エンジン - みる会図書館


検索対象: ライディングスポーツ臨時増刊 イヤーブック 1985-86
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1. ライディングスポーツ臨時増刊 イヤーブック 1985-86

ヤマハ TZ250 ( カルロス・ラバード ) 第 7 戦にデビューした、 '86TZ のべースとなったマシン。その後、 V 2 のワークスエンジンも登場した ホンダ RS250RW ( アントン・マンク ) 市販 RS に HRC ワークスの手 を加えたいわばセミワークスタイプ。リッチなども同様のマシンに乗る ホンダ RS250RW ( フレディ・スペンサー ) NSR500 をふたっ割りに した構成のエンジンを搭載する、スペンサー専用の純粋ワークスマシン パリジェンヌ 2 50 ( ジャック・コルヌー ) 後方排気のヨルグ・ミュー ラー設計によるオリジナルエンジンとニコ・バカーフレームの組合わせ リアル・ロータックス 250 ( マンフレッド・ヘルべー ) すでに 3 年め のシーズンを迎えているニコ・バカーフレーム十ロータックスエンジン ローマー・ユフエム TZ250 ( ハロルド・エッケル ) 西ドイツのユフ エム製フレームに TZ ・ HH シリンダーのパワーユニットを搭載している アームストロングロータックス 250 ( ニール・マッケンジー ) カー ポンファイバーフレーム、エンジン下 R クッションなど革新的マシンだ J ・ J ・コパスロータックス 2 50 ( ルイ・レイス ) ' 85 型バイプフレー ムを採用して生まれかわったコパス。工ンジンも ' 85 型ロータックスだ ベルノー 250 シュノ、リエフレーム ( ジャン・フランソワーズ・パルデ ) 並列 2 気筒ロータリーバルプのオリジナルエンジンをフルカバーが包む ロータリーディスクバルプのオリジナル MBA250 ( ガイ・バルタン ) 工ンジンを積む市販型マシン。 GP での成績という点では今一歩の実力か ガレリ 250 ( アンジェロ・ニエト ) アルミモノコックフレームにオリ ジナルの V 2 工ンジンを搭載。アンチノーズダイプ等も 125CC ゆずりだ アプリリアロータックス 2 50 ( ロリス・レジアーニ ) オフロードの 雄がサーキットに送り込んだ、ロータックスエンジン搭載の R S 風マシン 42

