210 手紙を書き終えると、われらの主人公は勢いよく両手をこすりあわせた。それから、外套を 引っかけ、帽子をかぶると、別の予備の鍵でドアを開け、役所を目ざしてとび出した。役所に は無事に着いたものの、中へ入る決心はつかなかった。実際、時刻がもうあまりにも遅かった からである。ゴリャートキン氏の時計は二時半を示していた。突然、一見きわめて些細な出来 事がゴリャートキン氏の疑惑をいくらか晴らしてくれた。役所の建物のかげから不意に一人の 男が現われたのである。彼ははあはあ息を切らし、真赤な顔をしていたが、まるで鼠のような 足取りで人目をしのんでさっと昇降口に駆け込むと、たちまち玄関にもぐりこんでしまった。 それは書記のオスターフイイエフといって、ゴリャートキン氏には非常に馴染みの深い、また 同時に十カペイカ玉一つでなんの用事でも足してくれるなかなか調法な男であった。オスター フイイエフの弱味をよく心得てもいたし、また彼がやむをえない用事のために外出していたあ とだから、おそらく、 いつもよりはいっそう十カペイカ銀貨に渇えているにちがいないと見当 をつけたので、われらの主人公はここで金を惜しんではならないと肚を決めた。そこですぐさ ま階段を駆け上がり、オスターフイイエフのあとを追って玄関に飛び込んで彼を呼びとめた。 そしていかにも秘密めかしいそぶりで、大きな鉄製の暖炉のかげになっている、人目につかな い片隅に彼を呼び込んだ。相手をそこへ連れこむと、われらの主人公は早速いろいろと尋ねは じめた。
お座なりの生ぬるい結末かなんかで幕を閉じるはずはないと、前もって結論をくだすことがで きたにちがいない。 心の奥深くに彼は一つの決意を固めていた。そして必ずそれを実行して見 せると心の奥で誓ったのである。もっとも正直なところ、それではどんな手を打ったらいいか は、彼にもまだはっきりとはわかっていなかった。いや、全然わからなかったと言ったほうが しいかもしれなかった。しかし、そんなことはどっちにしても同じことだ、なにかまうもん か ! 『人の名を僣したり破廉恥なまねをしたのでは、 しいですかね、現代ではもう成功する はすがないのですよ。人の名を僣称したり破廉恥なまねをすることは、決していいことは招か ず、結局は縛り首にでもなるのが落ちというものですそ。人の名を僣し、なにも知らない人民 を欺いて成功したのは、グリーシカ・オトレー。ヒイ = フただ一人、それもほんのわずかな期間 だけではないですか』しかしこうした最後の結論にもかかわらずゴリャートキン氏は、二、 の人の仮面が剥がされ、多少ともなにかが表面に現われて来るまで、当分の間待機することに 肚を決めた。ところがそのためにはまず第一に、できるだけ早く勤務時間が終わることが必要 であった。それまでわれらの主人公はなに一つ手出しをしないことに決めた。しかしやがて、 勤務時間が終わったなら、ある手段に訴えることにするのだ。そのときこそはその方策に従っ むくろ ていかに行動すべきか、また高慢の角を折り、こちらの無力をいいことにして骸に咬みつくあ の蛇を押しつぶすための、こちらの行動のあらゆる計画をいかに立案すべきかも、もうちゃん とこちらの胸先三寸に決まっているのだ。自分を泥靴を拭うぼろきれ同然に取り扱うことは、
そのドアを細目に開けると、かなり大勢の下男やら女中やら、その他行当りばったりの有象無 テヘトルーシカがなにかしゃべって聞かせ、ほか 象に取り囲まれた彼の下男の姿が目に入っこ。。 の連中は聞き手にまわっているのである。そのおしゃべりのテーマも、おしゃべりそのものも、 どうやらゴリャートキン氏のお気には召さなかったらしい。彼は早速ベトルーシカを呼びつけ ると、まったく不機嫌そうな、というよりよ ーいかにも不愉央らしい様子で部屋に引き返した。 『あの悪党は三文にもならない目腐れ金でほい来たとばかり喜んで人を売るやつにちがいない。 相手が主人ならなおさらのこった』と彼はの中で考えた。『いや、もう売ってしまったにち がいない、間違いなく売ってしまったとも。賭けても、 しいが、一文にもならぬ金で売ったにち がいないんだ。うん、なんだ ? ・ 「お仕着せが届きましたんで、旦那」 「じゃそいつを着て、こっちへ来い」 ベトルーシカは仕着せを着込んで、にたにたうすのろめいた笑いを浮かべながら主人の部屋 に入って来た。衣裳をつけた彼の恰好ときたら、これ以上は想像もっかぬほど奇妙きてれつな ものだった。彼の着ていたのは金モールの剥げ落ちた、ひどく着古された緑色の従僕用の仕着 せたったが、それは明らかに、ペ トルーシカよりたつぶり一アルシン〔約七十一センチ〕は背の高 い男のために仕立てられたものだった。手には同様金モールと緑色の羽飾りのついた帽子を持 ち、腰には革製の鞘におさまった従僕用の剣をぶら下げていた。
