肉体の誕生との違いは、われわれから見ると、つぎのような点にある。つまり、肉体の誕生の場 合は、われわれは、いつ、なにから、どういうふうにして、なにが生れるかということを、時間 と空間のうぢに、はっきり認めることができるわけで、穀だね、つまり、穀もつの実をとりあげ てみても、一定の条件さえあたえれば、そのたねから植物が芽をだし、花を咲かせ、やがて、た ねとおなじ実をつける ( こうして、生命の循環はわれわれの目のまえですっかり完成されるのだ ) ということをちゃんと知ることができるのに、理性の意識の成長は時間のうちで認めることもで こうした点に違いがあるのだ。しかし、われわれ きないし、その循環を見るわけにもいかない。 が理性の意識の成長や、その循環を見ることができないのは、一ほかでもない、われわれ自身がそ れをおこなっているからにすぎないのだ。つまり、われわれのうちで理性の意識というこの目に みえぬものが生れるので、その誕生は、とりもなおさず、われわれの生活にほかならないのだか ら、したがって、われわれはどうしてもそれを見ることができないのである。 われわれがこの新しいものの誕生、動物的な意識にたいする理性の意識の新しい関係を見るこ とのできないのは、ちょうど、たねがその茎の成長を見ることのできないのと、おなじことだ。 論また、理性の意識がかくれていた状態からぬけだして姿をあらわすとき、われわれは矛盾を感し 生るような気がするものだが、そんな矛盾などぜんぜんないのは、芽をだしたたねに矛盾がないの 人と、まったくおなじことである。芽をだしたたねに見られることといったら、もともとたねのか らのなかにあった生命が、いまでは、芽のうちにあるということだけた。理性の意識に目ざめた 人の場合も、ちょうどそれとおなじことで、そこにはなんの矛盾もなく、あるのはただ新しいも
だのうちの物質の変化が、たとえ、その活動を破壊するにしても、それはただ物質の変化が人間 の活動を破壊する原因のひとったということを証明するだけのことで、物質の運動が人間の活動 の原因だという証明には、どうした「て、なり「こないのである。ちょうど、根から土をとられ れば植物はそこなわれるということが、土はなければならぬものという証明にはな 0 ても、土だ けが植物を育てるという証明にならないのと、おなじことなのだ。こうして、学者たちは、人間 の生活にともなう現象の法則を明らかにすることが、人間の生活そのものを明らかにすることだ と考えて、無生物のうちにも、植物のうちにも、動物のうちにも起こるような現象を人間のうち に研究している有様なのである。 人間の生活、つまり、人間が幸福になるために動物的な自我のしたがわなければならない法則 を理解しようとして、よく人は、人間の生活そのものを見ないで、その歴史的な変化を研究した り、たた目にみえるだけで人に意識されるものではない動物や、植物や、物質のさまざまな法則 にたいする従属関係を研究したりするものだが、これほどひどい見当違いはない。たとえてみれ ば、ちょうど、は 0 きりつかめない正しいほんとうの目的をなんとかして見つけようというので、 論よくわからないいろいろな事物の状態をやみくもに研究している人とおなじことである。 生もちろん、人間生活の目に見える現象を歴史のうえで知ることは、悪いことではない。われわ 人れにと 0 て、たしかに、それはためになる。人間の動物的な自我や、ほかの動物のしたが「てい る法則にしても、物質そのもののしたがう法則にしても、やはりおなじことで、それを研究する ことはわれわれにと 0 てためになる。こういうようない 0 さいの研究は、人間にとって、たいへ
近づいているどころか、すでに来ているのである。 人々は理性的な意識にますます目ざめ、自分をほうむった暗い無知の墓のなかでつぎつぎとよ みがえっているのた。そして、人間生活の根本矛盾は、それを見まいとして立ちすくむ人々の足 もとから、おそろしく力強くはっきりと、みんなの目のまえに、その姿をあらわしはじめてきた のである。 「自分の生活というものは、けつきよくのところ、自分が幸福になりたいという望みいがいの なにものでもない目ざめた人は考える。「だが、理性のささやきにひとたび耳をかたむければ、 こんな自分ひとりの幸福などという考えはまったくの妄想でしかなく、自分がなにをしようが、 なにを手にいれようが、行きつくさきは、かならす、苦痛や、死や、破減と相場がきまっている。 幸福になりたい、生命を味わいたい、理性にかなった生き方がしたいと自分は思っているのに、 その自分を見ても、自分のまわりを見ても、あるものといえば不幸と、死と、無意味ばかりであ る。どうしたらいいのか ? どんなふうに生きたらいいのか ? なにをしたらいいのか ? 」 しかし、答はないのだ。 論人は自分のまわりを見まわして、答をもとめるが、見つからない。自分になんのかかわりもな 生い疑間になら答えてくれる教えもいろいろあるが、かんじんの自分のいだいている疑間となると、 人どこを見ても、なんの答もない有様、ただ目につくものといえば、他人がわけもわからずやって いることを、やつばり、自分もわけなどわからすやっているこの世の人々のむなしい生活図絵た けである。