2. ライディングスポーツ臨時増刊 イヤーブック 1985-86

FZR には、究極の 2 ストロークマシン YZR500 かー ) 流用も多い。デ ルタポックスアルミフレームもそのひとつ。アルミ反で組まれたメイ ンフレームと、アルミ角バイプによるサプフレームでのシンプルな構 成になっている。その他 . フロントプレーキは 4 ポッド文向ピストン フロントフォークもポトムケースに圧貯咸衰カ第用ノブがついた、 つまり Y ZR500 から流用である。この 2 ストロークの存在により F ZR はより単第力を増して、 8 卅に挑むことカ呵能になった 7 戸Ⅳ刊 S 5 バルプ、 DOHCO このエンジンがこの世に送り出されるまでには、 4 バルプシステムの見直し、そして 5 バ ルプはもとより、 6 バルプ、 7 バルプに至るマルチバルプシステムの研究開発力髞り返されてきた。バーチカル ツインに始まるヤマハの 4 ストロークの歴史は、目に見える範囲では他メーカーに比べて地味と呼べるものだっ た。しかし、元来ヤマハは Y E ー S など尭効率についての技術蓄積は多く、そして 4 輪車へのエンジンイ蜷合を 行なっていたこともあり、、、 2 ストロークを越える 4 ストローク " についてのを決定するのはそう難しいことで はなかった。高 1 まイ費という 2 つの特性を満たすためには、尭室の形状が大きな鍵を握るその牛を 満たすためには一殳に、 1 吸入空気量の増大、 2 見効率の向上、 3 馬力ロス咸という 3 つの条件を満たすこ とが咜である。 4 バルプを見直す鄧皆てますバルプ径の拡大か考えられたが、拡大することによって尭室形 状の偏平化を招き結果として見効果率の悪化を招いた。吸気 3 、気 3 の 6 ノヾルプシステムになるとバルプ径 自体が小さくなりすぎ、複雑化のわりにば皀の向上が見られない。吸気 4 、気 3 の 7 バルプは、あまりにも 複雑になりすぎ、そして高回転型になりすぎるとして見送られている。そういった様々なを繰り返し、 5 バルプシステムの採用を決定したのである結果として従来の 4 バルプに比べて・第吸気バルプの 3 本化による 有吸気バルフ面積の増大 ( 同ネせヒで約 14 % ) 。 2 コンバクトな尭座による高圧縮比。 3 ノヾルプ 1 本あたりの重 量咸を寒見した。また、ユ吸気バルプのはさみ角は 2 本が 17.25 、真中の 1 本が 11.5 なそして拶気側も 13. 75 。と小さいこと。それに異なる狭角を持っ及バルプを簡便に、確実に作動させるためにバルプシステムをカ ムシャフトを中心に放射状に配置させ、リフターを横一列にすることによって、ロッカーアームを持たない告 が実現した。これによって 5 バルプという隹なメカニズムからは想像ができないようなシンプルで、軽量な工 ンジンか元成したのであった。この 5 バルプシステムは、 ' 85 年から 4 輪の F Ⅱに使われている 0 X66 という、 3 位に入り、 F 日参戦初年度とし 1,995ccDOHC 、 V 6 工ンジンにも使用されご 85 年シリーズ最終戦では 2 、 ては驚異的な実力と熟成度を見せた。創世紀 GENE S ー S という名称は、 4 ストロークの新しいメカニズ ムと、それに対するヤマハの技術合窿信から名付けられたものであるゞ 2 ストロークを越える 4 ストロークマシ ン " を目指すヤマハにとって、 F Z750 という市販マシンのひとつひとつのシステムは常に、 F ーマシン F Z R 750 を廾吩に意上践した、あくまで、、レースて橳てるマシン創り " を目指したものだと言えるだろう 大声でそう叫びたかった。 ふと気がつくと陽ざしは肌をさすように熱い本番は、間近だ。 できる限りのことはやったつもりだった。 190 周と少し。それが優勝のためのポーダーラインだという作戦もたてた。 練習不足とはいうものの、ケニーも平も超一流のライダーだ。 その点では、何の不安もなかった。 しかし、 100 % 大丈夫というのはありえない エンジニアとして、どれだけやっても」。という文簽に辿り着く事は できっこないという不安があった。 耐久レースは、マシンと、ライダーと、そして " 時間との闘いだ その〃時間″との闘いがいちばん怖かった。 耐久レースは 2 年め、 経験力ない。所兮はにわかチームだ。そういう不安が心のどこかにあった。 ホンダは練習、選、決勝を通じてエンジンを開けないと蒙語している。 そんな自信は全く、ない。 ポールポジションを取っても、そんなに安心はできない チェッカーをトップで受けなければ、 8 時間を走り切らなければ意味がない そして、決勝。 スタートで出遅れたとはいえ、 ケニー、平の 2 人はほば - に疋通りに周回を重ねてい ・エ疋では、スタートで飛び出して差をどんどん広げていくつもりだったので、 ケニーの秒台での追いげも、不安の要素にはならなかった。 トップに立ってからも、全く・に疋通りだ。・に正通りに時は過ぎてゆく。 そして鈴鹿にタ闇が迫ってくる。 万を越える観衆も、ピットクルーも、みんな勝利を信じ始めていた ″でも、耐久は、レースはチェッカールスけるまでわからない : が そう自分に言い聞かせていた。何度も、可度も。 でも、もしかしたら″時間との闘いに勝てるかも知れない そして 6 時分、 182 周め。あのトラブル : " 平がスロー走行′ . 。というアナウンスを聞いた時から やけに長い時間が経ったような気がした。 ピットロードを下り、急に最終コーナーへと進路ル愛えたは 遂にストレートで息を止めた。 8 時間は終わった エンジンを開けたのは次の日、 すでに次のレースに向けて、耐久は始まっていた。 と名付ける理山ともなった 5 バルプシステムの、その バルプがトラブルに見舞れようとは : 経験不足と、データ不足と、そして時間との闘いのぎを感じさせられた。 トラブルを起こした箇所について、早速、原因の究明とテストが始まった。 新し、パーツを作り、それを何度もテストし、そしてデータをとる : 154

