加うよ、ね」 「ああ、そうでもないわよ」とシェ 1 ン夫人はいかにも意地が悪そうに言った。「今朝も今朝よ、 そりやもうびつくりするようなきれいな女の人が訪ねて来たのよ、あの事務室に。きっとカーク さんのやってらっしやる出版関係かなんかの : : : 作家かなんかだとわたし思うんだけど。その女 の人、事務室でずいぶん長いことオズボ 1 ンさんと一緒にいたわよ : : : 」 「いたってかまわないじゃない ? 」ミス・テ ・イくシーがつぶやくようこ 冫いった。「そんなこと、 あたしちっとも気にならないわよ、シェーンさん。だって、そういうことあの人のお仕事なんで しよう ? それに、オズボーンさんはそんなへんなこと : : : じゃ、さよなら」 「さよなら」シェ 1 ン夫人が柔らかくいった。 ・ディ・ハシーは来た道を引返し始めたが、彼女にとっての魅惑地帯、ドナルド・カ 1 クの 事務室の閉めきられたドアの所へ近づくにつれ、足どりがしだいに小さくなってきた。しまいに、 まるで何かの奇跡的な偶然みたいに、ドアのまん前まで来るとびたりと立ちどまった。ほおがか つかとほてって、ちらりとシェーン夫人の方へ肩越しに目をやった。かの価値あるご婦人どのは 中年肥りの恋愛の神役をつとめた満足感にぬくぬく浸って、にこやかにほほえんでいた。そこで スティシーはちょっとわけのわからない微笑をみせて、今はもうよけいなみせかけなそか なぐり捨てて、ドアをノックした。 ジェイムズ・オズボーンはうわの空の調子で、「おはいりーといったまま、ミス・ディ が胸高鳴らせながら事務室へ入ってきたのにその青白い顔を上げようともしなかった。ォズボ 1 ンは机の前の回転いすに腰かけて、ちょっと風変りなル 1 ズリーフ式のアルバムをひろげて何か
登場人物 ヒュー・カーク・・ ドナルド・カーク・・・ マーセラ・カーク・・ グレン・マクゴアン・・ ジェイムズ・オズボーン・・ フェリックス・バーン・・ ショー・テンプル・ アイリン・リューズ・・ ミス・・ディ′ヾシー シェーン夫人・・ プラマー プラウティ・・ トマス・ヴェリー ジューナ・ 工ラリイ・クイーン・・ リチャード・クイーン・・ ・・ヒューの息子。出版社の経営者。 切手と宝石の収集家 ・ドナルドの妹 ・・マーセラの婚約者 ・ドナルドの助手 ・・ドナルドの共同経営者 ・・・作家 ・・・旅行家 ・・・看護婦 ・・・・執事兼従僕 ・・ホテルの事務員 ・・ホテルの支配人 ・・ホテル付きの探偵 ・・・検死官補 ・・・部長刑事 ・・クイーン家の召使い ・・・犯罪研究家 ・・・エラリイの父。警視
にされていた。 「はい。ォズボーンとシェ 1 ン夫人がほかの連中の出入りのことを話してくれたんです。それか らまたシェーン夫人は、オズボ 1 ンが、この小男がやって来た時からカ 1 ク氏とクイーンさんが ここへみえるまでの間、全然一度も事務室から出ていないというのを裏づけ証言しております。 「そう、そうーとエラリイがつぶやくようにいった。「犯人は廊下側のドアからこの控室へはい り、また出て行ったことは明確だ」その語調には何かもどかしそうな様子があった。「ところで ヴェリ 1 君、この男の身元はどうかね ? 何か手がかりがあるはずだが ? ぼくはこの男の着衣 にもまだ手を触れてないんだ」 「はあーとヴェリ 1 部長刑事は持ち前の噴火口みたいな太い声で、「それがまたクイーンさん、 この犯行のもうひとっへんてこなとこなんですよ」 「え ? 」といって丁ラリイは目を見張った。 「どういうことかね、トマス君 ? 「まったく身元不明です」 「なに ? 」 「男のポケットには何ひとつはいっておらんのです、クイーンさん。何かのかけらひとつないん ですからな。例の綿くずみたいなもの、よくボケットの中にたまるあれですな、あんなものがあ るくらいのもので。これは係の方で分析することになってますが、何も別に出てこんでしよう。 煙草の粉のこ・ほれもなしですから、煙草も吸わんのですな。まったく何もなしなんですよ」 どうも : : : 」 「強奪でもされたのかな」エラリイがつぶやいた。「おかしい ,
