本指でつまんだものである。われらの主人公はかっと火のように真赤になった : 一方旧ゴ えび ふんぬ リャートキン氏の親友は、自分の敵が全身をわなわなと震わせ、忿怒のあまり声も出ず、蝦の ように真赤になって、ついには堪忍袋の緒を切って、いまにも本格的な攻撃すら開始しかねな い様子を見て取るが早いか、時を移さず、しかも破廉恥きわまるやり方で、先手を打って相手 の出鼻をくじいてしまった。つまりさらに二度ばかり相手の頬っぺたを軽く叩き、その上さら に二度ばかり相手をくすぐり、忿怒のあまり身動きもできず気も転倒せんばかりになっている 相手をからかったのである。さらに何秒間かこうしたいたずらを繰り返し、二人を取り巻いて いた青年たちを少なからす喜ばせると、新ゴリャートキン氏は人の心をいらだたせるような厚 顔無恥な態度で、旧ゴリャートキン氏の突き出た腹のあたりを指先でぼんと弾いてとどめを刺 し、ひどく毒を含んだ、おそろしく意味深長な微笑を浮かべて言った。「冗談はよしにしまし ようよ、え、ヤーコフ・ペ トローヴィッチ、冗談は ! 二人でうまく立ちまわるんでしようが、 ャーコフ・ペ トローヴィッチ、うまくね」それから、われらの主人公に最後の攻撃からしだい にわれに立ち返る暇も与えず、新ゴリャートキン氏は不意に ( だが二人を取り巻いていた観衆 にはなにも言わすにただあらかじめにやりと笑って見せておいて ) 、いかにも忙しそうな、い かにも事務的な、ひどく取りすました顔つきになり、じっと目を伏せ、いかにも切なさそうに 身を縮めて、早口に「特別な任務がありますので」と言ったかと思うと、びよんと跳ねるよう に片足を持ち上げ、隣の部屋にひらりと姿を消してしまった。われらの主人公はわれとわが目
「いったいどうしたんだね、ヤーコフ・ペ いったいこれはどういうわけ なんだね ? : : : 」 「なんでもないんですよ、アンドレイ・フィリッポヴィッチ。私は勝手にここでこうしてい るんです。これは私の私生活ですからね、アンドレイ・フィリッポヴィッチ」 「なんですって ? 」 「私は、アンドレイ・フィリ、 ソボヴィッチ、これは私の私生活たって申しあげているんです よ。それに私の考えるかぎりでは、ここには私の公けの関係でとやかく咎められることはなに 一つないと思いますが」 「ユなにー 公けの関係で : 君はどうかしたんじゃないのかね ? 」 「どうもしませんよ、アンドレイ・フィリ、 ソボヴィッチ、まったくどうもしちゃいませんと すうす ) も。図々しい娘っ子だ、それつきりのことですよ : : : 」 「なに ? : : なんたって ? 」アンドレイ・フィリ、 ソボヴィッチは驚愕のあまり茫然としてし まった。それまで階段の下からアンドレイ・フィリッポヴィッチを相手にことばのやり取りを していたゴリャートキン氏は、 いまにも目の中に飛び込んで行きそうな勢いで相手の顔を見つ めていたがーーー課の上役がいささかどぎまぎしたのを見てとると、ほとんど自分でも無意識に、 さっと一歩前に足を踏み出した。アンドレイ・フィリッポヴィッチはうしろへ少し身を引い た。ゴリャートキン氏は一段さらに一段と歩を進めた。アンドレイ・フィリッポヴィッチは不 あま トローヴィッチ ? ・ とカ
251 な二人の人間が創り出された : : : 」 「へえ ! それが君の考えですかー そう言ったかと思うとろくでなしで名の通った新ゴリャートキン氏は、さっと立ち上がると 帽子に手をのばした。依然として相手の偽瞞に気のつかない旧ゴリャートキン氏もおなじく立 ち上がり、単純な気持で自分の偽りの友人に上品ににつこりと笑いかけた。無邪気にもこうし て相手を慰め、元気づけ、新しい友情を取り結ぼうと努めながら : 「ではこれで失礼させていただきます、閣下」と不意に新ゴリャートキン氏は叫んだ。自分 の仇敵の顔になにか酒に酔ったような上機嫌な色さえ浮かんでいるのに気がついて、われらの 主人公は思わずぎよっとした。だが、たた相手と別れたい一心で、この不徳義漢の差しのべた 手の中に自分の指を二本そっと差し入れた。