3. ライディングスポーツ臨時増刊 イヤーブック 1985-86

ホンダ RC500M ( アンドレ・マラーベ ) ' 84 タイプとの変更点は少ない が、 ' 85 モデルでは ATAC が取りはずされた、このクラスの最強マシン ヤマハ YZM500 ( ハカン・カルクビスト ) 唯一空冷工ンジンを搭載す る Y Z M は、オーリンズ社製倒立式のフロントフォークを装着している カワサキ KX500 ( ジョージ・ショベ ) 前後ディスクプレーキを装備す るなど意欲を見せる、ジョベのマシン。 フレームはシルバーだが鉄製だ 2 ら 0 アプリリア PTX300 ( フィリップ・ペラティエ ) 工ンジンはロータッ クス製で排気量は 280CC 。リャスイングアームはアルミダイキャスト製 ダイシン / CR250R ( 杉尾良文 ) MX にも手をつけ始めたダイシン製 オリジナルアルミ角バイプフレームを採用。見事第 5 戦での優勝を飾る ファンティック 301 ( テリー ミショー ) ' 85 モデルからモノショック になり排気量 250CC のエンジンと共に最高のノヾランスを生み出している カジパ 1 25 ( コラッド・マッディ ) スズキワークスの抜けた 125CC クラ スで、初めて外国製マシンとしてメーカータイトルを手中にしたマシン ホンダ RTL250S ( スティープ・サンダース ) 4 ストロークエンジン を搭載し、瞬発力にかけては他の 2 ストロークマシンの追随を許さない メルリン DG325 ( ルイス・ガリャック ) トライアル界では特異といえ る、コムスタータイプのホイールとチュープレスタイヤを装備している ヤマハ TY250R ( ジョニ ・アンダーソン ) 」 CM とともにいち早くモ ノショック化した TYR は、 ' 83 年の発売以来、大幅な変更は受けていない BMW1000 ( ガストン・ライエ ) R100 系のエンジンを、専用のフレ ームに搭載した、パリダカの常勝マシン。工ンジン内部はほほノーマル ヤマハ XT600 ( ジャン・クロード・オリビエ ) 工ンジンを 660CC にス ープアップしたソノートヤマハのオリジナルテネレ。各部が専用設計だ 45