1 ・ドアの一つが開い シェ 1 ン夫人の時計できっちり五時四十四分、彼女の持場のエレベ 1 タ て、小肥りの温厚な顔つきの小柄な中年男が一人出てきた。その男の様子は好奇の目を見はらせ るようなものは何もなかった。まことに平凡な中年肥りの男で、目たたない服に草色がかった黒 のソフト帽をかぶり、つやのあるトツ。フコート、そして秋寒の季節柄、肥った首には毛織りのス カ 1 フを巻きつけていた。毛の少ない丸々とした手にはごくありふれたネズミ色の羊皮の手袋を 持っていた。安物の帽子のてつべんから、黒のいかついブルドッグ型の靴の底に至るまで、この 男は : : : 実に何でもない、例の″透明人間〃とでもいおうか、日常普段何の奇もない世間を作り あげている何百万もの平凡人の中の一人といった男であった。 ご用は ? 」とシェーン夫人はちょっときつい調子で声をかけた。ひと目で、男のまごっ いている様子を見抜いたからだ。これは一泊十ドルもするこのチャンセラ 1 ・ホテルのお客でな 「ドナルド・カーク氏の個人事務室はどちらでしようかな ? 」とその肥った男がおすおず聞いた。 物柔らかな甘ったるい声だったが、気持の悪い声ではなかった。 「ああ」とシェ 1 ン夫人がいった。これで万事がわかった。二十二階のドナルド・カ 1 ク事務室 はいろんな変った紳士たちの寄港地だった。カークはこのチャンセラ 1 ・ホテルの事務所を宝石 奇妙な幕間狂言
298 もしもエラリイが大声におまじない文句の、「アブラカダブラ ! 」と叫びだしたとしても、聴 衆たちの顔にかくもふしぎそうなまた不審そうな表情は浮ばなかったことだろう。 「ネクタイがなかった ? 」ドナルドがあえぐようこ、つこ。 冫しナ「だがいったい : 「われわれのごく自然な推測としては」とエラリイが根気よくいった。「被害者はネクタイをつ けていたんだが、殺害犯人は被害者の身元確認かその追跡を可能ならしめるものとして持ち去っ たと考えるのは無理ないことです。しかし今やわたしには、初めからネクタイはなかったことが はっきりしてきました : : : 被害者はそもそも全然ネクタイをしめていなかったのです ! 被害者 はシェーン夫人に話しかけた時もミス・デ イシーの見ているところでオズボーン君に話しかけ た時も、首のまわりにスカーフをしつかり巻きつけていたことを思い出していたたきたい。いい かえれば、殺害犯人が持ち去ろうにも初めからネクタイはなかったのです ! 」 「しかし、それはせいぜいよくいっても」とカーク博士が自分では気づかなかったろうが夢中の 様子で異議をとなえた。「独断的結論だね、クイーン君。一つの推論ではあっても、しかし必ず しも真相しゃないねー 「博士、この推論はあのあべこべ仕事というものが何かを隠すために行われたという論拠から必 然的に帰納されたものなんですよ。しかしそれだけでは不充分だということはわたしも認めます。 幸い、ここに一つの事実があって、この推論を確証してくれます」とエラリイは例のカイハス製 の旅行カバンのことを簡略に述べ、その内容も数えあけてみせた。「をハンの中には被害者の必 要な身のまわり品・ : 服から靴までのいろんなものがそろっているのに、ただ一つごくありふれ た服飾品 : : : ネクタイが見当りません。それが見当らないのは、このカ・ハンの持主がふだんネク タイをつけない人に違いないとわたしは感じたのです。おわかりでしようか ? 」
いはどうつ・・」 シェ 1 ン夫人はにつと笑ってみせた。用心深く廊下の左右を見渡し、目前のエレベ 1 タ 1 から イバシーさん ! もうほんとあなたにはお目にかかれなくなったのか は目を離さずに、「まあデ と思ってましたよ ! あのならず者のじいさんがそんなにこき使うの、あなたを ? 」 「まったくばち当りよ」とミス・デ イ、、ハシ 1 は悪意からではなくいった。「あの人、悪魔そのも のよ、シェ 1 ンさん。今もあたし追い出されて来たばかり。こんなことってないわ ! ーシェーン さんはびつくりして、のどの奥で変な音を立てるばかり。「今日、カークさんの仕事の協力者の、 ツ。 ( だかどこからだか帰って来たんですって。それでカ ほら。ハーンさんって方、あの方がヨ 1 ロ ークさんがタ食会をなさろうってわけ。だもんだから、あのじいさんも出席するんだっていうの よ。ねえ、どうかと思うでしよう ? 夕食会には服を着なきゃならないし : : : 」 「服を着るって、あの人 ( ダカでいるの ? 