しかしここでも : : ここでも新ゴリャートキン氏 の厚顔無恥さ加減はあらゆる限界を超えていた。旧ゴリャートキン氏の二本の指を取って、ま ずそれを握りしめてからこのやくざ者は、すぐその場で、ゴリャートキン氏の目の前で、図々 しくもけさと同じ厚顔無礼な悪ふざけをやってのけたのである。人間としての忍耐の泉もつい にかれ果てた : 旧ゴリャートキン氏がはっとわれに返ったときには、早くも相手は自分の指を拭ったハンカ チーフをポケットにしまっていた。いつもの汚らわしい習慣で、すぐさま急いでつぎの部屋に 姿をくらまそうとした不倶戴天の仇敵のあとを追って、彼は隣の部屋に突進した。ところが彼 ぎまん
117 っちゃらだよ ! おれは高みの見物で、ロ笛でも吹いてりや、それでいいことじゃないカ そのつもりだったんだ、それだけの話さ ! あいつは勝手に勤めてるがいいや ! それなのに、 ま 奇蹟だの不思議たの、おまけにシャムの双生児たなんてことを言いやがるんだからな : ふたご 双生児な ったく、なんだってシャムの双生児なんて話を持ち出さなけりゃならないんだい ? ふたど ら双生児でもいいけれどさ、しかし偉大なる人物だってときには変人に見られたことだってあ るんだぜ。有名なスヴォーロフ将軍が鶏の鳴き声をしたってことは、歴史に照らしても明らか 。もっとも、そりやみんな政策から出たことだけれど。しかし偉大なる司令官 じゃないカ オしか ? ところでこのおれは独立し : だが、司令官のことなんかどうだっていいじゃよ、 連が : た一個の人間で、まあそれだけのことにはちがいないが、相手が誰だっておれの眼中にはない んだからな。おれにうしろ暗いところがないからおれは敵を軽蔑するんだ。おれは陰謀家じゃ ない、そしてそれを誇りとしているんだ。おれは潔白で、正直で、さつばりとしていて、気持 がよく、おとなしい人間なんだ : : : 」 ところが不意にゴリャートキン氏はふっと口をつぐみ、固くなってまるで木の葉のように震 え出した。一瞬目まで閉じてしまったほどである。だが、その恐怖の対象が単なる錯覚であれ ばよいと心に念じながら、やがて彼は目を開き、おずおずと横目で右のほうをちらりと見た。 : 彼と並んでけさからの馴染みがちょこちょこと小刻みな足取り だが、錯覚ではなかったー で歩いているではないか。彼は微笑を浮かべ、こちらの顔をのそきこんだりしながら、どうや ふたご
127 と白状に及び、実は安物の靴を買う金すらも工面できず、現に い制服を求める金さえもない この制服も誰かから一時借用している始末であるとつけ加えた。 ゴリャートキン氏はすっかり身につまされて、心から感動してしまった。客の話は実に内容 空虚な物語であったが、しかしそれにもかかわらず、その物語のひとことひとことは天から降 ゴリャートキン氏はさきほどの疑惑 ったマナのように彼の心に銘じたのであった。要するに、 も忘れ果てて、ほっと気を許して自由と喜びに包まれ、ついには肚の中でおれはとんだ阿呆だ ったわいと嘆じたのである。すべてカ実冫 : こ自然であった ! それに実は心を痛め、あれほど大 騒ぎをする理由もあったのである ! そうた、たしかにあるのだ、実際あるデリケートな問題 があるにはある、 しかしそんなことは別に大したことではない。その男に罪はなく、ただ 自然のほうで勝手にちょっかいを出しているのに、そんなものが人間一匹を抹殺し、その大望 しみ に汚点をつけ、その前途を暗闇にしてしまうわけがないではないか。おまけにこの客は庇護を 求めているのた、この客は涙を流したのだ、この客はみんな連命のせいたと言っているのだ。 なんの変哲もない、悪意もなければ狡猾さもない、みしめな、取るに足りない人物のように思 われるのた。それに、 いまではどうやら、ひょっとすると別の点でかもしれないが、ともかく も自分の顔と主人の顔との奇妙な相似を照れくさがっているではないか。彼はそれ以上は無理 だと思われるくらい誠実にふるま い、なんとかして主人の気に入ろうと努め、まるで良心の呵 責に苦しめられ、相手に対して申しわけないと感じている人のような顔つきをしている。たと
