りと弁護士が言った。 キャンブル・クラーク博士はうなずいた。 「まったく説明のつかない事件だった。娘はある朝、べッドの中で死んでいるところを発見され たのだ。明らかに絞殺だった。しかし誰もが仰天したことには、まもなく彼女自身が、実際に自 あと 分の首を絞めたことが、疑問の余地なく証明されたのだ。頸部についていたのは、彼女の指の痕 きようじん だった。この自殺方法は不可能ではないにせよ、恐るべき強靱な筋肉と、ほとんど超人的ともい える意志力を必要としたはずだよ。何が娘をそういった窮地に追いこんだかは、ついにわからな かった。もちろん彼女の精神の均衡は・、いつも不安定だったにちがいないがね。しかも、結果は このざまだった。フェリシー・ボウルの秘密は、永久に幕がおろされてしまったのだ」 そのとき、向こうの隅の男が笑いだした。 ほかの三人の男たちは、撃たれでもしたかのようにとび上がった。四番目の男がいることを、 ・コートにくるまってすわっている男のほう すっかり失念していたのだ。一同が、まだオーバー をみつめると、男はまた笑った。 「皆さん、失礼をお許しください」完璧な英語で話したにもかかわらず、その男には異国風の雰 囲気がまつわりついていた。 彼は起きなおり、漆黒の小さなひげを生やした青白い顔をみせた。 「本当にお許し願わなくては、とからかうような会釈をした。「ですが、まったくのところ、科 学では、決定的な言葉は、まだ述べられていないのでしよう ? 」 51 第四の男
ス・ ( イマーは、気違いのように石の扶壁にしがみついているというありさま。それというのも、 まったくとほうもない考えにとりつかれたというだけの理由からなのだ、ーー一見したところでは、 ばかばかしい限りだ ! 自分が大地をはなれて昇って行くーーあの音楽が上のほうへと彼をとも なって行くなんて 彼は声をあげて笑った。まったく気違いじみた考えだ ! もちろん、一瞬だって足が大地を離 れたことなんか、ありはしないのだ。だが、なんと奇妙な幻覚だったろう。舗道の上の素早いト ントンという木の音が、不具の男が歩み去って行くことを告げている。ヘイマーはその姿が薄闇 に呑みこまれるまで見送った。なんて、おかしなやつだろう。 彼は前よりも歩みをおそくした。足もとの大地が役に立たなくなったときの、あのとうていあ り得ない感じの記憶を、頭からぬぐい去ることができなかったのだ : それから衝動にかられてふり返ると、彼は急いで男の立ち去った方角を追った。あの男は、そ う遠くへ行けるはずはないーーすぐに追いつくだろう。 ゆっくりとからだを振りながら進んで行く不具の男の姿を認めるやいなや、彼は大声をあげた。 「おいー ちょっと待ってくれ」 男は立ち止まり、〈イマーが自分とならぶまで、みじろぎもせず立っていた。ちょうどその頭ね 上でもえていたランプが、男の目鼻立ちを隈なく照らし出した。サイラス・〈イマーはわれ知らの ず、あっと驚きの息をのんだ。男は彼が生まれて初めて見るような、きわめて非凡な美貌の持主 だったのである。年齢は、ちょっと見当がっかない。少年でないことは確かだが、若さは、この
サイラス・ヘイマーは翌朝、新しい決意を秘めた足どりで家を出た。セルドンのすすめを入れ て、びつこの男を見つけようと決心したのである。にもかかわらず、内心では、自分の捜索は無 為に終わって、あの男はまるで大地に呑みこまれてしまったかのように、完全に消えているだろ うと確信していたのだ。 両側の暗い建物が日光をさえぎっているので、通りはうす暗く無気味な感じだった。ただし半 分ほど行ったところに一カ所だけ、壁がこわれていて、そこを通して射しかかる金色の光線が、 大地にすわっている人影を照らし出した。その人影はーーまさしく、あの男ではないかー 管楽器を松葉杖のそばの壁にもたせかけ、男はチョークで敷石に絵を書いているところだった。 ニつはすでに完成していた。それは目が覚めるほど美しい繊細な森の光景で、揺れる木々と小 のせせらぎは、真に迫って見える。 そしてふたたびヘイマーは迷った。この男はただの辻音楽師、舗道の画家なのだろうか ? それとも何かもっと : 突然、富豪の自制心が崩れた。彼は憤然とした激しい口調で言った。 たのだ。もう一度、彼は提案した。 「ぼくなら、その不具の男をつかまえるね」 しかし、帰宅しながら、彼はひそかにつぶやいた。「運河とはね」 例 1 翼のまねき
