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検索対象: 人生論
219件見つかりました。

1. 人生論

していたうえ、たいへんな時間と労力がかけられていたため、対象の一部を対象ぜんたいと認め こ、みんなが忘れてしまって、しまいには、物質や、植物や、動物の目 . た根本の誤りを、しだい冫 に見える特徴の研究が生命そのものーーー意識によってはじめて人に認められる生命そのものの研 究だなどと信じこんで、疑いもしなくなったくらいなのである。 これは、たとえてみれば、なにかの影を見せられた人がだまされて、思い違いするのを、見せ るほうが、また、なんとかして、そのままだまし続けておきたいと、おおわらわになっているの・ とおなじようなものた。 「影のうつっているほうしか見ないでください」と見せるほうではいうのである。「それから、 とくに、影の本体などさがさないようにしてください。なにしろ、そんな本体なんかもともとな いんで、あるのはそこにうつっている影だけなんですからね」 これとまったくおなじことをしているのが、人生のかんじんな定義や、人間の意識のうちの幸 福にたいする欲求など無視して、人生を研究する現代の学者のまちがった科学なのである。しか し、粗野な一般の民衆はこんなことに気づきもしない。そこで、このまちがった科学は、幸福に 論たいする欲求となんのかかわりもない人生の定義を出発点にして、生物の目的を襯察すると、そ 生こから人間と縁もゆかりもない目的を見つけだしてきては、そんなものをむりやり人間におしつ 人けているのである。 しゅ このうわっつらな観察の認める生物の目的というのは、自己の保存とか、の保存とか、生殖 とか、生存競争とかいったようなものであって、そんな途方もない目的を人間にむりやりおしつ

2. 人生論

迷信のこりかたまったものとでもいうよりほか説明のしようもないこうしたおかしな説が、ど んなに奇怪にみえようとも、それは立派に存在していて、ありとあらゆる野蛮で狂信的な教えと 同様、人間の思想的な活動をまちがった、らちもない道にひきこんで、破壊的な影響をあたえて いるのである。誠実な学徒がその生涯をほとんどなんの必要もない研究にささげてほろび、人間 の物質の力が不必要な方向にむけられて消えさり、若い世代が、人類にたいする最高の奉仕とお しえられたばかりに、キーフア・モーキエヴィチのようなもっとも無益な活動に没頭してくちは てていく始末である。 普通、科学はあらゆる面から生命を研究している、といわれている。ところで、どんなものに でも、球に半径が無数にあるように、無数の面があるもので、それをあらゆる面から研究するこ となぞとてもできないのだから、どれがいっそう重要で必要な面なのか、どれがあまり重要でも なく必要でもない面なのか、そのけじめをつけて研究することがだいじなのだ。あらゆる面から いちどきにひとつのものに近づけないのとおなじことで、生命の現象も、やはり、あらゆる面か らいちどきにきわめることはできないのである。いやがおうでも、順序というものが定められな ここがかんじんなところだ。しかも、この順序は、生命を理解して、はじめて、 ければならない。 定められるものなのである。 ただ生命の正しい理解だけが、科学一般にたいし、ことに、個々の科学にたいして正しい意義 と方向とをあたえるうえ、人生とわたりあうその意義の重さに応じて、個々の科学を分類するこ とになるのである。だから、もしわれわれみんなの納得しているように生命が理解されていなけ

3. 人生論

160 空間とのうちにあらわれはするが、しかし、それはただそのあらわれ、現象にすぎないのだ。生 命そのものは、わたしによって、時間と空間とを超越したものとして、意識される。したがって、 この見解にしたがえば、すべてが逆になる。つまり、まほろしなのは生命の意識ではなくて、反 対に、時間と空間にしばられたものいっさいがまぼろしにすぎないのである。それだから、こう した見解によれば、肉体にしばられたこの生存が空間と時間のうちでたち刧られてしまうという ようなことは、 いっこうなんの現実的な意味もないことなのであって、わたしの真の生命の流れ をとめることはもちろん、乱すことさえできないのである。つまり、この見解のうちには、死な ど存在する余地がないわけである。 この二つの人生観のうち、どれを人がとるにしても、その見解をほんとうにしつかりと自分の ものにするならば「死の恐怖は、このとおり、なくなるはナなのた。 人間が動物だったにせよ、理性をもった存在たったにせよ、死を恐れるような筋合はまったく ないのである。動物は生命の意識をもたないから、死を知ることもないし、また、理性をもった 存在は生命の意識をもっているから、動物的なものの死のうちに、けつきよく、物質のやなこと のない自然な運動のほかには、なにひとっとして見ることができないのだ。なにか人の恐れなけ ればならないものがあるとすれば、それは自分がほんとうに知りもしないような死ではなくて、 むしろ、動物的な自我も、理性をそなえた自我も、それだけはともどもいままでに経験してきて いるこの世にうけた生命たろう。つまり、死の恐飾という形で、人々のうちにあらわれる感情は、 実は、人生の内部的な矛盾の意識にほかならないのである。ちょうど、ありもしないまぼろしを