302 今度はあまり長く眺めることも、待っこともなかった。突然、窓という窓に一時に、なにか奇 怪なざわめきが感じられ、人影がちらついたかと思うと、さっとカーテンが開かれた。ォルス ーフイイ・イワー / ヴィッチの家の窓ぎわに大勢の人がひしめき合って、みんなてんでに庭の ほうを眺めてはなにかを探しているのた。薪の山で身の安全を保証されていたので、われらの 主人公も、やはり同じように好奇心にかられて一同のざわめきにつれて、自分を隠してくれる 薪の山のわすかなかげが許してくれる範囲内で、熱心に首を左右へ差しのべはじめた。だが突 然彼は恐怖に襲われて、ぎくりと身を震わせ恐ろしさのあまりあやうくその場に尻餠をつくと ころだった。お・ほろげながら いや一言にして言えば、みんなが探しているのはほかの何物 でもない また何者でもない、 ほかならぬ彼、ゴリャートキン氏を探しているのたということ が、彼にははっきりとわかったのである。みんなが彼のほうを見ている。逃げ出すことは不可 能た、すぐに見つかってしまう : おじけづいたゴリャートキン氏はできるだけびったりと 薪の山にへばりついた。だがそのときはじめて気がついたのだが、そのかけこそは曲者で、彼 の信を裏切って彼を完全に隠していてはくれなかったのである。もしもそれができることでさ えあったら、いまのわれらの主人公は薪の間にあいている鼠の通う隙間にでももぐりこみなん の異存もなく大喜びでそこにおとなしく坐っていたにちがいない。しかしそれはまったく不可 能なことであった。地獄の苦しさに堪えかねて、とうとう彼は思いきって、窓という窓をまと もに堂々と見渡すことにした。そのほうがまだましたったのである : すると不意に恥ずか くせもの
260 ノトに手を入れてハンカチーフを取り出そうとした。おそらく、・ほんやり立っているわけにも いかないので、なにかしようと思ったからにちがいない。 ところが彼自身はもちろん、彼を取 り巻いていたすべての人たちが思わずあっと驚いたことには、彼が取り出したのはハンカチー フではなくてなにか薬の人った小さなガラス瓶たったのである。それは四日ほど前にクレスチ ャン・イワー / ヴィッチが処方してくれた薬だった。『薬は例の薬局で』ということばがちら りとゴリャートキン氏の頭にひらめいた : 不意に・彼はぎくりと身を震わせて、あやうく恐 怖の叫び声をあげるところだった。またしても新しい光がさっと流れるように射し込んだので ある : 濁った、赤味をおびたいやらしい液体が、不気味にぎらりと光ってゴリャートキン 氏の目を射た : : : 。瓶は彼の手から落ちて、その場で粉々に砕け散った。われらの主人公はあ っと叫んで、流れ散った液体から二歩ばかり飛びのいた : : : 彼は全身をわなわなと震わせ、汗 がこめかみと額からにじみ出て来た。『してみると、生命が危険にさらされているのだな ! 』 一方、部屋の中には動揺と混乱が起こった。みんながゴリャートキン氏を取り囲み、みんなが ゴリャートキン氏に話しかけるのだった。中にはゴリャートキン氏のからだに手をかけたもの さえもいた。しかしわれらの主人公はロがきけないように口をつぐみ、なに一つ見ず、なに一 っ聞かず、なに一つ感ずることもなく、身動き一つしなかった : だがやがて、その場から 身をもぎ放すようにして、彼はいきなり料理店を飛び出した。彼を引きとめようとする人たち を誰彼の区別なく突き飛ばして、ほとんど無我夢中でやみくもに、いちばん先に目に入った辻
