192 れてしまうようで、不安なのである。 こうした人から見ると、自分というものが、独特の動物的な意識の段階に達した物質の運動か ら、なりたっているように思われる。つまり、この動物的な意識が理性の意識にまで成長するが、 やがて、その理性の意識は弱まっていって、ふたたび、動物的な意識へと逆もどりし、とどのつ まりは、それさえも衰えて、意識のおこるそもそものもととなった死んた物質にかえってしまう と、こういった人は考えるのだ。こんなふうに考えるから、世界にたいするその理性の意識とい うものが、けつきよくは亡びてしまう、なくもがなの、なにか偶然のもののように、思われてく るのだ。この見解によると、世界にたいする人間の動物的な意識の関係は、動物がその種族のう ちに自己を保存しつづけるかぎり、亡びるわけがないし、また、世界にたいする物質の関係にな ると、もう、永久に亡びることがないのたが、もっとも貴重なものーー人間の理性の意識は、永 遠につづくようなものでないばかりか、まったくむだな余計なものの一瞬のひらめきにすぎない ということになるのである。 しかも、人はこんなことはありえないと感じる。つまり、ここに死の恐怖があるのだ。そこで、 この恐怖からのがれるために、あるものは、動物的な意識とは、とりもなおさず、理性の意識で あって、動物的な人間の不死、つまり、その種族、子孫の存続が、自分のうちにひそむ理性の意 識の不死の要求を満たすものだと、信じこもうとする。また、あるものは、まえには存在したこ ともない生命が、突然、肉体の形をとってあらわれて、それが肉体から消えてなくなったのだか ら、いずれは、肉体に復活して、ふたたび生きることもあろうと、しきりに信じこもうとする。
いっさいの目に見える世界 ) とわたしとの関係は、第一の場合のようにたんに偶然的なもの 0 はなくて、普遍的必然的な結合をもっていると、わたしが認識するような世界に、わたしを置 カント「実践理性批判」結論 きみたちに新しい戒めを与えよう、たがいに愛しあうことだ。 ヨハネによる福音書第一三章三四節
「自我を否定することは不可能だ」とよくこうした人たちはいうものだ。こういうとき、理性 の法則に自我を従属させるという観念と、自我を否定するという観念をすりかえて、この人たち は間題をわざとゆがめているのである。 「こんなことは不自然だ」とこうした人たちはいう。「だから、不可能なんだ」しかし、だれ も自我を否定しろなどとはいっていない。理性的な人間と自我との関係は、ちょうど、この動物 的な自我と呼吸や血液循環の関係とおなじなのた。動物的な自我に血液の循環を否定することな どできるだろうか 2 ・そんなことはロにするのもばかばかしいくらいだ。理性的な人間にしたっ て、おなじことで、自我の否定などということはロにするのもばかばかしい話なのである。自我 は、理性的な人間にとって、なくてはならないその生活の条件であって、血液循環が動物的な自 我の生存の条件なのと、なんの変りもないのである。 こうした自我ーー・動物的な自我は、ほんらい、なににせよ要求などというものを持ちたすこと ができないし、また、持ちたしもしないものだ。こういった要求ーーいわゆる自我の要求を持ち だすのは、けつきよく、まちがった方向にむけられた理性ーー人間の生活をみちびき、照らしだ 論すためでなく、自我の動物的な欲望をあおりたてるために、利用される理性なのである。 生動物的な自我の必要はいつだってみたされるのた。なにを食べようとか、なにを着ようとか 人人はいうわけにいかないのだ。い っさいのこうした必要は、人が理性にかなった生活を送りさえ 。マタイによる福音書六 すれば、空の鳥や野の花とおなじように、人にも保証されるものなのである ( 章二五節ー三四節参照 実際、人間としてものを考える以上、自我の要求をみたすたけで、生きてゆくうえの不幸がヘる
けようというわけである ( 人生のおもな特徴である矛盾を認めないひくい人生観を出発点とするまちがった科学ーーーこの 偽りの科学は、最後の結論として、粗野な一般民衆の要求どおり、個人的な生活の幸福を可能と 認め、動物的生存の幸福が人間には必要たと認めるようになっているのである。 それどころか、この偽りの科学は、そこに結論の裏づけを見いだそうとした粗野な一般民衆の 要求以上に、いまでは、進んでいっている。その結論によると、人間の理性の意識などまったく 否定され、かけらほども認められていないばかりか、人間の生活は、動物の生活とぜんぜん変る ということになるのである。 ところがなく、個人と種族の生存競存にすぎない、 一真の科学は、科学ほんらいの位置を知っているので、そのほんとうの研究対象についてもよく心得ているし、謙虚なため にまたい「そう強い力もも「ているのだから、こんなようなことはけっして言ったことがなかったし、現に、言ってもいな いのである。物理学はカの法則や関係については説くが、カとはなにか、というロ 門題に答えようとはしていないし、カの本 質を説明しようともしていない。