」シェーン夫人があきれ顔でいった。 スティバシーは笑って、「つまりタキシ 1 ドやなんかのことよ。ところがあのじいさん、 自分じゃ服着られないのよ。リウマチで節々がみんな曲っちゃってて、ひとりで立ってるんだ ってやっとのことなんですよ。たって七十五にもなるんですもの、無理ないわ ! なのにどうで しよう ? あたしが服を着せてあげるのをいやたっていうの。あたしを追い出したのよ ! 」 「まあねーとシェ 1 ン夫人。「男ってものはそんなおかしなところがあるものなのよ。あたしの 主人のダニーが : : : 神よ彼の霊を安らかならしめたまえ : : : ひどい腰痛になった時のことあたし お・ほえていますけどね : : : 」と急に口をつぐんで、しゃんと居ずまいを正した。〒レベーターか ら客が一人出てきたからだった。だがその婦人はホテルの使用人が怠けているのには気がっかな かったようだ。シェ 1 ン夫人の机のわきを千鳥足ぎみに通り過ぎる時、かすかにアルコールのに
商や切手商たち、それにどちらかというと開けっ放しな環境のマンダリン書房事務室では取扱い たくないごく内々の出版関係の仕事などを処理するための、静かな面会所にあてていた。そんな わけでシェーン夫人も変な人物から話しかけられるのにはわりと慣れつこになっていた。で彼女 は、「この廊下の向うの二二一〇号室です」とぶつきらぼうにいって、机の一番上の引出しを半 分開けた中にうまく隠してあるヌ 1 ド雑誌読みのつづきにとりかかった。 肥った男は、「ありがとう」と例の甘ったるい声でいって、ほんの数分前にミス・ディ がノックしたドアの方へと廊下を斜めにどたどた歩いて行った。丸々したこぶしを作るとドアの 鏡板をノックした。 部屋の中から返事があるまでちょっと間があったが、やがて妙に押しつぶしたような声でオズ ポ 1 ンが、「おはいり」といった。 肥った男はちょっとにこりとしてドアを開けた。ォズボ 1 ンは目をやけにばちばちさせ、青い 顔をして机のわきに立っており、片やミス・デ イ。ハシ 1 が真っ赤なほおをしてドアのそばに立っ ていた。彼女の右手はたった今男性の肌にさわられて、かっかほてっていた。 「カ 1 クさんでしようか ? 」見知らぬ男が物柔らかにたすねた。 「カークさんは外出中です」とオズボ 1 ンはちょっと何かっかえるようこ 冫いった。「何か : : : 」 「あたしはこれで失礼させていただきます」ミス・テ ・イバシ 1 がちょっとつぶれたような声でい っこ 0 「いやどうそかまいませんよ ! 」客がいった。「わたしは待たせていたたければいいんですから。 どうそわたしのことはおかまいなく : : : 」と彼女の看護婦姿を気持よさそうに見ていた。 「いえ、あたし、もう失礼するところだったんですから」ミス・デ イバンーはつぶやくようにい
「「いやどうもお父さんともあろう人が」とエラリイはうんざりした調子でいった。「オズボ 1 ン のようなタイプの男のこと、・ほくにだってわかってるんだからおわかりだと思うな。殺人の行わ れた期間にこういう男が何か仕事に没頭していたら、それこそ見ざる聞かざるいわざるになるに きまってますよ。恋をしている女みたいに彼はカ 1 クに忠実だし、カ 1 クの利益のためなら狂信 的につくしますからね」 「あ、わかったよ、わかったよ。つまり問題はこの廊下側のドアというわけだ」警視がいった。 「トマス君、非常階段の方はどうなってるね ? 」 「ここの外のホールの外れにあります。カ 1 ク家私室の奥の部屋から廊下をへだてた向う側から ずっと下へのびてるわけです。実際のところ、非常階段のドアは老カークの寝室のちょうど向い 側に当っとるんです。この階段を上って来て廊下に出てカ 1 ク私室のドアの前をそっと通り過ぎ てここのドアへたどりつき、仕事をやらかして同じ道をずらかると、これなら誰にだってできま すな」 「するとその場合、エレベ 1 タ 1 近くのシェーン夫人からは誰も見えんわけか、え ? 廊下と廊 下が交差する所以外は彼女の視界外というわけだね ? 「そのとおりですな。夫人がいうところでは、この死んだ男がやってきた後、この階のこの場所 では誰も見かけなかった、ただ看護婦とあのミス・テンプルと」と部長刑事は手帳を見ながら、 「アイリン・リ ュ 1 ズという女、この二人はともにここの賓客たそうですがね、それとカ 1 ク氏 の友人のグレン・マクゴアン氏は別です。この人たちはいずれもみな事務室へはいって行ってオ ズボ 1 ンと何かちょっとおしゃ。へりをして出て行っとるんです。マクゴアンはエレベ 1 タ 1 で階 下へ降りてます。リ = 1 ズという女はカ 1 ク家私室の方へと出て行ったが私室へははいらず、た
