わずあとずさった。女はふたたびスカーフを元にもどした。 「じゃあ、おまえさんはあたしにキスしたくないのかえ ? ヒヒ、むりもないさ。でも前にや、 ・ヘっぴん これでも別嬪だったのさーーそれもおまえさんが思ってるほど昔のことじゃないよ。硫酸さ、だ んな、硫酸がこうしちまったんだ。ああ ! でもあたしや、やつらに仕返ししてやるよーー」 女は堰をきったように、とうとうと汚ない言葉をまくしたてた。メイハーン氏はとめようとし たものの、その甲斐もなかった。やがて女はロをつぐむと、神経質に両手を握ったり開いたりし こ 0 「もうたくさんだ , 弁護士はきびしく言った。「わたしがここ〈来たのは、わたしの依頼人レナ ード・ヴォールの嫌疑をはらす情報をあんたから与えてもらえると信じたからだ。本当かね ? 」 女は、ずるそうに横目で彼を見た。 「お宝のほうは、だんな ? 」と、のどをぜいぜいさせながら言う。「二百ポンドだよ、覚えてお いでだろう ? 」 「証言をするのはあんたの義務なんだ。そうするように裁判所に召喚することだってできるの 「そうは問屋がおろさないよ。あたしや年寄りで、何も知らないからねえ。でも、だんながニ百 ポンドくれれば、たぶんヒントの一つや二つはあげられるだろうよ。どうなの ? 」 「どんなヒントかね ? 」 「手紙なんかはどうだね ? あの女からの手紙だよ。どうやってあたしが手に入れたかなんてこ せき
当てをとりあげ、新しい遺言状を作って、わたしの全財産はいろいろな病院に遺贈することにす る」 「あなたのいまいましい金なんか、どうでも好きにしたらいいでしようーダーモットは低い声で 言った。「ぼくは愛するひとのほうをとります」 「あの女は 「あのひとの悪口をもう一言でも言ったら、きっとあなたを殺してやる ! ーダーモットは叫んだ。 かすかなちりんというコップの音に、二人はふり返った。議論に熱中していたので、ジョンソ ンがコップをのせた盆を持ってはいって来た足音が、耳にはいらなかったのだ。優秀な召使らし く、動じた気配もない表情だったが、いったいこの男の耳に、どのくらい洩れたろうかと、ダー モットは考えた。 「もういい、ジョンソン . アーリントン卿はぶつきらぼうに言った。「寝てよろしい」 「ありがとうございます。では、お休みなさいませ」 ジョンソンは引きさがった。 一一人の男はたがいにみつめあった。一瞬の中断が嵐を静めてしまったのである。 「伯父さんーダーモットは話しかけた。「あんなふうに話すべきではありませんでした。伯父さ んの観点からすれば、あなたのおっしやるとおりだということはよくわかります。でもぼくは、 ずっと前からクレア・トレントを愛していたんです。ジャック・トレントがぼくの親友だという 事実が、今までクレアに愛情の告白を控えさせていたのです。でも、こういう事情では、もうそ 27 赤信号
フェリシーは、 かがんでコツ。フの破片を拾いました。 ″このひとが何を言おうと気にしないわ″と抑揚のない単調な声で言いました。″どうでもいい ことでしよう ? あたしは身持ちのいい娘だわ。あのひとはどうかしら ? 遠からず煉獄の火責 めに会うわよ。あたしはクリスチャンだから、何も言わないけどね″ ″あんたはわたしを憎んでいるんだわ″アネットが叫びました。 ″いつも憎んでいたのよ。あ あ ! でも、やはりわたしは、あんたに、まじないをかけることができるのよ。わたしが望むと おりのことをやらせられるのよ。いいこと、もしわたしが要求すれば、今だってあんたは、草の 上でわたしの前にひざまずくんだわ″ ″ばかばかしい″フェリシーは不安そうに言いました。 ″でもあんたはそうするわよ。しますとも。わたしを喜ばすためにね。ひざまずきなさい。わた しが、このアネットが、そう要求するわ。ひざまずいて、フェリシー / その声にこもったすばらしい訴えのカか、あるいはなにか、おもわくがあってのことか、フェ リシーは従いました。ゆっくりと膝をつき、大きく両腕をひろげました。うつろな愚かしい顔つ きで。 アネットは頭を後ろにそらして笑いました はじけるように笑っては、また笑いつづけたの です。 づら ″見てごらんなさい。あの間抜け面を ! なんておかしな顔かしら。もう立ってもいいわ、フェ リシー 、ご苦労さん ! わたしをにらんでもむだよ。わたしはあんたの主人なんだから。わたし