210 手紙を書き終えると、われらの主人公は勢いよく両手をこすりあわせた。それから、外套を 引っかけ、帽子をかぶると、別の予備の鍵でドアを開け、役所を目ざしてとび出した。役所に は無事に着いたものの、中へ入る決心はつかなかった。実際、時刻がもうあまりにも遅かった からである。ゴリャートキン氏の時計は二時半を示していた。突然、一見きわめて些細な出来 事がゴリャートキン氏の疑惑をいくらか晴らしてくれた。役所の建物のかげから不意に一人の 男が現われたのである。彼ははあはあ息を切らし、真赤な顔をしていたが、まるで鼠のような 足取りで人目をしのんでさっと昇降口に駆け込むと、たちまち玄関にもぐりこんでしまった。 それは書記のオスターフイイエフといって、ゴリャートキン氏には非常に馴染みの深い、また 同時に十カペイカ玉一つでなんの用事でも足してくれるなかなか調法な男であった。オスター フイイエフの弱味をよく心得てもいたし、また彼がやむをえない用事のために外出していたあ とだから、おそらく、 いつもよりはいっそう十カペイカ銀貨に渇えているにちがいないと見当 をつけたので、われらの主人公はここで金を惜しんではならないと肚を決めた。そこですぐさ ま階段を駆け上がり、オスターフイイエフのあとを追って玄関に飛び込んで彼を呼びとめた。 そしていかにも秘密めかしいそぶりで、大きな鉄製の暖炉のかげになっている、人目につかな い片隅に彼を呼び込んだ。相手をそこへ連れこむと、われらの主人公は早速いろいろと尋ねは じめた。
肉という筋肉、線という線がびくびくと引きつり、動きはじめた。同時に彼の全身もぶるぶる と震えていた。最初にからだを動かしてクレスチャン・イワーノヴィッチの手を抑えたまま、 ゴリャートキン氏は自分自身が信じられず、これから先どうしたらいいのかまるでインスビレ ーションでも待っているように、身動きもせずに立ち尽くしていた。 するとかなり奇妙な光景が展開された。 どぎも いささか度胆を抜かれたクレスチャン・イワーノヴィッチは一瞬まるで椅子に根を生やして しまったように、茫然自失、目を皿のようにしてゴリャートキン氏の顔を見つめていたが、相 手も負けず劣らす彼の顔をにらみつけるのたった。やがて、クレスチャン・イワーノヴィッチ はゴリャートキン氏の制服の胸の折返しにちょっとっかまるようにして立ち上がった。幾秒か の間二人はこういうふうにして、身動きもせず、互いに相手の顔から目を放さずにじっとにら み合ったまま突っ立っていた。だがそのとき、ゴリャートキン氏の第二の行動がはなはだもっ て奇怪な形で現われた。唇がびくびくと震え、下顎ががくがくっと躍ったかと思うと、われら の主人公はまったく思いがけなく、わっとばかりに泣き出したのである。しやくりあげながら 頭を振り、右手でわれとわが胸を叩き、左手で同様にクレスチャン・イワーノヴィッチの部屋 着の胸の折返しをつかんで、彼はなにか言おうとした、急いでなにか説明しようとした。しか し彼はそれをひとことも口に出すことができなかった。やがてクレスチャン・イワーノヴィ チは驚きからさめてはっとわれに返った。
242 ず、たったいま馭者を相手に行く先の話をつけて辻馬車の踏み段に早くも片足を乗せかけてい た例の仇敵の外套にやっとのことで手をかけたとき、われらの主人公はまさに死から蘇ったよ うな、悪戦苦闘の末やっと勝利をつかんだような思いだった。「もしもし、君 ! 君 ! 」と彼 は、とうとう追いっかれた品性劣等な新ゴリャートキン氏に向かって叫んだ。 「もしもし、君はたぶん : : : 」 「いや、どうかもう、たぶんなんてことは一切おっしやらないでいただきましよう」とゴリ ャートキン氏の冷酷無情な仇敵は、片方の足を馬車の踏み段にかけ、もう一方の足を馬車の中 に入れようと懸命の努力を払いながらもむなしく空中に振りまわし、、、ハランスを取ろうとしな がらも、同時に全力を挙げて自分の外套を旧ゴリャートキン氏の手から、振り切ろうとしなが ら、あいまいな調子で返事をした。