実際、ひとりひとりの人間の生存の幸福を不可能にしているものはなんたろう ? まず、第一 1 に、個人的な幸福をもとめる人間どうしの生存競争である。第二には、生命の消耗と、飽満と、 苦痛しかもたらさないみせかけの享楽である。第三に、死である。しかし、こういった幸福をさ またげるものをなくして、幸福を人間の手にはいるものにするには、心のうちで、人がこう考え 自分ひとりの幸福をもとめるような生き方は、他人の幸福をもとめる生き てみさえすればいい。 方に、変えることができると、考えてみればいいのである。自分ひとりの幸福をもとめるせまい 人生観で世界を見ると、人は、この世界に、たがいにほろぼしあう人間同士の不合理な生存競争 ところが、他人の幸福をもとめることが自分の生活だと認めるならば、 しか見ることができない。 人はぜんぜん別なものをこの世界に見るたろう。生存競争などというでたらめな現象のとなりに、 おなじ人間同志のたえまない相互奉仕ー。ーそれがなくてはこの世界の存在も無意味になってしま うような奉仕を見るに違いない。 これさえ認められれば、とてもかなえられるはずのない個人の幸福を手にいれようとしていた、 これまでの、 いっさいの無意味な活動も、世界の法則と一致するようなほかの活動ーーー自分もふ くめたこの世のいっさいのものを対象にして、もっと大きな実現性のある幸福を手にいれるため の活動と、とってかえられるはすである。 個人の生活をみじめにし、その幸福を不可能にする第二の原因は、生命を消耗させ、飽満と苦 痛しかもたらさないあのみせかけの享楽である。しかし、他人の幸福をもとめることが自分の生 活たと人が認めさえすれば、裏切られるにきまっているこんな享楽をものほしそうに追いまわす
知 かを いや つほ り 空だ形物 よ う間 も的物区 に質別植 な し 、も のも わ時 いか いけ念な いて だ ばた あ限なな れな も人質ら に観 れ にを 人 識ん は 想 ば種 像 抜ん に人 ぜな る ざ般 ら そ物 が し見 し れを いだ が間 を人 人と っか ばら に時 は間 な 実ー の いか 無れ で ばも あ いな る す見 む現 ず象 しあ カ ; け間を で的知 、に 虹 の と し て 考 ぇ ら ぐれん て る せ有も 際 そ ん 。な と な ど物 て ま し 、だ と 、な う よ い で ど ん ぜ う も ど と る の の つ カ / よ よ う 物カ は見た る と 冫こ 物オ い質空 な に よ り し解は 、に生 も も ん 自 分 ま さ ら に 速 く へ た の う ち に 理人 し く物 し く な 、る界 物かた り オよ の だ の 世 で ど つ て し、 。けだ し、 ほ ど 人 と て う た も の を 知 る と は っ そ 自 分 力、 ら さ ら に く へ っ と 、ろ に は ま た を る う し て ん ふ う な く な る の あ る て ま っ た く の と ろ そ の が 多 け れ ほ ど 人 知 る と は ま す む す か ん と う の 矢ロ 言籤 と は い 、に く い 実 う 々 いさ間 ま 、ま な そ物す そ ・そ - 数 る の で カ ; も て で あ る ど の は 人 に 力、 が動んすオ る す現 と ら べ な ら る の で る人識 の間カ と う 。観ナ れから ら 、理 的冫 な 冠、意ぜ 、を き さ り さ れ冫 念動な つ て る お程知 さ度識 の 、観あ い て の 、知 な は 不 可 解 ′つ し し の が