いとろうとして : 彼女は突然わたしにしがみつきました。 ″あたしこわい こわいのよ。あのひとの声が聞こえるの , ーーーいいえ、耳にではないわ。ここ、 あたしの頭の中に 〃そう言って彼女は額をたたいた。″あのひとはあたしを追い払うでしょ うーーーすっかり追い払ってしまうでしよう。そうなったら、あたしはどうしたらいいの、どうな るの 2 彼女の声は、ほとんど悲鳴に近いほどかん高くなりましたその目は、追いつめられて、おび えきった野獣の目つきだったのです。 突然、彼女はにつこりしました。狡猾な、楽しそうな微笑でしたが、どことなく、わたしを身 ぶるいさせるようなところがあったのです。 ″万一そうなったとしたらね、ラウールさん、あたしの手はとても強いのーーとっても強いの よ″ それまでは特別、彼女の手に注意したことはありませんでした。そのときその手を見たわたし ーが言ったとおり、 は、われしらず身ぶるいしました。ずんぐりした獣のような指で、フェリシ 恐ろしく強い手でした : : : わたしは吐き気におそわれましたが、それを説明することは、とうて いできません。そのような手で彼女の父親は、妻を絞め殺したにちがいないのです。 わたしがフェリシー・ボウルを見たのは、それが最後でした。その後すぐわたしは外国ーーー南 アメリカへ行ったのです。わたしがもどったのは、彼女が死んでから二年後でした。彼女の一生 67 第四の男
「われわれも何かとおかげをこうむっているんだから、最初に罐詰食料を思いついたひとに感謝 するとしよう」彼はおどけて言った。「どこからもこう何マイルと離れていては、もし罐詰が手 もとになく、しかも、肉屋が毎週ご用聞きにくるのを忘れた場合、いったいどうしたらいいのか 教えてもらいたいもんだー 彼は、手際よくコンビーフを切りつづけた。 「いったい、誰がこんな、どこからも何マイルも離れた家を建てようなんて思いついたのかし ら」娘のマグダレンが不機嫌に言った。「人っ子一人会わないわ。 「まったく、一人もね」父親が言う。 「どうしてこんな所を買ったのかわからないわ、おとうさん . シャーロットが言った。 「そうかね、おまえ ? ふむ、わたしにはわたしの理由があったのさーーーわたしなりの理由が 彼の目はこっそりと妻の目を盗み見たが、夫人は眉をしかめた。 「それにこの家は、何かにとり憑かれてもいるのよ」シャーロットが言った。「どんなことをさ れたって、わたし一人でここに眠る気はしないわ」 「たわごとばっかりだ父親が言った。「一度だって、おかしなものを見たことなんかないじゃ ないか。え ? さあ、さあ」 「何も見ないかもしれないけど、でもーーー」 「でもなんだね ? 」 ねー 277 S 0 S
言った。「あの顔ですの ? ああ ! ぞうさもないことですわ。それにメーキャップに気づくほ ど、あのガス灯の光は明るくありませんでしたもの」 「でも、なせーーーなぜーーー」 「なぜ、わたしが一人で勝負したかとおっしゃいますの ? 、この前にも、その言葉を使ったとき のことを思い出して、彼女はちょっと微笑した。 「あんな念入りな茶番を ! 」 「あなたーーーわたしはあのひとを救わなければなりませんでした。彼に献身的な女の証言では充 分ではなかろうーー・あなたはご自分でそうほのめかされましたわ。でもわたしは群衆心理につい て、多少心得があります。わたし自身の口から、偽証罪を認める証言をむりやりに引き出させれ ば、たちどころに被告に有利な反応が起こるのですわ」 「それで、手紙の東は ? 」 なんというんでしたかしら ? ーーー 「一通だけ、決め手になる一通だけでは と見られたかもしれませんもの , 人 「ではマックスという男は ? 証 の 「そんな人物は存在しておりませんの , 「わたしはまだこう考えているのですがね」メイハーン氏は不服そうに言った。「そのう、正常察 の手続きで、彼を助けることができたろうにと 「わたしには、そうした危険を冒す勇気がなかったのです。なにしろ、あなたはうちのひとが無 そう、でっちあげ
すると、その男はとても愛想よく、丁重になりました。わたしの目の前で、ルビーとダイヤモ ンドの腕輪をとり出して、アネットの手首にはめてやりました。帰ろうとしてわたしが立ち上が ると、彼女は勝ち誇ったような視線をわたしにそそぎながら、ささやいたのです。 ″わたし成功したわ、そうでしよう ? ね ? 前途洋々よ〃 しかし部屋を離れるときに、彼女の咳が、激しい乾いた咳が聞こえました。その咳が何を意味 しているか、わかりました。結核だった母親からうつったものだったのです。 わたしが次に彼女に会ったのは、それから二年後でした。ノ 彼女はミス・スレイターの所に身を 寄せていました。歌手としての経歴は台無しになっていました。医師がさじをなげてしまったほ ど、重い結核だったのです。 ああ ! わたしはそのとき会った彼女を一生、忘れないでしよう。彼女は庭のあずまやの中に 横になっていました。夜も昼も、戸外に寝ていたのです。頬はこけて紅潮し、目は熱をおびてき らきら輝き、何度となく咳こんでいます。 彼女は、 いくぶんやけになったようなようすであいさっしましたが、それがわたしをぎよっと させました。 ″お会いできてよかったわ、ラウール。みんながどう言っているか知ってるでしようーーーわたし はよくならないだろうって、ねえ。あのひとたちは陰でそう言うのよ。面と向かっては機嫌をとっ たり、慰めたりするくせに。でもそんなこと嘘だわ、ラウール、嘘なのよ。わたしは死ぬもんで すか。死ぬ ? 美しい人生がわたしの前にひろがっているというのに ? 大切なのは生きようと