「きみは誰だ ? いったい何者なんだ ? 」 男の視線が彼とあった。微笑している。 「なぜ答えない ? 話せ、さあ、話せ ! 」 そのとき彼は、男が信じられないような早さで、何も描いてなかった敷石の上に絵を描いてい : いくつかの大胆な筆致、そして巨大な ることに気づいた。ヘイマーは目でその動きを追った : 木々が形作られる。それから石の上にすわった : : : 男が一人ーー笛を吹いている。異様なほど美 しい顔立ちーー・そして山羊の足 : ・ 不具の男の手が素早く動く。絵の中の男はまだ石の上にすわっていた。山羊の足はなくなって いる。またしてもその目がヘイマーの目とぶつかる。 「あれは邪悪なものでした」男は言った。 ヘイマーは継せられたように相手を凝視した。なぜなら、目の前の顔は、絵の中の顔だったし、 異様な、信じられないほどの美しさだった : : : 激しい、至上の生きる歓び以外のすべてから浄め られた顔。 ヘイマーは身をひるがえし、ほとんど逃げるようにして、通りをあとに、明るい日光の中へと 出て行った。「ありえないことだ。ありえない : : : おれは頭がどうかしてる , ーー・夢を見てるん ーーあの牧羊神の だ ! 」と絶えずつぶやきながら。しかし、あの顔は彼につきまとって離れない 顔 : ・ 彼は公園にはいって椅子に腰をおろした。この時間にはほとんど人影がなかった。子守女が幾 よろこ
キヤノン ・パーフィットはちょっと息を切らせていた。彼ぐらいの年齢の男にとって、列車 にかけつけるということは、さほど苦になることではない。ところが、ひとつには、彼のからだ つきが走るようにはできていなかったせいで、すらっとしたからだの線を失っていくにつれ、ま すます息切れを起こしやすくなってきたのである。この傾向についてキヤノンは、いつも、もっ たいぶって「なにしろ心臓がね ! 」と言うことにしている。 彼はほっとひと息ついて、一等車の隅に腰をおろした。暖房した客車の温度はすこぶる快い。 外には雪が降っている。長い夜汽車の旅に隅の席がとれたのは運がよかった。もしとれなかった ら、みじめなものだ。この列車には寝台車があってしかるべきなのだ。 ーフィットは、 7 他の三つの隅はすでにふさがっていて、それを見たとたんに、キヤノン・ 男 め向かいの男が自分に気がついて、微笑しているのに気づいた。きれいにひげをそった、冷やか の すような顔つきの男で、こめかみのあたりの髪が、ぼつぼっ白くなりかけている。誰が見ても他四 第 の職業と感ちがいしようのないほど、法律関係の人間であることが歴然としている。事実、ジョ ージ・デュランド卿は、きわめて有名な弁護士である。 第四の男
男の卓越した特色だったーー若さと激しい情熱の力が ! ヘイマーには、話しかけることが、妙にむずかしかった。 「きみ」と、ぎごちなく言った。「わたしは知りたいんだ たった今きみが吹いていたのはな んだね ? 男は微笑した : : : 世界じゅうが、突然、歓喜にあふれたような微笑だった : ・ 「昔の調べーーずっと昔の調べです : ・・ : 何年もーーー何世紀も昔の」 彼はどの音節にも同じ音価を与えながら、奇妙なほど純粋で、はっきりした発音の話し方をし た。イギリス人でないことは明瞭だが、国籍について、とんと見当がっかない。 「きみはイギリス人ではないね ? どこから来たのかね ? 」 ふたたび楽しそうな微笑が男の顔に広がった。 「海の向こうからです。ずっと前ーーーずっとずっと以前にやって来たのです」 「ひどい事故に会ったんだね。最近のことかね ? 」 「しばらく前のことです」 「両足ともなくすなんて、むごい運命だったね」 「こうなってよかったのです、男はきわめておだやかに言った。異様に厳粛な表情をたたえた目 を相手に向けた。「あれは邪悪なものだったのです」 ヘイマーは男の手に一シリングを落とすと、きびすを返した。彼は当惑し、漠然とした不安を 感じた。″あれは邪悪なものだったのです″なんと奇妙な言葉だろう ! 明らかに疾病の作用だ
彼はそれぞれの手紙を一通ずつ読むと、それからまた一番上のにもどって、もう一度読み返し た。それからまた注意してたばねた。 それはロメイン・ハイルガーの書いたラブレターだったが、受け取った相手の男はレナード・ ヴォールではなかった。一番上の手紙は、レナード・ヴォールが逮捕された日の日付になってい る。 「あたしの言ったことはほんとうだろうが、え、だんな ? , 女は鼻をならした。「あの女は、こ たえるだろうね、その手紙はさ ? メイハーン氏は手紙をポケットにおさめてから、一つ質問をした。 「どうやってこの手紙を手に入れたのかね ? 」 「それを話したら秘密がばれちまうよ」女は横目を使いながら言った。「でも、あたしや、もっ と知っているよ。あのあばずれが法廷でなんと言ったか聞いたがね。あの女が家にいたと言った 時刻の十時二十分に、どこにいたか突きとめてみるんだね。ライオン街の映画館できいてごらん。 覚えているだろうよーーーきれいなすらっとした女をさ いまいましい女だよ ! 」 「相手の男は誰だね ! ーメイハーン氏がきいた。「洗礼名しか書いてないが , 女の声はあいまいになり、しわがれてきて、手を握ったり、開いたりしている。最後に片手を 顔にあてた。 「あたしをこんな目に会わせたのはその男だよ。もう何年も前のことさ。あの女は、あたしから その男をとったーー・・そのころは小娘だったね。あたしがあの男を追っかけて責めたらーーあいっ あま