4. ライディングスポーツ臨時増刊 イヤーブック 1985-86

1985 年をふり返って The Race fo 「 Leadership YOSHIMURA ノも 4 ス—z ーロ「ーー々ノた、 しいし、これが 夫に , 人 6 かか $A 」こ「つた もあるし、レースの世界において満足するこ が証明されたとい、つことでもある。 でも使い勝手かいいから、そこへたどりつ そして最も大きな特徴は最低車重で、 4 気 とは決してない ・、・Ⅲはレギュレーションかそ、つ いたんですね。石油エネルギーも少なくなっ それはヨシムラだけのことしゃなくてね。筒は 182 までとなっている。つまりヨシ いった設定だから、いくら努力しようと、 これから先は新素材などを使っての性能向ムラのは怪すぎるから鉛を積んで走っているているし、 2 ストロークは捨てるものが多す くら金を使って、 , 糸材の悪いマシンはどうに ぎる。やはり大きいエンジンの主流は 4 スト んだ。 もならない。 が盛んになってくるんしゃないかな。 ・は金がかかりすぎるとい、つことからロークですよ。 ・Ⅲに関しては、新年のシーズンが始ま そういう意味では、というのは 新年の鈴鹿 8 時間耐久は、若い連中だけで ハイクは世界的にみても、こ 一番ポテンシャルの高いマシンといえるだろる前は 1 年目の・—よりも自信があったのもこのスー よくやってくれましたね。爲年から勝ったり う。年はヨシムラとスズキが提携して川年に、実際にはまったく逆で、あのの速れからどんどん盛んになっていくんしゃない 負けたりしたけど、スピードではヨシムラが かな。 目となるのだが、その間にどこが壊れたとかさには勝てなかったね。 一番速いレベルに、こ。 ハイクの人気の秘密というのは、 ど、つしろ、こ、つしろとい、つ話阜」している。 結局は金の差なんだろうか。我々でもあれ ところが新年はそうしゃなかった、それは 少数メーカーの対抗でなく、プライベートと くらいはできるよ、特効薬があるんだから。 ここ 2 、 3 年のスポーツバイクには、そ、つ ・ロバーツが来るために、ヤマハが目 か、いろんなチームがかみ合って勝ったり負ケニー いった私の思想がすいぶん入り込んでいるよ先日のモーターショーに出ていたインハル 一杯やって、実際にも速かった、そんな意味 けたりするところにあるのだろう。 うな気がするが、それだけにヨシムラとしてスもヨシムラでやっているのだけで、パワー そういう意味では、・—や・Ⅲだってでスピードの主導権をとられたとヤキモキし でも先行してるし、エンジン単体もー もやりやすい たのは事実です。 この 1 年間、私も風したりして、若い連に比べ 5 軽くなっている。もちろんパワその狙いというのはいい方向に向いている。 ところが 500 が〕咼とか、 250 が激戦かって 2 、 3 年 ~ 則のよ、つにクロスビーが走 ーは特効薬のおかげでプラスだ。 中だけでやって、レースのスケジュールも詰 っていたころは、ヨシムラが主 ~ 権を握って まっていたからね。しかしだからといってい このインパルスのエンジンを使った年型とかいっている。その生まれながらのレーシ いた。ところが新年はクロスビーが切り札し ングマシンには造る楽しみがないし、造った まが 1 年やってきて、やれ一息ということでではもちろんタイトル得を目指している。 +-6 よ ) 0 ゃなくなって、主導権を取られてしまう。 相手はいすれも大メーカーだけど、年、ンメーカーが有利になるだけなんだ。 レースそのものは、若い連中がよくやって ーズンは大丈夫でしよう。 新年の 1 年かかってやってきたマシンで新 手術して 3 週間目かな、 5 台のマシンを造り、川位までに全部入賞し 年どうやろうかというのを実行するのがいまやはり v-æ・—、・Ⅲは価値の大きなレー た。しかしそれでも見ていて腹がちました。 なんだ。 スといえるだろうね。とくに日本の場合には、 辻本が優勝カッフを 新年はレースの本流も、ヨシムラが握りた 1 年やって実戦経験している途中では、細その成績がダイレクトに市場にもつながって いですね、新しい特効薬はあるし、技術的な いくから重 1 」をもっている。 もって病室に現われた。 かな部分に手を打てても、根本的に思いきっ ウラづけもあるから可能性も大きいだろう。 ライダーは喜多が抜けたあとを、無名の新 たことはやりにくい。だからシーズンオフの 本当に嬉しかった。 ライダーとしては、辻本と水谷が、そして 人で素質のあるヤッん去冂てていこうという計 いまそれをやっている。 もうひとつ、シュワンツと誰かむこうの速い はっきりいって、ウチの新年型にはかのマ画で、ひとりはチームタイタンの宮崎祥司を あれから回復が一気に 奴を組ませる。とにかく 8 時間耐久の主役を ・Ⅲのセカンドライダーとして使、 2 主 シンはついてこれないと思う。いまやってい ヨシムラが取り戻さないと話にならないから ・—でも同しように無名の新人に乗せよ 早くなったし、新しい る亠力法では、日本のときより 750 で川 馬力ぐらい上がっているし、 400 では半分、つと田 5 っている。まあモノになるかど、つかは アイデアも発見できた。ね。 やつばり新シーズンで嬉しかったことは、 別として、ますテストで乗せてみるつもりだ。 の 5 馬力ぐらいはパワーアッフしている。 ・—や・Ⅲには造る、走るという楽し辻本がはしめての優勝の次の日に、カップを 偶然に発見したものでね、あっちこっちか海外ではデイトナに出場する計画がある。 ら引っぱり出してきたものが、ハワーを上げこれはケピン・シュワンツに加わえ辻本を派みがある。辻本なんて日本のときは、 5 抱えて病院にやってきたときだな。私も手術 をして 3 週間目ぐらいのときで、あのときの るわけだ。その秘密は近い将来発表しますよ。遣し経験させようと考えている。その後もシ 00 と同しくらいのタイムで走っていたから、 ュワンツはスー 400 にしても 250 より、タイムが速くなうれしさは忘れられない。あれから回復のス その発見をさせてくれたのが病院だった。 ハイク全戦に出場する。 ピードか本当に早くなったからね。 とにかくエンジンのことを著ノえていると、 さらにヨシムラのエンジンを供給するのがる自信はある。 逆のことはないな。外から見ていると何日 またもうひとつの流れとしては、必すスー 病気の苦しみから逃避できたんだ。たとえはフランスの耐久チームとイギリスの・—チ ームだ。 ーチャージャーとかターボの時代が来るだも徹夜して、苦しく見えるかもしれないけど 手術したあとで、熱はあるし苦しいんだよね。 国内でも、ファクトリーの体制に変化はなろう。そうなると 2 ストロークは生き残れな面白いからやっていられるんだ。この面白さ そんなとき病気のこと茗ノえても仕方がない。 いが、スズキのーを買ってレースに くなってしまうだろう。すでに技術的にはそは、水久につづくだろう。その感激ともいうべ 医者を信しるしかないし、病気のことアノえ きものを味わえることなんて、決してサラリ て、どうなるんだろうと思っていると、よけ出場するライダーのために 、バックアップ専れが可能なところまで来ているのだから。 ーマンにはないんしゃないかって思う。 そうなると、今より増して 4 ストロークが い苦しくなる。 卩ともいうべきセクションを造った。これは オレはいま世の中で彙咼に面白いことをや エンジンのことを考えていると、そんなと制年から始めていたことなのだが、これまでよ面白くなりますよ。私は 2 ストロークが嫌い きでも楽しくなってしまう。そこで、いままり充実させていこうという狙いがあるからスで、まったく手をつけていないのだけど、本っているんだって思うこともときどきある。 またそれがあるから、続けていられるに違 でにやってなかったことはなんだろうって考ズキのユーサーの方々には大いに期待しては当のエンジンといったら、やつばり 4 ストロ いない。 4 サイクルエンジンと、そしてレー ークですよ。たとえば砂漠の真中に行くのに えて、これだと思いついたことをテストしたしい らピンときたんだ。 アメリカのスー ス、それはオレに彙咼の面白さと感激をいっ ハイクについて補足す 2 と 4 のどちらをもっていくかといったら、 までも味わせてくれるものだ。 もちろんほかにもやりたいことはいくらでれば、フレームはスタンダ . ードで補強はして当然 4 ストロークでしよう。 133