4. 人生論

くばかりで、軽くなりつこない、苦痛の連続としか考えられぬこんな状態におかれた人々が、そ れでも、自殺もせす、生命に執着している事実を、自分や他人の例にてらして、われわれがみん なよく知っているからだ。 この奇怪な矛盾を納得のいくように説きあかす説明は、たたひとつ、すべての人々が、自分た ちの人生の幸福のため、いっさいの苦痛はいつも必要なもの、なくてはならぬものと、心の奥底 ではさとっているのだと、こう考えることにしかない。それだからこそ、そうした苦痛の危険を 知り、事実、苦痛にさいなまれながらも、人は生きているのである。もっとも、普通、人々は自 分ひとりの幸福だけをもとめるまちがった人生襯にとらわれているから、目に見えた幸福をもた らさぬばかりか、破壊するようなものには、当然、不安と不快を感じるので、そのため、表面、 苦痛をいとい苦痛に反撥するという現象が見られるわけなのだ。 こうして、人々は苦痛を恐れ、苦痛にあうと、なにかまるで思いもかけないわけのわからぬも のにでくわしでもしたように、びつくりするのだが、しかし、人はみなこの苦痛にはぐくまれて、 成長するものなのである。人の生涯は苦痛の連続で、苦痛たったら、いやというほど自分でもあ じわい、他人にもなめさせているはすなのだ。だから、もう いいかげん苦痛にもなれて、苦痛を 恐れたり、なぜなんのために苦痛はあるのかなどとたすねたりしなくなっても、よさそうに思わ れる。どんな人でもちょっと考えればわかることだが、自分の快楽というものは、すべて、他人 の痛によってあがなわれているのだ。目分の苦痛というものは、ほかでもない、すべて自分の 快楽のために必要とされるのた。苦痛がなければ、快楽もない。 つまり、すこし考えさえすれば、

5. 人生論

似たものではなくて、生命そのものを意味するならば、そして、もし真の生命がいっさいのもの の根本であるならば、その根本がそこから生れてきたものに左右されるはずがない。原因が結果 から生れるわけはないからた。真の生命の流れが、その現象面の変化によって、そこなわれるわ けはないからだ。この世界にこうしてつづけられている人間の生命の運動が、はれものができた とか、ばい菌がとりついたとか、ビストルでうたれたとかいうぐらいのことで、絶えてしまうは すはないのである。 人が死んでいくのは、この世では真の生活の幸福を、もうこれ以上、増していくことができな くなってしまったからなのであって、肺がわるかったとか、癌ができたとか、。ヒストルでうたれ たとか、爆弾を投げつけられたとかいったようなことが原因となっているのでは、さらさらない われわれは、普通、肉体にしばられた生活をこうしていとなんでいるのがごく自然なことで、火 や、水や、寒さや、稲妻や、病気や、ビストルや、爆弾で死ぬのはまったく不自然なことだと考 えているが、しかし、もっと冷静に、別の立場から、人間の生活を考えてみる必要があろう。そ うすれば、人間というものが、あの命にもかかわりかねないいたるところうようよしている無数 の細菌をはじめ、生きるには都合の悪い条件ばかりのそろっているこうした恐ろしい環境のうち むしろ、よっぽど不自然だと で、肉体にしばられた生活をいとなんでいるということのほうが、 いえるのではなかろうか。人は死ぬのが自然なのである。したがって、この恐ろしい条件のうち になげたされた肉体の生活は、物質的な意味では、おそろしく不目然不安定なものでしかないわ けだ。もしわれわれが生きているとすれば、それはけっして日分の身をしつかりとわれわれが守