音だった。そのとき、前方の薄暗がりの中から、もう一つの音が聞こえてきた。壁にもたれてす わった男が一人、フルートを吹いている。もちろん、おびただしい数にのぼる辻音楽師たちの一 人にちがいない。しかし、なぜこんな特別な地点をえらんだのだろう ? 夜のこんな時間には、き っと警官が , ーーヘイマーの瞑想は、突然、その男に脚がないことに気づいたショックでさえぎら れた。一対の松葉杖が、そばの壁にもたせかけてある。ヘイマーは、男の吹いているのがフルー トではなく、フルートのそれよりも高く、すんだ音色を出す奇妙な楽器であることを見てとった。 男は吹きつづけた。ヘイマーが近づくのを気にもとめない。まるで自分の音楽に陶酔したかの ように頭をうしろにそらしている。そして流れ出るその音色はすんで楽しげに、高く、さらに高 くなっていく : ー ) のヴァイ それは奇妙な調べ , ー・厳密に言えば、ま 0 たく調べとは言えない。リエンチ翁 オリンが出す、ゆるやかな装飾音に似ていなくもない一小節で、何度となくキイからキイへ、ハ ーモニーからハーモニーへとくり返しながら、しかし、いつもそのたびごとに、もっとすばらし い、もっと限りない自由の高みへと達するのだった。 それはかってヘイマーが耳にした、いかなるものとも似つかなかった。それには奇妙な、霊感 を与えるものーーーそして高揚させるものがあった : : : 彼は狂おしげにかたわらの扶壁を両手でつ いかな かまえた。彼の意識していたのは唯一のことーーー下にとどまっていなければならない る犠牲を払っても、下にとどまっていなければならない 突然、音楽が止まったのに気づいた。脚のない男は松葉杖に手をのばした。そして、彼サイラ
メイハーン氏はとほうにくれてしまった。レナード・ヴォールにたいする訴因については、ま 王室 ) のチャールズ卿すら、 「たくお先ま 0 くらだ。法廷での弁護を引き受けた、有名な・ O ( 弁護士 ほとんど希望を抱いていない。 「あのオーストリア女の証言をくずすことができれば、手の打ちょうもあるんだが . ・ O は心 もとなげに言った。「だが、これはちっとやそっとでは、できそうもない , メイハーン氏はただ一点に全力を傾注した。レナード・ヴォールが真実を話しており、殺され た婦人の家を九時に辞したと仮定すると、女中のジャネットが九時半にミス・フレンチと話して いるのを聞いた男は誰だろう ? 一縷の望みは、過去においてたくさんの金を伯母からせびろうとして、だましたり脅したりし ていたやくざ者の甥だった。事務弁護士が探り出したところでは、ジャネット・マッケンジーは 終始この若い男をひいきにしていた。女主人に彼の要求を通してやるよう、いつもくどいていた という。この甥がレナード・ヴォールの去った後で、ミス・フレンチといっしょにいたというこ とは、確かにありそうなことだった。とくに、その男が、事件後、いつも行きつけのたまり場の 人 どこにも姿を見せていないからには。 その他の面では、弁護士の調査の結果はすべて否定的だ 0 た。レナード・ヴォールが自分の家 にはいって行くところを目撃した者は誰もいなかったし、ミス・フレンチの家を出るところを目察 撃した者もいなかった。それに、クリックルウッドの夫人の家に、彼以外の男が出入りしたとこ ろを見た者も誰一人いない。調査はすべて徒労に終わった。
失いたくはないんだよ」 「ああ ! 思ったとおりだ。では代案は、その不具の男をみつけることだな。きみは今や、あら ゆる種類の超自然的属性を、その男に賦与しているんだ。その男と話すことだ。そして呪文を破 るんだ」 ヘイマーは、またしても頭をふった。 「なぜいけない ? 」 「こわいんだ」へイマーは率直に言った。 セルドンは、じれったそうな身振りをした。 「何もかも、そうむやみに信じこんではいけないよ。今度のことを引きおこす媒介となった、そ の旋律というのは、どんなものなんだ ? ヘイマーはハミングし、セルドンはいぶかしげに眉をひそめながら耳を傾けた。 「ちょっとばかり、リエンチの序曲に似ているな。持ち上げられるようなところがあるなーーー翼 がある。だが、ぼくは地上から運び去られはしないぜ ! ところで、このきみの飛行は、毎回そ つくり同じなのかね ? 」 「いや、いや」へイマーは意気ごんで前にのり出した。「それは発展するんだ。毎回、少しずつよね けいに見えるんだ。説明するのがむずかしいね。つまり、わたしはいつも一定の地点に達したこの とに気づくんだ・ー・ー音楽がわたしをそこまで連れて行くーー直接にではなく、連続する音波でだ。 7 おのおのが前の波より高くへ届き、やがてそれ以上は行くことができない一番高い所に達する。