5. ライディングスポーツ臨時増刊 イヤーブック 1985-86

見しプいもタ ャてで一る かキれ方レい・、 面がてさのネて わ。よ・ジ指一 スしで ' も ケる一てス クいく一 ンーてさケ角盟 ククカ クし 4 カンン出 おしかのがクに最 て一 し′ダ れイを 頃、一 0 狭ヒ 0 体ノたにスの既に ゾフ 5 わで、クジ 工よ言またンン とドまラエも てト こレクなり し一たトよ ホしク > とイ 、′クるで ダのよテて でン得う、 まイりを 3 吟らよと たレる一 0 0 - 一 シリンダーヘッドカバーがはすされ、カムケースのポルトに手が伸た。 ポルトをはすそうとしたメカニックの動作が一瞬、スローに見える。 最後のポルトが抜かれ、カムケースが開かれる : バルプが、落ちているーーー・ 原因は今すぐにはわからない。ただ、毅然とした生夫だけが目の前にある。 あのシーンが、頭の中に甦える : ″平が、スロー走行、スプーン、スプーンをスロー走行′・ 観客が、ライバルが、そしてスタッフが 白煙を吐きながらストレートを降りてくるを見守る。 そして、リタイア : : どれくらい感傷にひたっていただろうか。ふと我に返ると、 エンジニアとしての目が、手が、頭が、ひとつひとつの夫を着実に、 そして侖静に分折してゆく : ・。 ヤマハ発動機開発部課、・—グループ それが開多 ,. ロジェクトチームに学えられた社内呼称だった。 年、シリンダーあたり 5 バルプ、前傾恥のエンジンレイアウトの FZ750 が市販される。このマシンの開発コンセプトは、 ) こ〒るまで、格段の進歩ル邃げている 2 ストロークマシン、 N 5 0 0 。 そのを越える 4 ストロークマシン創りを目指すことだった。 ″あくまで、レースで勝てるマシンを・ : ″の想いから生まれたこのマシンは いたるところに・—のレギュレーションを意識した創りになっていみ。 4 バルプの見直しから始まり、 6 バルプ、 7 バルプにまで及ぶ研究を経て この世に送り出された 5 バルプエンジン。従来の 4 バルプから一歩進化した、 画期的なエンジンとしてデピューした。ロッカーアームル介さない レイアウトによって見事なほどコンバクトに仕がっている。 そして恥前傾されたエンジンによって、吸、排気効率も格段に向上している 世紀。こう命名されたこのマシンは、 ヤマハの、新しい時代をア感させるのには十分すぎるマシンだった。 別年 7 月、 8 時間耐久レース。マシンは XJ750 。 ヤマハの、本格的な耐久参戦の初陣は、 5 位。残り分で息を止めたを 上野が押しながらチェッカーを受ける。 この時すでに、の開発という、もうひとつの耐久が始まっていた。 そして年、 電気系トラブルによるリタイアで、全日本の初戦を終えたは、 徐々にその戦闘力を増し、鈴鹿 200 孀の時には、転倒したとはいえ ガードナーのに喰らいつくところまできていた。 は開発ライダー、•-: 野真一も、我がのようにを可愛いがってくれる 一 2 ストロークマシンに乗り続けてきた彼にとって、 4 ストロークマシンは、 「戸惑いだらけだったに違いない。 152