一番外側の円が司祭のためのものです」 「それで中心には ? 」 彼女は激しく息をついた。その声は、いうにいわれぬ畏怖の念に、低く小さくなった。 「水晶の殿掌ーーー」 そう言いながら、彼女は、右の手を額にあて、指で何かの形を描いた。 目を閉じたそのからだは、しだいに強直していくように見え、かすかに揺れている。すると突 然、まるで目が覚めたみたいに、さっと上体を起こした。 「どうしたのです ? 」彼女はとほうに暮れたようにたずねた。「わたしは何をしゃべっていたの 「なんでもありませんよーローズが言った。・「疲れておられるようです。お休みになりたいので しよう。われわれはおいとまします」 わたしたちが家を出たときも、彼女はいささか呆然としているようすであった。 「ところで、どう思います ? , 外に出ると、ローズ医師がたずねた。 彼は鋭くちらっと横目でわたしをうかがった。 「まったく精神が錯乱しているようですね . わたしはゆっくりと言った。 「そうお感じになったのですか ? 」 「いやーー実際問題として、あのひとはーーそう、奇妙なほどの確信を抱いています。あのひと の話を聞いていると、本当にその主張どおり、何かとほうもない奇跡をやってのけたのだ、とい 315 死の猟大
する意志なのよ。当節の偉いお医者さまは、皆そう言ってるわ。わたしはあきらめてしまうよう な弱虫じゃなくてよ。もうずいぶん良くなったような気がするのーー、ずっと良くなったのよ、わ かって ? ″ 自分の言葉をよくよく理解させようとして、彼女は片ひじをついて上体を起こしました。する と咳の発作におそわれ、やせたからだを苦しめたので、後ろに倒れこみました。 ″この咳は これはなんでもないのよ″彼女はあえぎながら言いました。″血を吐いたって驚 きやしないわ。わたしお医者さまを驚かせてやる。大切なのは意志なのよ。いいこと、ラウール、 わたしは生き抜くわ〃 おわかりくださるでしようが、それは見るも無惨でした。 ちょうどそのとき、フェリシー・ボウルが盆を手に庭へ出て来たのです。コップ一杯の熱いミ ルクをのせて。それをアネットに手渡すと、彼女がそれを飲むところを、じっと見守っていまし たが、その表情は、わたしには推測がっかないものでした。一種の自己満足の色がありました。 アネットもまた、その目つきに気がっきました。腹立たしげにコップをたたきつけたので、こ なごなになりました。 男 ″あんた、このひとを見て ? いつもあんな目でわたしを見るのよ。わたしが死んでいくのを喜 の んでいるのよ ! そうよ、ほくそえんでいるんだわ。自分は健康で、たくましいからね。一日だ四 第 って病気になったことはないのよ、そいつは ! でも、宝の持ちぐされだわ。あんなりつばなか らだをしていたって、なんの役に立つっていうの ? どう利用できるっていうの ? ″
巻いていた。破れていたのかな、とにかくそれは彼女の頭のうしろに、小さな炎の舌のように突 っ立っていたんだ。ぼくはレイチェルにきいた。″あそこにいる女のひとは誰 ? 髪の黒い、赤 いスカーフをしたひとは ? 〃 ″アリステア・ホワースのこと ? あのひとは赤いスカーフはしていてよ、でも金髪よ。あざや かな金髪よ〃 そのとおりだったのさ。彼女の髪は美しい、淡く輝く黄色だった。でも確かに黒い髪だったと 誓ってもいいくらいなんだな。いかなる目の錯覚だったのか、おかしいんだなあ : : : 夕食のあと でレイチェルが、ふたりを引き合わせてくれて、、ほくたちは庭を行ったり来たりしながら、再生 の問題について話しあった・ : 「いつものきみとはちょっとちがってるじゃないか、ディッキー ! 」 「そのようだな。ぼくはね、会ったとたんに、前に会ったことがあるような気がするひとたちがい るのはなぜか、その理由を説明するのはすこぶる感覚的なことだ、という話をしていたんだ。彼 女はこう言うんだ。″あなたが言おうとなさってるのは恋人たちの : : : 彼女のロぶりにはちょっ と奇妙なところ , ーーーなんとなくやさしい、熱心なところがあった。それはぼくに何かを思い出さ せたーーーでも、それがなんなのかは思い出せなかったんだ。ふたりは少しばかりおしゃべりをつ づけたが、やがてロウズ老がテラスから呼んだーーーエスターが帰宅して、ぼくに会いたがってい るというんだ。ホワース夫人は、ぼくの腕に手をかけてこう言った。″おはいりになりますの ? ″ええ、そのほうがいいでしよう″とぼくは言った。するとーーーするとーーー」