6. 人生論

解放されるには、物質の低い法則ではなく、本能というほんらいの生活の法則を自分の法則とし て認めたうえ、それにのっとりながら、物質の法則もうまく利用して、生活の目的を満足させれ ばいいのとおなしことで、人間も、また、自分の生活を本能の低い法則のうちではなく、その法 則もふくんだ最高の法則ーー理性の意識によって啓示された法則のうちに認めさえすれば、たち まち、矛盾は消えさって、本能も意のままに理性の意識にしたがうばかりか、それに奉仕するよ うにさえなるだろう。 九人間のうちに秘められた真の生命の誕生 人間という存在のうちに真の生命のあらわれる経過を観察して、しらべてみると、よくわかる のたが、真の生命というものは、穀つぶのうちに生命がひそんでいるのとおなしように、人間の うちにいつもひそんでいて、時がくると、その姿をおもてにあらわすものである。人が動物的な 本能にひかれながらも、理性の声を耳にして、そんな自分ひとりの幸福などし一よせん不可能で、 論ほかになにか別な幸福があると知るとき、すでに真の生命はその姿をあらわしたわけなのだ。そ 生こで、人はこの別な幸福ー ! 遠くにぼんやりと見える幸福にじっと目をこらすのだが、それを見 人わけるだけの力がないから、はじめは、そんな幸福など信しないで、もとの個人的な幸福にまい もど 0 てしまう。しかし、別な幸福のことだとこんなにあいまいな教え方しかしなか 0 た理性的 な意識も、個人的な幸福の不可能を説くだんになると、あいまいなところなどこれつばかりもな

7. 人生論

ふうなことをして日を暮らしている人たちたけなのたから、人生の理性的な解釈など考えもっか ないまま、自分でも、見よう見まねで、おなじようなことをしはじめるばかりか、そんなふうな いろいろなことに合理的な意味をむりにでもつけようと、や「きになったりす「 9 始末なのである。 この人間にしてみれば、そんなふうなことをして暮らしている人々が、なんでそうしているのか、 すくなくとも本人には、説明もついているのだろうと、信じなければいられない気持なのだ。そ こで、そんなふうなことはいずれにせよ合理的な意味をもっているのだから、たとえ自分にはそ の意味の解釈がうまくつかなかったとしても、ほかの人たちにはちゃんとわかっているのだと、 信じようとする。ところが、ほかの人たちにしたところで、たいていは、やつばり、人生の合理 的な解釈などできはしないのであって、この人間とまったく変りのない状態におかれているので ある。こうした人たちがそんなふうにして暮らしているのも、はたがみんなそうしているため、 おなじにしなければいけないような気がするからなのだ。こうして、人は、心にもなく、たがい にあざむきあいながら、合理的な意味のまるでないこんな暮らし方にいっかすっかりなれてしま うばかりか、そんなふうなことに自分でもわけがわからない神秘めかした意味をつけるのにも、 なっとく 論しだいになれてしまうのである。自分たちのしていることにどんな意味があるのか納得がいかな ければいカオし冫 、よ、まど、疑わしければ疑わしいほど、 いよいよそうしたことを重要視して、もった 人いらしく実行するわけだ。貧乏人も、金持も、まわりの人のすることを、やはり、おなじように 実行しながら、ほんとうにだいじなことでなかったら、なにも、あんなに多くの人たちがむかし から実行して、ひとにもすすめたりするはすはないなどと考え、安心しきって、それを自分の義