135 けながらことばをつづけた。やがて、親しみをこめて相手に別れを告げると、ゴリャートキン 氏は寝支度にかかナ っこ。一方客は早くもいびきをかきはじめた。ゴリャートキン氏も客になら ッドに身を横たえたが、にやにや笑いながらひとりごとをつづけていた。「お前はきょ てめえ う酔っ払っているな、ええおい、ヤーコフ・ペ トローヴィッチ、このやくざ野郎め、手前はと てめえ んだゴリャートカ野郎だよ , ーー手前の名字なんかそんなものさリえ、なにがそんなにうれし かったんだね ? あしたになればめそめそ泣き出すくせにさ、泣き虫坊主め。まったくお前さ んにも困ったもんたよ ! ーそのときかなり奇妙な感じがゴリャートキン氏の全身を襲った。そ れはなにか疑惑あるいは後悔に似た感情であった。『おれは少し羽目をはずしすぎたようだ』 と彼は考えた。『このとおり頭ががんがんしているところをみると、おれは酔ってるんだ。自 制もできずに、なんていうお前は馬鹿だろう ! さんざん与太を飛ばして、おまけに陰謀まで たくらもうとしたもんた、卑劣漢め。そりやもちろん、侮辱を忘れ、それを赦すことはなによ りも立派な行ないにはちがいないけれど、それにしてもやつばり、 しいことじゃないー・確かに そうだとも ! 』ここまで考えると、ゴリャートキン氏はべッドから起き上がり、蝋燭を手に取 ると、そっと爪立ちしながらもう一度眠っている客の顔をのそきに行った。深い物思いにふけ りながら長いこと彼は客の枕もとにたたずんでいた。『不愉快な絵だ ! 茶番だ、正真正銘の 茶番た、しかもそれつきりの話なんだ ! 』 やっとのことで、ゴリャートキン氏は本式に横になった。頭の中はがんがんと鳴り、割れる
101 いや、実はち クの真前に、内気らしい姿を現わした。われらの主人公は頭を上げなかった よっと、ほんのちらりとではあったがその姿に目を走らせたのである。しかしそれだけでもう すっかりわかってしまった、なにもかも、ごく細かい点にいたるまですっかりわかったのであ る。彼は恥ずかしさに顔を燃え立たせ、いつも勝ち誇ったようにしている頭を急いで書類の中 ちょう に突っ込んだ。それは猟師に追われている駝鳥が熱した砂の中にその頭を隠すのとまったく同 じ目的から来たことであった。新参の男はアンドレイ・フィリッポヴィッチに向かって頭を下 げた。するとそれにつづいて、すべての役所で課長が新しく入って来た部下に向かって話しか けるような、型どおりの愛想のいい声が聞こえて来た。「さあそこへ掛けたまえ」とアンドレ イ・フィリッポヴィッチは新来者にアントン・アントーノヴィッチのデスクを指さしながら一言 った。「ほらそこの、ゴリャートキンさんの向かいに。仕事はいますぐ見つけてあげるから」 さと アンドレイ・フィリ、 ソボヴィッチは新来者にすばやく礼儀にかなった、教え論すような身ぶり をして見せて区切りをつけると、すぐさま目の前に山のように積まれたさまざまな書類の調べ に没頭しはじめた。 ついにゴリャートキン氏は目をあげた。そのとたんに気を失わなかったのは、ひとえに彼が もうはじめから万事を予感し、びそかにこの新来者の正体を見破り、あらかじめ万事を知り抜 なにかひそひ いていたからにすぎなかった。ゴリャートキン氏がます第一に行なったのは そばなしがはじまっていないか、この一件についてなにかお役所式の洒落でも飛んでいるので
りのところに、彼のほうへ向かって足早に歩み寄って来る誰か知らない人影が黒く見えるでは ないか。その男は小刻みな足取りでせかせかと先を急いでいた。距離は見る見るうちに縮まっ た。ゴリャートキン氏にはもうこの新しい、時刻におくれた仲間の顔をはっきりと見分けるこ とさえできた。その顔を見分けるが早いか、驚きと恐怖のために彼は思わずあっと叫んだ。彼 は足がすくんで動けなくなった。それはつい十分ほど前にすれちがったばかりの、彼には見覚 えのあるあの通行人その人だったではないか。それが突然、まったく思いがけなくも、いまま た彼の目の前に姿を現わしたのた。だがゴリャートキン氏を驚かせたのはこうした奇蹟ばかり ではなかったのである。ゴリャートキン氏は驚きのあまりはっとして立ちどまり、あっと叫び 声をあげて、思わすなにか言おうとした。そしていきなり見知らぬ人のあとを追って駆け出し、 彼に向かって何事か叫びかけさえした。おそらく、一刻も早く彼を呼びとめたかったものにち 、よ、。