化学は物質のいろいろな関係については説くが、物質とはなにか、という「 門題に答えよう とはしていないし、物質の本質を説明しようともしていない。生物学は生命の形態については説くが、生命とはなにか、と 、う問題に答えようとはしていないし、生命の本質を説明しようともしていない。力も、物質も、生命も、真の科学にとっ ては、研究対象そのものではなく、知識のほかの分野から公理としてとられてきた基礎新念 , ーーそのうえに、おのおの異な いしすえ った科学の殿堂を建てるための礎となるものなのである。真の科学は研究対象をこう見ているのであって、こうした科学が 一般民衆を無知の闇にひきもどすような有害な影響などあたえるわけはない。しかし、まちがった科学のゆがんだ知恵は研 究対象をこうは見ないのである。「物質も、力も、生命もわれわれは研究する。われわれが研究すれば、そうしたものもす べて明らかになるに違いない」まちがった科学の使徒たちは、自分たちの研究しているのが物質でも、カでも、生命でもな
177 人生論 うしたすべての変化の根本、真の生命の意識の基礎であるわれわれのこの世界にたいする特定の 関係というものは、肉体の誕生とともに始ったのではなくて、肉体と時間とを超越したものなの ・こ。だとすれば、空間や時間の変化がたとえどんなにはげしかったにしても、なんで恐れたりす ることがあろう ? 空間、時間の変化が、空間も時間もこえたところにあるものを、ほろぼす道 理はないのである。それなのに、人間は人生のぜんたいを見ようとしないで、そのほんの一部分 とおしくてならないこの小っぽけな一部分が見えなくなりは にはかり気をとられているのだ。い しないかと、たえす、もうやきもきと心配ばかりしているのだ。自分はガラスでできているとば かり思いこんだ気違いが、つきたおされたとたん、ガチャンとひと声あげたとおもうと、それつ きりになってしまったという話があるが、ちょうどそんなようなものである。真の生命に生きる ためには、空間と時間にしばられたその一部分ではなくて、生命ぜんたいをつかまなければなら いっそう多くのものが約東されているけれど、その一部 。生命ぜんたいをつかむものには、 分だけしかとらえようとしないものは、いまもっているものまでも、うばわれることになるだろ
16 を 死の恐怖でもなんでもなくて、まちがって理解されている生命の恐怖なのである。そのなにより もよい証拠には、死を恐れるあまり、人はよく自殺さえするではないか。 人が肉体の死という観念をあんなにまで恐れるのは、その生命が死とともに終ると思うからで はなくて、肉体の死が、ついにもてすじまいになってしまった真の生命の必要を、はっきりと、 人に教えるからなのである。だからこそ、人生を理解しない人たちは、死というものを思いだす のを、あれほどきらうのた。死について思いだしたりすれば、理性の意識の要求どおり目分が生 きていないということを、いやおうなく、いしらされる羽目になるからである。 、死を恐れる人は、死というものを空虚で暗黒のもののように思って、恐れるわけだ けれど、しかし、空虚と暗黒をこうして見るというのも、けつきよくは、生命を見ていないから にほかならないのである。 二八肉体の死は、たしかに、空間にしばられた肉体と、時 間にしばられた意識とを減しはするが、しかし、生命 の根本を形づくっているもの、つまり、個々の生物の この世界に対する特定の関係は滅すことができない しかし、生命を見ない人にしたところで、自分たちをおびやかしているそのまぼろしにもっと 近づいて、それにふれてみさえすれば、しよせん、まぼろしはまぼろしにすぎず、実在のもので
のの誕生、動物的な意識と理性の意識との新しい関係の発生にすぎないのである。 もし人が、他人の生きていることも知らず、享楽のはかなさも知らす、自分のいっかは死なな ければならぬのも知らないで、生存しているたけだったら、人は目分が生きているということも、 自分のうちに矛盾などないということも、やつばり、知らないでしまうに違いない。 そうではなくて、もしも人が、他人も自分とおなじだとさとり、目分の存在が苦痛におびやか されているばかりか、じりじりと死に近づいてゆくだけのものでしかないと知るならば、そして、 自分のうちで、理性の意識がとらわれた自我の壁をつきくすしはじめたのをはっきりと感じるな らば、人はもうこれ以上このくすれてゆく自我に自分の生活をゆだねてはおけなくなって、目の まえにひらけた新しい生活へとびこんでいくことになるたろう。しかも、そこにも、やはり、矛 盾などないのは、ちょうど、芽をふいてたんだんくさってゆくたねに、矛盾がないのと、おなし ことである。 一〇理性とは人間によって認められている法則で、人生は それにのっとって完成されなければならない 人間の真の生活は、動物的な自我をおさえようとする理性の意識として、あらわれる。したが って、動物的な自我のもとめる幸福が否定されるとき、はじめて、真の生活がはじまるのである。 理性の意識がめざめるとき、動物的な自我の幸福は否定されるのである。