実 ど天生カ な則 行 な体 す か分 いを のわ し、に せ法 る お則 よ則けな いち 甲、き人、 の分 と 、な 動わたたわ人 物れ がな 間法 い考 い世わな に則 的 なわ 違認 な ぜせ のれ 肉 つお き . ぬ 体法 を則 たわ世た い識 は法 は則 の 認て 法 則あ いれ を知 に物 わ世 に が働 し る見 た がは いけ な わ い自 がす ぽな っ分 つ法 の理た則 る 分な ち外 と か的 いあ で面 に 忌法がな か 力、 で外象天現ー つノ、 いふ て生 は部は体 いむ のを す木 し、 る そ人 の間 ふ則 し た て結 ま動 分し が で物 のれ い体 つ て っ則 いる の的 わわ 動を命で はれ う ち て い る 理たそ 性かれ ら で る と し、 え れ わ れ の 幸 は 法 、則 のき肉 で法理 な の な ら ま だ す 力、 り フこ 成 われ人 て は い な う に わ 、れ わ の 4 生 に し る と し う 法 は ど に し、 ・つ て も の 目 に れ えな活 い れ る と の う で と て の う ち いも肉 の 、だ性 ら はれそ識則 う う 考 . え 0 ま 思 し も な は だ し と い け れ 0 よ、 な 、ら オよ . と ろ っ う わ れ つ の の 、ラ去 重力、 牛勿 な の う ち 、イ重り く と な じ う に 動 的 オよ イ本 な と び つ い 、 0 よ け の よ う 冫こ し ま う と で る と も と う し、 よ う な と 力、 日日 と か 目 に つ つや生 と ろ で 自 あ然人 の そ の イ本 し た う の 、をナ 、ま も う 、人体 し し てすをわた え る と は よ ん な 肉思わ し、 を に . しあ が ち も の の 的 な 、肉 自 で 、お法 な ね オよ 、掟 と て め の る がはだ 上里 性 の 則 に う し し従れ 属 、関 いイ系 る の だ 自 の う ち 法 則 を わ れ と う と ばす界れわ に つ い て わ れ の て し る の だ の の界性 で は れれた れ 植冫 がわお そ と の 界 で る 目 に 、み点 ん る い っ さ の 世理せ に 、な っ も の 、が る も の と め て い る た け な の で る に よ か動分 物 に せ。 よ な な れ な ら ぬ も の と し て 、め る に う の 外 面 の 象 と は 重圧 関 、係 じ も の で た だ う と ろ わ のれ界 カ ; の う 0 よ で法支 は則配 、を 自 で も て お と し て の ち に め て し、 る 、則 は の さ し、 の の 、現 象 し て る 法 と お
だいじな問題、つまり、世界にたい一する新しい関係の樹立、愛の拡大という問題など、まるでも 眼中にもないのである。こういった人の人生は、すべて、願ってもしよせんかいのないこと とうてい避けようのない生命の萎縮、衰退、硬化、つまり、老衰と死からまぬがれることば かりに、いたすらに、ついやされている。 しかし、人生をほんとうに理解している人の場合は、そんなことはない。 こうした人は、世界 にたいする自分の特別な関係、その特定の好ききらいというものが、いまは見ることのできない 過去の世界からこの現在の生活のうちへ、生れながらに身につけて、自分のもってでてきたもの なのを知っている。しかも、このもって生れた特定の好ききらいというものが目分の生命の本質 をなすものであること、つまり、それが生命のほんのちょっとした偶然の特徴などではなくて、 たえす運動する生命の発露にほかならないということを知っている。そして、この生命の運動、 愛の増大のうちに、自分の人生をはっきりと見さためている。 自分の過去を現在の生活にてらしてかえりみるとき、こうした人は、記意にのこるその意識の うつり変りをたどってみて、世界にたいする自分の関係が変化してきたこと、理性の法則の権威 がつよまってきたこと、それから、個人的な生存の衰弱とはいっこうかかわりなく、ときには、 この衰弱という事実と反比例して、愛の力と範囲とが、ますます大きな幸福をわが身のうえにも たらしながら、たえず増してきたことをさとるのだ。 こういった人間は、はっきりとその目には見えない過去からうけた自分の生命の成長を、いっ も、意識しながら、心静かに、いや、それどころか、喜び勇んで、やはりはっきりと目には見え