はたせるかな、見知らぬ人はゴリヤ 1 トキン氏から十歩ばかりのところでーー足を とめた。間近に立っていた街燈の光がまともに彼の全身を照らし出した。 立ちどまると、 くるりとゴリャートキン氏のほうを振り向き、じれったそうな落ちつかない様子で相手がなに を言い出すかと待っていた。「これは失礼、私はどうも人ちがいをしたようで」と震える声でわ れらの主人公は言った。見知らぬ人はなにも言わずに、 いまいましそうにくるりと向きを変え ると、まるでゴリャートキン氏のおかけで失った二秒間を急いで取り戻そうとでもするように、 さっさともとの方向へ歩き出した。ゴリャートキン氏はどうかというと、身体じゅうの筋とい
家庭においてのみ催されうるものなのである。もう一歩突っ込んで一一一口えば、五等文官ならどこ の家でもこうした舞踏会が催されうるものであるかどうか、疑わしいとさえ一一一口えるのだ。ああ、 といってももちろん少なくともホーマーか。フーシキ もしも筆者が詩人であったならばー それこそ ンぐらいの詩人でなければならない、それ以下の才能ではロをはさむ資格はない このげにも 筆者は目のさめるような色彩と、のびのびとしたタッチで、おお、読者諸君よー 輝かしい一日を諸君の目の前に描き出して見せたであろうに ! そうだ、筆者はまずこの叙事 詩をその晩餐の場から書きはじめるにちがいない。そしてこの祝宴の女王の健康を祝う最初の 祝杯のあげられる感激すべき、そして同時に荘厳きわまる一刹那に格別力を尽くすに相違ない ひんかく のだ。筆者はまず第一に、賓客一同が、沈黙というよりはむしろデモステネス的雄弁といった ほうがよりふさわしい敬虔な沈黙と期待に包まれている様子を、諸君の前に描き出したであろ それからさらに、賓客じゅうの年長者であり、最上席に坐る権利すら多少は持っていると 思われる頭に霜をいただいたアンドレイ・フィリッポヴィッチが、その白髪にふさわしい多く たた の勲章を胸に飾り、やおら席から立ち上がると、火花のような輝きを持った酒のなみなみと湛 その酒こそは えられた祝杯を頭上高く差し上げる光景を、諸君の前に描き出すであろう。 このような瞬間に飲みほされるために、わざわざはるばると遠い異国から取り寄せられたもの で、酒というよりはむしろ天来の甘露とも名づくべきものなのである。さらにまたアンドレ イ・フィリッポヴィッチにつづいてそれそれグラスを高くあげ、期待にみちあふれた視線を彼 せつな
安そうにあたりを見まわした。するとゴリャートキン氏は突然さっと階段を駆け昇った。それ ッポヴィッチはひらりと部屋の中に飛び込むと、うしろ手にド よりも日卞 ~ 、アンドレイ・フィリ アをびしやりと閉めてしまった。ゴリャートキン氏は一人あとに取り残された。彼は目の前が さっと暗くなる思いたった。すっかり途方にくれて、いまや彼はなにか取りとめのない物思い に沈んで・ほんやりと立っていた。つい最近起こったばかりのなにかこれも同様ひどく取りとめ のない出来事のことを思い出しているようでもあった。『やれ、やれ ! 』と彼は無理に微笑を 浮かべながらつぶやいた。そうこうしているうちに、階段の下のほうで人声や足音が聞こえて 来た。おそらくオルスーフイイ・イワーノヴィッチに招待された新しい客がやって来たものに ちがいなかった。ゴリャートキン氏はいくぶんわれに返って、急いで洗い熊の毛皮の襟を高く 立てると、できるたけそれで顔を隠すようにしてーーあたふたとつまずきながら、小刻みな足 取りで元気なく階段を降りはじめた。妙にからだがぐったりとして感覚がなくなったような気 持であった。 / 彼の取り乱し方は大変なもので、出口の階段のところに出ると馬車が横づけにな るのも待ちきれず、自分のほうからまっすぐに泥たらけの庭を横切って、馬車のところまで歩 いて行ったほどであった。自分の馬車のそばまで歩いて行って、いよいよ馬車に乗り込もうと したとき、ゴリャートキン氏はこのまま馬車と一緒に大地の底に、あるいは鼠の穴にでもなん でも、 しいから潜り込んでしまいたいような、居ても立ってもいられない気持でいつばいだった。 ォルスーフイイ・イワーノヴィッチの家じゅうのありとあらゆるものがみんな、窓という窓か