6. ライディングスポーツ臨時増刊 イヤーブック 1985-86

% 第 0 . ンををい第 冫ズ 20 ERON スズキ RGP/XR70 ( フランコ・ウンチーニ ) ' 85 年型の、全日本を荒しまわった水谷と同型のエンジン。スクエ ア 4 の構成に大きな変更はないが、中盤以降にマルチリプタイプのフレームを採用するなど積極的な姿勢を見せる ヘロンスズキ TSR ー 6 プラックマジック ( ロプ・マッケルニ ) 特徴あるカーポンファイバーフレームを採用してい るが、エンジン上部を通るメインフレーム等の手方は、他のツインチュープアルミフレームと同様といえるだろう カジパ 500 ( マルコ・ルッキネリ ) スクエア 4 の 84 モデルに続いて、 ' 85 年第 6 戦ユーゴ GP にテビューした、 ' 85 モデルの V 4 工ンジン搭載マシン。 ' 84 は RG に酷似していたが、こちらは YZR を手本としている様子がうかがえる 工ルフ 2 / RS500 ( クリスチャン・ルリアール ) 第 9 戦フランス GP にデビューしたエルフ初の 500CC クラス用マ シン。ハプステアリング、前後片持ちサス、前後サス連動リンケージ、アンダータンクなど革新メカを満載している ホンダ NSR500 ( フレディ・スペンサー ) ' 85 シーズン、海外レースを走った唯一のトリコロールカラーマシン。 このデイトナ用 N S R は、 G P 用とはチャンバーなどの形状も異なり、独自のセッティングが施されているようだ ホンダ NS500 / シュバリエフレーム ( ランディ・マモラ ) 第 4 戦でテリー・エスビからフレームを借用し NS の 工ンジンを積んだマモラのマシン。鉄製のヘッドまわりを中心にガッチリとかためられた剛性の高そうなフレーム 41

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2 ストロークを越える 4 ストロークマシン。その″可能性々への挑戦 GEIVE,S!S 創世紀 1 この箇所については、 2 週間ほどで対策を施すことができた。 バルプが落ちた。その原因を今言うことはできない。 ただ、またひとっ〃経験〃という財産を得たということは確実に言える。 全日本の c-v ・—クラス。 6 戦菅生までに上野が得たポイントは僅か しかし、レースで得たものはポイント以上のものだった。 トラブル、転倒が相次いだが そのトラブル、転倒のそれぞれに、それなりの原因がある。その原因の、 ひとつひとっ迢求していくことによって、完成への基盤ができると思う。 そしてひと月余りが過ぎた 9 月日、エンジンだけが載み替えられ、 幻の淡いプルーをゴロワーズカラーに塗り替えられたが フランス、ポールリカールサーキットにいた。 にとって、 2 度めの耐久挑戦。しかも今度は幻時間耐久レースだ。 タイヤの選択ひとつにも迷いが出る。ライダーの好み、路面の状況、データ、 そして時間という時間が、判断速わせてしまう。 しかしはポールポジションからのスタート。 そして今度は 1 周めからトップを走り続ける。 夜があけても、 C-VNX は順調にトップを走り続けている。 しかし四時間分経った、午前 2 時浦分、 日本時間にすると、 6 時分。奇しくも 8 時間耐久でリタイアした時間と、 全く同じ時・ : 、再びトラブルが起こった。 プライマリーギャの破損。一度もトップを譲ることなく快走したは、 あえなく息を止めた。 " くそっ、経験が欲しい。とヤマハ Z> の荒木マネージャーが叫ぶ。 確かに経験が欲しい、データも欲しい、時間も欲しい、何かも・・ しかしというマシンは、着実にトップを走れる実力をつけている。 今はただ襲ってくるトラブルと闘かうしかない、そんな状況なんだ。そんな、 まだ出来上がったばかりとも言えるこのマシンが、 いきなりトップを走れるという事実は、 ヤマハの、そして 5 バルプ、前傾恥エンジンのポテンシャルの高さを 十分に証明しているではないか。 2 ストロークを夋ぐ 4 ストロークマシンを創るために。 辿り着くことのない〃完成。という目標に一歩でも近づくために。 しかし、どんなにあせったところで手に入るものではない。 まだ 2 年めなんだ。今できることはたったひとつ、 ひとつひとつのレース著実に走り抜いていくしかない。 そして、 いくつもの経験をつみ重ねていくしかない。 それしかない。 それはたった今、始まったばかりなんだ。 155

