれをなぐるかもしれない。 おれはよけないでおこう。おれは、やつばりおふくろさんの子だということを、わか
マュミはこばかにしたように、秀一の顔をのそきこんだ。 「なにしにきたんだ」 「あら、きちゃいけないの。あたしだって、勉強がのこってるんですものー いつもなら、このあたりをきっかけに、つついたのなんのって、けんかがはじまる のだが秀一はだまっていた。だまってマュミの顔を見た。 あの谷村夏代にくらべたら、なんてこまっしやくれて、いやらしいんだろ。。、 ンティがのそくほどみじかいスカ 1 トをはいて、首をかしげて見せたりして、自分を いっしようけんめいかわいらしく見せようとしてやがら。ことわっておくけど、そん なことはおれたちがきにとっちゃ、いやらしいだけなんだそ。そんなのを見て、かわ といらしいなんて思うのはおとなだけだ。おまえなんか、おとなのごきげんとりしてる るサルみてえなもんだ , で スカートをはいたおさげのサルが、いやがらせをしていると思ったら、秀一ははら もたたなかった。そんな妹を相手にけんかしていた自分のことがうそだったみたいな ば気がしてきた。 「ねえ、秀ちゃん」 おさげのサルがあまったれた顔で、あまったれた声をだした。
正直は秀一に気づかず、さっさと階段をあがって二階へいってしまった。 ようし ! チャンスだー 秀一はなにくわぬ顔をして、あとをつけた。 日曜日なので、アパートには大ぜいの人がいて、にぎやかだった。ドアをあけつば なしで、おしゃべりをしていた。なかには下着一まいでだらしなくねそべって新聞を 見ている人もいた。そして、つきあたりの右がわのへやのドアだけはしまっていて、 そのへやから、ひくい正直の声がしていた。 秀一はそのドアのまえに立った。中村と書かれた小さな紙がはってあった。 よくテレビ・ドラ 立ちぎきなどというのは、けっして気持ちのよいものではない。 びこう と マで探偵たちがなにくわぬ顔で尾行をしたり、かっこよく相手を見はったり、立ちぎ こ るきなどをしているが、実際にはなかなかそんなぐあいにいくものではない。 秀一はできることなら、そのドアのすきまへ、びったりと耳をおしつけて、中の話 をききとりたかった。しかし、そんなことをしているところをアパ 1 ト の人たちに見 ばられたら、それこそやっかいなことになる。それに、そのへやから、いつまるじんの 正直がとびだしてこないともかぎらない。。 トアにはねとばされて、ばっちり正直と顔 をあわせるようになったら、なにもかもおしまいである。 たんてい かいだん
秀一はうるさそうにいった。母は、「まあ ! 」といった顔をしたが、さすがに町な かでわめいてはみつともないと思ったのか、だまって、秀一のあとを追った しよくたく 1 トの配送係ヘアルバイトにいっていた 夜、家族全員が食卓で顔をあわせた。デパ けいえい 長兄の良一は、日やけしてまっくろだった。次兄の優一も友人の父の経営する木工場 ではたらいていたということだった。すでに電話で秀一のかえったのを知っていた父 は、「おう ! 」といって秀一を見たが、すぐに気むすかしい顔になった。父の白髪が ふえていた。 おれのせいだな 秀一はそう思った。 秀一にはみんながなんとなく、秀一をはれものにでもさわるようにあっかっている ることがよくわかった。話題は秀一をとびこして、しかも、なんとなくはしゃいでいた 9 いってなにをし しかも、それはわざとらしかった。その証拠に母が秀一に、「どこへ ていたか」をたずねようとすると、みんなはびたりと口をとじて、秀一のほうを見た。 けれども秀一はこたえなかった。いつもなら、秀一のことをつげロするだけで、み しんみよう んなの話題をさらっているマュミも、さすがに神妙な顔つきをしていた。 オしか。とにかくぶじにこうしてもどってきたんだ。そうそうやかまし 「いいじゃよ、 151 しらが
件さえなけりや : 秀一がだまっているので夏代がいった。 「あの、手紙に書いた中江亜矢っていう人のことなんだけど : : : 」 「うん、どうした ? 」 「それがよくわからないのよ。あったみたいなあわないみたいな。なんか、いんち きだっていえばいんちきみたいな、そうでないといったら、そうでないみたいな : 「え ? それ、どうなっちゃってるんだい」 秀一はわざとおどけなようにいって夏代の顔を見た。けれども、夏代がまじめな顔 とをしているのであわてて口をつぐんだ。 る 「正直がその人と話をしてみないかっていうのよ。それもおじいさんにないしょで あ で 「なにか、からくりがあるな」 「もちろんよ。それをきっかけになにかしようというわけよ。あの人がただの親切 行心でそんなことをするわけがないわー 「それで ? 」
そうだ。こいつをものにしておこう 秀一はなにくわぬ顔で、優一に近づいていった。 「優にいさん ! 」 「おう ! 」 優一はちょっとてれたようにいった。あきらかにぐあいのわるいところを見られて しまったという顔である。 「秀一、ちょっとこい、話がある」 「なあに ? 」 優一はつれの女子高校生に「ちょっと」といって、秀一をはなれたところへつれて る 「優にいさんのガ 1 ル・フレンドか ? ちょっといい線いってるな」 あ で 「なまいきいうな。それよりもな、このことはおふくろにいうなよ」 「このことって ? 」 「とぼけるな。おれが女の子と公園にいたっていうこと。おふくろにつまらないこ とでぎゃあぎゃあいわれたくないからな。まったく、ガール・フレンドがいたって、 ぎゃあぎゃあいうなんて、いまどきめずらしいんじゃねえかなあ。うちぐらいのもん 205
指ゅびの腹に、小さなまめができてしまったのである。 「まめができたんでしょ ? 」 「ちえっー はじめからわかってるなら、まめができるかもしれないっていってく しいのによ」 れりや、 「ごめんなさい。わすれたのよ。あんたがへんな顔をしてるから、気がついたんだ 「いてえよ」 「力をいれすぎるから : : : 」 夏代はふとだまりこんで、ふきげんな顔をした。下の道のところから、だれかが、 じいっと見あげていた。けさほどのわかい男である。男はふたりが気づいたと知って、 ずかずかとやってきた。 、つけるわ 「なにか用 ? かってにうちの山へはいるなんて : : : おじいさんにいし 夏代はきびしい口調でいった。男は夏代のほうを見ようともせず、秀一のそばへき 「おめえ、 いっきたー くちょう
304 しかないわ。おかあさんのことも、ころされた兵隊さんの話もみんなおなじよ。 おじいさんは自分のしたことが正しいと思って夏代をひきとったんでしょ ? それか ら、そういうことをかくしておいたことも正しいと思ってやったんでしょ ? 」 「そ、そりやそうだ」 「だったら、それでいいじゃないの」 「ええっ ? 」 老人はますますめんくらったような顔をした。 「それとおなじように夏代がおかあさんのことを知りたがったり、あいたいと思う のは、自分のためだし、それは正しいと思ってるわ。それで、そのことで夏代がこま ったり、不幸になったりしてもしようがないわ」 「しようがない ? 」 「そうよ。しようがないのよ。夏代とおじいさんはおなじ人間じゃないんですもの ね。それにおじいさんは自分のむかしの経験からいろいろなことを考えてるけど、夏 代はこれから経験しなくちゃならないし、夏代にはむかしあったことじゃなくて、 まあることが問題なんですもの」 老人はなきそうな顔をして″いやいや〃するように首をふった。そんな老人にかま