しに違いないからである。ところが、人間の場合はそうではない。わたしの兄弟が死んだ。マュ 絽はす 0 かりからにな 0 た。これまで見つけてきたその姿をわたしは、もう、見ることはない。し かし、かれの姿がわたしの目から消えうせたということも、わたしとかれとの関係をほろぼしは しないのである。わたしには、よくわれわれのいうあの思い出、かれの思い出が残されているの 思い出ーーかれの手とか、顔とか、目の思い出ではなくて、かれの精神の姿の思い出である。 しったいこの思い出というのはなんだろう ? しごく簡単で理解しやすいようにみえるこの言 葉はなんだろう 2 ・結品体や動物の形が消えうせても、この結晶体や動物のあいだには、思い出 は残らない。 ところが、わたしは自分の親しい兄弟の思い出をもっているのだ。しかも、この思 い出は、わたしの兄弟の生前の生活が理性の法則と一致していればいるほど、愛のこころにみた されていればいるほど、いよいよいきいきとするものだ。思い出はただの観念などではないので ある。わたしの兄弟がこの世に生きていたとき、その生命がわたしに働きかけたのとちょうどお なじように、 いまも、このわたしに働きかけるなにかなのである。つまり、わたしの兄弟のこの 世に肉体をもって生存していたあいだ、その身のまわりをとりかこみ、わたしやほかの人たちに 働きかけたばかりか、死んでしまったいまとなっても、やはり、あいかわらずこうしてわたしに こ 働きかけているその人の物質と違って目には見えない雰囲気といったものが、ほかでもない、 の思い出なのである。この思い出が、かれの死んだいまも、生きていたとき要求したのとまった くおなじことを、やつばり、わたしに要求する。それも、かれの生きていたときより、死んで
自分という個人の立場にたって世界を見ようとするかぎり、人間には、ひとりひとりの人間には、 幸福になることなどぜったいに望めないのである。つまり、人間の生活は自分が、この自分が幸 福になりたいという願いにほかならないのに、人間はそんな幸福など不可能だと認めぬわけには いかないのだ。ところが、おかしなことに、そんな幸福など不可能たとはっきり認めているにも かかわらす、それでも、やつばり、人はこの不可能な幸福ーーー自分ひとりの幸福を手にいれたい という一心で生きているのである。 目ざめはしたが ( つまり、目ざめたばかりで ) 、動物的な自我をまだ従属させていない理性の意 識をもった人間にしても、自殺でもしないかぎり、やはり、この不可能な幸福を実現させようと して生きているのだ。こうした人が生きて活動しているのも、けつきよく、自分が、自分ひとり が幸福になりたいためなのだ。いや、それどころか、この自分の幸福のために、享楽のために、 苦痛や死をこの自分にもたらさぬようにするために、すべての人、すべてのものが、みんな、生 きて活動してくれればいし 、と、望むばかりか、そうなるようにしむけさえするのである。 実際、こんな幸福が人間の手にいれられるはずもなければ、他人が自分自身を愛するのをやめ 論て、ただこの自分だけを愛そうとするわけもないということなど、自分の経験からおしてみても、 生まわりの人の生活を見てみても、理性のささやきに聞いてみても、もうわかりきったはなしなの ついしよう 人に、それでもまだ、富とか、権力とか、高い地位とか、名声とか、追従とか、欺瞞とか、ありと あらゆる手をつかって、なんとかして他人が自分自身のためでなくて、この自分のために生きる ようにしてやろう、他人が自分自身でなくて、この自分を愛するようにさせてやろうと、人は、
いうふうに、われわれの意識している生命の定義に、もとづくものなのである。 馬にのっている人が多数の生物でもなければ、ひとつの生物でもないと、われわれのこころえ ているのは、なにもわれわれが人と馬からなりたっているすべての部分をいちいち観察するから ではなくて、人やら馬の頭とか、足とかいったいろいろの部分部分に、われわれが自分のうちで よく知っているような、幸福をもとめる、それぞれの独自な欲求を見ないからだ。しかも、この 幸福をもとめてやまぬ独自の欲求が、われわれのうちではただひとつだったのに、そこには二つ あるのが認められるから、馬にのっている人は、ひとつの生物ではなくて、二つの別の生物だと いうことが、わかるのである。 こうした方法をとって、われわれは、はじめて、馬と乗り手とのうちに別の生命のあること、 馬の群れのうちにもそれぞれ生命のあること、鳥のうちにも、昆虫のうちにも、木のうちにも、 草のうちにも、おのおの違った生命のあることを知るわけなのである。もしもわれわれがこの方 法を知らなかったとしたら、つまり、馬は馬の幸福を望み、人間は人間にふさわしい幸福を望ん でいるばかりか、馬の群れのうちでも、いっぴきいっぴきがそれぞれそうおうの幸福を望んでい 論ること、いや、鳥やテントウムシや木や草のはてにいたるまで、おのおの、独自の幸福を望んで 生いるのだということを、もしも知らなかったとしたら、われわれはそうした生物にいっさい区別 人をつけなかったろうし、また、区別のつけようがないということになれば、生物を理解すること なそ、ぜんぜんできなか 0 たに違いない。そうなれば、騎兵の連隊も、家畜の群れも、鳥も、昆 いっさいのものが海の波のようなものになってしまって、われわれから見ると、 虫も、植物も、