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ヤマハ FZR750 ( 上野真一 ) F-I クラスにワークス参戦を開始した ヤマハの純ワークスマシン。 8 時間のテック 21 カラーも基本的には同じ スズキ GSX ー R750 ( ラディゲス / ウダン ) 耐久選手権で RVF に次ぐ 成績をおさめたマシン。スズキ本社製フレームにヨシムラエンジン搭載 ホンダ RVF750 ( ワイン・ガードナー ) 耐久選手権のチャンビオンマ シンであり、全日本の F ・ I でもガードナーが大活躍を見せたマシンだ スズキ GSX ー R ( 喜多祥介 ) 全日本 F - Ⅲで、常勝の RVF に唯一黒星をつ けたヨシムラチューン。シーズン途中にはフレームの改良型も登場した ホンダ RVF400 ( 三浦昇 ) VF のエンジンをベースとし、ギャトレー ンカム駆動などのワークスモディファイを施した、圧倒的な実力マシン ビモータ DB 1 ( ビターリ / タルドッツィ / マッテオーリ ) これまで日 本製工ンジンだけだったビモータの、ドゥカッティ L ツイン搭載マシン モリワキ ZERO ー乙 / RS250 ( 樋渡治 ) オリジナルの Z 型フレームを デビューさせたモリワキ。シーズン途中 TZ 工ンジンもトライしてみせた ヤマハ FZR400 ( 江崎正 ) ' 84 モデルから車体まわり、特にニューフ レームなどを採用した ' 85 タイプだが、あえなく RVF に奪われてしまった 第 2 戦筑波に姿をあらわしていた、 '86TZ ヤマハ TZ250 ( 浅見貞男 ) 先行開発モデル。大型のリードバルプを装備するなど 85 とは違う構成だ トガシ / TZ250 ( 仲川昇 ) トガシェンジニアリング製のオリジナ ルモノコックフレーム十 TZ 工ンジンの組合わせのスペシャルマシンだ ダイシン FW08 ー 1 / TZ250 ( 山本隆義 ) ' 84 のコバスに良く似たダ イシンオリジナルマシン。日本 GP にはタイプ 2 の FW08 ー 2 もデビュー ヤマハ FZ400R ターポ ( 平井由夫 ) F- I クラス用に開発された FZ 工ン ジン十 KKK 製ターポ装着のマシン。排気量を 370CC にダウンさせている 44

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一を しかし、すぐに違いを理解してくれた。 彼も最初はのイメージに近づけようと考えていたようだ。 今までの経験からすると、 2 ストから 4 ストへのスイッチは、そんなに難しくはない。ところが 4 ストから 2 ストへは、信じられない程の努力と、時間を要してしまう。 加速感、エンジンプレーキ、軽快さ : からにり替えた上野、 もしかすると彼は、と心中してくれるつもりなのかも知れない。 袋片の山の中に 4 ストロークの排気音が何度も響きわたる。 袋片でのテストは月に 2 回、回を重ねるごとに排気音もたくましくなる。 その排気音は、いっしか心の支えとなっていた。 貶時間ぶつ続けで行なったべンチテストでも何の異状も見られない。 ″勝てるマシンみへの千応えは徐々に確かなものになってくる。 ケニーが 8 時間に出場する : この話を聞いた瞬間、プレッシャーが広がってゆくのを感じた。 4 ストロークはダートト一フックレース以来とはいえ、 3 年連続ワールドチャンピオン、″キング″とさえ呼ばれるケニー もちろん、彼が走るならば大丈夫だという安心感もあったが、 もし彼が乗って勝てなければ、完全にマシンが悪いということになる。 そのプレッシャーの方が遙かに大きかった。 本番用のエンジンが組み上がったのは項度ひと月前。時間が、ない : 何度テストを繰り返しても、トラブルが起こらなくても、 自信が体を満たしたことはなかった。、 しつも、 いつも頭の中には″もし。という文字がある。 7 月はじめの菅生が終われば、全日本は 8 月に入るまでない。 ・—グループにの開発スタッフが加わり、最後の調整に入る。 家に帰りつくのは時、Ⅱ時。時にはそれを越えることもあった。 帰っても、るだけ。そんな毎日が続く。 。ケーが再び来日、久々の 4 ストローク、初めてのに乗る 彼はこの初めてのマシンで、袋井のコースを コースレコードに近いタイムで走った スプリント用と埠較して僅かにデチューンされた耐久用マシン、 そのマシンについてケニーは、 GF}I%JS ざ 6 こ 2 ストロークを越える 4 ストロークマシン。そのを可能性をへの挑戦 " このマシンは大きい、重いんだよ。見た目の大きさほどじゃないけどね。 それにエンジンがモーターみたいだね。とは違うよ。 やはり彼の頭にあるのはの強烈なイメージ。それは無理な注文だった。 は市販車べースの 4 ストローク。それも、まだ歩き出したばかりの。 ケニーの言葉は皮肉にさえ聞こえた。でも、何とかわかって欲しかった。 " このは、勝てるマシンなんだ。それだけのことを 今までやってきてるんだから、大丈夫。信じてくれ。 創世紀