一方相手は相手で、自然から与えられたありとあらゆる手 段を尽くして、その外套にしがみつくのであった。 へトローヴィッチ ! ほんの十分ばかり : : : 」 「失礼ですが、僕には服がないのでね , 「まあこちらの身にもなってくださいよ、ヤーコフ・ペ トローヴィッチ : : : お願いです、ヤ へトローヴィッチ、 : : : 頼みますよ、、ヤーコフ・。へ トローヴィッチ : : : これこれし か。しかと 話し合うだけです : : : ざっくばらんに : ほんのちょっとたけなんた、ヤーコ トローヴィッチー
8 札東を両手で握りしめ、意味ありげにほくそ笑みながら、満足のあまり少々弱々しくひびく震 え声でことばをつづけた。『いや実に大した金額だ ! 相手が誰であろうと大した金額には間 はしたがね し / ーし そんな金額なんかわしにとってはほんの端金さ、なんて言うやつがあったら、早 これだけの金があったらそれこそ人間、なんでもできよう 速そいつの顔が拝みたいもんだー というものさ・ : : ・』 『それはそうと、これはいったいどうしたことだ ? 』とゴリャートキン氏は考えた。『ペ ルーシカのやつはいったいどこへ行きやがったんだろう ? 』相変わらず同じ例のいでたちのま まで、彼はもう一度仕切りの向こうをのそいて見た。だが仕切りの向こうには相変わらずべト ルーシカの姿は見当たらなかった。ただ床の上に。ほっんと置去りにされたサモワール : 、、 おどか かんに腹を立て、いきりたって堪忍袋の緒を切らし、いまにも噴きこ・ほれてやるそと嚇すよう に、ぶつぶっと舌たらすのわけのわからないことばでゴリャートキン氏に向かって、なにやら 熱心に早口にしゃべりたてているばかりである。きっと、『早く持って行ってくださいよ、旦 那、私はもうすっかり用意ができて待ち構えているんですからね』とでも言っているのだろう。 『いまいましい野郎だ ! 』とゴリャートキン氏は考えた。『あの怠け者の悪党にかかると、 まったくどんな男でも堪忍袋の緒を切らざるをえないそ。いったいどこをほっつき歩いてやが ふんまん るんだろう ? 』無理のない忿懣にかられながら彼は控えの間に足を踏み入れた。控えの間とい ってもそれは小さな廊下にすぎなかったが、その突当りには玄関に通するドアがついていた。
252 はけろりとなに食わぬ顔つきでカウンターの前に立って、肉饅頭を食べながら、まるで紳士の ようにひどく落ちつき払って、菓子屋の主人のドイツ女になにかお愛想を言っているではない か。『婦人の前でやるわけにもゆくまい』とわれらの主人公は考えて、興奮のあまりわれを忘 れて、同様カウンターのほうに歩み寄った。 「ときに、まったくのところわるくない女ですなー どうお考えです ? ・ーと新ゴリャートキ ン氏は、おそらくゴリャートキン氏の果て知れぬ忍耐力を当てにしてのことたろう、またして も例の不作法なふるまいに出た。一方肥っちょのドイツ女のほうはというと、これはどうやら ロシャ語がわからないと見えて、にこにこ愛想笑いをしながら、どんよりと濁った愚かそうな 目で二人の客の顔を眺めていた。われらの主人公は恥知らずの新ゴリャートキン氏のことばを 耳にすると、火のように真赤になってしまった。そしてもうどうにも我慢がならず、ついに夢 中で相手に躍りかかった。明らかに相手を八つ裂きにし、それによって一切の決着をつけよう という覚悟だった。ところが新ゴリャートキン氏はいつもの卑劣なやり口で、早くも遠くへ逃 れていった。彼はいち早く逃げ出して、もうちゃんと入口の階段の上に立っていたのである。 当然のことながら、旧ゴリャートキン氏は最初しばらくの間は棒立ちになっていたが、やがて はっとわれに返ると、無礼者のあとを追って一散に駆け出したことはいまさら言うまでもなか った。ところがそのとき相手はすでに、彼を待っていた、しかも明らかに万事を心得ているら しい辻馬車にちゃんとおさまっていた。しかしながら、ちょうどその瞬間、肥っちょのドイツ