れて心臓に触れてみた。指先にはまったく脈搏は感じられなかった。冷えた自分の手を引くと、 こんどは青白く無表情な男の顔に手を触れてみた。この世ならぬ死の冷たさだった。 顔面には紫斑の気配があった : : : エラリイは死体のあごに手をかけて頭を斜めに傾けた。そう、 左のほおと、鼻とロの左側とに紫色の打ち傷のあとがあった。まるで石みたいにぶつ倒れる時に、 顔のそちら側を床にひどくぶつつけたのでもあろう。 エラリイは立ち上ると、出入口をはいったばかりの元の位置へと黙って戻った。「見通しが間 題だからな」と死体からは目を離さずにひとり言をいった。「あまり近寄り過ぎるとよく見えな いもんだ。おやこれは : : : 」新しい驚きの波が彼の頭にみなぎった。長年彼は暴力によって生じ た一定の環境の中でずいぶん多くの死体を見てきたが、この死人に対し、またこの死人の最後の いこいの場所に対して加えられたようなとんでもないことを目撃したことがなかった。何か無気 味で、そして戦慄をおぼえるような様子が全体にあった。普通の神経にはとても耐えられない、 神をおそれない、邪悪さであった : どれくらいそこにそうやって突っ立っていたのか、三人が三人ともわからなかった。背後の廊 下はひどく森閑としていた。ときたまエレベータ 1 のドアの開く音とシェーン夫人の陽気な声が 聞えてくるばかり。二十二階下の街路からは交通のかすかなざわめきが窓の一つのカ 1 テンのゆ らぎにつれて、ふいと聞えた。この薄気味悪い瞬間みんなが同時に感じたことは、この小男は死 んでいるのではなくて、何かほんの気まぐれからこのような異様な周囲を作りあけて、このよう な奇妙なかっこうをして床に寝ころがって休んでいるのではあるまいか、ということだった。三 人の方に顔を向けている死人の厚い唇になごやかな笑みが浮べられているのもいよいよ冗談と受 けとれる。やがてそんな印象も消えて、エラリイは音【つでも何か本物を捕えたいといわんばか
マ 1 探偵、シェーン夫人その他二、三のものーーそしてそのまわりに新聞記者たちがひしめいて ヴェリ 1 部長刑事がその鼻先へびしやりとドアを閉めた。 警視は自分の接見者たちを注意深く観察していた。マ 1 セラ・カークは父の車いすのわきに立 イスシ 1 は首をたれてい ってその肩をおさえつけるように手をおいていた。その後ろでミス・デ た。黒服の小柄な女、ミス・テンプルはひどく不審そうにドナルド・カ 1 クを注視していた。そ のドナルドは彼女がじっと見つめていることには気づいていないらしく、警視をその前でまとも に見ていた。グレン・マクゴアンはいかにも不快そうにしかめつ面をしてマーセラのわきでいす にもたれていた。そして、身体にびったりしたきらきらつやのある服を着たアイリン・リュ 1 ズ は何とも底の知れない目つきをして一人でぼつんと立っていた。彼女もドナルド・カークの顔を ハッペルとオズボ 1 ンがいナカ じっと見つめていた。これらの人々のうしろには執事兼従僕の ォズボ 1 ンはミス・テ 。イバシ 1 の方を見まいと努めていた。 警視は手ずれのしたかぎ煙草入れを取り出してきやしゃな鼻の穴へ一つまみずつかぎ煙草を放 りこんだ。優雅に三度くしやみをするとかぎ煙草入れをしまいこんだ。「さてみなさんーと愛想 のよい調子で始めた。「この部屋で殺人がありました。死体はカ 1 ク氏とクイーン君と。ヒゴット 刑事の陰に横たわっております」みんなの目がゆれ動きたじろいだ。「カ 1 ク博士、あなたは先 ほどから騒ぎはやめてくれと指示されました。われわれもまたから騒ぎを望むもの・ではありませ ん。男の方でも女の方でもあの気の毒な小男を殺した人はどうか一歩前へ出てもらいたい」 二ⅱ力が、あきれたような声を出した。有利な位置にいたエラリイは素早くみんなの顔の様子を 四さぐった。だがみんなはただ極度にびつくりしただけだった。カーク博士は髪をさか立て、いす