10. ライディングスポーツ臨時増刊 イヤーブック 1985-86

1 年目の LL ・ 1 マシンが シリーズチャンビオンを 獲得した。 これは偉業であると同時に べースマシンの ポテンシャルの高さを 証明することでもある。 レーサーというのは、実戦に出てみて初め 新年シリーズは、ヨシムラのマシンにとっ て問題がでてくる。それもあらゆるところに て最初の年ということで、細かな間題の多い 少しすつだから、結局 100 % の実力を発揮 1 年だっこ。 エンジンもフレームも 1 年目というのは、するというのは、どんな大メーカーでもます ピタリと決まらないものだ。それがなんとか無理。 そんな・—で、これはいけるんしゃない なってきたのは日本のころ、そしていま かなって思ったのは、 5 月の菅生のレースだ だったら万全だという自信はある。 ったかな。菅生はそのコースレイアウト上、 その仕上がりの速さも満足できるものだ。 ハワーはもちろんマシンの総合力が成績につ あの VF750 でさえ 4 年目、最初の 2 年は ロクに走っていないんだ。それがたった 1 年ながるところだけに、菅生で勝てればって思 でホンダやヤマハより上だなって実感がもてっていた。 るほどになっているのだからね。 私はそのときはも、 2 ~ ~ ・術をして病院にいこ 吉村秀男氏 ( 左 ) ヨシムラ・ジャパン代表取締役ネ土長ヨシム ラのレース活動の総指揮を司どる ' 85 年前半は病床に伏すことも あったが、鈴鹿 8 時間耐久ではビットに元気な姿を現わし、レース を見守っている。 4 ストロークエンジンューニングの第一人者 吉村不ニ駈ヨシムラ・ジャ / ヾン常務取締役、ヨシムラ R & D 社長ヨシムラファクトリーのレース監督を務める ' 78 から ' 81 年 にかけて、デイトナスーパーバイク 4 連勝の偉業を達成している 、スんだけど、菅生での結果を聞いてからは、回 復が早くなってきたものです。 辻本はよくやってくれた。制年の末にはも う契約していたんだが、正直なところは喜多 のはうに期待していた。だから予想以上の辻 本の活躍は本当にうれしかった。 辻本は精神的にしつかりしている男だね。 心の中にはあるのかもしれないが、悲そう感 とかプレッシャーとかを、まったく囲りに感 しさせないところがある。 レーシングライダーの場合、そっいう要素 は大きいもので、テクニックよりも、この精 ネ缶なものが必要ともいえる。主日申勺に弱 ) と力は発揮できないからね。 逆に喜多の場合は不運だった。・—にし ても・Ⅲにしても彼だけにトラブルが隹个甲 してしまった。 ・Ⅲのほうは彼自身にも半分くらい責任 はあるだろ、つが、・—ではオイルクーラー にクラックが入るなどのトラブルが隹・した からね。 もちろん乗り方の違いから起きることもあ り得ないわけではないが、レースをやってる と確かに運、不運というのはあるものだ。 そっいった初期の症状がどこに出るかわか らないのが、最初の 1 年目だから、いきなり タイトルを取るなんてレースの世界では本当 はあり得ないことといってもいい。 それを成しとげたというのは、言いかえれ はべースとなるマシンのポテンシャルの高さ 132