8. 人生論

くすりひん になるのではなかろうか ? もし薬壜のラベルを、内容によらず、薬剤師のかってな都合だけを 考えて適当にはっておいたとしたら、それがいくらいい薬屋のことだったにしろ、たいへんな害 毒を流すことになるに違いないのだ。 しかし、わたしはこんなことをいわれるかもしれない。「科学は人生 ( 意志とか、幸福にたい する欲求とか、精神世界とかいったものをふくむ ) ぜんたいの研究をその課題とはしていない。 ただ人生という観念から実験による研究の可能な現象をとりあげるだけだ」 たしかに、これは立派な正しい態度だろう。ところが、われわれの知っているように、現代の 科学者の書くものを見てみると、それがぜんぜんそうでないのだ。もしも、なによりもさきに、 生命という観念が中心の意味ーー・すべての人の理解している意味で認められたうえ、この観念か ら科学が外面的観察の可能な面をのぞいてあらゆる面をとり去り、科学独特な研究方法をほこる ことのできるこの一面だけから現象を吟味検討するものと、はっきり定められているのだとすれ ば、もちろん、話はまるきり別で、たいへんすばらしいことだから「科学のしめる位置も、科学 を基礎としてわれわれの到達する結果も、ぜんぜん別のものになるのだろうが、残念ながら、そ うではないのである。実際にあることは語らなければならないし、みんなの知っていることはか くしてはならない。 . 生命の研究にたずさわっている実験科学者の大部分が、生命の一面だけでな く、生命ぜんたいを研究しているのだとあたまから目分で信じこんでいることを、いったい、わ れわれが知らないとでもいうのだろうか。 天文学や、機械学や、物理学や、化学や、そのほかさまざまな科学は、ことごとく、生命一般

9. 人生論

たちまち、なんの意味もなく、あとかたも残さすに消えさってしまうような幻にすぎないのであ る。なにもかも、すべては、かぎりなく変化していく物質の所産にほかならないのだ。生命とよ ばれているものにしても、死んだ物質の一定の状態でしか、ないわけである。 こういうのが、人生にたいする一つの見方である。この見解はまったく論理的だ。この見解に よると、人間の理性の意識は、物質のひとつの状態にともなって、偶然にひょっと生みだされた ものにすぎないのだから、したがって、われわれがその意識のうちで生命とよんでいるようなも のは、けつきよく、ただのまぼろしなのである。死んだものだけが存在しているのだ。われわれ 人生観にした が生命とよんでいるものは、実のところ、死のたわむれにすぎないのだ。こういう がうかぎり、死はいっこう恐ろしいものとはならないばかりか、むしろ、生命のほうが、なにカ 不自然で不合理なところがあって、恐ろしいというようなことになりかねないのである。仏教徒 、、レトマンなどに、ちょうどこういったような見 や、最近の厭世家ーーーショウ。ヘンハウエルとカ , ノ 解がみられる。 人生にたいするいま一つの見方はこうである。生命とはこのわたしが自分自身のうちに意識し 論ているものにほかならない。それも、過去に存在していたわたしとか、将来のわたしとか ( 自分 生の人生を考えるとき、わたしはこんなふうな考え方をするのだが ) といったような形でもって、 意識するのではなくて、いつどこから始ったともっかなければ、いつどこで終ったともっかない、 現在あるがままのわたしとして、いつも、自分の生命を意識するのである。時間とか空間とかい った襯念は、わたしの生命の意識とは、関係がない。わたしの生命、人生は、なるほど、時間と

10. 人生論

か娘を愛するようなものも、やはり、わたしにふさわぬ人だ。きみたちが自分を愛しているもの をいくら愛したところで、そんなものは愛でもなんでもない。目分の敵を愛さなければならぬ。 自分をにくんでいるものを愛さなければならぬ」 人がその自我をすてさるのは、普通考えられているように、父や、息子や、妻や、友人や、親 切でやさしい人たちによせる愛の結果ではなくて、ただ自己中心の生き方のむなしさと、自分ひ とりの幸福の不可能とを認識したその結果にほかならない。だから、人は、自己中心の生活を否 定した結果、真の愛を認識し、父や息子や妻や子どもや友達を、はじめて、ほんとうに愛するこ とができるようになるのである。 愛とは、自分よりもーー自分の動物的な自我よりも、他人をすぐれたものとして認める心であ 自己犠牲の域にまで達しないいわゆる愛の場合だと、自分の心にかけるさきざきの目的をとげ るために、やはり自分のかかわりあっている目のまえの出来事を無視してしまうなどということ が起こりがちなもので、これなどは、個人的な幸福のために、あるものをほかのものよりも重く 論みるという、たたのより好みの感情にすぎないわけだ。真の愛は、行為として形にあらわれない 生ときも、たえす存在するふたんの状態でなければならない。愛の根本、根源は、一般に想像され 人ているように、理性をくもらす感情のはげしい爆発などではなくて、子どもや、理性にめぐまれ れた人たちによく見うけられるような状態 = ーーなににもまして理性的で、すみき 0 ていて、したが って、静かでおちついている喜ばしい状態なのである。