くて、ただその関係や形態にすぎないということを考えもせすに、こうしたようなことを言うのである。 ( 原註 ) 一一人生のまちがった定義についてのべた巻末の「つけたりの一」参照。 ( 原註 ) 三「つけたりの二」参照。 ( 原註 ) パリサイの徒と学者たちのにせの教えは、真の生活の意 こうして、 味も、生活の指針も、示してくれはしない。 いま、人々の生活の指針となっているのは、唯一つ、理 性的な意味などなにもない生活のたたの惰性だけである 「なにも人生を定義しなくたっていいじゃないか。人生がどんなものだぐらい、だれだって知 っているんだから、それたけでたくさんさ。そんなことより、ひとつ、生きていこうじゃない か ! 」まちがった教えを拠りどころにしている人々は、自分が誤りをおかしているのにも気がっ かないで、こんなことをいうものだ。人生とはなにか、人生の幸福とはなにかということを知り 論もしないのに、こうした人たちは、自分がい「ばし生きているように、思 0 ているのだ。ぜんせ 生んなんのあてもなしに、波のまにまにただよっている人が、ちゃんと目的地にむかって泳いでい 人ると、ひとりぎめにして思いこんでいるようなものである。 。リサイ式か、学者式の教 ひとりの子どもが、貧乏人のうちなり、金持のうちなりに生れて、ハ 人生の矛眉とか、人生間題とかいったものも、だいたし 育を受けたと、考えてみるといい。 五
164 五九年でもなければ、五九〇〇〇年でもなく、また、五九秒でもない。わたしの肉体も、その生 いっこう、なんのかかわりもないのである。もしもわ 存した期間も、わたしの自我の生命とは、 たしが、こうして生きているあいだじゅう、たえす、自分の意識のうちで、自分自身にむかって、 「おれよ、 。したい、なにものだ ? 」と問いつづけるとするならば、きっと、わたしはこう答え るほかないだろう。「なにかしら、考えるもの、感じるものーーーっまり、自分というまったく特 別な形で、この世界につながっているもの」とこう答えるに違いない。自分の自我としてわたし が意識するのはただこういったものであって、それ以外のなにものでもないのだ。いつどこでわ たしが生れたか、いつどこでいましているようなふうにわたしが考えたり、感じたりしはじめた かというようなことについては、わたしは、もう、まるでなにも知らない。わたしの意識がこの わたしにむかって告けることといったら、ただわたしが存在しているということ、わたしが、こ の世界に現在みられるような関係でつながりながら、存在しているということだけである。自分 の生れたときのことはもちろん、幼年時代のことや青年時代のこと、中年の時期のこと、いや、 それどころか、ごく最近のことでさえも、えてして、わたしはなんにも覚えていないことが多い のだ。たとえわたしが自分の過去のことをなにかと思いだしたり、思いださせられたりするとし ても、それは、他人について聞いたことを覚えていて思いだすのと、ほとんどなんの変りもない のである。そうだとすれば、 いったいどんな根拠があって、わたしは、この自分が、いままで生 きてきたそのあいだじゅう、すっと、いつもおなじこのわたしだったーーーひとつの自我だったな どと、断言したりできるだろう ? だいたいからして、わたしのこの肉体などというものは、ま
れば、科学そのものもまちがったものとなるほかはない。 科学とわれわれのよんでいるものが人生を定義するのではなくて、われわれの人生観が科学と 認めねばならぬものを決めるのである。したがって、科学が科学となるためには、まず、なにが 科学で、なにが科学でないかという間題が解決されなければならないのであ 0 て、そのためには、 人生観がはっきりしていなければいけないのである。 わたしは率直に自分の考えをのべることにしよう。ほかでもない、われわれはみんなこうした まちがった実験科学の信仰をささえる根本のドグマを知っているのだ。 物質とそのエネルギーがある。エネルギーは運動し、エネルギーの機械的な運動は分子の動 にかわり、分子の運動は温度とか、電気とか、神経や脳の働きとなってあらわれる。生命の現象 いっさいこのエネルギーのさまざまな関係として説明される。こうして、科学に も、例外なく、 よれば、すべては簡単で、明瞭で、美しく、わけても、都合がいいから、もしわれわれの人生ぜん たいをこれほど単純なものにしてしまう解決ーーわれわれがこれほど求めている解決がなにもな というのである。 いのならば、なんにせよ、そうしたものをぜひとも考えださなければならない、 論つまり、わたしの不遜な考えをす 0 かりぶちまけると、実験科学の活動をささえる情熱や = ネ 生ルギーの大半は、こんな都合のいい襯念を裏づけるようなものならなんでも考えだしたいという 人欲望によって、あおりたてられているだけなのである。 だから、こうした科学のいっさいの活動には、生命の現象を研究しようという欲求よりも、そ っそうは の根本のドグマの正しさを証明したいという身についたふたんの心づかいのほうが、い