これは失敗作であると断定するようになった。当然のことながら、べリンスキーにとっては、 いわゆるドストエフスキーの世界は無縁のものだったのである。 発表された当時は、それでも才能ある新進作家の異色作としてかなり広く読まれたものの、 その後はしたいに影が薄くなって、現在ではよほどの愛好者でないかぎり、その存在すらも知 らない人が多いが、ドストエフスキーの文学を理解するためには、やはりどうしても通過しな ければならない関門の一つであることは、 いまさら言うまでもない。 「われわれはすべてゴーゴリの『外套』から出たのた」というのは、伝えられるようにドス ーゴリの著しい影響のもとに トエフスキー自身の言葉ではないけれど、この『二重人格』もゴ 書かれたことは明瞭であり、特にその文体は数多いドストエフスキーの作品のなかでも、最も ゴ ーゴリに近いものであろう。この文体の模倣は『貧しい人々』をはるかにしのぐものがあり、 『貧しい人々』が『外套』に結びついているように、これは『鼻』と『狂人日記』にきわめて ーゴリが創造したあらゆるスタイルが縦横に駆使されてい 密接に結びついている。ここにはゴ るが、この作品を最後に、彼はゴ ーゴリの模倣からしたいに抜け出し、自分のスタイルを完成 するようになったことも忘れてはならない事実である。 ドストエフスキー文学の一つの特色は、現実と非現実との交錯である。この様式は文学的に 見てホフマン、ゴー ルザックの系統をひくものであろうが、同時にドストエフスキー 自身の個人的生活もあずかって大いに力があるように思われる。
なり、ここに完全な精神錯乱を起こし、ついに幻覚が現われるようになる。この強迫観念によ って起こされた幻覚はーーー・第二のエゴ、つまり第二のゴリャートキン氏という形をとる。 この新ゴリャートキン氏は、旧ゴリャートキン氏に欠けているあらゆる才能を身につけてい て、つねに彼を愚弄するために姿を現わす。 この小心な男が完全に発狂するまでの経過は、ドストエフスキーのきわめてリアリスチック ・なペンによって、完璧に描かれているが、ドストエフスキー文学のもう一つの特徴である、く どいまでの反復描写、冗長とさえ思われる叙述にうんざりする読者も多いことと思われる。し かしある程度の忍耐力をもって半ばまで読み進んだならば、あとは一気に最後まで、なにかに 憑かれたような気持で読み通されるにちがいない。都会、および都会人の心の秘密をえぐった この作品に心を揺すぶられる人こそ、真の意味の都会人、現代人なのかもしれない。 ノカついている。雑誌に発表されたと この作ロⅢには「ペテルプルク史詩」というサプタイトレ・、 きは、このサプタイトルは「ゴリャートキン氏の冒険」となっていたが、一八六六年に作品集 ーゴリの『死せる魂』を思わ におさめる際に、内容にも改訂がほどこされ、サプタイトルもゴ せる「ペテルプルク史詩」と変えられた。 ふ判が悪かったにもかかわらず、ドストエフスキーはこの作品に異常な執着を示し、最後ま で改作の意志を棄てなかったのは、やはりこの作品には、ドストエフスキーの永遠の問題が含 この『二重人格』は、 まれていたからにほかなるまい。その意味で『貧しい人々』とともに、
その後のドストエフスキー文学の母胎と言わなければならない。 それまでのロシャ文学の多くが、つねに題材を地方の貴族地主の生活に取っているのに比較 して、これこそまさに本格的な都会小説であり、ロシャ文学の一歩前進を示すものであった。 したがってここに登場する人物も、いわゆるノーマルな人間ではなく、都会と管理社会の重圧 に押しひしがれた、肉体的にも精神的にも歪められた、純粋な都会生活者である。多少とも分 裂症傾向に悩まされているわれわれ現代人にとって、この作品はその意味で独特な意義をもち、 そのためにわれわれは身につまされるのである。 コ ーゴリの『狂人日記』にはしまり、『二重人格』と『地下生活者の手記』を通って、『罪と 罰』『カラマーゾフ兄弟』にいたる、内心の相剋こそ、ドストエフスキー文学の一貫したテー マであると言うことができよう。 なお、題名の "JIBOfiHHK ごドイツ語の "Doppelgänger" は、もともと、同時にちがった場所に 現われる人物のことで、多分に民間伝承的な奇怪な要素を含んだ言葉であって、日本語には翻 訳しがたいものの一つである。従来『二重人格』『分身』等の訳語が使われ、心理学的要素に 重点をおくか、相似関係に重点を置くかによって訳語が異なってくるわけであるが、訳者の好 みによって心理学的意味に重点をおき、あえて『二重人格』のままにしておいた。 前にも触れたように、ドストエフスキーは不評であったこの作品に深い愛惜を感じ、何度か これを書き直そうと試みたが、それはついに実現するにはいたらず、一八六一年から六四年に
岩波文 32 ー 613 ー 2 ドストエフスキー作 小沼文彦 訳 岩波書店
岩波文庫 32 ー 613 ー 2 重人格 ドストエフスキー作 小沼文彦訳 岩被 岩波書店
321 沼文彦 『二重人格』 ( )I = 。ョこはドストエフスキーの第二の作品で、出世作『貧しい人々』が刊行さ れる前の一八四五年夏に起稿され、同年末に完成、一八四六年二月一日『祖国雑記』第二号に 発表された。『貧しい人々』が発表されて異常な好評を博した翌月である。 『貧しい人々』の成功に自信を強めたドストエフスキーは、発表されない前からこの作品の 成功を信じて疑わなかった。「ゴリャートキンは非常に順調に進んでいます。これは私の傑作 です」「これは『貧しい人々』より十倍もすぐれたものです。仲間の連中は『死せる魂』以来、 ロシャでこれに匹敵するものは一つとして出なかったと言っています」とその発表に先立って、 彼は兄ミ ( イルに報告している。こうして彼はそれが発表されない前から、その未来を祝福し、 兄に自分の喜びを分けようとした。 ところがいざ発表されると、その評判は作者の期待とは正反対なものであった。人々はこの しろもの 小説はいたずらに冗長で、とうてい終わりまで読み通せる代物ではないとまで酷評した。最初 のうちはかなり好意的であったべリンスキーも、その「幻影的色調ーをその最大の欠点として、 あとがき
にじゅうじんかく 重人格ドストエフスキー作 訳者 発行者 発行所 電話 1954 年 1 月 5 日第 1 刷発行 1981 年 8 月 17 日第 30 刷改版発行 1999 年 7 月 26 日第 59 刷発行 こぬまふみひこ 小沼文彦 大塚信一 株式会社岩波書店 〒 101 ー繝 2 東京都千代田区ーツ橋 2-5 一 5 案内 03 ー 5210 ー 4000 営業部 03-5210 ー 4111 文庫編集部 03-5210 ー 4051 印刷・法令印刷カ , : ー・精興社製本・桂川製本 ISBN4-00-326132 ー 1 Printed in Japan